上田うえだしろ

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上田うえだしろ
長野ながのけん
尼ヶ淵から上田城を望む(2014年2月撮影)
あまふちから上田うえだしろのぞむ(2014ねん2がつ撮影さつえい
別名べつめい あまふちじょう
城郭じょうかく構造こうぞう はしごくるわしき平城ひらじろ
天守てんしゅ構造こうぞう なし
築城ちくじょうぬし 真田さなだ昌幸まさゆき
築城ちくじょうねん 1583ねん天正てんしょう11ねん
おも城主じょうしゅ 真田さなだ仙石せんごく藤井ふじい松平まつへい
はいじょうねん 1874ねん明治めいじ7ねん
遺構いこう 石垣いしがきるいほり
指定してい文化財ぶんかざい 長野ながのけんたからみなみきた西にし
くに史跡しせき
再建さいけん造物ぞうぶつ ひがし虎口ここう櫓門やぐらもん
位置いち 北緯ほくい3624ふん14.12びょう 東経とうけい13814ふん41.26びょう / 北緯ほくい36.4039222 東経とうけい138.2447944 / 36.4039222; 138.2447944座標ざひょう: 北緯ほくい3624ふん14.12びょう 東経とうけい13814ふん41.26びょう / 北緯ほくい36.4039222 東経とうけい138.2447944 / 36.4039222; 138.2447944
地図
地図ちず
上田城の位置(長野県内)
上田城
上田うえだしろ
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上田うえだ城本しろもとまるみなみひがし虎口ここう櫓門やぐらもん
(2001ねん7がつ撮影さつえい

上田うえだしろ(うえだじょう)は、長野ながのけん上田うえだまるきゅう信濃しなのこく小県ちいさがたぐん上田うえだ)にあった日本にっぽんしろ。なお、現在げんざいのこっているしろは、仙石せんごく忠政ただまさによって江戸えど時代じだい初期しょき寛永かんえい年間ねんかん再建さいけん築城ちくじょうされたものである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

上田うえだ盆地ぼんち北部ほくぶ位置いちし、千曲川ちくまがわ分流ぶんりゅうであるあまふちめんしていたので、築城ちくじょう当初とうしょは「あまふちじょう」とばれることもあった[1]きた太郎山たろうさんみなみ千曲川ちくまがわがあり、築城ちくじょうまえ土豪どごう小泉こいずみふるしろかん存在そんざいした(現在げんざいまるより西側にしがわ小泉こいずみ曲輪くるわばれている場所ばしょ)とつたえられる。しろ南側みなみがわ千曲川ちくまがわせっし、北側きたがわ西側にしがわ出沢すざわがわんでそうかまとし、唯一ゆいいつぐちである東側ひがしがわにも蛭沢ひるさわがわ湿地しっちたいなどがある。

上田うえだじょう戦国せんごく時代じだい末期まっき信濃しなのこくしょうけん真田さなだかん(真田さなだ本城ほんじょう)の真田さなだ昌幸まさゆき真田さなだ当主とうしゅであった1583ねん天正てんしょう11ねん)に築城ちくじょう開始かいしされた平城ひらじろである。1585ねんごろ真田さなだかんなどから本格ほんかくてき拠点きょてんうつしたとかんがえられている[2]天正てんしょう11ねん天正てんしょう13ねん天正てんしょう18ねんなんかの過程かてい築城ちくじょうをされたものである[3]上田うえだふく信濃しなのこくは、支配しはいしていた武田たけだ勝頼かつより甲州こうしゅう征伐せいばつほろぼした織田おだ信長のぶなが本能寺ほんのうじへん横死おうししたのち天正てんしょうみずのえうまらんばれる争奪そうだつせんおこなわれた。甲州こうしゅう征伐せいばつのこった真田さなだ昌幸まさゆきは、臣従しんじゅうする相手あいて次々つぎつぎえたうえに徳川とくがわ家康いえやすについたが、天正てんしょうみずのえうまらん戦後せんご処理しょりめぐ対立たいりつ1585ねん天正てんしょう13ねん)のだいいち上田うえだ合戦かっせんせた徳川とくがわぐん撃退げきたいした。

