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松平まつだいらただししつ

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松平まつだいらただししつ
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
生誕せいたん 文化ぶんか6ねん2がつ4にち1809ねん3月19にち
死没しぼつ 文久ぶんきゅう元年がんねん8がつ15にち1861ねん9月19にち
別名べつめい 通称つうしょう邦之助くにのすけ
戒名かいみょう みどりまついん殿どの凌雲りょううんみなもとさかえだい居士こじ
墓所はかしょ 東京とうきょうみなとしば大円寺だいえんじ
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ旗本はたもと
主君しゅくん 徳川とくがわ家斉いえなり家慶いえよし
氏族しぞく 大河内おおこうち松平まつへい五井ごい松平まつへい
父母ちちはは ちち松平まつだいら信明のぶあきはは服部はっとりむすめとお[1]
養父ようふ松平まつだいらただしもと
兄弟きょうだい ぼうしんじゅんあつこれすけいずみ吉郎よしろう本庄ほんじょう道貫みちつらしんじあつ津軽つがるじゅんうけたまわぼう深井ふかいしんきょうぼう
ちゅうしつ内藤ないとう忠行ただゆき大森おおもりよりゆき阿部あべただしあきらこうまささかえしたがえにしきあつしあつしいさお
養子ようしきんみつる
ちゅう弘之ひろゆきすけ
テンプレートを表示ひょうじ

松平まつだいら ただししつ(まつだいら ただかた)は、江戸えど時代じだい後期こうき旗本はたもと寄合よりあい)。五井ごい松平まつへい15だい当主とうしゅ石高こくだかは5500せきあまり

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

文化ぶんか6ねん1809ねん)2がつ4にち三河みかわ吉田よしだはん3だい藩主はんしゅ松平まつだいら信明のぶあきじゅういちおとことして江戸えど辰ノ口たつのくち吉田よしだはん上屋敷かみやしき誕生たんじょう文化ぶんか9ねん1812ねん)8がつ27にち旗本はたもと松平まつだいらただしもとちゅうこう)の養子ようしとなる。

文政ぶんせい2ねん1819ねんうるう4がつ13にち吉田よしだ藩邸はんていから養家ようか五井ごい松平まつへいてい引越ひっこす。文政ぶんせい3ねん1820ねん)に養父ようふぼっし、9月4にち家督かとく相続そうぞくする。天保てんぽう2ねん1831ねん)7がつ24にち火消ひけしやく天保てんぽう5ねん1834ねん)9がつ25にちひゃく人組にんぐみあたまとなる。天保てんぽう6ねん1835ねん)7がつ24にちびょうによりやく御免ごめんとなる。天保てんぽう11ねん1840ねん)8がつ4にち隠居いんきょし、嫡男ちゃくなんちゅう家督かとくいだ。

文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん)8がつ15にち死去しきょ享年きょうねん53。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 側室そくしつ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 寛政かんせい以降いこう旗本はたもと百科ひゃっか事典じてんだい5かん
  • 豊橋とよはしだい6かん