天秀尼てんしゅうに

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てんしゅう ほうたい に

てんしゅうほうたいあま
天秀尼てんしゅうにぞう東慶寺とうけいじぞう
生誕せいたん 慶長けいちょう14ねん1609ねん
死没しぼつ 正保まさやす2ねん2がつ7にち1645ねん3月4にち
墓地ぼち 東慶寺とうけいじ神奈川かながわけん鎌倉かまくら
別名べつめい 一説いっせつに]奈阿ひめ一説いっせつに]たいひめ[注釈ちゅうしゃく 1]
宗教しゅうきょう 仏教ぶっきょう臨済宗りんざいしゅう
おや ちち豊臣とよとみ秀頼ひでより実母じつぼ成田なりたじょじきむすめ養母ようぼ千姫せんひめ
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天秀尼てんしゅうに(てんしゅうに、慶長けいちょう14ねん1609ねん) - 正保まさやす2ねん2がつ7にち1645ねん3月4にち))は、江戸えど時代じだい前期ぜんき女性じょせい臨済宗りんざいしゅう尼僧にそう豊臣とよとみ秀頼ひでよりむすめで、千姫せんひめ養女ようじょ鎌倉かまくらあまやまだい東慶寺とうけいじの20せい住持じゅうじてんしゅう法号ほうごうで、ほういみなほうやすし(ほうたい)。院号いんごうさずかっていない。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

出生しゅっしょうから出家しゅっけまで[編集へんしゅう]

はは[1]出家しゅっけまえ俗名ぞくみょう不明ふめいである[注釈ちゅうしゃく 1]記録きろくはじめてあらわれたのはだい坂城さかき落城らくじょう直後ちょくごでありそれ以前いぜんにはい。どう時代じだい日記にっき駿府すんぷ[4][注釈ちゅうしゃく 2]大坂おおさか落城らくじょうの7にち元和がんわ元年がんねん1615ねん)5がつ12にちじょうに「今日きょう秀頼ひでより息女そくじょななさい)、したがえ京極きょうごく若狭わかさもりひろこれ註進、秀頼ひでより男子だんしざいよしない聞召、きゅうひろよし所々しょしょさわ云々うんぬん」とあるのが初出しょしゅつである。

なお、『たいとくいん殿御とのご実紀みき[注釈ちゅうしゃく 3]まき37、元和げんな元年がんねん5がつ12にちじょうには「これは秀頼ひでよりわらわ成田なりたわれ兵衛ひょうえじょちょくおんな)のはらもうけしを」とある[5]が、『たいとくいん殿御とのご実紀みき』は19世紀せいき前半ぜんはん編纂へんさんされたものであり、どう時代じだい史料しりょうにはられない。また、『たいとくいん殿御とのご実紀みき』は「京極きょうごく若狭わかさまもる秀頼ひでより息女そくじょはちさいなるをとらえてけんじず」とはちさいしるしているが、どう時代じだい史料しりょうでは、『駿府すんぷ』のほか大坂おおさか落城らくじょう10日とおか細川ほそかわ忠興ただおき書状しょじょうなどでもななつとなっており、慶長けいちょう14ねん(1609ねん)のまれとられる。

同母どうぼ異母いぼかは不明ふめいながら、天秀尼てんしゅうに年子としごあに国松くにまつ直後ちょくごの5がつ21にちらえられ、23にちろくじょう河原かわらられたことが『駿府すんぷ[6]』『たいとくいん殿御とのご実紀みき[7]にある。

しかし天秀尼てんしゅうにほう千姫せんひめ養女ようじょとしててられることを条件じょうけん助命じょめいされた。『たいとくいん殿御とのご実紀みき前述ぜんじゅつの5がつ12にちじょうには「北方ほっぽう千姫せんひめようたまいしなり」と、大坂おおさか城内きうちころから千姫せんひめ養女ようじょであったともめる記述きじゅつがあるが、東慶寺とうけいじ由緒ゆいしょしょには「大坂おおさかいちらんこれ天樹院てんじゅいんさま千姫せんひめ養女ようじょためなり元和げんな元年がんねん権現ごんげんさま上意じょういとう山江やまえにゅうなぎしみじゅう九世瓊山和尚御附弟にためなり[8]しるされている。「大坂おおさかじん山口やまぐちきゅうあん咄」[9]などにも、国松くにまつは7さいまで乳母うばそだてられ、8さいのとき、祖母そぼ淀殿よどどのいもうと京極きょうごく高次こうじつまつねこういんが、和議わぎ交渉こうしょう大坂おおさかじょうはいるとき、長持ながもちれて城内じょうないはこびこんだとあるため、天秀尼てんしゅうにもそれまでは他家たけそだてられ、国松くにまつどう時期じきだい坂城さかきはい[10]落城らくじょう千姫せんひめ養女ようじょとなったとられる[11]

