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名島なじましろ

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名島なじましろ
福岡ふくおかけん
名島城址碑
名島なじま城址じょうし
城郭じょうかく構造こうぞう れんくるわしき平山ひらやまじょううみじょう
天守てんしゅ構造こうぞう しょう
築城ちくじょうぬし 立花たちばなあきら
築城ちくじょうねん 天文てんもん年間ねんかん16世紀せいきなかば)
おも改修かいしゅうしゃ 小早川こばやかわ隆景たかかげ
おも城主じょうしゅ 小早川こばやかわ隆景たかかげ小早川こばやかわ秀秋ひであき黒田くろだ長政ながまさ
はいじょうねん 慶長けいちょう7ねん1602ねんごろ
遺構いこう 堀切ほりきりるい天守てんしゅだいあと
城門じょうもん3むね福岡ふくおかじょうたかしぶくてらそうなまてら移築いちく現存げんそん
指定してい文化財ぶんかざい 指定してい
位置いち 北緯ほくい3338ふん45びょう 東経とうけい13025ふん23びょう / 北緯ほくい33.64583 東経とうけい130.42306 / 33.64583; 130.42306
地図ちず
名島城の位置(福岡県内)
名島城
名島なじましろ
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名島なじましろ(なじまじょう)は、福岡ふくおかけん福岡ふくおかひがし名島なじま筑前ちくぜんこく名島なじま)にあった日本にっぽんしろ

概要がいよう

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博多湾はかたわんした標高ひょうこう50mの丘陵きゅうりょうきずかれ、三方さんぽううみかこまれた東西とうざい300m×南北なんぼく100mの土地とちに、きた本丸ほんまる区画くかくそと南丸みなみまるばれる場所ばしょがある)、みなみまる区画くかくない一部いちぶさんまるとする)のふたつのくるわ構成こうせいされていた。安芸あきこく三原みはらじょう同様どうよう水軍すいぐん根拠地こんきょち水城みずき)としての性格せいかくつよしろであった。『筑前ちくぜんこくぞく風土記ふどき』によれば、本丸ほんまるよりもまる区画くかくほうおおきかったという。

沿革えんかく

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名島なじま城跡じょうせきにある名島なじま神社じんじゃ
名島なじましろ推定すいてい復元ふくげん北西ほくせい方向ほうこうからのぞむ)
名島なじまもん名島なじまじょうからすう移築いちくて、1961ねん福岡ふくおか城内じょうのうち移築いちく
名島なじまじょう遺構いこうつたわる、たかしぶくてら福岡ふくおか博多はかた)のからもん

豊前ぶぜんこく戦国せんごく大名だいみょう大友おおともの庶流であった立花たちばな当主とうしゅ立花たちばなあきら立花たちばな山城やましろ出城でしろとして築城ちくじょうしたことがはじまりとされる。天正てんしょう15ねん1587ねん)に島津しまつ降伏ごうぶくさせ、九州きゅうしゅう平定へいていたした豊臣とよとみ秀吉ひでよしは、筑前ちくぜんこく近隣きんりん諸国しょこく毛利もうり重臣じゅうしんであった小早川こばやかわ隆景たかかげあたえた。

小早川こばやかわ隆景たかかげしろ選定せんていにあたり、うみちか水軍すいぐん本拠ほんきょとできるしろ築城ちくじょう計画けいかくし、この立花りっか山城やましろ出城でしろであった名島なじましろだい改修かいしゅうして居城きょじょうとした。また、これには豊臣とよとみ秀吉ひでよしみずからの指示しじもあったとされ、九州きゅうしゅう異変いへんがあったさいには中国ちゅうごく毛利もうりよりすみやかに救援きゅうえんおくれるようにとの思惑おもわくがあった。文禄・慶長ぶんろくけいちょうえきさいには豊臣とよとみ秀吉ひでよし淀殿よどどのともない、このしろ宿泊しゅくはくしている。同役どうやく参加さんかするために肥前ひぜんこく名護屋なごやしろかっていた常陸ひたちこく大名だいみょう佐竹さたけ義宣よしのぶ家臣かしん平塚ひらつかたきしゅんが、たびちゅう通過つうかした名島なじまじょうについて、しま構築こうちくされた水軍すいぐんじょうであること、城下町じょうかまち形成けいせいされていたこと、しろ直接ちょくせつ大船おおぶね接岸せつがんできる構造こうぞうであること、石垣いしがき天守てんしゅ立派りっぱであったことなどをのこしている。

