岡山おかやまじょう

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岡山おかやまじょう
岡山おかやまけん
岡山城天守(外観復元)
岡山おかやまじょう天守てんしゅ(外観がいかん復元ふくげん)
別名べつめい がらすじょうきむがらすじょう
城郭じょうかく構造こうぞう はしごくるわしき平山ひらやまじょう
天守てんしゅ構造こうぞう ふくごうしき望楼ぼうろうがた4じゅう6かい1597ねんちく
鉄筋てっきんコンクリートみやつこ外観がいかん復元ふくげん1966ねん
築城ちくじょうぬし 上神かずわ高直こうじき
築城ちくじょうねん 1346ねん - 1369ねん正平しょうへい年間ねんかん
おも改修かいしゅうしゃ 宇喜多うきた秀家ひでいえ小早川こばやかわ秀秋ひであき池田いけだ忠雄ただお
おも城主じょうしゅ 宇喜多うきた小早川こばやかわ池田いけだ
はいじょうねん 1873ねん明治めいじ6ねん
遺構いこう 石垣いしがきほり
指定してい文化財ぶんかざい くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい月見つきみ西にしまる西にししゅ
くに史跡しせき
再建さいけん造物ぞうぶつ 外観がいかん復元ふくげん天守てんしゅ外観がいかん復元ふくげんもん外観がいかん土塀どべい
位置いち

北緯ほくい3439ふん54.65びょう 東経とうけい13356ふん9.79びょう / 北緯ほくい34.6651806 東経とうけい133.9360528 / 34.6651806; 133.9360528座標ざひょう: 北緯ほくい3439ふん54.65びょう 東経とうけい13356ふん9.79びょう / 北緯ほくい34.6651806 東経とうけい133.9360528 / 34.6651806; 133.9360528

地図
地図ちず
岡山城の位置(岡山県内)
岡山城
岡山おかやまじょう
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岡山おかやまじょう縄張なわば
1974年度ねんど国土こくど航空こうくう写真しゃしんより

岡山おかやまじょう(おかやまじょう)は、備前びぜんこくぐん岡山おかやま[1]げん岡山おかやまけん岡山おかやまきた)にあった日本にっぽんしろくに指定してい史跡しせき別名べつめいがらすじょう(うじょう)、きむがらすじょう(きんうじょう)[注釈ちゅうしゃく 1]

概要がいよう[編集へんしゅう]

戦国せんごく時代じだいに、備前びぜん東部とうぶからおこって、美作みさく備中びっちゅう東部とうぶまで勢力せいりょくばした宇喜多うきた本拠ほんきょとしたことで近世きんせい城郭じょうかく基礎きそまれ、その小早川こばやかわ池田いけだにより整備せいび拡張かくちょうおこなわれた。

岡山おかやまじょう標高ひょうこうじゅうすうメートルのおかつらなる小高こだか土地とち建設けんせつされた。

当時とうじ旭川あさひかわ河口かこう複数ふくすうかわ分岐ぶんきしており、そのなか大洲おおすばらばれる広大こうだいデルタ地帯ちたい中央ちゅうおうに「岡山おかやま」(しば岡山おかやまとも)、その西にしとなりに「石山いしやま」、さらにその北西ほくせいには「天神山てんじんやま」(天満山てんまやまとも)の3つのおかつらなり、かく時代じだいごとに要害ようがいとして使用しようされたとされる。そのなか石山いしやまにあった石山いしやまじょう(いしやまじょう)に宇喜多うきた直家なおいえ入城にゅうじょう改築かいちくし、のち宇喜多うきた秀家ひでいえ隣接りんせつする岡山おかやまあらたに本丸ほんまるもうけ、石山いしやまじょうかたち城郭じょうかく建造けんぞうされた。これが岡山おかやまじょうである。[2][3]

しろ縄張なわばり基本きほんてきにははしごくるわしきとなっており、さんだん城郭じょうかく配置はいち西側にしがわ一方いっぽうだけにひろがる平山ひらやましろとなっている。いかえると本丸ほんまるきたからひがしにはかくい、非常ひじょう防備ぼうびうす縄張なわばりである。そのため旭川あさひかわりゅう変更へんこうし、天然てんねんほりとして東側ひがしがわそなえに利用りようしたとされる。さらにはかくかわりとして、「こうえん後楽園こうらくえん)」がきずかれたともされる。 天守てんしゅは4じゅう6かいふくごうしき望楼ぼうろうがたで、出入でいぐち付属ふぞくしている塩蔵えんぞうもうけられている。とくはつじゅう平面へいめん形状けいじょういがんだ多角たかくがたをしているため、おなじくいがんだ多角たかくがた平面へいめん天守てんしゅだい安土あづちじょう天主てんしゅしたものではないかとわれているが、羽柴はしば秀吉ひでよしによるだい坂城さかき天守てんしゅしているというせつもある。その外観がいかんくろうるしぬり下見板したみいた特徴とくちょうてきで、この印象いんしょうから「がらすじょう(うじょう)」ともばれ、おな山陽さんようどう隣県りんけんの「はく鷺城ろじょう(はくろじょう)」ともばれる姫路城ひめじじょう対比たいひされることもある。元禄げんろく時代じだい地図ちずからは、じゅうほりかこまれた城郭じょうかくと、南北なんぼく3.5km、東西とうざい1.3kmにおよぶ城下町じょうかまち姿すがたがうかがえる。

