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うままわり

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

うままわり(うままわり)は、騎馬きば武士ぶしで、大将たいしょううま周囲しゅういまわり)にって護衛ごえい伝令でんれいおよ決戦けっせん兵力へいりょくとしてもちいられた武家ぶけ職制しょくせいのひとつ。平時へいじにも大名だいみょう護衛ごえいとなり、事務じむ取次とりつぎなど大名だいみょう側近そっきんとして吏僚てき職務しょくむたすこともあった。武芸ぶげいひいでたものがあつめられたエリートであり、親衛隊しんえいたいてき存在そんざいであったとされる[1][2]

歴史れきし

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戦国せんごく時代じだい以前いぜん

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うままわりというかたりは、南北なんぼくあさ時代じだいえがいた『太平たいへい』に「義貞よしさだけんテヨリうままわりしょうレタルへい(つわもの)ヲななせんかこえマセテ」として馬上もうえ大将たいしょう周囲しゅういそのものをうままわりんでいるが、その存在そんざい自体じたいはそれ以前いぜんよりあったとかんがえられている[1]

戦国せんごく時代じだい

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武家ぶけ職制しょくせいとして確立かくりつされたのは戦国せんごく時代じだい後半こうはんとされる[2]

大名だいみょうによって様々さまざまがあり、こう北条ほうじょううままわりしゅがまずげられる。さらに、今川いまがわてるが、母親ははおや寿ことぶきかつらから自立じりつして当主とうしゅ職務しょくむったさいに、天文てんもん元年がんねん11がつ27にちづけばんぶつで、父親ちちおやおや時代じだいにはなかった、有力ゆうりょく武将ぶしょう組織そしき親衛隊しんえいたいとしてうままわりしゅ創設そうせつし、今川いまがわ当主とうしゅ権力けんりょく強化きょうかはかった[3]織田おだ信長のぶながうままわりしゅは、小姓こしょうならんで信長のぶなが選抜せんばつ訓練くんれんした土豪どごう次男じなん三男さんなんなどから編成へんせいされ、信長のぶなが側近そっきんとして活躍かつやくした。稲生いのうたたかおけ狭間はざまたたか信長のぶなが自在じざいうご軍事ぐんじ部隊ぶたいとして頭角とうかくあらわした[4]信長のぶながうままわり小姓こしょう精鋭せいえいは、あかくろしょく母衣ほろしゅ抜擢ばってきされた[5]初期しょきうままわりなかから、はなわ直政なおまさ佐々ささしげるせいやなでん広正ひろまさかわしり秀隆ひでたかのように、部隊ぶたい指揮しきかん国持くにもち大名だいみょう昇進しょうしんしたものもいる[6]豊臣とよとみ秀吉ひでよしうままわりしゅ近習きんじゅしゅなかから選抜せんばつした7にん組頭くみがしらななぐみばれた。

江戸えど時代じだい

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江戸えど時代じだいにおいてもしょはん職制しょくせいとして存続そんぞくし、大名だいみょう日常にちじょう警護けいごつとめた。江戸えど幕府ばくふ職制しょくせいでは、りょうばんばれる書院しょいんばん小姓こしょうぐみばんしょはんにおけるうままわりにあたる。旗本はたもと子弟していはまずりょうばんにんぜられ、将軍しょうぐん側近そっきんとしてみとめられて、幕府ばくふ官僚かんりょうとして出世しゅっせしてゆくのが通例つうれいであった。

うままわりは、しょはんにおいては職制しょくせいのほか、家格かかく呼称こしょうとしても使用しようされることがおおかった。はんによって馬上もうえ資格しかくみとめるはんみとめないはんがあって、どちらが一般いっぱんてきであるかは断言だんげんできない。うままわり馬上もうえ資格しかくみとめないはんにあっては、給人きゅうにんまたは給人きゅうにんせき以上いじょう馬上もうえ資格しかくとしたり、家老がろうから直接ちょくせつ統率とうそつける家格かかく以上いじょう家臣かしん馬上もうえ資格しかくとするなど様々さまざま基準きじゅんがあった。職制しょくせいならびに家格かかくじょう給人きゅうにんうままわり併存へいそんするはんとどちらかだけが存在そんざいするはんもある。家格かかく給人きゅうにんうままわり併存へいそんするはんにあっては給人きゅうにんのほうがかくじょうである。馬上もうえ資格しかくがないうままわりは、江戸えど幕府ばくふしょうじゅうにんとほぼ同義どうぎであって、藩主はんしゅへの謁見えっけん資格しかくがあるが、馬乗うまのりにはなれない中堅ちゅうけん家臣かしんである。