その天下てんかじんとなった豊臣とよとみ秀吉ひでよしあときた関ヶ原せきがはらたたか慶長けいちょう5ねん)で西にしぐんについた真田さなだ昌幸まさゆきは、連動れんどうするだい上田うえだ合戦かっせんでもひがしぐんべつどうたい徳川とくがわ秀忠ひでただぐんをよくふせいだ。本戦ほんせん西にしぐんやぶれたため、昌幸まさゆき紀伊きいこく九度山くどさん配流はいるされ、よく1601ねん上田うえだじょう徳川とくがわぐん徹底的てっていてきやぶ却され、ほりめられた。

江戸えど時代じだいには上田うえだはんはんちょうかれていた。昌幸まさゆき嫡子ちゃくしである真田さなだ信之のぶゆき関ヶ原せきがはらたたかいでひがしぐんについたため、上田うえだなど真田さなだりょう安堵あんどされたが、上田うえだじょうやぶ却されていたため元々もともと居城きょじょうである上野うえのこく沼田ぬまたじょう本城ほんじょうとし、上田うえだしろさんまる跡地あとち屋敷やしきかまえて統治とうちおこなった。このころ城下町じょうかまち整備せいびおこなわれた。真田さなだ信之のぶゆき江戸えど幕府ばくふたいして元和がんわ7ねん(1621ねん)にしろさい整備せいび拡張かくちょう申請しんせいするが却下きゃっかされ、元和がんわ8ねん(1622ねん)9がつには信濃しなのこく松代まつだいうたてふうされた。上田うえだには小諸こもろはんより仙石せんごくうつりふうされた。仙石せんごく忠政ただまさ[ちゅう 1]やぶ却されたままの上田うえだじょう再建さいけん申請しんせいし、寛永かんえい3ねん(1626ねん)から現在げんざい上田うえだじょう普請ふしんされることとなった。真田さなだ時代じだい縄張なわばりをも利用りようしていると推測すいそくされているが、徹底てっていやぶ却ののち近世きんせい城郭じょうかくとしてあらたに築城ちくじょうされた。本丸ほんまるには7むね櫓門やぐらもん2むね、それらをつなへい普請ふしんされた。現在げんざいある本丸ほんまるの3むねみなみきた西にし)など建物たてもの外壁がいへきすす柿渋かきしぶ防水ぼうすいしたいたもちいた下見したみ板張いたばりくろ外観がいかんである。まるにも櫓門やぐらもん再建さいけんするため、だいなども構築こうちくされたが、寛永かんえい5ねん(1628ねん)4がつ20にち仙石せんごく忠政ただまさにより工事こうじ中断ちゅうだんされ、これ以上いじょう増築ぞうちくおこなわれないまま、仙石せんごくてんふうじおよび松平まつだいら藤井ふじい松平まつへい)に藩主はんしゅ交代こうたいし、幕末ばくまつむかえた。

明治めいじ以降いこうは、やぶ却やしろがいへの移築いちくおこなわれて城内じょうないには石垣いしがき西にし)が1むねのこるのみであった。昭和しょうわに、移築いちくされていた本丸ほんまる2むねもと位置いちさい移築いちくされ、平成へいせいには櫓門やぐらもんへいなどが木造もくぞう復元ふくげんされている。今後こんごまるるい復元ふくげん土塀どべい本丸ほんまる解体かいたいされた4つの櫓門やぐらもん土塀どべい木造もくぞう復元ふくげんされることになっている。

現在げんざいきゅうまるない上田うえだ城跡じょうせき公園こうえんになっており、毎年まいとし花見はなみぶし(4がつ上旬じょうじゅん)になると、上田うえだじょう千本せんぼんさくらまつりがおこなわれ、おおくの市民しみん観光かんこうきゃくにぎわう。よるには千本せんぼんさくらのライトアップがされ、日本にっぽん夜景やけい遺産いさん認定にんていされている。

敷地しきちないには上田うえだ市民しみん会館かいかん平成へいせい26ねん(2014ねん閉館へいかん)、野球やきゅうじょう市立しりつ博物館はくぶつかん招魂しょうこんしゃなどがかれている。

本丸ほんまるあとにある真田さなだ神社じんじゃは、上田うえだ合戦かっせんで「ちなかった」しろであることにあやかり、受験生じゅけんせい祈願きがんおお[4]神社じんじゃ境内けいだいには井戸いどがあり、「しろがいへのあなになっていた」との伝説でんせつがある。さんまる藩主はんしゅ居館きょかんあとには、松平まつだいら時代じだい屋敷やしきもんほりのこされている。同地どうち現在げんざい上田うえだ高校こうこう敷地しきちとして利用りようされ、もん学校がっこう正門せいもんとして使用しようされている。