明治めいじ時代じだい御殿ごてんもん大半たいはんこわされた。ほり内堀うちぼり一部いちぶのぞいてほとんどめられて現存げんそんするくるわ本丸ほんまる後楽園こうらくえんだけになっているが、街路がいろ江戸えど時代じだい位置いち踏襲とうしゅうしている。さらにだい大戦たいせんなか空襲くうしゅうのため天守てんしゅ焼失しょうしつした。現在げんざいまでに2つの本丸ほんまる付近ふきん石垣いしがき内堀うちぼりのこり、戦後せんご天守てんしゅ不明ふめいもん廊下ろうかもんろくじゅういち雁木がんぎうえもんへい一部いちぶがコンクリートづくり再建さいけんされた。現存げんそんする月見つきみ西之にしのまる西にししゅくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされ、「岡山おかやま城跡じょうせき」として史跡しせきにも指定していされている。その京橋きょうばし御門みかど岡山おかやまみなみしょうくし移築いちくされ現存げんそんしている。城跡じょうせきは「がらすじょう公園こうえん」として整備せいびされる一方いっぽう二之にのまるあとRSK山陽放送さんようほうそう林原はやしばら美術館びじゅつかん岡山おかやま市民しみん会館かいかんが、三之丸さんのまるあと岡山おかやま県庁けんちょう岡山おかやま県立けんりつ図書館としょかんなどの公共こうきょう機関きかんがある。うち下馬げばもんうち下馬げばもんきょう太鼓たいこ木造もくぞう復元ふくげん計画けいかくがあるが、予算よさん関係かんけい天守てんしゅ不明ふめいもん廊下ろうかもんろくじゅういち雁木がんぎじょうもん土塀どべい木造もくぞう復元ふくげん計画けいかくはない。

2020ねん東京とうきょうオリンピック聖火せいかリレーでセレブレーション会場かいじょうとなった、 聖火せいかランナーは公募こうぼにより1まんにん程度ていどえらばれた、聖火せいかリレーについて、 組織そしき委員いいんかいは スポンサー企業きぎょう4しゃかく都道府県とどうふけん実行じっこう委員いいんかいおこなったランナー公募こうぼべ 53まん5717けん応募おうぼがあったと発表はっぴょうした [4]

隣接りんせつする大名だいみょう庭園ていえん後楽園こうらくえんは、水戸みと偕楽えん金沢かなざわけんろくえんとともに、日本にっぽんさん名園めいえんとしてならしょうされる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

南北なんぼくあさ時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい[編集へんしゅう]

平成へいせい5ねん発掘はっくつ調査ちょうさ発見はっけんされた宇喜多うきた築城ちくじょう石垣いしがき

南北なんぼくあさ時代じだい正平しょうへい年間ねんかん1346ねん - 1369ねん)に、名和なわ一族いちぞく上神かずわ高直こうじき石山いしやまだい岡山おかやま)にしろきずいたと、「備前びぜん軍記ぐんき」にかれているのが最初さいしょつたえられている。そのおよそ 150年間ねんかん城主じょうしゅあきらかではない。なおこの付近ふきんには摂関せっかんりょう鹿田しかだそう中心ちゅうしんがあったとされ、旭川あさひかわ鹿田かつたがわ河口かこう港町みなとちょうとしてもさかえていたとされる[注釈ちゅうしゃく 2]戦国せんごく時代じだいだいひさし年間ねんかん1521ねん - 1528ねん)には、金光かねみつ居城きょじょうとし金川かながわ城主じょうしゅ松田まつだつかえていた。

