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中国ちゅうごく国分こくぶ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
上空じょうくうからみた中国ちゅうごく

中国ちゅうごく国分こくぶ(ちゅうごくくにわけ)とは、羽柴はしば秀吉ひでよし豊臣とよとみ秀吉ひでよし)と毛利もうり輝元てるもと同盟どうめい関係かんけい成立せいりつした天正てんしょう11ねん1583ねん以降いこう秀吉ひでよし政権せいけんによっておこなわれた、山陰さんいんどう山陽さんようどうにあたる中国ちゅうごくたいする大名だいみょうなどしょ領主りょうしゅへの領土りょうど配分はいぶんのことである。

* 文中ぶんちゅうの( )のとし西暦せいれきユリウスれき(1582ねん10月15にち以降いこうグレゴリオれき)、月日つきひすべれき宣明のぶあきれきちょうこよみによる。

中国ちゅうごく平定へいてい

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豊臣とよとみ秀吉ひでよし
毛利もうり輝元てるもと

天正てんしょう5ねん1577ねん以降いこう羽柴はしば秀吉ひでよし主君しゅくん織田おだ信長のぶながめいじられて毛利もうり輝元てるもと勢力せいりょくけんである中国ちゅうごくたいする進攻しんこうせん展開てんかいした。これが中国ちゅうごくである。戦争せんそうは6ねんにおよび、秀吉ひでよし備中高松びっちゅうたかまつじょうたたか最中さいちゅうにあった天正てんしょう10ねん6がつまでつづいたが、同月どうげつ2にち(ユリウスれき1582ねん6月21にち)の織田おだ信長のぶなが突然とつぜん横死おうし本能寺ほんのうじへん)によって中断ちゅうだんされた。

秀吉ひでよしは、主君しゅくんかたき明智あけち光秀みつひでつため、ただちに毛利もうりとの講和こうわりまとめ、きょうけてってかえしたやく10日間にちかん軍団ぐんだんだい移動いどう中国ちゅうごくだいがえ)ののち6月13にち山崎やまざきたたか光秀みつひでち、6月27にち(ユリウスれき1582ねん7がつ16にち)の清洲きよす会議かいぎでも重臣じゅうしん一族いちぞくたいして優位ゆういった。[ちゅう 1]

この会議かいぎ結果けっか柴田しばた勝家かついえ秀吉ひでよし本拠ほんきょである近江おうみこく長浜ながはまあらたにたが、秀吉ひでよし播磨はりまこくのほか、山城やましろこく河内かわうちこく、そして光秀みつひで旧領きゅうりょうであった丹波たんばこく獲得かくとくした[1]京都きょうとようする山城やましろりょうした効果こうかおおきく、7がつ11にち(ユリウスれき1582ねん7がつ30にち)に京都きょうと山科やましな本圀寺ほんごくじはいった秀吉ひでよし公家くげたちは次々つぎつぎ訪問ほうもんした。また、7がつ17にちには山崎やまざきせんのあった天王山てんのうざん山頂さんちょう山崎やまざきしろ普請ふしん開始かいしした秀吉ひでよしたいして、安国寺あんこくじ恵瓊えけい早々そうそう毛利もうり輝元てるもと吉川よしかわ元春もとはる使者ししゃとしておとずれている[2]毛利もうりがわとしては領土りょうど交渉こうしょうすこしでも有利ゆうりすすめたかったのであろうとかんがえられる[2]

天正てんしょう11ねん1583ねん3がつ対立たいりつしていた秀吉ひでよし柴田しばた勝家かついえ近江おうみこく賤ヶだけ主戦しゅせんじょうとしてたたかった(賤ヶだけたたか)。そのさい毛利もうり輝元てるもとは、秀吉ひでよしかち双方そうほうから同盟どうめいもうまれたが、中立ちゅうりつたもった。なお、このとき足利あしかが義昭よしあきは、秀吉ひでよしかちりょう陣営じんえいにはたらきかけて京都きょうと復帰ふっきはかろうとしている[3]

秀吉ひでよしは、賤ヶだけ戦勝せんしょう同年どうねん5月15にち(グレゴリウスれき1583ねん7がつ4にちづけ近江おうみ坂本さかもと滋賀しがけん大津おおつ)からの手紙てがみで、東海とうかい北陸ほくりく地方ちほうでの戦果せんかきゅう武田たけだりょうをのぞく信長のぶながきゅう版図はんと秀吉ひでよし支配しはいにはいったことを、輝元てるもと叔父おじ小早川こばやかわ隆景たかかげつたえ、輝元てるもとがもし自分じぶんしたが覚悟かくごをするなら、「日本にっぽん頼朝よりとも以来いらいこれにはいかでかすべくこうや」とべ、信長のぶながから自立じりつした独自どくじ政権せいけんづくりによって天下てんか一統いっとうすすめていく抱負ほうふしめした[4]。そして、あたらしい天下てんか拠点きょてんとして9月にはだい坂城さかき築城ちくじょう開始かいしした。

秀吉ひでよしは、領国りょうごく割譲かつじょうかんする毛利もうりがわ要請ようせいをいれて伯耆ほうきこく西部せいぶおよび備中びっちゅうこくこう梁川りょうせん以西いせい毛利もうりりょうとして画定かくていした。天正てんしょう11ねん8がつ毛利もうりもこれをいったん受諾じゅだくして人質ひとじちとして小早川こばやかわもとそう毛利もうり元就もとなりきゅうなん小早川こばやかわしげるつつみあに小早川こばやかわ隆景たかかげ養子ようし)と吉川よしかわけいごと吉川よしかわ元春もとはる三男さんなん吉川よしかわひろ)を秀吉ひでよしのもとにおくったことでさかいしょうろん解決かいけつ目途もくとち、これをもとに中国ちゅうごく国分こくぶがなされた。

国分こくぶ概要がいよう

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毛利もうり居城きょじょう吉田よしだぐん山城やましろ
本丸ほんまるからまるをのぞむ

毛利もうり秀吉ひでよしりょう配分はいぶん交渉こうしょうは、山崎やまざきたたか天正てんしょう11ねん(1583ねん)からすうねんかけておこなわれた。毛利もうり人質ひとじち提出ていしゅつによって中国ちゅうごく9かこくゆうするだい大名だいみょうとなった一方いっぽう秀吉ひでよし政権せいけん服属ふくぞくすることとなった。しかし、天正てんしょう12ねん1584ねん3がつ秀吉ひでよし宇喜多うきた秀家ひでいえたい毛利もうりへのそなえを命令めいれいしており、かならずしもすべての警戒けいかいいたものではなかった。

りょう配分はいぶんかんするこまかい交渉こうしょうは、毛利もうり服属ふくぞくもつづき、秀吉ひでよし政権せいけんにおける中国ちゅうごく取次とりつぎにんにあった黒田くろだ孝高よしたか蜂須賀はちすか正勝まさかつ現地げんちで、毛利もうり外交がいこうそうであった安国寺あんこくじ恵瓊えけい上方かみがたでそれぞれ交渉こうしょうにあたった。

その結果けっか秀吉ひでよし当初とうしょもとめたこう梁川りょうせん以東いとう毛利もうりりょう全面ぜんめん割譲かつじょうれられなかったが、備中びっちゅうこくのうち賀陽かようぐん宇郡くぼぐん美作みさくこく、および備前びぜんこくのうち児島こじまぐん毛利もうりより割譲かつじょうされることで決着けっちゃくし、これらはほとんど備前びぜん岡山おかやまじょう城主じょうしゅ宇喜多うきた秀家ひでいえにあたえられた[5]秀吉ひでよしは、領土りょうどてん毛利もうりたいして妥協だきょうする反面はんめん天正てんしょう13ねん紀州きしゅう四国しこくでは毛利もうり協力きょうりょくもとめ、輝元てるもともまたこれにおうじた。山陰さんいんどうぞくする伯耆ほうきこくでは、西にし3ぐんはちきょうりょう毛利もうりりょう八橋やつはしりょうをのぞくひがし3ぐん南条なんじょうもとつづけりょうとして画定かくていした[6]

