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木下きのしたしげるぶんまわし

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木下きのした しげるぶんまわし
時代じだい 安土あづち桃山ももやま時代じだい - 江戸えど時代じだい初期しょき
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 慶長けいちょう20ねん1615ねん
別名べつめい しゅうおや[1]通称つうしょう左京さきょうあきらみぎきょうあきら
官位かんい 左京さきょうあきら
主君しゅくん 豊臣とよとみ秀吉ひでよし秀頼ひでより
氏族しぞく 木下きのした
父母ちちはは ちち木下きのした家定いえさだ
兄弟きょうだい 勝俊かつとしぼうのべしゅんしゅんじょう小早川こばやかわ秀秋ひであきしゅんただししゅうぶんまわししゅうみなみ紹叔
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木下きのした しげるぶんまわし(きのした ひでのり)は、安土あづち桃山ももやま時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょき武将ぶしょう木下きのした家定いえさだなななん官途かんと左京さきょうあきらしゅうおやともいう[1]

略歴りゃくれき

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木下きのしたとしぼう羽柴はしばしげるかい小早川こばやかわ秀秋ひであき)らのおとうととして誕生たんじょうし、豊臣とよとみ秀吉ひでよしうままわりしゅうとなる。

天正てんしょう16ねん1588ねん秀吉ひでよしもよおした聚楽第じゅらくだい行幸ぎょうこうでは随身ずいじんとして参加さんか

朝鮮ちょうせんやくでは肥前ひぜん名護屋なごやしろ駐屯ちゅうとん[1][2]。『松浦まつうら古事記こじき』の秀吉ひでよし旗本はたもと後衛こうえいしゅなかがあり、150にんひきいていた。

慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかでは、西にしぐんぞくして、人質ひとじち脱出だっしゅつふせぐためだい坂城さかき天王寺てんのうじ北坂きたさかすいしょ警備けいびしていた[1]

敗戦はいせん浪人ろうにんしたが、慶長けいちょう19ねん1614ねん)の大坂おおさかじんだい坂城さかき入城にゅうじょうして、豊臣とよとみ運命うんめいともにした[2]

脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 桑田くわたただしおや太閤たいこう家臣かしんだん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1971ねん、51ぺーじ ASIN B000J9GTRU
  • 高柳たかやなぎひかり寿ことぶき; 松平まつだいら年一としかず戦国せんごく人名じんめい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1981ねん、84ぺーじ