もとかめ元年がんねん(1570ねん)、宇喜多うきた直家なおいえ金光かねみつはじめだか謀殺ぼうさつしこの支配しはいした。直家なおいえ備前びぜん守護しゅごだい浦上うらかみ一族いちぞく浦上うらかみ宗景むねかげ被官ひかんであったが、備前びぜん西部せいぶ中心ちゅうしん勢力せいりょく急速きゅうそく伸張しんちょうしていた。天正てんしょう元年がんねん(1573ねん)、直家なおいえはそれまでの居城きょじょうである亀山かめやましろぬまじょう)から石山いしやまじょう入城にゅうじょうし、しろ改築かいちく城下町じょうかまち形成けいせいおこなった。このころ石山いしやまじょう岡山おかやまじょう)は、縄張なわばり東西とうざいはしれんくるわしきであったと推定すいていされている。直家なおいえ北方ほっぽう山裾やますそにあった西国さいごく街道かいどうを、しろみなみ沿うようにえて城下じょうかみちびいた。そして備前びぜん福岡ふくおか備前びぜん西大寺さいだいじなどから商人しょうにんせ、いわゆる城下町じょうかまち整備せいびおこなうなど積極せっきょくてき流通りゅうつう主導しゅどうによる経済けいざい振興しんこうともうべき政策せいさくをとった。信長のぶなが安土あづちじょう築城ちくじょうする3ねんまえのことである。これは直家なおいえ幼少ようしょうころに、備前びぜん福岡ふくおか商人しょうにん庇護ひごけたとわれていることも無縁むえんではないとみられている。

なお主家しゅかである宗景むねかげ居城きょじょうである天神山てんじんやま[注釈ちゅうしゃく 3]巨大きょだいなものではあるが天神山てんじんやまにある山城やましろで、直家なおいえ水辺みずべちか小高こだかおか石山いしやまじょうとは対照たいしょうてきである。天正てんしょう3ねん(1575ねん)には、浦上うらかみ宗景むねかげあにせいむねまごをおしたてて宗景むねかげ播磨はりま放逐ほうちくし、事実じじつじょう下克上げこくじょうおこないやがて備前びぜん美作みさく、さらに播磨はりま備中びっちゅう一部いちぶ支配しはいいた[注釈ちゅうしゃく 4]

ちょくいえ宇喜多うきた秀家ひでいえは、豊臣とよとみ政権せいけんしたちちのこりょうをほぼ継承けいしょうし、57まん4,000せきだい大名だいみょうとなる。これに相応そうおうしたしろとするため天正てんしょう18ねん - 慶長けいちょう2ねん1590ねん - 1597ねん)の8年間ねんかんにわたるだい改修かいしゅうおこなわれ、近世きんせい城郭じょうかくとしての体裁ていさいととのえた。秀家ひでいえは「岡山おかやま」に本丸ほんまるかまえ、石山いしやまじょう本丸ほんまる二之にのまる内郭ないかくに、二之にのまる西之にしのまるとし、そして内堀うちぼりはさんで二之にのまる、その西にし三之丸さんのまるくるわ整備せいびした。これらはゆたかけい城郭じょうかく特徴とくちょうてきこう石垣いしがきまれたしろである。本丸ほんまるほんだんなかだんしただんかれた構造こうぞうで、ほんだんきたりに金箔きんぱくかわら使用しようした壮麗そうれいな4じゅう6かい望楼ぼうろうがた天守てんしゅてた。そしてそのままでは本丸ほんまる東側ひがしがわまもりがきわめてうす構造こうぞうとなったため、旭川あさひかわ本流ほんりゅう城郭じょうかくきたから東側ひがしがわ沿うように極端きょくたんわせるかたちとし、天然てんねんほりとしている。ただしこのえによるあきらかに不自然ふしぜんかたちりゅうは、城下じょうか洪水こうずい多発たはつさせる原因げんいんとなり、やがて放水ほうすいとしての百間ひゃくけんがわ整備せいびへとつながる[注釈ちゅうしゃく 5]。そしてしろみなみからくように西国さいこく往来おうらい道筋みちすじえて、直家なおいえ時代じだい城下町じょうかまち拡大かくだい整備せいびし、つづ領内りょうない有力ゆうりょく商人しょうにん勧誘かんゆうして経済けいざい活動かつどう発展はってんさせるようつとめた。築城ちくじょうには義父ぎふとなった秀吉ひでよし意向いこうおおいにはたらいているとわれている[注釈ちゅうしゃく 6]

こののちしろは「岡山おかやまじょう」、城下町じょうかまちは「岡山おかやま」の呼称こしょう定着ていちゃくした。

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

岡山おかやまじょう天守てんしゅ絵図えず
月見つきみくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい
西之にしのまる西にししゅくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい

慶長けいちょう5ねん1600ねん)、関ヶ原せきがはらたたか西にしぐん主力しゅりょくとなった秀家ひでいえ八丈島はちじょうじま流刑りゅうけいとなり、宇喜多うきた改易かいえきとなった。わって小早川こばやかわ秀秋ひであき備前びぜん美作みさく52まんせき領主りょうしゅとして入城にゅうじょうした。秀秋ひであき本丸ほんまるちゅうだん拡幅かくふくし、三之丸さんのまる外側そとがわに15まちあまり外堀そとぼり三之さんのがい曲輪くるわ整備せいびをして城下町じょうかまち拡大かくだいおこなった。この外堀そとぼり工事こうじ農民のうみんだけでなく武士ぶし使役しえき20日はつか完成かんせいしたため、「廿にじゅうほりじゅうにちほり(はつかぼり)」とばれている[5]慶長けいちょうろくねんには、なかだんみなみすみぬまじょう天守てんしゅ移築いちくしたとされ、これはだい納戸なんどばれ、岡山おかやまじょう最大さいだいそうだい入母屋いりもやづくりのうえ望楼ぼうろうせた形式けいしきさんそうよんかいであった[6]秀秋ひであきは2ねん慶長けいちょう7ねん(1602ねん)10がつ岡山おかやま急死きゅうしし、嗣子ししがなく小早川こばやかわ断絶だんぜつした。

慶長けいちょう8ねん備前びぜん28まんせき播磨はりま姫路ひめじ城主じょうしゅ池田いけだ輝政てるまさ次男じなんちゅうまましあたえられたが、幼少ようしょう(5さい)であったのであに利隆としたかが「備前びぜんかんこく」としてだいせいした。利隆としたかは「石山いしやま」の西端せいたん西之にしのまる整備せいびしたとわれている[注釈ちゅうしゃく 7]慶長けいちょう18ねん(1613ねん)にちゅうつぎ岡山おかやまじょうはいったが、慶長けいちょう20ねん(1615ねん)に死去しきょした[注釈ちゅうしゃく 8]

元和がんわ元年がんねん1615ねん)、ちゅうつぎおとうと忠雄ただお淡路あわじより31まん5せんせきにゅうふうした。幕府ばくふ格式かくしき見合みあったしろとするため、忠雄ただお本丸ほんまるちゅうだん大幅おおはば北側きたがわ拡張かくちょうし、ほんだん御殿ごてんくわあらたに表書おもてがきいんもうけている[注釈ちゅうしゃく 9]。また大手おおてみなみもんつくえ、城下じょうか西端せいたんかぎ用水路ようすいろ西川にしかわ整備せいびするなど、ここに岡山おかやまじょう縄張なわばりが完成かんせいする。重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている月見つきみはこのころ創建そうけんとされ、なかだん北西ほくせいかくすみ一部いちぶ地下ちかき、ほんき、そうしろ漆喰しっくいぬりかごかべ仕上しあげのかいてである。しろがいからはそう望楼ぼうろうがた城内きうちからはさんそうえる。

江戸えど縄張なわばりは「岡山おかやま」に本丸ほんまる二之にの丸内まるうちかく東南とうなんかく)、「石山いしやま付近ふきん丸内まるうちかく西にしかく)、西にしまるかれそれらのみなみ二之にのまる、その西南せいなん三之さんの曲輪くるわ[注釈ちゅうしゃく 10]中堀なかほりそと三之さんの曲輪くるわうち西にし三之さんのがい曲輪くるわうち配置はいちである。本丸ほんまるには天守てんしゅほかに3つの御殿ごてんだい納戸なんどふく高層こうそう(3そう以上いじょう)のが9むねしろ全体ぜんたいでは11むね)、さらに2そう櫓門やぐらもん多数たすうあった。石山いしやま二之にのまる内郭ないかくには池田いけだ祖廟そびょう西之にしのまるぜん藩主はんしゅ隠居いんきょしょがおかれ、二之にの丸内まるうちかく東南とうなんかく)、二之にのまる上級じょうきゅう武士ぶし屋敷やしきであった。三之さんの曲輪くるわ三之さんの曲輪くるわうち北側きたがわには西国さいこく往来おうらいとおり、町人ちょうにんとして領国りょうごく経済けいざい中心ちゅうしんとなっていた[注釈ちゅうしゃく 11]三之さんの曲輪くるわうちみなみ半分はんぶん小早川こばやかわ時代じだい武家ぶけであり、三之さんのがい曲輪くるわ武家ぶけ外堀そとぼりへだてて寺町てらまち下級かきゅう武士ぶし屋敷やしき町人ちょうにんまちがさらにひろがっていた。