丹後たんごこく細川ほそかわ藤孝ふじたか忠興ただおき父子ふし安堵あんどがみとめられた。日本にっぽん学者がくしゃ藤田ふじた達生たつおによれば、本能寺ほんのうじへんおそくとも天正てんしょう10ねん6がつ8にちまでに秀吉ひでよし使者ししゃ藤孝ふじたかとが接触せっしょくしていたとしている。藤孝ふじたかはまた、同時どうじ明智あけち光秀みつひでからも与力よりきするようさかんにもとめられたが、結局けっきょくは、光秀みつひで要請ようせいにはおうじずに中立ちゅうりつまもった。そして、山崎やまざきたたかいでは秀吉ひでよしぐん加勢かせいしなかったにもかかわらず、戦後せんご秀吉ひでよし同年どうねん7がつ11にちづけ書状しょじょうにおいて、藤孝ふじたかたいし、その全面ぜんめんてき協力きょうりょく謝意しゃいあらわし、今後こんご細川ほそかわ処遇しょぐうについてうことをかみちか起請文きしょうもんはっした[7]

山陰さんいんどうぞくする丹波たんばこく但馬たじまこく因幡いなばこく山陽さんようどう播磨はりまこくおよび南海なんかいどう淡路あわじこく諸国しょこくにはゆたかけいとくに秀吉ひでよし配下はいか大名だいみょう小名しょうみょう領土りょうど配分はいぶんされた。これら諸国しょこくは、秀吉ひでよし自身じしん中国ちゅうごくめや山崎やまざきたたかいなどによって獲得かくとくし、その勢力せいりょく扶植ふしょくしていったであった。それゆえ、譜代ふだい家臣かしんのいない秀吉ひでよしにとっては一門いちもん子飼こがいの家臣かしん知行ちぎょう配分はいぶんする地域ちいきとして重視じゅうしされた。このため、領土りょうどとしては細分さいぶんされることがおおく、また、並行へいこうして天下てんか統一とういつ事業じぎょう一環いっかんとしての四国しこく九州きゅうしゅう東国とうごくとう戦役せんえきすすめられたことから、その論功行賞ろんこうこうしょう影響えいきょうつよけて、この領主りょうしゅまぐるしく交替こうたいした。

国分こくぶ詳細しょうさい

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毛利もうり輝元てるもとりょう

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広島ひろしまじょう復元ふくげん天守てんしゅ水堀みずほり
上空じょうくうからみた米子よなごじょう国土こくど交通省こうつうしょう 国土こくど地理ちりいん 地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス空中くうちゅう写真しゃしんもと作成さくせい

毛利もうり輝元てるもとは、安芸あきこく備後びんごこく周防すおうこく長門ながとこく石見いわみこく出雲いずもこく隠岐おきこくくわえ、備中びっちゅう伯耆ほうき両国りょうこくのそれぞれ西部せいぶ領有りょうゆうする太守たいしゅとなった。中国ちゅうごくにおける所領しょりょうそう石高こくだかは112まんせき(ほかに四国しこく九州きゅうしゅう安国寺あんこくじ小早川こばやかわりょうあり)であり、大名だいみょうりょうとしては徳川とくがわ家康いえやす駿府すんぷ119まんせき[8]江戸えど256まんせき)にいで上杉うえすぎ会津あいづ120まんせきにほぼひとしく、太閤たいこうぞう入地いれじやく222まんせき[9]半分はんぶんきょうにもたっする大身たいしんとなった。

  • 天正てんしょう19ねん(1591ねん)に豊臣とよとみ秀吉ひでよしから発給はっきゅうされたりょう朱印しゅいんじょうりょう目録もくろく

安芸あき 周防すおう 長門ながと 石見いわみ 出雲いずも 備後びんご 隠岐おき 伯耆ほうきさんぐん 備中びっちゅう国之くにゆきないみぎ国々くにぐに検地けんちにん帳面ちょうめんひゃくひろえまんせきこと[10]

内訳うちわけ

  • 2まんせき 寺社じしゃりょう
  • 7せんせき きょうすすむかた(太閤たいこうぞう入地いれじ)
  • 6まん6せんせき 羽柴はしば小早川こばやかわ侍従じじゅう(隆景たかかげ)、うち1まんせきやく
  • 11まんせき 羽柴はしば吉川よしかわ侍従じじゅう(こういえ)、うち1まんせきやく
  • 隠岐おきこく 羽柴はしば吉川よしかわ侍従じじゅう
  • 10まんせき 輝元てるもと国之くにゆき台所だいどころいれ
  • 8まん3せんせき 京都きょうと台所だいどころいれ
  • 73まん4せんせき 軍役ぐんえき  都合つごう112まんせき[11]

なお、みずからも豊臣とよとみ秀長ひでながにしたがって一軍いちぐんひきいた九州きゅうしゅう征伐せいばつ秀吉ひでよし九州きゅうしゅう平定へいてい)ののち、瀬戸内海せとないかい制海権せいかいけん完全かんぜん豊臣とよとみ政権せいけんふくしたため、経済けいざいてきにみて、水上みずかみ交通こうつうにおける流通りゅうつう掌握しょうあくかく大名だいみょうにとって以前いぜん比較ひかくして格段かくだん重要じゅうようした。毛利もうり輝元てるもとも、九州きゅうしゅう征伐せいばつ終了しゅうりょうした天正てんしょう15ねん1587ねん以降いこう本拠地ほんきょち山間さんかん立地りっちする安芸あきこく吉田よしだぐん山城やましろ広島ひろしまけん安芸あき高田たかだ)より、水上みずかみ交通こうつうてきした太田おおたがわ河口かこう広島ひろしま広島ひろしまけん広島ひろしま)にうつしている[12]あたらしい居城きょじょうとなった広島ひろしまじょう広島ひろしまちゅう)は、天正てんしょう19ねん1591ねん)に完成かんせいした。また、小早川こばやかわ隆景たかかげ備後びんごこく三原みはら要害ようがいを、毛利もうり一門いちもんひがし拠点きょてんとして整備せいびしている。

毛利もうりりょうのうち、山陰さんいんどうぞくする諸国しょこく輝元てるもと叔父おじ吉川よしかわ元春もとはるそうかんするところであった。その三男さんなんで、夭折ようせつしたあにのちいだ吉川よしかわひろは、天正てんしょう19ねん3月13にち(グレゴリウスれき1591ねん5月6にちづけ出雲いずもこくひがしはん意宇いうぐん能義のぎぐん島根しまねぐん)、隠岐おきこく伯耆ほうきこく西にしはんあせいりぐん会見かいけんぐん日野ひのぐん八橋やつはしぐん一部いちぶ)、および安芸あきこく一部いちぶ総高そうだか11まんせき毛利もうり輝元てるもとよりあてがわれた。こういえは、同年どうねん6がつ尼子あまこのかつての居城きょじょうで、要害ようがい無比むひ堅固けんごしろとしてられた出雲いずも月山がっさん富田とみたしろ島根しまねけん安来やすぎ)にうつった。しかし、月山がっさん富田とみたしろもやはり山間さんかん位置いちしていたため、こういえあたらしい本拠ほんきょとして、水陸すいりく交通こうつう至便しべん伯耆ほうきこく会見かいけんぐん米子よなご鳥取とっとりけん米子よなご)のえらび、米子よなご湊山みなとやまじょう修築しゅうちくりかかった[6]山頂さんちょうには本丸ほんまる北側きたがわ中腹ちゅうふくまる、そのした三ノ丸さんのまるかくかくもうけられて近世きんせい城郭じょうかくとなし、尼子あまこ時代じだいしゅくるわとして機能きのうしていた飯山いいやま出丸でまるとして活用かつようされた。[ちゅう 2]