構造こうぞう[編集へんしゅう]

本丸ほんまる南側みなみがわき、まる本丸ほんまるきたひがし西にしかこみ、まるひがし大手門おおてもんあいださんまるく、はしごくるわしきといわれる縄張なわばりとなっている。これは千曲川ちくまがわせっする断崖だんがいとなっていた南側みなみがわもっと天然てんねん防御ぼうぎょりょくつよく、当初とうしょ天正てんしょうみずのえうまらんにおいてこう北条ほうじょうによるうえしゅう方面ほうめんからの、上杉うえすぎによる越後えちご方面ほうめんからの攻撃こうげきたいするものであった。よく1584ねん真田さなだ徳川とくがわ断交だんこうしたため、当初とうしょ越後えちご方面ほうめん予定よていしていた大手おおて防御ぼうぎょ正面しょうめん)をたい徳川とくがわ想定そうていして東側ひがしがわ変更へんこうした。

通常つうじょう本丸ほんまるまるなどしろ中心ちゅうしんかれる政務せいむよう建物たてものが、さんまるかれているのが特徴とくちょうである。これは、真田さなだ信幸のぶゆき上田うえだりょう継承けいしょうしたさいに、上田うえだじょうやぶ却されており、城下町じょうかまちちかさんまる跡地あとち居館きょかんてたことにはじまる。その上田うえだじょう仙石せんごくにより再建さいけんされたが、不完全ふかんぜんなままわっている。また、仙石せんごく上田うえだじょう本丸ほんまるには本丸ほんまる御殿ごてんはなく土塀どべい、2つの櫓門やぐらもん、7つのっていてまるには土塀どべいっていただけでだいはあったがまる御殿ごてんもんてられなかった。小泉こいずみ曲輪くるわには建物たてものっていなかった。さんまるには中屋敷なかやしき上田うえだ藩主はんしゅ居館きょかんっていて藩主はんしゅ上田うえだ藩主はんしゅ居館きょかんんでいた。このことからも上田うえだじょう完成かんせいしろだったことがかる。

なお、堀底ほりそこ発掘はっくつ調査ちょうさにより、真田さなだ時代じだい金箔きんぱくかわらや、菊花きっかぶんのきまるかわら金箔きんぱくしゃち破片はへんなどが出土しゅつどしている[5]現在げんざい本丸ほんまる一部いちぶほりふくほり住宅じゅうたく開発かいはつてられたこともあって現存げんそんするほり本丸ほんまるだけである。 上田うえだじょう天守てんしゅはなかった。だいいち上田うえだ合戦かっせん様子ようす叙述じょじゅつした山鹿やまが素行そこうの『たけ家事かじ』には、「てんふかし殿どのもり小城おぎ」との記述きじゅつられ[ちゅう 2]江戸えど時代じだい仙石せんごくにより再建さいけんされた上田うえだじょうにも天守てんしゅはない。ただだいいち上田うえだ合戦かっせん当時とうじ上田うえだじょう完成かんせいとされていることや、寛永かんえい年間ねんかん作成さくせいという絵図えずには上田うえだしろ本丸ほんまるに「天守てんしゅあと」と記入きにゅうされていること、桃山ももやま時代じだいのものとみられる金箔きんぱくほどこしたのきまるかわら鬼瓦おにがわらしゃちかわら破片はへんなどが出土しゅつどしていること[6]どう時期じき近隣きんりんしょしろ小諸こもろじょう松本まつもとじょう高島たかしましろ)や嫡男ちゃくなん真田さなだ信幸のぶゆき沼田ぬまたじょう天守てんしゅがあることなど、いくつかの傍証ぼうしょうから真田さなだ昌幸まさゆき時代じだいさんそうよんかいての天守てんしゅ存在そんざいした可能かのうせいはある(だいいち上田うえだ合戦かっせんからだい上田うえだ合戦かっせん破壊はかいされるあいだ資料しりょうのこされていないため、直接的ちょくせつてき証拠しょうこはない)。

本丸ほんまる東西とうざいびた長方形ちょうほうけいだが、その北東ほくとうかくのみ鬼門きもんけるためいた構造こうぞうをしている。

城下町じょうかまち[編集へんしゅう]