東慶寺とうけいじ入山にゅうざん出家しゅっけ[編集へんしゅう]

20せい天秀尼てんしゅうに木像もくぞう関東大震災かんとうだいしんさい頭部とうぶ以外いがいはげしく損傷そんしょうし、修復しゅうふく不能ふのうだったが、震災しんさいから70ねん以前いぜん写真しゃしんつかり、現在げんざい状態じょうたい修復しゅうふくした[12]ひだりれいぱい

どう時代じだい史料しりょうとしては、元和がんわ2ねん1616ねん)10がつ18にちにイギリス商館しょうかんちょうリチャード・コックスまつおか剃髪ていはつした女性じょせい尼寺あまでらとして紹介しょうかいし、「秀頼ひでよりさまおさなむすめがこの僧院そういんあまとなってわずかにその生命せいめいたもっている」[13]いている。

出家しゅっけ時期じきさき東慶寺とうけいじ由来ゆらいしょに「なぎしみちせん[注釈ちゅうしゃく 4]瓊山あまけいざんに[注釈ちゅうしゃく 5]弟子でしとなる。ときはちさい[14]とあり、またれいぱい位牌いはい)のうらに「せい二位左大臣豊臣秀頼公息女 あずまあきら大神おおがみくんめいじにゅう当山とうざんなぎしみはちさい 正保しょうほうねんおつとりがつななにち示寂じじゃく」とある。したがって、出家しゅっけ大坂おおさか落城らくじょう翌年よくねんもと2ねん東慶寺とうけいじにゅうてらとほぼどう時期じきとなる。出家しゅっけてんしゅうほうやすし[注釈ちゅうしゃく 6]

東慶寺とうけいじ北条ほうじょう時宗じしゅう夫人ふじんさとしやまあま開山かいさんつたわり、南北なんぼくあさ時代じだい後醍醐天皇ごだいごてんのう皇女おうじょようどうあま住持じゅうじとなり、室町むろまち時代ときよには鎌倉かまくらあまやまだいとされた。代々だいだい関東かんとう公方くぼう古河ふるかわ公方くぼうしょうゆみ公方くぼうむすめ住持じゅうじとなっている。尼寺あまでらでこの格式かくしきということから天秀尼てんしゅうににゅうてらするさきとして東慶寺とうけいじえらばれたとされる[よう出典しゅってん]。また・瓊山あまいもうと月桂げっけいいん秀吉ひでよし側室そくしつで、秀吉ひでよし死後しご江戸えどうつり、家康いえやすむすめひめつかえていた。東慶寺とうけいじ住職じゅうしょくだった井上いのうえ禅定ぜんじょう天秀尼てんしゅうに東慶寺とうけいじにゅうてらは「おそらく月桂げっけいいんあたりの入知恵いれぢえ推察すいさつされる」とする[15]

参禅さんぜん[編集へんしゅう]

天秀尼てんしゅうに東慶寺とうけいじ入山にゅうざんからちょうずるまではじゅうきゅうせい瓊山あまおしえをけていただろうが、とうめいによれば円覚寺えんかくじ黄梅おうばいいんしゅうしん参禅さんぜんしたとある。しゅうしん中国ちゅうごく臨済宗りんざいしゅう楊岐まぼろしじゅう中峰なかみね禅師ぜんじ[16]はじまるまぼろしじゅうである[注釈ちゅうしゃく 7]

また沢庵たくあん宗彭そうほう参禅さんぜんしようとしていたことが、沢庵たくあん書状しょじょうによりあきらかになっている。書状しょじょうには8がつ29にち日付ひづけはあるが、としかれていない。沢庵たくあん寛永かんえい16ねん(1639ねん)より江戸えどもどり、徳川とくがわ家光いえみつによって創建そうけんされたまん松山まつやま東海寺とうかいじ住持じゅうじとなっている。東慶寺とうけいじ住職じゅうしょくだった井上いのうえ禅定ぜんじょうは、天秀尼てんしゅうに参禅さんぜんしていたしゅうしん寛永かんえい18ねん(1642ねん)2がつ1にち示寂じじゃくしているので、沢庵たくあん参禅さんぜんしようとしたのはそのあとではないかとする[17]