宇喜多うきた秀家ひでいえりょう

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宇喜多うきた秀家ひでいえは、天正てんしょう9ねん1581ねん)のちち宇喜多うきた直家なおいえ没後ぼつごのこりょう継承けいしょうし、それにせんだって直家なおいえ信長のぶながへの帰順きじゅんあきらかにしていたことから、天正てんしょう10ねん正月しょうがつ織田おだ信長のぶながより備前びぜんいちこく安堵あんどされ、5月から6がつにかけての備中高松びっちゅうたかまつじょうたたかでは羽柴はしば秀吉ひでよし加勢かせいした。秀吉ひでよし毛利もうり領土りょうど画定かくてい交渉こうしょうののち、秀家ひでいえは、本領ほんりょうとしていた備前びぜんのほとんどと、毛利もうりより割譲かつじょうされた備前びぜん児島こじまぐん賀陽かよう宇・くぼ備中びっちゅう3ぐん美作みさくこく安堵あんどされた。のち赤穂あこうぐんほか播磨はりま3ぐん[14]あわせて57まん4,000せきりょうした[5]

岡山おかやまじょう再建さいけん天守てんしゅ

これは、大名だいみょうりょうとしては、徳川とくがわ毛利もうり九州きゅうしゅう小早川こばやかわ四国しこく安国寺あんこくじふくむ)、上杉うえすぎ前田まえだ加賀かが84まんせき)、伊達だて米沢よねざわ72まんせきのち陸奥みちのく大崎おおさき58まんせき)、にいで6番目ばんめ石高こくだかであり、常陸ひたちこく佐竹さたけ(55まんせき)、薩摩さつまこく大隅おおすみこくひとしりょうする島津しまつ(56まんせきのち61まんせき)にほぼ匹敵ひってきする規模きぼであった。

当初とうしょ宇喜多うきた備前びぜん上道あがりみちぐんぬまじょう岡山おかやまひがし)を本拠ほんきょとし、秀家ひでいえもそこでまれているが、天正てんしょう元年がんねん1573ねん)、ちち直家なおいえ備前びぜん国人くにびとであった金光かねみつほろぼして石山いしやまにあった岡山おかやまじょう岡山おかやまきた)に遷った。金光かねみつ時代じだい岡山おかやまじょう小規模しょうきぼであったため、直家なおいえしろいき拡大かくだいして縄張なわばりをしなおし、石山いしやま岡山おかやま天神山てんじんやまさんやまのある城下町じょうかまちきずいたが、いだ秀家ひでいえは、しろをさらに拡大かくだいして岡山おかやまじょう修築しゅうちくし、旭川あさひかわりゅう変更へんこうして岡山おかやま城下町じょうかまち本格ほんかくてき建設けんせつした。備前びぜん福岡ふくおか岡山おかやまけん瀬戸内せとうち)や備前びぜん児島こじま倉敷くらしき)、美作みさくなどから商人しょうにんあつめ、領内りょうない武士ぶし城下町じょうかまちあつめられた[15]

その地域ちいき

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天正てんしょう11ねん1583ねん)、秀吉ひでよし淡路あわじこくしま本城ほんじょう兵庫ひょうごけん洲本すもと)に仙石せんごく秀久ひでひさを5まんせき摂津せっつこく三田みたじょう兵庫ひょうごけん三田みた)に山崎やまざきへんを2まん3,000せき大名だいみょうとしていれふうじさせるなど、中国ちゅうごく平定へいていこうのあった大名だいみょうたちにつぎつぎと領地りょうちをあたえた[16]

丹波たんば丹後たんご

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山陰さんいんどうぞくする丹波たんばこく丹後たんごこくはともに天正てんしょう3ねん1575ねん以来いらい織田おだ信長のぶなが攻略こうりゃくをうけた。山陰さんいん方面ほうめん司令しれいかんにあたったのは明智あけち光秀みつひでであった。天正てんしょう7ねん1579ねん)、ようやく両国りょうこく平定へいてい完了かんりょうし、その結果けっか明智あけち光秀みつひで丹波たんばいちこく細川ほそかわ藤孝ふじたか丹後たんごいちこくをあたえられた。

丹波たんばひさし山城やましろ石垣いしがき

丹波たんばは、清洲きよす会議かいぎ結果けっか羽柴はしば秀吉ひでよし領国りょうごくとなり、光秀みつひで居城きょじょうだった丹波たんばひさし山城やましろ京都きょうと亀岡かめおか)には、信長のぶながよんなん秀吉ひでよし養子ようしとなった羽柴はしば秀勝ひでかつはいった。秀勝ひでかつ死後しご亀山かめやま10まんせき大名だいみょうとして小早川こばやかわ秀秋ひであきはいったが、ぶんろく4ねん1595ねん)の豊臣とよとみ秀次しゅうじ事件じけん連坐れんざして改易かいえきとなった。[ちゅう 3]

こののち亀山かめやまには、ぶんろく年間ねんかん前田まえだ玄以げんいが5まんせき城主じょうしゅとなって入部にゅうぶした。なお、玄以げんいは、西丹波にしたんばさえとして多紀たきぐんはち上城かみしろ差配さはいめいじられている[17]

明智あけち光秀みつひで改修かいしゅうしたというきた丹波たんば福知山ふくちやまじょう京都きょうと福知山ふくちやま)には最初さいしょ杉原すぎはら家次いえつぐ、ついで小野木おのぎ重勝しげかつが4まんせき入部にゅうぶし、なに鹿しかぐん山家やまや京都きょうと綾部あやべ)1まん6,000せきたにまもるともどうぐん上林うえばやし綾部あやべ)1まんせき高田たかだおさむただしなどが所領しょりょう[17]。また、慶長けいちょう3ねん1598ねん)には、織田おだ信長のぶながおとうと秀吉ひでよし御伽おとぎしゅであった織田おだ信包のぶかね丹波たんばこく氷上ひかみぐん柏原かしわばら兵庫ひょうごけん丹波たんば)に3まん6,000せきにゅうふうした[18]

丹後たんごは、天正てんしょう6ねん1578ねん)からの細川ほそかわ藤孝ふじたかとその忠興ただおききょうもと兄弟きょうだいによる丹後たんごめの結果けっか天正てんしょう7ねん一色いっしき降伏ごうぶくさせて占領せんりょうし、天正てんしょう8ねん1580ねん)、あらためて信長のぶながから丹後たんごいちこくがあたえられた。藤孝ふじたかは、当初とうしょ宮津みやづしろ京都きょうと宮津みやづ)を本拠ほんきょとしていたが、天正てんしょう11ねん(1583ねん)から13ねん(1585ねん)にかけて隠居いんきょじょうとして田辺たなべしろ京都きょうと舞鶴まいづる)をきずき、同地どうちにうつった。本能寺ほんのうじへんさいしては、藤孝ふじたか幽斎ゆうさいごうして子息しそく忠興ただこう家督かとくゆずり、また、剃髪ていはつして信長のぶながへの弔意ちょういをあらわして光秀みつひでたいしては協力きょうりょく意思いし表明ひょうめいしたため、山崎やまざきたたかいののちの清洲きよす会議かいぎでは、細川ほそかわ丹後たんご領有りょうゆう安堵あんどされた。

