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会津あいづ騒動そうどう

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会津あいづ騒動そうどう(あいづそうどう)は、陸奥みちのく会津あいづはんにおいて、藩主はんしゅ加藤かとう明成めいせい時代じだいこった江戸えど時代じだい前期ぜんきいえ騒動そうどうである。

経過けいか[編集へんしゅう]

加藤かとう明成めいせい[編集へんしゅう]

寛永かんえい4ねん1627ねん)、松山まつやまはんおも加藤かとう嘉明よしあきは20まんせきから40まんせき加増かぞうされたうえ会津あいづ藩主はんしゅとしてうつりふうされた。そして寛永かんえい8ねん1631ねん)9がつ死去しきょする。

嘉明よしあき死後しご家督かとく長男ちょうなん明成めいせいまましいだが、明成めいせいは『古今ここん武家ぶけ盛衰せいすい』において「私欲しよく日々ひびながじ、家人かじん知行ちぎょうみん年貢ねんぐにも利息りそくけてり、商人しょうにん職人しょくにんにも非道ひどう運上うんじょう割付わりつりけるゆえいえ口論こうろん商工しょうこう公事こうじ喧嘩げんかむことなし」、また飯田いいだ忠彦ただひこの『だい日本にっぽん野史やし』によれば「明成めいせいざいむさぼみんしいたげ、このんでいちきん玩弄がんろうす。ひとんでいち殿どのといふ。歴年れきねん貪欲どんよく暴横、のうしょうそうひ、四民しみん貧困ひんこんし、訟獄まず、群臣ぐんしんあるひは諫むるもかず」とつたえられる。

ほりしゅみずとの対立たいりつ[編集へんしゅう]

ほりしゅみず嘉明よしあき時代じだい功臣こうしんで、本姓ほんせいは「多賀たが」であるが、大坂おおさかじんではてきみあい、ほりちても相手あいてくびったということから「ほり」と名乗なのることを嘉明よしあきゆるされていた。 先代せんだいからの実績じっせきもあり、戦国せんごく時代じだい気骨きこつがあったほり明成めいせい素行そこうたいしてなんも諫言したが、ほり明成めいせい次第しだい不仲ふなかになっていく。 そんなとき、ほり家臣かしん明成めいせい家臣かしん喧嘩けんかをするという事件じけんこる。一方いっぽう筆頭ひっとう家老がろう家来けらい一方いっぽう藩主はんしゅちょくしんであったことから奉行ぶぎょう権限けんげんさばけることではなく、明成めいせいによる裁断さいだんあおがれた。すると明成めいせいほり家来けらいがあるとして処罰しょばつし、さらにほり連座れんざとして蟄居ちっきょめいじた。この処置しょちおこったほりは、蟄居ちっきょやぶって明成めいせいのもとにあらわれ、再度さいど裁断さいだん処罰しょばつ無効むこううったえた。これにたいして明成めいせいいか家老がろうしょく罷免ひめんする。

ほりしゅみず出奔しゅっぽん[編集へんしゅう]

寛永かんえい16ねん1639ねん)4がつ16にちほり実弟じってい多賀たが又八郎またはちろう一族郎党いちぞくろうとうひきいて、白昼はくちゅう堂々どうどう若松わかまつしろからった。しかもこのとき、若松わかまつじょうかって鉄砲てっぽうち、関所せきしょやぶるという暴挙ぼうきょにもている。 ほり鎌倉かまくらったあと高野山こうのやまのがれた。高野たかのさんほりしゅみずかくまいきれず、しゅみず紀州きしゅうはんたよるが、明成めいせい紀州きしゅうはんにもわたしを要求ようきゅうする。ほりしゅみず紀州きしゅうにもられなくなり、江戸えど幕府ばくふへ「おのれつみなきよしをもうす」が 家臣かしんでありながら関所せきしょやぶり、しろ鉄砲てっぽうちかけたことは「家臣かしんれいうしな国家こっかほうをみだる。つみゆるさるべからず」と明成めいせいわたされ、明成めいせいによっておとうとにんとも処刑しょけいされた。

所領しょりょう返上へんじょう[編集へんしゅう]

寛永かんえい20ねん1643ねん)4がつ明成めいせいは「やまい藩政はんせいれるではなく、また大藩たいはんおさめるにんにはこたえられず、所領しょりょう返還へんかんしたい」と幕府ばくふもうた。5月、幕府ばくふ加藤かとう改易かいえきつぶしをめいじたが、加藤かとう嘉明よしあき幕府ばくふたいする忠勤ちゅうきんなども考慮こうりょして、明成めいせいに1まんせきあらたにあたえて家名かめい再興さいこうゆるした。しかし明成めいせいおうじなかったため、幕府ばくふ明成めいせいあかりとも石見いわみ吉永よしながはん1まんせきあらたにあたえて家名かめい再興さいこうさせた。 『徳川とくがわ実紀みき』がつたえるのは以上いじょうのような経緯けいいである。ただし『徳川とくがわ実紀みき[1]まき53、寛永かんえい20ねん5がつ2にちじょう改易かいえき事実じじつしるしたあとで「つたうるしょは」と経緯けいいしるし、そこにほりしゅみずいちけんがあるので、この経緯けいい幕府ばくふ記録きろく日記にっき)にもとづくものではなく、どう時代じだい確実かくじつ史料しりょうはない。 明成めいせいあかりとも庇護ひごのもとで藩政はんせい口出くちだしせずに余生よせいおくり、万治まんじ4ねん1661ねん)1がつ死去しきょした。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 徳川とくがわ実紀みき3収録しゅうろくの「だい猷院殿御とのご実紀みき」pp.312-313。だい猷院殿どのとはさんだい将軍家しょうぐんけこう戒名かいみょう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 黒板こくばん勝美かつみ編輯へんしゅう国史こくし大系たいけいだい40かん しんてい増補ぞうほ 徳川とくがわ実紀みき だいさんへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1990ねん 
  • 黒川くろかわ真道まみちへん古今ここん武家ぶけ盛衰せいすい. 1』国史こくし研究けんきゅうかい、1914ねん 
  • 博文ひろぶみかん編輯へんしゅうきょくへん武将ぶしょう感状かんじょうぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1941ねん 
  • さん百藩藩主人名事典』 (新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ
  • さん百藩家臣人名事典』 (新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ
  • 南條なんじょう範夫のりお大名だいみょう廃絶はいぜつろく』 (新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ
  • 児玉こだまみゆき北島きたじまただしもとはん総覧そうらん』 (新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ
  • 竹内たけうちまこと徳川とくがわ幕府ばくふ事典じてん』 (東京とうきょうどう出版しゅっぱん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]