上田うえだしろ中心ちゅうしん形成けいせいされた城下町じょうかまちのうち、北国きたぐに街道かいどう沿った海野うみのまち原町はらまち横町よこちょうやなぎまち田町たまち鍛治かじまち紺屋こんやまち宿場しゅくばまち機能きのうになった[7]海野うみのまちには本陣ほんじん問屋とんやねた柳沢やなぎさわがあり、原町はらまちには問屋とんや滝沢たきざわがあって、宿やどやくつとめた。

歴史れきし沿革えんかく[編集へんしゅう]

  • 1583ねん天正てんしょう11ねん上杉うえすぎたいする徳川とくがわ最前線さいぜんせん基地きちとして、徳川とくがわ家康いえやすいのち築城ちくじょう[3]
  • 1585ねん天正てんしょう13ねん上杉うえすぎにより徳川とくがわたいする基地きちとして増築ぞうちく普請ふしん[3]だいいち上田うえだ合戦かっせん真田さなだ徳川とくがわぐん撃退げきたい
  • 1590ねん天正てんしょう18ねんだい規模きぼ改修かいしゅうおこなわれる。のち金箔きんぱくかわら出土しゅつど[8]していることから、ゆたか城郭じょうかく意識いしきしていたことがうかがわれる[3]
  • 1600ねん慶長けいちょう5ねんだい上田うえだ合戦かっせん真田さなだ昌幸まさゆきおよび昌幸まさゆき次男じなん信繁のぶしげぐん徳川とくがわ秀忠ひでただひきいるひがしぐん撃退げきたい
  • 1601ねん慶長けいちょう6ねん昌幸まさゆき信繁のぶしげ父子ふし紀伊きいこく九度山くどさん配流はいるになり、上田うえだじょう徳川とくがわによりやぶひがしぐんについた昌幸まさゆき長男ちょうなん信之のぶゆき昌幸まさゆき旧領きゅうりょう上田うえだりょう)をぎ、さんまる跡地あとち居館きょかん陣屋じんや)をかまえた。
  • 1616ねん元和がんわ2ねん真田さなだ城下じょうかに7かじょう領内りょうない法度はっとした。
  • 1622ねん元和がんわ8ねん真田さなだ同国どうこく松代まつだいうつされた。
  • 1626ねん寛永かんえい3ねん上田うえだうつりふうされた仙石せんごく忠政ただまさにより再建さいけん開始かいしされたが、2ねん1628ねん寛永かんえい5ねん忠政ただまさによりしろ普請ふしん中断ちゅうだんされ、以降いこう江戸えど時代じだい本格ほんかくてき再建さいけんおこなわれなかった。
  • 1871ねん明治めいじ4ねん廃藩置県はいはんちけん東京とうきょう鎮台ちんだいだい二分にぶん営が上田うえだじょう設置せっちされ、上田うえだじょう明治めいじ政府せいふ接収せっしゅうされた。
  • 1873ねん明治めいじ6ねんぶん営が廃止はいし
  • 1874ねん明治めいじ7ねん廃藩置県はいはんちけんによりはいじょうとなった上田うえだじょう土地とち建物たてもの民間みんかんはらげられ、本丸ほんまるに7むねあったは、ひとつ(げん西にし)をのこして解体かいたい売却ばいきゃくされた。このうち2むね上田うえだ常磐城ときわぎ新地さらち)にあった遊廓ゆうかくに6えんはらげられ、ひとつの建物たてもの連結れんけつされてきむあきろうまんゆたかろうとして使用しようされた[9][10]
  • 1929ねん昭和しょうわ4ねん西にしないに「しるし古館ふるたて」(上田うえだ市立しりつ博物館はくぶつかん前身ぜんしん開館かいかん
  • 1934ねん昭和しょうわ9ねん本丸ほんまるまるだい部分ぶぶんくに史跡しせき指定していされる。
  • 1941ねん昭和しょうわ16ねん移築いちくされていた2むね目黒雅叙園めぐろがじょえん転売てんばいされるというはなしがったが、市民しみん運動うんどうによって、翌年よくねん、1,800えんもどされた[10]
  • 1949ねん昭和しょうわ24ねん市民しみんによってられたは、現在げんざいきたみなみ場所ばしょ移築いちく復元ふくげんされた[11]
  • 1953ねん昭和しょうわ28ねん西にししるし古館ふるたて」を上田うえだ市立しりつ博物館はくぶつかん改称かいしょう
  • 1959ねん昭和しょうわ34ねん本丸ほんまる3長野ながのけんたから指定していされる。
  • 1963ねん昭和しょうわ38ねんまる上田うえだ市民しみん会館かいかん開館かいかん
  • 1965ねん昭和しょうわ40ねん上田うえだ市立しりつ博物館はくぶつかん新館しんかんげん本館ほんかん)が開館かいかん西にし閉鎖へいさ
  • 1994ねん平成へいせい6ねんみなみきたあいだむすひがし虎口ここう櫓門やぐらもんそでへい写真しゃしんもと復元ふくげんされ、いずれも上田うえだ市立しりつ博物館はくぶつかん施設しせつ一部いちぶとなる。みなみきた内部ないぶ公開こうかい開始かいし
  • 2006ねん平成へいせい18ねん)4がつ6にち 日本にっぽん100名城めいじょう(27ばん)に選定せんていされた。
  • 2016ねん平成へいせい28ねん)1がつ4にち 西にし内部ないぶ公開こうかい再開さいかい(12月28にちまで)。
  • 2016ねん平成へいせい28ねん)8がつ-9月 上田うえだ教育きょういく委員いいんかいによりまる発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれる。
上田うえだ城跡じょうせき公園こうえんケヤキ並木なみき遊歩道ゆうほどう
昭和しょうわ47ねんまで上田うえだあつしでん北東ほくとうせんあと
上田うえだ城主じょうしゅ屋敷やしきもんげん上田うえだ高校こうこう正門せいもん
  • 2020年度ねんどから きゅう上田うえだ市民しみん会館かいかん建物たてもの解体かいたいし、まる復元ふくげん工事こうじおこなわれる予定よてい[12]