権現ごんげんさまこえかりのえんきりてらほう[編集へんしゅう]

東慶寺とうけいじえんきりてらほうをもつえんきりてらこみてら)として有名ゆうめいであるが、江戸えど時代じだい幕府ばくふからえんきりてらほうみとめられていたのはここ東慶寺とうけいじ上野うえのこく満徳寺まんとくじだけであり両方りょうほうとも千姫せんひめ所縁しょえんである。てら伝承でんしょうでは、天秀尼てんしゅうににゅうてらさい家康いえやすぶんで「なにかねがいはあるか」とわれて「開山かいさんよりの御寺おてらほう断絶だんぜつしないようにしていただければ」とこたえ、それでどうてらてらほうは「権現ごんげんさまこえかり」となったとある[18]

まんえば6 - 7さい子供こども家康いえやすのやりとりが本当ほんとうにあったのかは確認かくにん出来できないが、江戸えど時代じだいつうじて寺社じしゃ奉行ぶぎょう提出ていしゅつするてられいしょ訴訟そしょう文書ぶんしょではこの「権現ごんげんさまこえかり」の経緯けいいべててらほう擁護ようご最大さいだい武器ぶきとしたこと[19]実際じっさい東慶寺とうけいじてらほう幕府ばくふうしたてがあったことはたしかである。えんきりてらほう一般いっぱんにはいわれるが夫婦ふうふ離婚りこんにだけかかわるものではなく、中世ちゅうせい以来いらいアジール無縁むえん)の性格せいかくつ。

会津あいづよんじゅうまんせき改易かいえき事件じけん[編集へんしゅう]

天秀尼てんしゅうに千姫せんひめつうじた徳川とくがわ幕府ばくふとのむすびつきのつよさを物語ものがた事件じけん会津あいづ騒動そうどうともわれる加藤かとう明成めいせい改易かいえき事件じけんがある。事件じけん記述きじゅつは『だい猷院殿御とのご実紀みき[注釈ちゅうしゃく 8]まき53、寛永かんえい20ねん1643ねん)5がつ2にちじょうにある[20]が、『だい猷院殿御とのご実紀みき』には改易かいえき事実じじつしるしたあとで、「つたうるしょは」と経緯けいいしるしている。したがってその経緯けいい幕府ばくふ記録きろく日記にっき)にもとづくものではない。また、その「つたうるしょ」の内容ないよう作者さくしゃ不明ふめいの『古今ここん武家ぶけ盛衰せいすい』の記述きじゅつ[21]酷似こくじしている。しかしながらその両方りょうほうともに東慶寺とうけいじ天秀尼てんしゅうにてこない[注釈ちゅうしゃく 9]

天秀尼てんしゅうに事件じけん関係かんけいしるした史料しりょう正徳まさのり6ねん1716ねん)に刊行かんこうされた『武将ぶしょう感状かんじょう[22]という逸話いつわしゅうと、文化ぶんか5ねん1808ねん)に水戸みとはんふみかん編纂へんさんされた『松岡まつおか東慶寺とうけいじこう』である。『武将ぶしょう感状かんじょうまきじゅうの「加藤かとうひだりじょ深慮しんりょことづけ多賀たがしゅみず野心やしん明成めいせい所領しょりょう召上めしあげらるること」にこうある[23]

その高野たかのはいり、妻子さいし鎌倉かまくら比丘尼びくにしょつかわしぬ。・・・鎌倉かまくらのがれたるしゅみず妻子さいしを、明成めいせいじんつかわしてこれしばりてきよせんとす。比丘尼びくに住持じゅうじおおいにいかりて、頼朝よりともより以来いらい此のてらもの如何いかなる罪人ざいにんすことなし。しかるを理不尽りふじんぞく(やから)無道むどう至極しごくせり。明成めいせい滅却めっきゃくさすか、此のてら退転たいてんせしむるかふたつにひとつぞと 、此の天樹院てんじゅいん殿どのに訴へてこといきおいくべからざるにいたる。此におい明成めいせいせまって領地りょうち会津あいづよんじゅうあまりまんせき差上さしあげ、衣食いしょくりょういちまんせきたまわりて石見いわみ山田やまだ蟄居ちっきょせらるる。

