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松平 忠馮(まつだいら ただより)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。肥前国島原藩2代藩主。深溝松平家12代当主。官位は従五位下・主計頭、主殿頭。
明和8年(1771年)5月6日、6代藩主(当時は下野国宇都宮藩2代藩主)・松平忠恕の六男として誕生。兄らは庶兄で他家に養子入りしたため、正室の子の忠馮が世子となり、天明7年(1787年)12月18日に従五位下・主計頭に叙任される。寛政4年(1792年)、父が雲仙岳眉山の大爆発による心労で急死したため、家督を継いだ。
忠馮は雲仙岳の爆発による領民の救済のため、幕府から1万2,000両を借用し、さらに衣類取締令・奢侈禁止令などを出して出費を抑制し、苦しくなっていた藩財政の再建も目指した。文化期に入ると外国船の来航が問題になり始めたため、海防の強化を行なっている。しかし相次ぐ天災や海防問題などから財政はさらに悪化したため、忠馮は橋爪宗平と板倉勝彪を登用して藩政改革を行なった。文化7年(1810年)6月には三府会議制を創設し、これにより大坂商人との取引などを行なった。文化8年(1811年)には国産方役所を設置して専売制を始め、文化9年(1812年)には公事方役所を設置して裁判の迅速化を図った。
文化13年(1816年)、板倉勝彪が「御内定書上表文」を提出し、財政再建のために家臣団のリストラが必要であると訴えたが、忠馮は存命中は受け入れなかった(死後の文政8年(1825年)からリストラが始まる)。農民政策に関しても、文化11年(1814年)に農民永保法を制定して百姓関係の土地整理を行なった。学問関係では、寛政6年(1793年)9月に藩校・稽古館を創設している。
松平忠馮の墓(幸田町本光寺)
このように改革が実りつつあった中での文政2年(1819年)1月28日に死去した。享年49。家督を四男・忠侯が継いだ。
父母
正室
側室
子女
深溝松平氏島原藩2 代藩主 (1792 年 - 1819 年) |
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有馬家 | |
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1614年から1616年まで幕府領
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松倉家 | |
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高力家 | |
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深溝松平家 | |
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戸田家 | |
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深溝松平家 | |
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