真田さなだ城郭じょうかく[編集へんしゅう]

上田うえだでの実際じっさい支配しはい期間きかんは40ねんほどであるが、小説しょうせつ真田さなだ太平たへい』『真田さなだじゅう勇士ゆうし』や時代じだいげき舞台ぶたいとして真田さなだ居城きょじょう上田うえだしろ」が登場とうじょうする。戦国せんごく真田さなだ城郭じょうかくにはほかにも以下いかしろがある。

友好ゆうこう城郭じょうかく[編集へんしゅう]

2005ねん平成へいせい17ねん)10がつ10日とおか大阪おおさか上田うえだ大阪城おおさかじょう天守閣てんしゅかくかい会議かいぎしつ提携ていけいしょ調印ちょういんした[13][14]

現地げんち情報じょうほう[編集へんしゅう]

所在地しょざいち
  • 長野ながのけん上田うえだまる
交通こうつうアクセス
料金りょうきん
  • 大人おとな:250えん
  • 大学だいがく高校生こうこうせい:180えん
  • 中学ちゅうがく小学生しょうがくせい:60えん
  • ライトアップ 22まで
  • 2007ねん平成へいせい19ねん)6がつから全国ぜんこく規模きぼ日本にっぽん100名城めいじょうスタンプラリーが開始かいしされた。

登場とうじょうする作品さくひんなど[編集へんしゅう]

真田さなだじゅう勇士ゆうし関係かんけい
NHK人形にんぎょうげきばん真田さなだじゅう勇士ゆうし (柴田しばた錬三郎れんざぶろう本宮もとみやひろこころざし漫画まんが)などに登場とうじょう
上記じょうき以外いがい
アニメ映画えいがサマーウォーズ』 - 舞台ぶたいとなるいえもんが、上田うえだじょう城門じょうもん参考さんこうえがかれている。
アニメおねがい☆ツインズ』 - 登場とうじょうする陸上りくじょう競技きょうぎじょう情景じょうけいには城跡じょうせき公園こうえんのものがもちいられている。