天樹院てんじゅいん殿どの」(千姫せんひめ)がてくるので「比丘尼びくにしょ」(尼寺あまでら)とは東慶寺とうけいじのこと。「比丘尼びくに住持じゅうじ」とは天秀尼てんしゅうにのこと、「天寿てんじゅいん」ではないので千姫せんひめぼつかれたものとわかる。もうひとつの「松岡まつおか東慶寺とうけいじこう」には

住持じゅうじおおいにいか古来こらいよりこのてらものいかなる罪人ざいにんすことなし。しかるを理不尽りふじんぞく無道むどう至極しごくせり。明成めいせい滅却めっきゃくせしむるか、此のてら退転たいてんせしむるか、ふたつにひとつぞ

とあり、「頼朝よりともより以来いらい」は「古来こらい」に修正しゅうせいされているが、それ以外いがい上記じょうき武将ぶしょう感状かんじょう下線かせん部分ぶぶんとまったくおなじである。『武将ぶしょう感状かんじょう』は「成田なりたおさむ左衛門さえもん亡妻ぼうさいちぎこと」などと『雨月物語うげつものがたり』まがいのはなしまでせている逸話いつわしゅうであり、そのまま事実じじつとみなすわけにはいかないが、当時とうじ将軍家しょうぐんけ所縁しょえん鎌倉かまくら尼寺あまでら加藤かとう明成めいせいわた要求ようきゅうおうじなかったことがひろられていたということはほどける。ほりしゅみずつまたしかに東慶寺とうけいじ天秀尼てんしゅうにいのちたすけられていたことが近年きんねん判明はんめいした。そのつまはか会津あいづにあり、かつそのつま事件じけんせていた実家じっか古文書こもんじょ跋文ばつぶん経緯けいいかれていた[24]

天秀尼てんしゅうにほりしゅみずつまを)かたじけなくも戒弟子でしとなされ、あまっさたからひかりいんかんほまれ樹林きばやし法名ほうみょうたまわり、いのちあたきゅうことつよしきなり。されば明成めいせい殿でん威光いこうきかたくなだめ(ゆる)して、先祖せんぞ黒川くろかわ喜三郎きさぶろうさだとくしゅみずつまあに)に扶助ふじょすべしとたまわりたるより…

つまり明成めいせいれて、ほりしゅみずつま会津あいづ加藤かとう改易かいえきよりまえ会津あいづ実家じっかかえったと。それも「明成めいせい殿でん」から「たまわりたる」と。つまりほりしゅみずつま身柄みがら明成めいせいもとにあったということになる。これが事実じじつとすれば『武将ぶしょう感状かんじょう』にしるされた結末けつまつ短絡たんらくしすぎで不正確ふせいかくであり、「こといきおいくべからざるにいたる」ではなく「けた」ことになる。両方りょうほうをつなげて整合せいごうせいるなら、会津あいづはん武士ぶし東慶寺とうけいじからほりしゅみず妻達つまたちてらがわ制止せいしって強引ごういんったが、天秀尼てんしゅうに猛烈もうれつ抗議こうぎれて以下いか跋文ばつぶんとおりとなる。両方りょうほうとも後世こうせい文書ぶんしょであるので正確せいかくせいにはけるが、いずれにせよほりぬしすいつま東慶寺とうけいじんでおり、かつ天秀尼てんしゅうに義母ぎぼせんひめつうじて幕府ばくふうったえて、その助命じょめい実現じつげんしたことだけはわかる。

死去しきょ墓所はかしょ[編集へんしゅう]

天秀尼てんしゅうにはかだいがついんたから篋印とう

天秀尼てんしゅうには、れいぱいおよびてらでんにより、正保しょうほう2ねん(1645ねん)2がつ7にち会津あいづ加藤かとう改易かいえきの2ねん、37さい死去しきょした。長命ちょうめいであった千姫せんひめは、むすめじゅうさん回忌かいき東慶寺とうけいじ香典こうでんおくっている。天秀尼てんしゅうにはかてら歴代れきだい住持じゅうじはかとうなか一番いちばんおおきなぬいとうみぎ写真しゃしん中央ちゅうおうまるいもの)である。墓碑銘ぼひめい當山とうざんだい十世天秀法泰大和尚