のち小早川こばやかわ隆景たかかげは、養子ようしとした小早川こばやかわ秀秋ひであき家督かとくゆずり、この名島なじまじょうから退去たいきょして三原みはらじょうもどった。秀秋ひであき小早川こばやかわあらたな当主とうしゅとして名島なじまじょうはいり、城主じょうしゅとなった。

慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたか結果けっか小早川こばやかわ秀秋ひであき岡山おかやま51まんせき加増かぞうてんふうされ、この筑前ちくぜんこくには豊前ぶぜんこく中津なかつから黒田くろだ長政ながまさはいった。長政ながまさ立地りっちてき城下町じょうかまち整備せいび余裕よゆう名島なじまじょうはいじょうとし、近隣きんりん福崎ふくざき新城しんじょう築城ちくじょう決定けっていした。そのため名島なじまじょう建物たてもの建材けんざいとして、石垣いしがき石材せきざいとしてされ福岡ふくおかじょう資材しざいとなった。またしろ一部いちぶ移築いちくされ、「名島なじまもん」の大濠公園おおほりこうえん平和へいわだい陸上りくじょう競技きょうぎじょうあいだ現存げんそんしている。小早川こばやかわ隆景たかかげ筑前ちくぜんにおける菩提寺ぼだいじとしておはかのこむねせいてら宗像むなかた)の山門さんもんとしてからしゅもん移築いちく藩主はんしゅ黒田くろだ一門いちもん菩提寺ぼだいじたかしぶくてらからもんなど遺構いこうのこる。

なお、きゅう名島なじまじょうにあったふすま障壁しょうへきなどは、現在げんざい京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかん所蔵しょぞうされている。

現状げんじょう

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城跡じょうせきおおくが住宅じゅうたくとなり、天守てんしゅだい一部いちぶ名島なじま神社じんじゃにその名残なごりめる。

福岡ふくおかでは地元じもと要望ようぼうにより名島なじま神社じんじゃ隣接りんせつする高台たかだい民有みんゆう購入こうにゅうし、名島なじま城址じょうし公園こうえんとして整備せいびし2012ねん4がつ開園かいえんした。案内あんない看板かんばんなども設置せっちされ、史跡しせきとしての体裁ていさいととのえられた。園内えんないさくらえだ地面じめんのすぐじょうにありうようにびているのが特徴とくちょうで、「臥龍がりょうさくら」の愛称あいしょうけられている[1]

また、福岡ふくおかじょうなどへの移築いちくともない、のこっていないとされていたしろ遺構いこう発掘はっくつにより発見はっけんされ現地げんち公開こうかいされている。

アクセス

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最寄もよりの鉄道てつどうえき西鉄にしてつ貝塚かいづかせん名島なじまえきであるが距離きょりが1km以上いじょうあるため、 市内しない中心ちゅうしん天神てんじん郵便ゆうびんきょくまえから西鉄にしてつバスを利用りようして名島なじま運動公園前うんどうこうえんまえ下車げしゃするほうらくである。 名島なじま運動公園前うんどうこうえんまえ停車ていしゃするバスのほとんどは都市とし高速こうそく道路どうろ経由けいゆ天神てんじんからの所要しょよう時間じかんは15ふん程度ていど名島なじま神社じんじゃ境内けいだいから名島なじま城址じょうし公園こうえんはいることができる。

名島なじま城址じょうし公園こうえん開放かいほう時間じかんは、4月~9がつ 9:00~19:00、10月~3がつ 9:00~17:00、無料むりょう

なお、以前いぜんはあった駐車ちゅうしゃじょうくなったため公共こうきょう交通こうつう機関きかんでのアクセスが必須ひっすである。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 臥龍がりょうさくらまもなく満開まんかい ひがし名島なじま城址じょうし公園こうえん - 西日本にしにほん新聞しんぶん、2016ねん3がつ31にち

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 福岡ふくおかけん城郭じょうかく戦国せんごく城郭じょうかくく(福岡ふくおかけん城郭じょうかく刊行かんこうかい
  • 福岡ふくおかけんしろ著者ちょしゃ広崎ひろさき篤夫あつお
  • 児玉こだまみゆき, 坪井つぼいきよしあし, 平井ひらいきよし, 磯村いそむら幸男ゆきおほか へん日本にっぽん城郭じょうかく大系たいけい, 福岡ふくおか熊本くまもと鹿児島かごしまだい18、新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1979ねん、47-48ぺーじ 

関連かんれん項目こうもく

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