寛永かんえい9ねん、(1632ねん忠雄ただおひかりなか因幡いなば鳥取とっとりてんふうし、わって因幡いなば鳥取とっとりから池田いけだ光政みつまさが31まん5せんせきにゅうふうした。光政みつまさ利隆としたかであり、姫路城ひめじじょうまれたが、ちち死後しご元和がんわ元年がんねん(1615ねん)に鳥取とっとり城主じょうしゅとなっていた。以後いご幕末ばくまつまで光政みつまさけい池田いけだ居城きょじょうとなる。

寛文ひろふみ6ねん(1669ねん)〜貞享ていきょう3ねん(1686ねん)にかけて百間ひゃくけんがわ改修かいしゅう整備せいび実施じっしされ、貞享ていきょう4ねん1687ねん)からは光政みつまさつなせいにより14ねん歳月さいげつをかけて後楽園こうらくえん[注釈ちゅうしゃく 12]造営ぞうえいする。周囲しゅういるい竹垣たけがき[注釈ちゅうしゃく 13]かこみ、庭園ていえんかたちをとるもののしろまもかく役割やくわり期待きたいしていたとされる。ともに郡代ぐんだい津田つだえいただしによるものであり、えいただし閑谷しずたに学校がっこうはん新田にった開発かいはつなどにも手腕しゅわん発揮はっきした。

光政みつまさによって正保まさやすねん(1645ねん)に遷宮せんぐうされた東照宮とうしょうぐう(現在げんざい玉井たまいみや東照宮とうしょうぐう)が、岡山おかやまじょう鎮守ちんじゅとして存在そんざいする。この神社じんじゃには岡山おかやまいち祭礼さいれいである東照宮とうしょうぐう神幸しんこうがある。神幸しんこうさい岡山おかやまじょうまで神幸しんこうれつ途切とぎことつづき、藩主はんしゅ拝礼はいれいのち還御かんぎょしていた祭礼さいれいである。

明治めいじ時代じだい以降いこう[編集へんしゅう]

明治めいじ2ねん(1869ねん)の版籍はんせき奉還ほうかんにより藩主はんしゅ池田いけだあきらせい岡山おかやまはん知事ちじにんぜられ、岡山おかやまじょうはんじょうたる役割やくわりえて兵部ひょうぶしょう管轄かんかつ、つまりそんじょうとなった。明治めいじ6ねん1873ねん)のはいじょうれいにより順次じゅんじ建物たてものこわし・ほりてがおこなわれていき、明治めいじ15ねん(1882ねんごろまでには、天守てんしゅ月見つきみ西之にしのまる西にししゅ石山いしやまもんのこすのみとなった。明治めいじ23ねん(1890ねん)、きゅう藩主はんしゅ池田いけだあきらせいはらげられたのち池田いけだ岡山おかやまけん提供ていきょうし、明治めいじ29ねん(1896ねん)には本丸ほんまる趾に県立けんりつ岡山おかやま中学校ちゅうがっこうてられた。随所ずいしょにあったほりてはなんかにけておこなわれた。

こうして昭和しょうわ初期しょきごろまでには城跡じょうせき見受みうけられるのは本丸ほんまるのこすのみとなり、じゅうほりかこまれた巨大きょだい城郭じょうかく市街地しがいちへと姿すがたえた。

昭和しょうわ時代じだい[編集へんしゅう]

ここからは年表ねんぴょう形式けいしきにて、おもなできごとを紹介しょうかいする。

岡山おかやまじょう航空こうくう写真しゃしん(1931ねん
  • 1945ねん昭和しょうわ20ねん) - 6月29にち岡山大おかやまだい空襲くうしゅう天守てんしゅ石山いしやまもん焼失しょうしつ
  • 1950ねん昭和しょうわ25ねん) - 文化財ぶんかざい保護ほごほう施行しこうにより、のこった月見つきみ西之にしのまる西にししゅ重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい
  • 1964ねん1966ねん昭和しょうわ39ねん昭和しょうわ41ねん) - 天守てんしゅ鉄筋てっきんコンクリートにて再建さいけん同時どうじ不明ふめいもん廊下ろうかもんろくじゅういち雁木がんぎうえもんへい一部いちぶ再建さいけん現在げんざい天守てんしゅかわらきりもん使つかわれるなど、秀家ひでいえ当時とうじのイメージで再建さいけんされている。なお、天守てんしゅ再建さいけん本来ほんらい出入でいぐちである塩蔵えんぞう出入でいぐちほかに、天守てんしゅだい正面しょうめん出入でいこうとしてもうひと出入でいぐちもうけた。現在げんざいはこちらから直接ちょくせつ天守てんしゅ地階ちかいはいるようになっている。
  • 1987ねん昭和しょうわ62ねん) - 「岡山おかやま城跡じょうせき」として史跡しせき指定してい