がわに「だいがついん殿どのあかりだま宗鑑そうかん大姉だいし」ときざまれたたから篋印とうがあり、「てん秀和しゅうわなおきょく正保しょうほうねんきゅうがつじゅうさんにち」とこくめいがある。天秀尼てんしゅうに死去しきょやく半年はんとしである。このはかは「てん秀和しゅうわなおきょく」とこくめいがあるので天秀尼てんしゅうに世話せわをしていたひとで、世話せわっても、はか格式かくしきのあるたから篋印とうで「きょく」とあり、戒名かいみょうが「いん」ではなく「いん殿どの」であることから、ただのびとではなく相当そうとう身分みぶんたかひと、かつあまではない一般いっぱん在家ざいけ女性じょせいであることはたしかである。東慶寺とうけいじ住職じゅうしょく井上いのうえ正道せいどうは、東慶寺とうけいじにかなりの功績こうせきのあった人物じんぶつか、もしくは天秀尼てんしゅうに相当そうとう恩義おんぎかんじていた天秀尼てんしゅうににとっての功労こうろうしゃ。あるいは つね天秀尼てんしゅうにのそばにいて、天秀尼てんしゅうに教育きょういくした人物じんぶつ天秀尼てんしゅうにしんどころであり、天秀尼てんしゅうにしんささえであったのではないかと推測すいそくしている。ただし「てらにはこの人物じんぶつについての文献ぶんけん伝承でんしょう一切いっさいなく、ただはかのみがのこっている」という[25]歴代れきだい住持じゅうじはかとうのエリアに在家ざいけ出家しゅっけしていないひと)のたから篋印とうがあることはきわめて異例いれいである[注釈ちゅうしゃく 10]

東慶寺とうけいじのこ天秀尼てんしゅうに[編集へんしゅう]

豊臣とよとみとの関係かんけいしめもの[編集へんしゅう]

ちち秀頼ひでより菩提ぼだいくもばん

元和がんわ元年がんねん5がつ12にちとらえられた秀頼ひでより息女そくじょ東慶寺とうけいじにゅうてらしたとしるされている『たいとくいん殿御とのご実紀みき』は19世紀せいき前半ぜんはん編纂へんさんであり、どう時代じだい日記にっきである『駿府すんぷ』そのにはない。

漆器しっき蒔絵まきえ世界せかいでは高台寺こうたいじ蒔絵まきえいで東慶寺とうけいじ伝来でんらい蒔絵まきえ有名ゆうめいであるが、そのなか豊臣とよとみきりもんななきりえがかれた漆器しっきのこされている。ただ、きりもん江戸えど時代じだいの『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』では473いえ使用しようしているほど一般いっぱんてき家紋かもんであり、これは天秀尼てんしゅうにのものかもしれないが、そうだとは断定だんていできない。

しかし東慶寺とうけいじには 寛永かんえい19ねん(1642ねん)にちち秀頼ひでより法名ほうみょうたかしてら秀山しゅうざん菩提ぼだいのためにてんしゅう和尚おしょう鋳造ちゅうぞうしたとの銘文めいぶんのあるくもばんうんばん[注釈ちゅうしゃく 11]のこされており、鎌倉かまくら文化財ぶんかざい指定していされている。

また、過去かこちょうには、元和がんわ元年がんねん(1615ねん)5がつ23にちまんいん殿どの雲山くもやまさとしきよしだい童子どうじとある。この豊臣とよとみ秀頼ひでより国松くにまつ京都きょうとろくじょう河原かわら処刑しょけいされたである。

もうひとつの豊臣とよとみとの関係かんけいしめものは、同時どうじ千姫せんひめとの関係かんけいしめものでもある。

千姫せんひめとの関係かんけいしめもの[編集へんしゅう]

東慶寺とうけいじつたえるむねばん以下いか墨書ぼくしょめいがある[注釈ちゅうしゃく 12]

表面ひょうめんみぎ
だい旦那だんな征夷大将軍せいいたいしょうぐん太政大臣だじょうだいじんしたがえ一位源朝臣秀忠公御息女天寿院御建立焉
表面ひょうめんひだり
維持いじ 寛永かんえいじゅういちねんじゅうがつ吉日きちじつ 住持じゅうじ関東かんとう公方くぼうひだり兵衛ひょうえとくみなもとよりゆきじゅん息女そくじょほう清和せいわしょう
弟子でしみぎだい臣従しんじゅう二位豊臣朝臣秀頼公息女法泰蔵主御寄進
裏面りめん
とう大樹たいじゅ乳母うば春日局かすがのつぼね
駿河するが大納言だいなごん御殿ごてん移築いちく書院しょいん関東大震災かんとうだいしんさい倒壊とうかいし、おな間取まどり再建さいけんされた。一部いちぶきゅうざい使用しよう