脚注きゃくちゅう出典しゅってん[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 仙石せんごく忠政ただまさとそのちちである仙石せんごく秀久ひでひさは、さき上田うえだしろめのさい徳川とくがわかたとしてしろめにくわわっており、戦後せんごやぶ作業さぎょうしろり)にもくわわっている。仙石せんごく上田うえだうつりふうは、忠政ただまさ幕府ばくふねが申請しんせいとおった結果けっかだとされている。
  2. ^ 山鹿やまが素行そこうたけ家事かじまきだいじゅう ぞくしゅう 戦略せんりゃく 神君しんくん真田さなだ征伐せいばつ山鹿やまが素行そこう先生せんせい全集ぜんしゅう 『たけ家事かじ』 ちゅうまき 157ぺーじ下段げだん) 素行そこうかい 大正たいしょう5ねん(1916ねん)/国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 『たけ家事かじ』 85コマ) どうぺーじ下段げだんに「此戦寄手よせて真田さなだ小身しょうしんナリトテアナトリ、てんふかし殿どのもり小城おぎナリト欺テ、備シマラサルユヘニゆう此敗也」とある(「寄手よせて」は徳川とくがわかた、「てんふち」(あまがふち)はあまふちじょう上田うえだじょう別称べっしょう)、「殿しんがりもり」は天守てんしゅ、「欺」はあなどる、みくびる、の)。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 土屋つちやあつしはく, 横沢よこざわただしこころざし, 日向ひゅうが明子あきこ山間さんかんしょう都市とし(上田うえだ)にける運動うんどう障害しょうがいについて」『長野大学ながのだいがく紀要きようだい8かん長野大学ながのだいがく、1978ねん10がつ、43-56ぺーじCRID 1050845762496251520ISSN 02875438NAID 40004065698 
  2. ^ 日本にっぽんしろがわかる事典じてん真田さなだ本城ほんじょう」の解説かいせつ”. kotobank. 2021ねん10がつ16にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d 寺島てらしま隆史たかしだいいち上田うえだ合戦かっせん前後ぜんこうにおける真田さなだ昌幸まさゆき動静どうせい再考さいこう」(『信濃しなの』62かん5ごう、2010ねん
  4. ^ 史書ししょたずねて】三河みかわ物語ものがたり長野ながの上田うえだ真田さなだ昌幸まさゆきさく 徳川とくがわ翻弄ほんろう読売新聞よみうりしんぶん夕刊ゆうかん2019ねん2がつ5にち(5めん)。
  5. ^ 塩崎しおざき幸夫ゆきお編著へんちょ史跡しせき 上田うえだ城跡じょうせき」『上田うえだ文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくしょ』47、上田うえだ教育きょういく委員いいんかい、1992
  6. ^ 上田うえだしろ上田うえだ藩主はんしゅ 真田さなだ 金箔きんぱくかわら(1)上田うえだしろ上田うえだ藩主はんしゅ 真田さなだ 金箔きんぱくかわら(2)収蔵しゅうぞうひん紹介しょうかい 上田うえだ市立しりつ博物館はくぶつかん 真田さなだ昌幸まさゆききずいた上田うえだじょう屋根やねかわらとみられる遺物いぶつ鬼瓦おにがわらしゃちかわら一部いちぶなど。金箔きんぱく一部いちぶのこっている。城跡じょうせきからはほかにも桃山ももやま時代じだいのものとみられるかわら複数ふくすう出土しゅつどしている。
  7. ^ 信州しんしゅう文化ぶんかシリーズ 街道かいどう宿場しゅくば信濃しなの毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ 1980ねん
  8. ^ 上田うえだ城跡じょうせき公園こうえんから金箔きんぱくかわら 真田さなだ昌幸まさゆき時代じだい2018ねん3がつ8にち信濃毎日新聞しなのまいにちしんぶん』 これまでに5てん出土しゅつどしている。1927ねん昭和しょうわ2ねん)に2てん1991ねん平成へいせい3ねん)に2てん2018ねん平成へいせい30ねん)に1てん
  9. ^ 上田うえだじょう歴史れきし上田うえだ公式こうしきサイト)、2013ねん5がつ2にち閲覧えつらん
  10. ^ a b 歴史れきし上田うえだ公式こうしきサイト)、2013ねん5がつ2にち閲覧えつらん
  11. ^ a b 三島みしま正之まさゆき上田うえだしろ」『日本にっぽん名城めいじょうひゃくせん』、村田むらた修三しゅうぞうそう監修かんしゅう八巻はちまき孝夫たかおほか編集へんしゅう小学館しょうがくかん、2008ねん、142-143ぺーじISBN 9784096815649 
  12. ^ 2018ねん3がつ13にち信濃毎日新聞しなのまいにちしんぶんあずましんはん23めん
  13. ^ 提携ていけい協定きょうていしょ調印ちょういん 上田うえだ市役所しやくしょ観光かんこう広報こうほう
  14. ^ 大阪城おおさかじょう上田うえだじょう長野ながの)、友好ゆうこう提携ていけい調印ちょういん 大阪おおさかHotNews 2006ねん10がつ11にち

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]