但馬たじま

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但馬たじまいずる石城せきじょう全景ぜんけい

天正てんしょう13ねん1585ねん)、但馬たじま出石いずしじょう兵庫ひょうごけん豊岡とよおか)にあった豊臣とよとみ秀長ひでなが紀州きしゅうこう紀伊きいこく和泉いずみこくの2かこくをあたえられ、紀伊きい和歌山わかやまじょう和歌山わかやまけん和歌山わかやま)にうつったのにともない、但馬たじまこくは4ふんされて、前野まえのちょうやすし出石いずしじょう7まん5,000せき別所べっしょ重宗しげむね別所べっしょ吉治よしはる父子ふし但馬たじま八木はちぼくじょう兵庫ひょうごけん養父やぶ)1まん2,000せき赤松あかまつひろしゅう竹田たけだしろ兵庫ひょうごけん朝来あさく)2まん2,000せき明石あかしのり城崎きのさきしろ豊岡とよおかじょう豊岡とよおか)2まん2,000せきをそれぞれあたえられた。なお、別所べっしょ重宗しげむね養子ようし吉治よしはるは、当初とうしょ信長のぶながしたがいながらのちに離反りはんした播磨はりま三木みきしろ兵庫ひょうごけん三木みき)の城主じょうしゅ別所べっしょ長治ながはる実子じっしだというせつがある。

ぶんろく4ねん(1595ねん)、秀次しゅうじ事件じけん連坐れんざして秀次しゅうじ家老がろうであった出石いずし前野まえのちょうやすし家臣かしんとしてつかえた豊岡とよおか明石あかしそくがともに切腹せっぷくした。そのため、同年どうねん小出こいで吉政よしまさ播磨はりま龍野たつのより但馬たじまいずる石城せきじょう5まん3,200せきはいり、慶長けいちょう2ねん1597ねん)には北政所きたのまんどころ従弟じゅうていにあたる杉原すぎはら長房ながふさ豊岡とよおか2まんせき城主じょうしゅとして但馬たじま入部にゅうぶした[18]

因幡いなば伯耆ほうき

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鳥取とっとりじょう復元ふくげん城門じょうもん

因幡いなばでは、鳥取とっとり落城らくじょう天正てんしょう9ねん1581ねん)、亀井かめい茲矩因幡いなば鹿野かのしろ鳥取とっとりけん鳥取とっとり)1まん3,500せきをあたえておおぐん知行ちぎょうさせ、因幡いなば防衛ぼうえいにあたらせた。また、因幡いなば鳥取とっとりじょう鳥取とっとりけん鳥取とっとり)の城代じょうだいとして宮部みやべつぎじゅんはいし、のちに因幡いなばこくこうくさぐんはち上郡かみごおり邑美ぐんほうぐんの4ぐん鳥取とっとりけん鳥取とっとり八頭やつがしらぐん)と但馬たじま二方ふたかたぐんをあたえ、九州きゅうしゅう平定へいてい宮部みやべつぎじゅん鳥取とっとりじょう鳥取とっとりけん鳥取とっとりおもとし、そのまま5まんせき大名だいみょうとしててた。さらに、八東はっとうぐんわかさくらじょう八頭やずぐん若桜わかさまち)には木下きのしたしげるけん智頭ちずぐん用瀬もちがせじょう鳥取とっとり用瀬もちがせまち)に磯部いそべゆたかただしきょぐん浦富うらどめ鳥取とっとりけん岩美いわみぐん岩美いわみまち)の桐山きりやましろには垣屋かきや光成みつなりふうじた[6]

伯耆ほうきでは、宇喜多うきた直家なおいえ信長のぶなが帰順きじゅんとほぼどう時期じき信長のぶながかたふくした羽衣石うえしじょう鳥取とっとりけん東伯とうはくぐんなし浜町はまちょう)の南条なんじょうもとつづけが、ひがし伯耆ほうき河村かわむらぐん久米くめぐんおよびはちきょうりょうをのぞく八橋やつはしぐん領有りょうゆう安堵あんどされ、西にし伯耆ほうき毛利もうりりょうとなった。八橋やつはしりょうあせいりぐん会見かいけんぐん日野ひのぐん西にし伯耆ほうき3ぐんは、のちに吉川よしかわひろりょうするところとなった[6]

播磨はりま淡路あわじ

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姫路城ひめじじょう天守てんしゅ

播磨はりまは、中国ちゅうごくめにさいしては司令しれいかんである秀吉ひでよし本拠地ほんきょちとなったところから、はや段階だんかいより配下はいか武将ぶしょうたい所領しょりょう分与ぶんよされていた。三木みき合戦かっせん三木みきじょうには前野まえのちょうやすし知行ちぎょうだか3まん1,000せき入部にゅうぶし、天正てんしょう8ねん1580ねん)には揖東ぐん福井ふくいしょう6,200せきどうぐん岩見いわみしょう2,700せきどうぐん伊勢いせむら1,000せきなどが黒田くろだ孝高よしたかにあたえられた。天正てんしょう9ねん(1581ねん)、蜂須賀はちすか正勝まさかつ播磨はりま龍野たつのじょう兵庫ひょうごけんたつの)5まん3,000せきたてて、浅野あさの長政ながまさには揖東ぐん小宅おやけしょう堂本どうもとむらなど5,600せきがあたえられ、黒田くろだ孝高よしたかには揖東ぐんより1まんせき加増かぞうされた[19][ちゅう 4]

天正てんしょう13ねん四国しこく平定へいていせんこうをみとめられた淡路あわじ洲本すもと仙石せんごく秀久ひでひさ四国しこく国分こくぶによって讃岐さぬきこく高松たかまつじょう香川かがわけん高松たかまつ)10まんせきてんふうとなったため、脇坂わきさか安治やすじ洲本すもと3まんせき領主りょうしゅとして淡路あわじ入部にゅうぶした[16]

天正てんしょう14ねん1586ねん)には、生駒いこまちかしただし播磨はりま赤穂あこうじょう兵庫ひょうごけん赤穂あこう)6まんせき加藤かとう嘉明よしあきには淡路あわじ志知しちしろ兵庫ひょうごけんみなみあわじ)1まん5,000せきがあたえられた[20]。のちに生駒いこまちかしせい仙石せんごく秀久ひでひさわって讃岐さぬきに、加藤かとう嘉明よしあきてんふうとなった。

天正てんしょう15ねん1587ねん)、秀吉ひでよし正室せいしつ北政所きたのまんどころ(おね)のあに木下きのした家定いえさだに、播磨はりまこく加西かさいぐん印南いなみぐん、揖東ぐんほか1まん1,000せきあまりがあてがわれた。その家定いえさだぶんろく4ねん1595ねん)に姫路城ひめじじょう兵庫ひょうごけん姫路ひめじ)に入城にゅうじょうし、石高こくだか播磨はりま6ぐん2まん1,000せきあまり加増かぞうされた[19]

ぶんろく3ねん1594ねん)6がつ小出こいで吉政よしまさが、蜂須賀はちすか正勝まさかつ居城きょじょうであった龍野たつのじょうに2まん1,000せきをあたえられたが、上述じょうじゅつのとおり、よくぶんろく4ねんには但馬たじまいずる石城せきじょう加増かぞうてんふうとなった[18]ぶんろく3ねん糟屋かすや武則たけのり加古川かこがわじょう兵庫ひょうごけん加古川かこがわ)1まん2,000せきが、木下きのした家定いえさだ三男さんなん木下きのしたのべしゅん小早川こばやかわ秀秋ひであき実兄じっけい)に播磨はりま国内こくない2まん5,000せき木下きのしたのべおもにはどう国内こくない2まんせきがあたえられ、播磨はりまはしだいに北政所きたのまんどころ高台院こうだいいん)の生家せいか木下きのした杉原すぎはら)のぶんくにのような様相ようそうていした。