表面ひょうめんみぎの「天寿てんじゅいん」は千姫せんひめ生前せいぜんごう没後ぼつごは「天樹院てんじゅいん」とおなみでもえている。表面ひょうめんひだりの「ほう清和せいわしょう」は東慶寺とうけいじじゅうきゅうせい・瓊山ほうせい、「秀頼ひでよりおおやけ息女そくじょほうやすし」がてんしゅうほうたいあまである。裏面りめんの「大樹だいき」は将軍しょうぐんのことをし、「とう大樹たいじゅ」とは当時とうじ将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつのことである。その「乳母うばめのと春日局かすがのつぼねは、このころ大奥おおおく公務こうむ仕切しきっていた。

東慶寺とうけいじてられいしょには「駿河するが大納言だいなごんさま殿御とのご寄付きふ客殿きゃくでん方丈ほうじょうとうみぎ御殿ごてんもってご建立こんりゅうあそばされいまゆう」とある。「駿河するが大納言だいなごん」とは家光いえみつ千姫せんひめ同様どうよう淀殿よどどのいもうと崇源院すうげんいんははにもつ徳川とくがわ忠長ただながであり、寛永かんえい10ねん(1633ねん)12月6にちに28さい切腹せっぷく。その屋敷やしき一部いちぶ解体かいたいされて東慶寺とうけいじ寄進きしんされたのはその翌年よくねん寛永かんえい11ねん(1634ねん)である。このような墨書ぼくしょめい建築けんちく屋根やね改修かいしゅう工事こうじ[注釈ちゅうしゃく 13]のときなどにつかる。

住持じゅうじほう清和せいわしょう」・「弟子でしほうたい蔵主くらぬし」とあるので、当時とうじ20だいなかばであった天秀尼てんしゅうにはまだじゅうせい住持じゅうじにはなっていなかったことになる。「蔵主くらぬし」(ぞうす)は禅宗ぜんしゅう寺院じいん住持じゅうじささえる役職やくしょくのひとつ[注釈ちゅうしゃく 14]である。