平成へいせい時代じだい[編集へんしゅう]

  • 1996ねん平成へいせい8ねん) - 築城ちくじょう400ねん記念きねん事業じぎょうとして、創建そうけん当時とうじ天守てんしゅにはかねしゃちっておりきむがらすじょうばれていたことからきむしゃちほどこす。
  • 2006ねん平成へいせい18ねん) - 日本にっぽん100名城めいじょう(70ばん)に選定せんてい
  • 2014ねん平成へいせい26ねん) - 1がつ21にちまでに本丸ほんまるだんでの発掘はっくつ調査ちょうさにて、軍事ぐんじ倉庫そうことして使つかわれたとみられる「やり(やりやぐら)」と「はた(はたやぐら)」の遺構いこう出土しゅつど、「城内きうち絵図えず(おんじょうないおんえず)」(1700ねん作製さくせい)にはない石段いしだんあとつかる[7]

れい時代じだい[編集へんしゅう]

2021ねんれい3ねん)7がつ30にちから2022ねんれい4ねん)11がつまで耐震たいしん補強ほきょうなどをふくめた「れいだい改修かいしゅう」がおこなわれている[8][9]

天守てんしゅ[編集へんしゅう]

焼失しょうしつまえ岡山おかやまじょう天守てんしゅ1934ねん昭和しょうわ9ねん))
焼失しょうしつまえ岡山おかやまじょう天守てんしゅ
再建さいけん天守てんしゅ

岡山おかやまじょう天守てんしゅ国宝こくほう指定していされていたが、1945ねん昭和しょうわ20ねん)の岡山おかやま空襲くうしゅう焼失しょうしつしてしまった[10]

外観がいかん復元ふくげん天守てんしゅは1966ねん昭和しょうわ41ねん)に完成かんせいしたが、これはのち建築けんちくとなる岡山おかやま出身しゅっしん早稲田大学わせだだいがく理工学部りこうがくぶ建築けんちく学科がっか学生がくせい戦前せんぜん卒業そつぎょう論文ろんぶんのためにまとめていた実測じっそくがもとになっているため初代しょだい天守てんしゅ内部ないぶ構造こうぞうかっている。[10][11]。ただし、再建さいけん天守てんしゅ焼失しょうしつ以前いぜん岡山おかやまじょうについて、外観がいかんわっていないとする資料しりょう外観がいかんにもちがいがあるとする資料しりょうかれている[12]。また、外観がいかんいろかんする記録きろくのこっておらず、再建さいけんがどのような判断はんだんをしたかや、1996ねん平成へいせい8ねん)のはじめてのなおとき塗料とりょう基準きじゅんもよくわかっていない[10]岡山おかやまじょうがらすじょうばれているが、外観がいかんいろかんする資料しりょう永山ながやま卯三郎うさぶろうの「けん通史つうし」に簡単かんたん記述きじゅつがある程度ていどとされる[10]また名古屋なごやじょうのように写真しゃしんのこっていて消失しょうしつまえ天守てんしゅ内部ないぶにはしろ天守てんしゅにはられない御殿ごてんのような書院造しょいんづくりの部屋へやもあった。

岡山おかやまじょう天守てんしゅは2022ねんれい4ねん)11がつまでだい改修かいしゅうすすめられている[10]外観がいかん塗料とりょうについては、松本まつもとじょう熊本くまもとじょうなどでの視察しさつおこなわれ、光沢こうたくによっては日光にっこう反射はんしゃしろえてしまうことも考慮こうりょしたうえ決定けっていされることになった[10]

建造けんぞうぶつ[編集へんしゅう]

現存げんそんする建造けんぞうぶつ[編集へんしゅう]

  • 月見つきみ - くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい元和がんわ寛永かんえい年間ねんかん(1615-1632ねんちく現存げんそん本丸ほんまる北西ほくせいすみつ。周辺しゅうへんには、土塀どべい礎石そせき狭間はざまつくられており、当時とうじ最新さいしんしき設備せつびわれる。
  • 天守てんしゅ - 外観がいかん復元ふくげん
  • 不明ふめいもん - 外観がいかん復元ふくげんほんだんへの入口いりくちになるもん天守てんしゅ同時どうじ鉄筋てっきんコンクリートで復元ふくげんされた。
  • 廊下ろうかもん - 外観がいかん復元ふくげん
  • ろくじゅういち雁木がんぎうえもん - 復元ふくげん
  • きゅう天守てんしゅ礎石そせき - 移設いせつ