中国ちゅうごく国分こくぶ影響えいきょう

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天正てんしょう12ねん12がつまつ秀吉ひでよしは、輝元てるもとむすめ養子ようし羽柴はしば秀勝ひでかつめあわせ、毛利もうりとのあいだに縁戚えんせき関係かんけいむすんだ[21]天正てんしょう13ねん1585ねん正月しょうがつ秀吉ひでよし毛利もうりとの境界きょうかい画定かくてい交渉こうしょう大幅おおはば譲歩じょうほし、南海なんかいどう方面ほうめん攻略こうりゃくせんでの協力きょうりょく要請ようせいした。どう2がつには、小早川こばやかわ隆景たかかげにみずからの3がつ紀州きしゅう意向いこうほうじ、ぶんこくちゅうのすべての警固けいごせん和泉いずみ岸和田きしわだ集結しゅうけつしている。こののち、毛利もうりは、羽柴はしば秀長ひでながそう大将たいしょうとする紀州きしゅうめ、四国しこく協力きょうりょくした。同時どうじに、秀吉ひでよし政権せいけんふかまれることとなり、天正てんしょう14ねん1586ねん)、毛利もうりりょうないしろわりしろやぶ却)がめいじられた。天正てんしょう14ねんから15ねんにかけての九州きゅうしゅうやくでも豊臣とよとみ秀長ひでながにしたがい、ばんたいまである秀長ひでながぐんのうち小早川こばやかわ隆景たかかげ吉川よしかわ元長もとながばんたい毛利もうり輝元てるもとさんばんたい軍役ぐんえきされた。なお、吉川よしかわ元春もとはる嫡男ちゃくなん元長もとながは、九州きゅうしゅう陣中じんちゅう死去しきょし、家督かとくおとうとこういえいだ。

秀吉ひでよし重用じゅうようされた宇喜多うきた秀家ひでいえ

宇喜多うきた八郎はちろう秀家ひでいえ)は、備中高松びっちゅうたかまつしろ以後いご、賤ヶだけたたかい、小牧こまき長久手ながくてたたか四国しこくめに加勢かせいし、天正てんしょう13ねん1585ねん)には元服げんぷくして秀吉ひでよしいちたまわり「秀家ひでいえ」と名乗なのって九州きゅうしゅう征伐せいばつにも参加さんかした。天正てんしょう17ねん1589ねん)には、秀吉ひでよし養女ようじょであった前田まえだ利家としいえ息女そくじょごうひめめとり、豊臣とよとみ前田まえだ両氏りょうし縁戚えんせき関係かんけいむすんだ。養女ようじょとはいえ、ごうひめは、戦国せんごく時代じだいにありがちな政略せいりゃくによって即席そくせき縁組えんぐみした養女ようじょではなく、秀吉ひでよし夫妻ふさいにとっては、おさないころより本当ほんとうむすめ同然どうぜんそだててきた愛娘まなむすめであった。なお、秀家ひでいえ重用じゅうようのかげには、人質ひとじちとしてされた秀家ひでいえはは(ふく)が絶世ぜっせい美女びじょであったため秀吉ひでよし彼女かのじょ寵愛ちょうあいし、それゆえ秀家ひでいえ秀吉ひでよし養子ようしとなって出世しゅっせしたといわれることもおおいが、すくなくともいち史料しりょうからはその事実じじつ確認かくにんできない[22]

いずれにせよ、このように、毛利もうり宇喜多うきた両氏りょうしは、豊臣とよとみ政権せいけん屈指くっし大名だいみょうとして、とく秀吉ひでよしとの縁戚えんせき関係かんけいむすんだ西国さいごくいちだい大名だいみょうとして豊臣とよとみ政権せいけんをささえた。ぶんろく4ねん(1595ねん)の秀次しゅうじ事件じけん毛利もうり輝元てるもと宇喜多うきた秀家ひでいえ小早川こばやかわ隆景たかかげの3めい徳川とくがわ家康いえやす前田まえだ利家としいえ上杉うえすぎ景勝かげかつとともに連署れんしょするかたちで「おきて」を発令はつれいして大老たいろうれつしている。なお、隆景たかかげ死去しきょ慶長けいちょう2ねん1597ねん以後いご、そのにん大老たいろうばれた(その呼称こしょうについては異論いろんもあり)。

土地とち制度せいどめんでは、いわゆる太閤たいこう検地けんち全域ぜんいきでおこなわれた。以下いかに、『日本にっぽんぜい』にしるされた慶長けいちょう3ねん1598ねん段階だんかいでの石高いしたかまんせき)をしる[23]

きゅうくに 山陰さんいんどう 山陽さんようどう 南海なんかいどう
丹波たんば 丹後たんご 但馬たじま 因幡いなば 伯耆ほうき 隠岐おき 出雲いずも 石見いわみ 播磨はりま 備前びぜん 美作みさく 備中びっちゅう 備後びんご 安芸あき 周防すおう 長門ながと 淡路あわじ
府県ふけん 京都きょうと
兵庫ひょうご
京都きょうと 兵庫ひょうご 鳥取とっとり 鳥取とっとり 島根しまね 島根しまね 島根しまね 兵庫ひょうご 岡山おかやま 岡山おかやま 岡山おかやま 広島ひろしま 広島ひろしま 山口やまぐち 山口やまぐち 兵庫ひょうご
石高いしたか 26 11 11 9 10 4 19 11 36 22 19 18 19 19 17 13 6

検地けんちにより、しょ大名だいみょう石高いしたか確定かくていして、領主りょうしゅにはそれを基準きじゅんとして軍役ぐんえきせられることとなった。さらに、中世ちゅうせいてき城郭じょうかくしろわりによって破棄はきされて各地かくち近世きんせい城郭じょうかくきずかれるようになった。城下町じょうかまちおおくは、領内りょうない統治とうち便利べんりで、水陸すいりく交通こうつう便びんおお建設けんせつされた。かく大名だいみょうは、豊臣とよとみ政権せいけんまれ、四国しこくめ、九州きゅうしゅう征伐せいばつでは、地理ちりてき関係かんけいもあって、おお先鋒せんぽうつとめるなどの重要じゅうよう役割やくわりになった。そのいっぽう、それぞれ豊臣とよとみ政権せいけん公認こうにん大名だいみょう権力けんりょく強化きょうかし、家臣かしんだん整備せいびして近世きんせい大名だいみょうへの脱皮だっぴをはかり、在地ざいち勢力せいりょく領民りょうみんたいした。なお、宇喜多うきた秀家ひでいえかく大名だいみょうは、天正てんしょう16ねん4がつ1588ねん5がつ)のこう陽成ようぜい天皇てんのうによる聚楽第じゅらくだい行幸ぎょうこうさいには、関白かんぱく太政大臣だじょうだいじんとなった秀吉ひでよし命令めいれい違背いはいしないことなどをちかい、朝廷ちょうてい位階いかいをうけ、豊臣とよとみ政権せいけん構成こうせいする大名だいみょうあいだ序列じょれつれた[24]行幸ぎょうこう当日とうじつ九州きゅうしゅうざいじんしていた毛利もうり輝元てるもと小早川こばやかわ隆景たかかげ吉川よしかわひろらものちに上洛じょうらくして、豊臣とよとみせいとしかるべき官位かんいさづけられ、7がつまつにはそろって参内さんだいした。こののち、山陰さんいんどう山陽さんようどうりょう配分はいぶんされた大名だいみょうおおくは天正てんしょう18ねん1590ねん)の小田原おだわら征伐せいばつぶんろく元年がんねん1592ねん)からの文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい)にも参加さんかした。

