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リチャード・コックス

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リチャード・コックス(Richard Cocks、1566ねん1がつ - 1624ねん)は、ステュアートあさイングランドイギリス)の貿易ぼうえき商人しょうにんスタフォードシャーしゅうストールブロックひと江戸えど時代じだい初期しょき日本にっぽん平戸ひらどにあったイギリス商館しょうかんちょうカピタン)をつとめた。在任ざいにんちゅうしるした詳細しょうさい公務こうむ日記にっき「イギリスしょう館長かんちょう日記にっき」(Diary kept by the Head of the English Factory in Japan: Diary of Richard Cocks, 1615-1622)は、イギリスのひがしアジア貿易ぼうえき実態じったい日本にっぽん国内こくない様々さまざま史実しじつつたえるいちきゅう史料しりょうである。

イギリス商館しょうかんちょう[編集へんしゅう]

1613ねん慶長けいちょう18ねん)、コックスはひがしインド会社かいしゃによって日本にっぽん派遣はけんされる。江戸えど幕府ばくふ大御所おおごしょ徳川とくがわ家康いえやす外交がいこう顧問こもんであったイングランドじんウィリアム・アダムス三浦みうら按針あんじん)の仲介ちゅうかいによって家康いえやす謁見えっけんして貿易ぼうえき許可きょかて、平戸ひらど商館しょうかんてて初代しょだい商館しょうかんちょう就任しゅうにんした。

1615ねん元和がんわ元年がんねん)に平戸ひらどにおいて、三浦みうら按針あんじん琉球りゅうきゅうからかえったサツマイモ九州きゅうしゅう以北いほく最初さいしょ栽培さいばいしたといわれている。

1615ねん6がつ5にち日記にっきに、「豊臣とよとみ秀頼ひでよりよう遺骸いがいつい発見はっけんせられず、したがって、かれひそかに脱走だっそうせしなりとしんじるものすくなからず。皇帝こうてい徳川とくがわ家康いえやす)は、日本にっぽん全国ぜんこくいのちはっして、大坂おおさか焼亡しょうぼうさいしろ脱出だっしゅつせしやから捜索そうさくせしめたり。って平戸ひらどいえは、すべて内偵ないていせられ、各戸かっこ宿泊しゅくはくする他郷たきょうじん調査ちょうさ実際じっさい報告ほうこくは、法官ほうかんていせられたり。」といている。

1616ねんには征夷大将軍せいいたいしょうぐん秀忠ひでただ朱印しゅいんじょう更新こうしんもとめるため江戸えど参府さんぷした。1617ねんには英国えいこくおうジェームズ1せい家康いえやすての親書しんしょ献上けんじょうするため伏見ふしみ秀忠ひでただ謁見えっけんしたが、返書へんしょられなかった。このころからオランダによるイギリス船隊せんたいへの攻撃こうげきはげしくなり、そのほううったえるため、1618ねん - 1619ねんには2めの江戸えど参府さんぷおこなった。1619ねんにも伏見ふしみ滞在たいざいちゅう秀忠ひでただ訪問ほうもんした。1620ねん元和がんわ6ねん)の平山ひらやまつねひね事件じけんでは、その積荷つみに密航みっこう宣教師せんきょうしスーニガおよびフローレスの国際こくさいほうじょうあつかいをめぐり幕府ばくふ貢献こうけんした。

しかし、1623ねん元和がんわ9ねん)のアンボン虐殺ぎゃくさつ事件じけんにイギリス商館しょうかん閉鎖へいさまったため日本にっぽん出国しゅっこく翌年よくねん帰国きこくふねちゅう病死びょうしした。

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]