現存げんそんしない建造けんぞうぶつ[編集へんしゅう]

  • さんかい
  • めし
  • 長屋ながやぞく
  • だい納戸なんど
  • 伊部いべ
  • 数寄すきかた
  • 小納戸こなんど
  • すみ
  • あぶらぞう
  • うす
  • あなあわ
  • はた
  • やり
  • ゆみ
  • 花畑はなはたすみ
  • しょう作事さくじ請櫓

天守てんしゅ後楽園こうらくえん写真しゃしん[編集へんしゅう]

立地りっち[編集へんしゅう]

城跡じょうせきがらすじょう公園こうえんとして整備せいびされており、復元ふくげん天守てんしゅ内部ないぶ博物館はくぶつかんとなっている。月見つきみがらすじょう公園こうえんないにあるが、西之にしのまる西にししゅは、400メートルほど西にし小学校しょうがっこう跡地あとちまるうち1丁目ちょうめ2ばん)にある。周辺しゅうへんには後楽園こうらくえんのほか、岡山おかやま県立けんりつ博物館はくぶつかん岡山おかやま県立けんりつ美術館びじゅつかん岡山おかやま市立しりつオリエント美術館びじゅつかん林原はやしばら美術館びじゅつかんなどの文化ぶんか施設しせつおおい。後楽園こうらくえん岡山おかやまじょうのコースは、岡山おかやま主要しゅよう観光かんこうルートのひとつである。

また、がらすじょう公園こうえん隣接りんせつ石山いしやま公園こうえん会場かいじょうに「おかやま桃太郎ももたろうまつり」も開催かいさいされている。

交通こうつうアクセス[編集へんしゅう]

公共こうきょう交通こうつう機関きかん[編集へんしゅう]

自家用車じかようしゃ[編集へんしゅう]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

楽曲がっきょく[編集へんしゅう]

岡山おかやまじょう
1966ねん天守てんしゅ再建さいけんともない、岡山おかやまじょう落城らくじょう記念きねんとして発表はっぴょうされた。東芝とうしばレコードから芝田しばた錦吾きんごうたでレコード発売はつばいされ[注釈ちゅうしゃく 14]、10まんまいえる売上うりあげ記録きろくした[13]作詞さくしじゅう二村にむらあきら作曲さっきょく飯田いいだけいおう

漫画まんが[編集へんしゅう]