せつ

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関ヶ原せきがはらたたかいと中国ちゅうごく

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慶長けいちょう3ねん8がつ1598ねん9がつ)、秀吉ひでよし死去しきょし、よく慶長けいちょう4ねんうるう3がつ1599ねん4がつ)には豊臣とよとみ秀頼ひでよりでん(もり)やくであった前田まえだ利家としいえ死去しきょして、豊臣とよとみ政権せいけん内部ないぶ均衡きんこうがくずれた。奉行ぶぎょうのひとりであった石田いしだ三成みつなりは、家康いえやす会津あいづ上杉うえすぎ討伐とうばつを、むしろ奥羽おうう上杉うえすぎ景勝かげかつ提携ていけいして家康いえやすはさちする絶好ぜっこう機会きかいととらえて決起けっきした。まず、慶長けいちょう5ねん7がつ1600ねん8がつ)、家康いえやす会津あいづ征討せいとうぐんくわわるため越前えちぜん敦賀つるがった大谷おおやきちままし佐和さわ山城やましろ滋賀しがけん彦根ひこね)で会見かいけんして、旧知きゅうちきちつぎ味方みかたにつけた。7がつ12にち大和やまとこく郡山こおりやましろ城主じょうしゅ奉行ぶぎょうのひとりであった増田ますだちょうもりはこれを家康いえやすかたほうじたが、増田ますだ長束ながつかただし前田まえだ玄以げんいさん奉行ぶぎょう同時どうじに、毛利もうり輝元てるもとにも至急しきゅう大坂おおさかじょう登城とじょうするようもとめた。大坂おおさかじょうにあった淀殿よどどのもまた、さん奉行ぶぎょうとともに石田いしだ大谷おおや行為こうい謀反むほんとみなし、家康いえやすかたほうじてだいさかへの帰還きかん要請ようせいした。家康いえやす輝元てるもとはこのとき、ともに豊臣とよとみ政権せいけん大老たいろう構成こうせいする2人ふたりとして謀反むほん鎮圧ちんあつ秀吉ひでよし遺児いじ秀頼ひでより守護しゅごとを期待きたいされたのであり、淀殿よどどの、あるいはさん奉行ぶぎょうからすれば上杉うえすぎもまた謀反むほんじんであった[25]。すなわち、家康いえやす公儀こうぎ権力けんりょくとして謀反むほんじん征伐せいばつ旗印はたじるし出陣しゅつじんしたことを自他じたともにみとめていたのであり、それゆえ豊臣とよとみ恩顧おんこしょ大名だいみょう動員どういんできたのであった。


ところが、三成みつなりさん奉行ぶぎょう自分じぶん与力よりきすることを説得せっとくし、また、7がつ15にちには安芸あきこく広島ひろしまじょう出発しゅっぱつしてよく7がつ16にちにはだいさか到着とうちゃくした毛利もうり輝元てるもと味方みかたれて、西にしぐんそう大将たいしょうとしてかつぎあげることに成功せいこうした。宇喜多うきた秀家ひでいえもまた、これにあずかどうした。輝元てるもとはただちに家康いえやす留守居るすいやく放逐ほうちくしてだい坂城さかき西にしまるはいり、そこにあつまった西にしぐんしょしょうは、7がつ17にちづけで「うちちかひの条々じょうじょう」とだいするたい家康いえやす弾劾だんがいぶん諸国しょこく大名だいみょうおくった。西にしぐんはまた、会津あいづかったしょしょう妻子さいしをただちに人質ひとじちとして大坂おおさかじょうれる作戦さくせんをとったが、丹後たんご宮津みやづ城主じょうしゅ細川ほそかわ忠興ただおき夫人ふじんガラシャがこれを拒否きょひしてえらぶなどして、この作戦さくせん失敗しっぱいした。19にち小早川こばやかわ秀秋ひであき島津しまつ義弘よしひろ宇喜多うきた秀家ひでいえらが鳥居とりい元忠もとただのまもる伏見ふしみじょう京都きょうと伏見ふしみ)をめたが、元忠もとただのはげしい抵抗ていこうにより、陥落かんらくしたのはようやく8がつ1にちになってからのことであった。いっぽう伏見ふしみじょうからもとちゅうはっした西にしぐん挙兵きょへいほうは、7がつ24にち下野げやこく小山こやま栃木とちぎけん小山おやま)に着陣ちゃくじんしていた家康いえやすのもとにたっし、これにたいし、福島ふくしま正則まさのり黒田くろだ長政ながまさ山内やまうち一豊かずとよ豊臣とよとみ恩顧おんこ大名だいみょうは、家康いえやす大将たいしょうとする会津あいづ征討せいとうぐん反転はんてん西にしじょうをむしろ主唱しゅしょうした[26]。その最終さいしゅうてきには決戦けっせん舞台ぶたい美濃みのこく関ヶ原せきがはら岐阜ぎふけん関ケ原せきがはらまち)にうつされた。

慶長けいちょう5ねん9月15にち(グレゴリウスれき1600ねん10がつ21にち)の関ヶ原せきがはら合戦かっせんは、ひがしぐん井伊いい直政なおまさ松平まつだいら忠吉ただよしたい西にしぐん宇喜多うきた秀家ひでいえたいめかかったことで戦端せんたんひらかれ、また、宇喜多うきたたい福島ふくしまたいとのあいだはげしい攻防こうぼうは、関ヶ原せきがはら本戦ほんせんにおける激闘げきとうのなかでもそのさいたるものとして、つとにられる。しかし、輝元てるもと派遣はけんした毛利もうりしげるもとたいおよび吉川よしかわひろたいうごかず、最後さいごには、小早川こばやかわ秀秋ひであき裏切うらぎりがとなって西にしぐん敗退はいたいひがしぐんだい勝利しょうりをもたらした。

なお、西にしぐん決起けっき真相しんそうについては、決起けっき主導しゅどうしゃ石田いしだ三成みつなりではなく、じつ宇喜多うきた秀家ひでいえであるという見方みかたがある[27]。というのも、7がつ5にちというはや時点じてんで、秀家ひでいえ豊国とよくに神社じんじゃ出陣しゅつじん儀式ぎしきりおこない、また、その2にちには秀家ひでいえしつごうひめ)が北政所きたのまんどころ使者ししゃ同道どうどうして神楽かぐら奉納ほうのうしているのであって、もろ儀式ぎしき準備じゅんび北政所きたのまんどころへの連絡れんらくなどをかんがえれば、秀家ひでいえ決起けっき意志いし表明ひょうめいのほうが三成みなり挙兵きょへい意志いし表明ひょうめいよりも時間じかんてきさきんじているとかんがえられるからである。秀家ひでいえ主導しゅどうせつつならば、むしろ、秀家ひでいえ強要きょうようされたさん奉行ぶぎょうがやむなく毛利もうりにはたらきかけ、それをけて策動さくどうをはじめた安国寺あんこくじ恵瓊えけい輝元てるもと出馬しゅつば工作こうさくし、また、輝元てるもと出馬しゅつば結果けっか既成きせい事実じじつにして、決起けっきをためらうさんなり無理むりやりみずからの路線ろせんれたという見方みかた可能かのうになる[27]

また、毛利もうり輝元てるもとについても、従来じゅうらいいわれてきたような、たん他律たりつてきあるいは形式けいしきてき西にしぐん盟主めいしゅではなく、むしろ意欲いよくてき計画けいかくてき決起けっき主導しゅどうしゃのひとりであったという見解けんかいがある[28]。たとえば、7がつ12にちはっせられたさん奉行ぶぎょう上坂かみさか要請ようせい書状しょじょうは、当時とうじ書状しょじょうだいさかから広島ひろしままで通常つうじょう3にちようすることからすれば、15にち到着とうちゃくした可能かのうせいたかいものであるが、輝元てるもとは、15にちのうちに広島ひろしまふね出発しゅっぱつしているところからみれば、かれ上坂かみさか大坂おおさかき)をほぼ即断そくだんしているのである。さらに翌日よくじつには大坂おおさかじょう到着とうちゃくして、家康いえやす留守居るすい早々そうそうい、公儀こうぎ権力けんりょくようとして豊臣とよとみ秀頼ひでより手中しゅちゅうにするというきょている。このような、大坂おおさか渡航とこうもちいるふね兵糧ひょうろう武具ぶぐなどの手配てはい家臣かしんだんへの下知げじ、およびだい坂城さかきはいってからのおや徳川とくがわうごきをふうじる手法しゅほう迅速じんそくさ、手際てぎわのよさは、三成みつなりよしつぎ計画けいかくいちまいくわわっていた輝元てるもと予定よてい行動こうどうだとみることが可能かのうである[28]