てらでん編纂へんさんぶつ歴史れきししょ以外いがい千姫せんひめとの関係かんけいしめすものに書状しょじょうとうじゅうすうつうあり、『鎌倉かまくら編纂へんさん昭和しょうわ29ねん(1954ねん)に高柳たかやなぎひかりことぶきにより整理せいり解読かいどくされた。そのなかには千姫せんひめにびわ・たけのこはななどをおくったことへの千姫せんひめ侍女じじょひつ礼状れいじょうなどもある。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 一部いちぶに「奈阿ひめ」とするものもあるが、その史料しりょうじょう根拠こんきょい。三池みいけ純正じゅんせい著書ちょしょかりたいひめとしているが、これは出家しゅっけてんしゅうほうやすし」のいみなほうやすし」から東慶寺とうけいじけいほう」をけ「やすし」のったもので、かりであることをっている[2]。また、川口かわぐち素生すじょうも「出家しゅっけまえ俗名ぞくみょうしょうです」としている[3]
  2. ^ 慶長けいちょう16ねん(1611ねん)8がつ1にちから元和がんわ元年がんねん(1615ねん)12月29にちまでのやく4ねんはんおよ徳川とくがわ家康いえやす周辺しゅうへん記録きろく日記にっき。このあいだ大坂おおさかじんがあった。筆者ひっしゃ後藤ごとう光次みつじはやし羅山らざんともいわれるがしょうどう時代じだい家康いえやす周囲しゅういでの記録きろくであるため史料しりょう価値かちたかいとされる。
  3. ^ たいとくいん殿どのとはだい将軍しょうぐん秀忠ひでただ戒名かいみょう
  4. ^ 仏門ぶつもんにはいる、出家しゅっけする」という意味いみ
  5. ^ 東慶寺とうけいじじゅうきゅうせいの瓊山ほうきよししょうゆみ公方くぼう足利あしかが義明よしあきまご足利あしかがよりゆきじゅんむすめ
  6. ^ てんしゅうごうほうたいいみなであり、そのいみなの1の「ほう」は、東慶寺とうけいじけい江戸えど時代じだいには東慶寺とうけいじあますべいみなの1は「ほう」)である。
  7. ^ まぼろしじゅうについては円覚寺えんかくじ だいろくしょうだいせつとうしるされている。黄梅おうばいいん足利尊氏あしかがたかうじゆめまどうとせきとうしょとして建立こんりゅうした塔頭たっちゅうで、室町むろまち幕府ばくふだい将軍しょうぐん足利あしかが義詮よしあきら遺骨いこつ分骨ぶんこつされて以降いこう足利あしかが菩提寺ぼだいじとしての性格せいかくびる。室町むろまち時代ときよから江戸えど時代じだいにかけての東慶寺とうけいじ住持じゅうじ天秀尼てんしゅうに以外いがいはすべて関東かんとう公方くぼういえであり、当初とうしょ天秀尼てんしゅうにであったじゅうきゅうせい瓊山あま足利あしかがだしである。その関係かんけい天秀尼てんしゅうに黄梅おうばいいんしゅうしん参禅さんぜんしたとおもわれる。天秀尼てんしゅうにのちじゅういちせい住持じゅうじとなった永山ながやま足利あしかが喜連川きつれがわ)のだしであり、「嗣法系図けいず」には「まぼろしじゅうちゅうみね禅師ぜんじ…、しゅうしん、謹中□、永山ながやまほうさかえ」とある。円覚寺えんかくじでは元旦がんたん深夜しんや総門そうもん山門やまかど塔頭たっちゅうはみなさんうろこ北条ほうじょうもん)の提灯ちょうちん門前もんぜんかかげているのに、黄梅おうばいいんだけは足利あしかがもんである。
  8. ^ だい猷院殿どのとはさんだい将軍しょうぐん家光いえみつ戒名かいみょう
  9. ^ ただし、『古今ここん武家ぶけ盛衰せいすい』 には「相州あいしゅう鎌倉かまくらおもむく」「鎌倉かまくら退き、紀州きしゅうだか野山のやまのぼしのきょす」とはある。
  10. ^ はか戒名かいみょう格式かくしきから、後世こうせい史料しりょう天秀尼てんしゅうにが7さいまであづけられていたとされる三宅みやけよし兵衛ひょうえつまではりえない[26]一方いっぽう一部いちぶ書籍しょせきにあるような甲斐かいひめせつにも史料しりょう批判ひはんえうる裏付うらづけはい。
  11. ^ 禅宗ぜんしゅう寺院じいん庫裏くりときどうなどにけ、食事しょくじ法要ほうようなどの合図あいずらす雲形くもがたいたかねばんしょうばんいたちょうばんさらばん長板ながいたときばんなどの別称べっしょうがある。青銅せいどうまたは鉄板てっぱんせいであるが、東慶寺とうけいじのものは青銅せいどうである。日本にっぽんには鎌倉かまくら時代じだい禅宗ぜんしゅうとともにつたえられた。なお、円覚寺えんかくじ禅堂ぜんどう修行しゅぎょう道場どうじょう)にはおな用途ようとの、いた使つかったいたいま使つかわれている。ただしこれは雲形くもがたではない。
  12. ^ 実物じつぶつは2013ねん4がつ16にち - 7がつ7にちの「東慶寺とうけいじじゅうせい 天秀尼てんしゅうにてん」で公開こうかいされており、また永井ながい路子みちこの『天秀尼てんしゅうに』にその写真しゃしんがある[27]
  13. ^ たとえば東村山ひがしむらやま国宝こくほう建築けんちくぶつ正福寺しょうふくじ地蔵堂じぞうどうでは、復元ふくげん解体かいたい工事こうじまつり発見はっけんされた垂木たるきしりおくりに墨書ぼくしょめい発見はっけんされ、おうなが14ねん(1407ねん)の建立こんりゅうわかった。そこから、どういち様式ようしきであるもと太平寺たいへいじ仏殿ぶつでん現在げんざい円覚寺えんかくじ舎利しゃり殿どの)も1407ねんごろ、あるいはそれよりすこ建築けんちくかい評価ひょうかさだまったりしている[28]