がらすじょう物語ものがたり
1995ねん岡山おかやまじょう築城ちくじょう400周年しゅうねん記念きねん事業じぎょう応募おうぼするかたちで、岡山おかやま出身しゅっしん漫画まんが森安もりやすなおや自費じひ出版しゅっぱんかたち刊行かんこうした作品さくひん[14]。1997ねん刊行かんこう[15]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 一般いっぱんてきがらすじょう使つか場合ばあい圧倒的あっとうてきおおい。また、松本まつもとじょう通称つうしょうがらすじょう」とばれるが、混同こんどうけるため岡山おかやまじょうを「うじょう」、松本まつもとじょうを「からすじょう」とんでいる。
  2. ^ 石山いしやまみなみ3kmあたりまでに、「鹿田しかだ」「西市さいち」(鹿田しかだ西にし)「豊浜とよはままち」「船入ふないりまち」などの地名ちめいのこり、海岸かいがんせん名残なごりとして推測すいそくされる。
  3. ^ 現在げんざい和気わきまち佐伯さいき地区ちく前述ぜんじゅつ石山いしやまじょう隣接りんせつする天神山てんじんやまにあったしろとはべつである。
  4. ^ やがて毛利もうり東進とうしん織田おだ西進せいしんはさまれたかたちなか天正てんしょう9ねん(1581ねんごろ直家なおいえはこのしろぼっする。
  5. ^ さらに明治めいじ以降いこう河床かしょう浚渫しゅんせつし、往時おうじよりすうメートルは水面すいめん低下ていかしており、堤防ていぼう整備せいびと、本丸ほんまる付近ふきんりゅうきょくりつ緩和かんわおこなったことなどにくわえ、上流じょうりゅうには2ヵ所かしょのダムがつくられたため以前いぜんほどのだい洪水こうずいきなくなった。
  6. ^ ちなみに当時とうじ標高ひょうこうは、本丸ほんまる指定していされた岡山おかやまより石山いしやまほうたかかったとみられ、普請ふしんする宇喜多うきた内部ないぶでは疑問ぎもんこえがったとのことである。
  7. ^ 重要じゅうよう文化財ぶんかざい西にしまる西にししゅはこのときてられた。
  8. ^ どく饅頭まんじゅう事件じけんとして伝承でんしょうされる。
  9. ^ なかだん御殿ごてん一部いちぶかいてとし、そのかいからわた廊下ろうかつながれたほんだん御殿ごてん連続れんぞくしているようなかたちをとることで、格式かくしきわせたゆか面積めんせき確保かくほするという手法しゅほうをとっている。
  10. ^ 宇喜多うきた時代じだい三之丸さんのまる
  11. ^ 三之さんの曲輪くるわ西国さいこく往来おうらい付近ふきん現在げんざいおもてまち商店しょうてんがいである。
  12. ^ 当時とうじえんこうえんんだらしい。
  13. ^ 鉄砲てっぽうをよける意図いとがあったとされる。
  14. ^ シングルレコード(品番ひんばんは4Rs-110およびTP-1439)のジャケットには「岡山おかやまじょう落城らくじょう記念きねん」「岡山おかやま選定せんてい」と記載きさいされている。シングルBめん浜田はまだ喜一きいちの「岡山おかやま太鼓たいこばやし」。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 33 岡山おかやまけん
  2. ^ 岡山大学おかやまだいがく付属ふぞく図書館としょかん絵図えずある岡山おかやま城下町じょうかまち吉備きびじん出版しゅっぱん(2009ねん
  3. ^ 吉岡よしおか三平さんぺいすすむ昌三しょうぞう岡山おかやま干拓かんたく日本にっぽん文教ぶんきょう出版しゅっぱん
  4. ^ [https://web.archive.org /web/20190927125733/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50278340X20C19A9CR0000/聖火せいかリレー、公募こうぼべ53まんけん応募おうぼ”]. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん. (2019ねん9がつ27にち). [https: //www.nikkei.com/article/DGXMZO50278340X20C19A9CR0000/ オリジナル]の2019ねん9がつ27にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org /web/20190927125733/https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50278340X20C19A9CR0000/ 2019ねん9がつ27にち閲覧えつらん 
  5. ^ 定本ていほん 日本にっぽん城郭じょうかく辞典じてん西にしたに恭弘やすひろへん秋田あきた書店しょてんかん)、岡山おかやまじょう歴史れきし岡山おかやまじょう400ねん岡山おかやま企画きかくきょく情報じょうほう政策せいさく制作せいさく
  6. ^ 岡山おかやまじょう歴史れきし岡山おかやまじょう本丸ほんまるひょうむこう岡山おかやま企画きかくきょく情報じょうほう政策せいさく制作せいさく
  7. ^ やりはた遺構いこう出土しゅつど 岡山おかやまじょう本丸ほんまるだん. 山陽さんよう新聞しんぶん (山陽新聞社さんようしんぶんしゃ). (2014ねん1がつ22にち). オリジナルの2014ねん2がつ2にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140202102329/http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2014012208384492/ 2014ねん8がつ12にち閲覧えつらん 
  8. ^ 岡山おかやまじょうれいの(改修かいしゅう工事こうじともな岡山おかやまじょうがらすじょう公園こうえん)の通行つうこう禁止きんしについて
  9. ^ 岡山おかやまじょうがきょうからやく1ねんはん休館きゅうかん」 天守閣てんしゅかくだい規模きぼ改修かいしゅう来年らいねん11がつまで
  10. ^ a b c d e f がらすじょう漆黒しっこく再現さいげん試行錯誤しこうさくご 岡山おかやまじょうだい改修かいしゅうとぼしい史料しりょう 山陽さんよう新聞しんぶん(2022ねん1がつ1にち閲覧えつらん
  11. ^ レファレンス事例じれい詳細しょうさい 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんレファレンス協同きょうどうデータベース(2022ねん4がつ15にち閲覧えつらん
  12. ^ レファレンス事例じれい詳細しょうさい 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんレファレンス協同きょうどうデータベース(2022ねん1がつ1にち閲覧えつらん
  13. ^ 人物じんぶつ探訪たんぼうだい5かい相撲すもうかい出身しゅっしん芝田しばた 錦吾きんごさん岡山おかやまなか海吉みよし出村でむら町内ちょうないかい◆、2003ねん5がつ28にち
  14. ^ 伊吹いぶき隼人はやと『「トキワそう無頼ぶらい漫画まんが森安もりやすなおやつて社会しゃかい評論ひょうろんしゃ、2010ねん、pp.118-119
  15. ^ 『「トキワそう無頼ぶらい漫画まんが森安もりやすなおやつて』p.278

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 西にしたに恭弘やすひろ へん定本ていほん 日本にっぽん城郭じょうかく事典じてん秋田あきた書店しょてん、2000ねんISBN 4-253-00375-3 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]