関ヶ原せきがはら戦後せんご中国ちゅうごく大名だいみょう配置はいち

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織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよし徳川とくがわ家康いえやすの3にんつかえた姫路ひめじ宰相さいしょう池田いけだ輝政てるまさ
尾張おわり清洲きよす24まんせきから安芸あき広島ひろしまはん太守たいしゅとなった福島ふくしま正則まさのり

関ヶ原せきがはらたたかいで西にしぐんについたしょしょうは、完勝かんしょうした徳川とくがわ家康いえやすによって領地りょうち没収ぼっしゅうなどきびしい処分しょぶんくだされた。ことに、この地方ちほうでは、豊臣とよとみ大老たいろうのうち2にん毛利もうり輝元てるもと宇喜多うきた秀家ひでいえ)がおり、西にしぐん大将たいしょうであった毛利もうり輝元てるもと大幅おおはばげんふうされて長門ながと周防すおう両国りょうこく領有りょうゆうにとどめられ、主力しゅりょくとして参戦さんせんした西にしぐん副将ふくしょう宇喜多うきた秀家ひでいえ改易かいえきとなったため、大名だいみょう配置はいちおおきくえられた。

なお、宇喜多うきた秀家ひでいえは、関ヶ原せきがはら合戦かっせん伊吹山いぶきやまなかのがれたのち島津しまつ義弘よしひろたよって薩摩さつまび、3ねん同地どうちらした。しかし、そのうわさひろがって徳川とくがわ家康いえやすみみにはいったため、慶長けいちょう8ねん1603ねん薩摩さつま藩主はんしゅ島津しまつただしつねしゅう家康いえやすわたした。ちゅうつねおよび前田まえだ利長としなが家康いえやすへの助命じょめい嘆願たんがんにより秀家ひでいえ死罪しざいまぬかれ、慶長けいちょう11ねん1606ねん八丈島はちじょうじま配流はいるされた。あかりれき元年がんねん1655ねん)に84さい死去しきょするまで、秀家ひでいえはこのしま生活せいかつした。

西にしぐんについた、丹波たんば小野木おのぎ公郷くごう川勝かわかつしげる[よう出典しゅってん]但馬たじまときむら広道ひろみち赤松あかまつ広道ひろみち因幡いなば宮部みやべ長房ながふさ木下きのした重賢しげかた垣屋かきや光成みつなり伯耆ほうき南条なんじょうただしなり播磨はりま木下きのしたのべおも横浜よこはま茂勝しげかつ糟屋かすや宗孝むねたかはそれぞれ改易かいえきとなった。

前田まえだ玄以げんい三男さんなん丹波たんば亀山かめやま城主じょうしゅであった前田まえだ茂勝しげかつは、関ヶ原せきがはらせんでは西にしぐんぞくしてひがしぐん細川ほそかわ幽斎ゆうさいのこもる丹後たんご田辺たなべじょうめたが、朝廷ちょうていとのふといつながりなどがさいわいして、旧領きゅうりょう安堵あんどされた。一方いっぽう細川ほそかわは、その田辺たなべじょうたたかでの軍功ぐんこう評価ひょうかされ、豊前ぶぜん中津なかつ39まん9,000せき加増かぞううつりふうされ、その豊前ぶぜん小倉おぐら40まんせき、さらに忠興ただこう子息しそく細川ほそかわ忠利ただとし肥後ひご熊本くまもとはん54まんせき領地りょうちやした。

豊臣とよとみ恩顧おんこしょ大名だいみょうひがしぐんについた池田いけだ輝政てるまさ小早川こばやかわ秀秋ひであき福島ふくしま正則まさのり大幅おおはば加増かぞうされて、それぞれ、播磨はりま姫路ひめじ(52まんせき)、備前びぜん岡山おかやま(57まん4,000せき)、安芸あき広島ひろしま(49まん8,000せき)の山陽さんようどう要衝ようしょうはいされた。

小早川こばやかわ秀秋ひであき備前びぜん美作みさく宇喜多うきた旧領きゅうりょうをあたえられたが、その治世ちせいみだれて老臣ろうしんはじめ家中いえじゅう逐電ちくでんするものがこうたなかったという。慶長けいちょう7ねん1602ねん)、秀秋ひであきは21さいぼっしたが、嗣子ししがなかったためりつぶしとなった。

また、このたたかいで中立ちゅうりつまもり、秀吉ひでよし正室せいしつ高台院こうだいいん(おね)の守衛しゅえいにあたった木下きのしたのべしゅん小早川こばやかわ秀秋ひであきあに)は家康いえやすによってそのこうみとめられ、加増かぞうされて豊後ぶんごこく日出ひので転出てんしゅつした。

なお、関ヶ原せきがはら戦前せんぜんにあたる慶長けいちょう3ねん(1598ねん)と戦後せんご慶長けいちょう7ねん(1602ねん)の中国ちゅうごく大名だいみょう配置はいち以下いかのとおりである。

くに 領地りょうち 1598ねん慶長けいちょう3ねん 石高いしたか 戦後せんご処置しょち 1602ねん慶長けいちょう7ねん 石高いしたか
丹波たんば 山家やまや たにまもるとも 1.6まんせき 旧領きゅうりょう安堵あんど たに衡友 1.6まんせき
丹波たんば 園部そのべ 別所べっしょ吉治よしはる 1.5まんせき 旧領きゅうりょう安堵あんど 別所べっしょ吉治よしはる 1.5まんせき
丹波たんば 福知山ふくちやま 小野木おのぎ公郷くごう 3.1まんせき 没収ぼっしゅう 有馬ありまゆたか 6.0まんせき
丹波たんば 亀山かめやま 前田まえだ茂勝しげかつ 5.0まんせき 旧領きゅうりょう安堵あんど 前田まえだ茂勝しげかつ 5.0まんせき
丹波たんば 丹波たんばうち 川勝かわかつしげる 1.0まんせき 没収ぼっしゅう
丹後たんご 宮津みやづ 細川ほそかわ忠興ただおき 23.0まんせき 加増かぞうのうえてんふう 京極きょうごく高知こうち 12.3まんせき
但馬たじま 竹田たけだ ときむら広道ひろみち 2.1まんせき 没収ぼっしゅう
但馬たじま 豊田とよだ 杉原すぎはら長房ながふさ 2.0まんせき 旧領きゅうりょう安堵あんど 杉原すぎはら長房ながふさ 2.0まんせき
但馬たじま 出石いずし 小出こいで吉政よしまさ 6.0まんせき 旧領きゅうりょう安堵あんど 小出こいで吉政よしまさ 6.0まんせき
因幡いなば 鹿野かの 亀井かめい茲矩 1.3まんせき 加増かぞう 亀井かめい茲矩 3.8まんせき
因幡いなば 鳥取とっとり 宮部みやべ長房ながふさ 20.0まんせき 没収ぼっしゅう 池田いけだ長吉ちょうきち 6.5まんせき
因幡いなば 若桜わかさ 木下きのした重賢しげかた 2.0まんせき 没収ぼっしゅう 山崎やまざきもり 3.5まんせき
因幡いなば うらじゅう 垣屋かきや光成みつなり 1.0まんせき 没収ぼっしゅう
伯耆ほうき 羽衣石うえし 南条なんじょうただしなり 4.0まんせき 没収ぼっしゅう
伯耆ほうき 米子よなご 中村なかむらいちちゅう 17.5まんせき
出雲いずも 松江まつえ 堀尾ほりおただし 24.0まんせき
石見いわみ 津和野つわの 宇喜多うきた正親まさちか 3.0まんせき
播磨はりま 播磨はりまうち 木下きのしたのべしゅん 2.0まんせき 加増かぞうのうえてんふう
播磨はりま 播磨はりまうち 木下きのしたのべおも 2.0まんせき 没収ぼっしゅう
播磨はりま 播磨はりまうち 横浜よこはま茂勝しげかつ 1.7まんせき 没収ぼっしゅう
播磨はりま 加古川かこがわ 糟屋かすや宗孝むねたか 1.2まんせき 没収ぼっしゅう
播磨はりま 姫路ひめじ 木下きのした家定いえさだ 2.5まんせき うたてふう 池田いけだ輝政てるまさ 52.0まんせき
備前びぜん 岡山おかやま 宇喜多うきた秀家ひでいえ 57.4まんせき 没収ぼっしゅう 小早川こばやかわ秀秋ひであき 57.4まんせき
備中びっちゅう 庭瀬にわせ 戸川とがわいたるやす 3.9まんせき
備中びっちゅう 足守あしもり 木下きのした家定いえさだ 2.5まんせき
安芸あき 広島ひろしま 毛利もうり輝元てるもと 112.0まんせき げんふう 福島ふくしま正則まさのり 49.8まんせき
長門ながと[29] はぎ 毛利もうりしげる 29.8まんせき[30]
淡路あわじ 洲本すもと 脇坂わきさか安治やすじ 3.3まんせき 旧領きゅうりょう安堵あんど 脇坂わきさか安治やすじ 3.3まんせき