  14. ^ 中国ちゅうごくみなみそう時代じだい禅宗ぜんしゅうだい寺院じいんでは住持じゅうじ頂点ちょうてんに100めいえるそうがおり、その寺院じいん運営うんえいため役僧やくそうひがしはん寺院じいん経営けいえい担当たんとう)・西にしはん修行しゅぎょう担当たんとう)にけた。蔵主くらぬし(ぞうす)は西にしはん頭首とうしゅ(ちょうしゅ:管理かんりしょく)のひとつで、経典きょうてん管理かんりする僧職そうしょくである。頭首とうしゅには首座しゅざ(しゅそ)・書記しょき蔵主くらぬしきゃく(ちか)・よく(ちよく)・とも殿どの(ちでん)がある。このうち首座しゅざ書記しょき蔵主くらぬしは、住持じゅうじわりにほうどうほうのぼ払子ほっす(ほっす)をとって説法せっぽうをすることもある重要じゅうよう役職やくしょくである[29]。ただし東慶寺とうけいじかくたかくとも建長寺けんちょうじ円覚寺えんかくじのようなだい寺院じいんではないので、この場合ばあいの「蔵主くらぬし」とは実際じっさい職務しょくむではなく肩書かたがき地位ちい呼称こしょうである。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 三池みいけ 2013, pp. 45–46.
  2. ^ 三池みいけ 2013, p. 46.
  3. ^ 川口かわぐち.
  4. ^ 史料しりょう雑纂ざっさん2収録しゅうろく元和がんわ元年がんねん5がつ12にちじょうはp.303
  5. ^ 徳川とくがわ実紀みき2 p.41
  6. ^ 史料しりょう雑纂ざっさん2。「駿府すんぷ元和がんわ元年がんねん5がつ21にちじょうおよび23にちじょう p.303
  7. ^ 徳川とくがわ実紀みき2収録しゅうろく元和がんわ元年がんねん5がつ21にちじょうはp.42、5月31にちじょうはp.43
  8. ^ 鎌倉かまくら寺社じしゃへん p.346
  9. ^ 續々ぞくぞくぐんしょ類從るいじゅう 収録しゅうろく
  10. ^ 三池みいけ 2013, pp. 120–123.
  11. ^ 川口かわぐち 2011, p. Q.62.
  12. ^ 井上いのうえ 1995, p. 208.
  13. ^ 高木たかぎ 1987, p. 126.
  14. ^ 井上いのうえ 1955, p. 48.
  15. ^ 井上いのうえ 1955, p. 51.
  16. ^ 原田はらだ弘道ひろみち中世ちゅうせいにおけるまぼろしじゅう形成けいせいとその意義いぎ」『駒澤大學こまざわだいがく佛教ぶっきょう學部がくぶ研究けんきゅう紀要きようだい53かん、1995ねん、21-35ぺーじISSN 04523628NAID 110007014987 
  17. ^ 井上いのうえ 1955, pp. 55–57.
  18. ^ 井上いのうえ 1976.
  19. ^ 井上いのうえ 1955, pp. 48–51.
  20. ^ 徳川とくがわ実紀みき3pp.312-313
  21. ^ 古今ここん武家ぶけ盛衰せいすい まきだいじゅうろくよんじゅうまんせき 加藤かとう式部しきぶしょう輔明なり」 pp.311-318
  22. ^ 武将ぶしょう感状かんじょう まきじゅう
  23. ^ 武将ぶしょう感状かんじょう pp.511-252
  24. ^ 井上いのうえ 1976, pp. 32–33.
  25. ^ 三池みいけ 2013, pp. 158–160.
  26. ^ 三池みいけ 2013, p. 165.
  27. ^ 永井ながい 1977, p. 31.
  28. ^ 関口せきぐち 1997, pp. 116–119.
  29. ^ 関口せきぐち 1997, pp. 71–72.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

史料しりょう
  • 国書刊行会こくしょかんこうかいへん續々ぞくぞくぐんしょ類從るいじゅう4かん史伝しでん2)』ぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1907ねん9がつ 
  • 黒川くろかわ真道まみちへん古今ここん武家ぶけ盛衰せいすい. 1』国史こくし研究けんきゅうかい、1914ねん 
  • 博文ひろぶみかん編輯へんしゅうきょくへん武将ぶしょう感状かんじょうぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1941ねん 
  • 国書刊行会こくしょかんこうかいへん史料しりょう雑纂ざっさんだいぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1974ねん 
  • 黒板こくばん勝美かつみ編輯へんしゅう国史こくし大系たいけいだい39かん しんてい増補ぞうほ 徳川とくがわ実紀みき だいへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1990ねん 
  • 黒板こくばん勝美かつみ編輯へんしゅう国史こくし大系たいけいだい40かん しんてい増補ぞうほ 徳川とくがわ実紀みき だいさんへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1990ねん 
書籍しょせき

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]