うままわり馬上もうえ資格しかくがあるはんでは、うままわり家格かかくは、広義こうぎ上級じょうきゅう家臣かしん下位かい意味いみするとえる。赤穂あこう事件じけん有名ゆうめい赤穂あこうはん浅野あさのうままわりやくがその典型てんけいてきれいである。馬上もうえ資格しかくのない中小ちゅうしょうせい上位じょうい位置いちする馬上もうえ武士たけし階級かいきゅう位置いちづけられていた。赤穂あこう浪士ろうしよんじゅうななのうちうままわりだったもの堀部ほりべ武庸たけつねら15めいで、全員ぜんいんが200せきから100せきりである。重臣じゅうしんとまではえないものの、上士じょうしべるいえろくものたちである。これが馬上もうえ資格しかくのない中小ちゅうしょうせいだと最上さいじょう大高おおだか忠雄ただおでも30せきりであるからこの階級かいきゅう歴然れきぜんである。

しかし時代じだいくだるにれて、武士ぶし増加ぞうかするとしょはん幕臣ばくしんにあっても、うままわりはあくまで格式かくしきにすぎなくなった。たとえば長岡ながおかはんの「安政あんせい分限ぶげんちょう」(『長岡ながおか藩政はんせい史料しりょうしゅう(6)長岡ながおかはん家臣かしんだん所収しょしゅう)によれば、50せき未満みまん低位ていい知行ちぎょうである藩士はんしだいぐみうままわり相当そうとう)に119めい確認かくにんされ、最小さいしょう俸給ほうきゅうしゃ知行ちぎょうだか20せきまたは5にん扶持ふち藩士はんしである。50せき未満みまん低位ていい知行ちぎょうである藩士はんしうまいちとうこと常識じょうしきてきには不可能ふかのうであり、その家臣かしん馬上もうえゆるしながら、実際じっさいうまっていなかったという事態じたい発生はっせいした。また、薩摩さつまはんでも状況じょうきょうおなじでうままわり相当そうとうから家老がろうとなり、きんおもえろくくず処分しょぶんされた秩父ちちぶ伊賀いがうま保有ほゆうしていなかったことが「文化ぶんか朋党ほうとう実録じつろく」でべられている。

なお、しょはんなかにはうままわりことなる名称めいしょうはんもあり、長州ちょうしゅうはんおよ越後えちご長岡ながおかはんでは『だいぐみ』と呼称こしょうしていた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b うままわり - 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてんだい2はんうままわり」(コトバンク
  2. ^ a b 図説ずせつ 戦国せんごく武将ぶしょうおもしろ事典じてん p276(監修かんしゅう/奈良本ならもと辰也たつや1990ねん 三笠みかさ書房しょぼう
  3. ^ 小和田こわだ哲男てつお今川いまがわ義元よしもと:自分じぶん力量りきりょうもっくに法度はっとさるく』ミネルみねるァ書房ぁしょぼう〈ミネルヴァ日本にっぽん評伝ひょうでんせん〉、2004ねん、pp.83-84
  4. ^ 谷口たにぐち 1998, pp. 68–75.
  5. ^ 谷口たにぐち 1998, pp. 40–47.
  6. ^ 谷口たにぐち 1998, p. 48.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 谷口たにぐち克広かつひろ、1998、『信長のぶなが親衛隊しんえいたい戦国せんごく覇者はしゃ多彩たさい人材じんざい』、中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ1453〉 ISBN 978-4121014535

関連かんれん項目こうもく

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