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 本能寺ほんのうじへん和睦わぼく条件じょうけんは、当初とうしょ織田おだかた要求ようきゅうしていた備中びっちゅう備後びんご美作みさく伯耆ほうき出雲いずもの5かこく割譲かつじょうえて、備後びんご出雲いずもをのぞく備中びっちゅう美作みさく伯耆ほうきの3かこく割譲かつじょう高松たかまつじょう岡山おかやまけん岡山おかやまきた)の城主じょうしゅ清水しみず宗治むねはる切腹せっぷくというものであった。
  2. ^ 毛利もうり家中かちゅう秀吉ひでよし信任しんにんもっとあつかった小早川こばやかわ隆景たかかげは、四国しこくののちの四国しこく国分こくぶいちこく35まんせきをあたえられて秀吉ひでよしちょくしん大名だいみょうとしててられ[13]、さらに九州きゅうしゅう征伐せいばつ九州きゅうしゅう国分こくぶでは、筑前ちくぜんこく筑後ちくごこくおよび肥前ひぜんこく一部いちぶけい37まんせき加増かぞうされた。九州きゅうしゅうてんふう隆景たかかげは、筑前ちくぜん名島なじましろ福岡ふくおかけん福岡ふくおかひがし)を本拠ほんきょとした。
  3. ^ しかし、その直後ちょくご養父ようふにあたる小早川こばやかわ隆景たかかげ隠居いんきょして、家臣かしんだんとともに安芸あき三原みはら広島ひろしまけん三原みはら)にうつったため、秀秋ひであきはそのいで筑前ちくぜん名島なじま城主じょうしゅとなった。なお、隆景たかかげはそのさい秀吉ひでよしから筑前ちくぜん国内こくないに5まんせきという破格はかく隠居いんきょりょう拝領はいりょうしている。
  4. ^ 四国しこくめののち、蜂須賀はちすか正勝まさかつ蜂須賀はちすか家政いえまさ阿波あわこく徳島とくしまじょう徳島とくしまけん徳島とくしま)18まんせき九州きゅうしゅう征伐せいばつののち黒田くろだ孝高よしたか豊前ぶぜんこく中津なかつじょう大分おおいたけん中津なかつ)17まんせき浅野あさの長政ながまさ若狭わかさこく小浜おばまじょう福井ふくいけん小浜おばま)8まんせき大名だいみょうとなった。

出典しゅってん

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  1. ^ 熱田あつた天下てんか一統いっとう』(1992)p.201
  2. ^ a b 熱田あつた天下てんか一統いっとう』(1992)p.202-203
  3. ^ 熱田あつた天下てんか一統いっとう』(1992)p.204
  4. ^ 池上いけがみゆたか政権せいけん江戸えど幕府ばくふ』(2002)p.137
  5. ^ a b 竹林たけばやし岡山おかやまけん歴史れきし』(2003)p.172
  6. ^ a b c d 日置ひおき鳥取とっとりけん歴史れきし』(1997)p.140
  7. ^ 藤田ふじたなぞとき 本能寺ほんのうじへん』(2003)p.161-162
  8. ^ 太閤たいこう検地けんちせきだか(『日本にっぽんぜい』『当代とうだい』など。徳川とくがわ旧領きゅうりょう5かこく信濃しなの上杉うえすぎりょう川中島かわなかじま4ぐんのぞく)。
  9. ^ 豊臣とよとみにおいて石田いしだ子飼こが家臣かしんと、秀勝ひでかつ秀保ひでやす一門いちもん石高こくだかくら入地いりじ222まんせきとはべつのため、豊臣とよとみ勢力せいりょく徳川とくがわ凌駕りょうがしている。
  10. ^ 毛利もうり文書ぶんしょ天正てんしょう19ねん(1591ねん)旧暦きゅうれき3がつ13にちづけ(『だい日本にっぽん古文書こもんじょ わけ文書ぶんしょだい8 もう利家としいえ文書ぶんしょさん所収しょしゅう)
  11. ^ 当代とうだい慶長けいちょう元年がんねん伏見ふしみ普請ふしんとばり安芸あき中納言ちゅうなごんこう
  12. ^ いけ天下てんか統一とういつ朝鮮ちょうせん侵略しんりゃく」(2003)p.76-77
  13. ^ 内田うちだ(2003)『愛媛えひめけん歴史れきし』p.153
  14. ^ かりさと赤穂あこう)6まんせき生駒いこまちかしただし讃岐さぬきてんふうされたことによる。
  15. ^ 竹林たけばやし岡山おかやまけん歴史れきし』(2003)p.175-176
  16. ^ a b 今井いまい三浦みうら兵庫ひょうごけん歴史れきし』(2004)p.179
  17. ^ a b 水本みずもと京都きょうと歴史れきし』(1999)p.218-219
  18. ^ a b c 今井いまい三浦みうら兵庫ひょうごけん歴史れきし』(2004)p.180-p.181
  19. ^ a b 今井いまい三浦みうら兵庫ひょうごけん歴史れきし』(2004)p.180
  20. ^ 今井いまい三浦みうら兵庫ひょうごけん歴史れきし』(2004)p.179-p.180
  21. ^ 池上いけがみゆたか政権せいけん江戸えど幕府ばくふ』(2002)p.142
  22. ^ 光成みつなり関ヶ原せきがはら前夜ぜんや』(2009)p.189-192
  23. ^ 熱田あつた天下てんか一統いっとう』(1992)p.286 および『決定けっていばん 図説ずせつ戦国せんごく地図ちずちょう』(2003)p.126 より作表さくひょう
  24. ^ 池上いけがみゆたか政権せいけん江戸えど幕府ばくふ』(2002)p.158
  25. ^ 池上いけがみゆたか政権せいけん江戸えど幕府ばくふ』(2002)p.342
  26. ^ 池上いけがみゆたか政権せいけん江戸えど幕府ばくふ』(2002)p.343
  27. ^ a b 河合かわい西にしぐん決起けっきなぞ」(2000)p.170-171
  28. ^ a b 光成みつなり関ヶ原せきがはら前夜ぜんや』(2009)p.51-62
  29. ^ 周防すおうこくふくむ(一城かずきれい岩国いわくにじょうやぶ却。幕末ばくまつ政庁せいちょう山口やまぐちうつす。)
  30. ^ 慶長けいちょう5ねん検地けんちによる石高こくだか慶長けいちょう10ねん(1605ねん)の『毛利もうり御前ごぜんちょう』にも同様どうよう石高こくだか記載きさい慶長けいちょう18ねん(1613ねん)、36まん9せんせきこうなおし。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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