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松平家忠 (形原松平家) - Wikipedia コンテンツにスキップ

まつ平家ひらかただし (形原かたはら松平まつだいら)

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まつ平家ひらかただし
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん16ねん1547ねん
死没しぼつ 天正てんしょう10ねん10月16にち1582ねん11月11にち
別名べつめい 通称つうしょう紀伊きいもりまた七郎しちろう
戒名かいみょう きよしくも
墓所はかしょ 蒲郡がまごおり光忠みつただてら
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ
主君しゅくん 松平まつだいら元康もとやす
氏族しぞく 形原かたはら松平まつだいら
父母ちちはは ちちまつ平家ひらかひろ
はは水野みずの忠政ただまさむすめ於丈のほう
兄弟きょうだい いえただし左近さこん鳥居とりい元忠もとただ正室せいしつ
つま 酒井さかい正親まさちかむすめ
家信かしん
テンプレートを表示ひょうじ

松平まつだいら ただし(まつだいら いえただ)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう通称つうしょう紀伊きいもりまたななろう形原かたはら松平まつだいら5だい当主とうしゅ徳川とくがわ家康いえやす従弟じゅうてい

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

4だい当主とうしゅまつ平家ひらかひろとして誕生たんじょうした。はは・於丈のほうは、於大おだいほう松平まつだいらひろただし離縁りえんされ実家じっか水野みずのもどされたさいとも実家じっかもどされたとつたえられているが、小川おがわつよしいえちゅう誕生たんじょう松平まつだいらひろちゅう於大おだいほう離縁りえんすうねんであることからその通説つうせつには矛盾むじゅんがあるとして、形原かたはら松平まつだいら水野みずの同調どうちょうしてこうちゅう対立たいりつしていたとしている[1][2]

その主家しゅか松平まつだいら同様どうよう今川いまがわ従属じゅうぞくし、いえちゅうおとうと左近さこんたけせんだいとも人質ひとじちになり今川いまがわかたおくられていたが、えいろく3ねん1560ねん)に今川いまがわ義元よしもとおけ狭間はざまたたかにし、今川いまがわ弱体じゃくたいすると、主家しゅか松平まつだいら元康もとやす徳川とくがわ家康いえやす)ととも形原かたはら松平まつだいら今川いまがわより離反りはんしたが、そのさい左近さこん処刑しょけいされている。しかし、ちちいえひろ周辺しゅうへん領主りょうしゅとの所領しょりょうあらそいをきっかけにすぐに今川いまがわ寝返ねがえり、もなくふたた元康もとやすしたがうという行動こうどうっている[3]

まつ平家ひらかただしはか(蒲郡がまごおり光忠みつただてら)

いえちゅう成人せいじん当主とうしゅとなると、家康いえやすしたがい、一向いっこう一揆いっきたたかい、また、今川いまがわかた吉田よしだしろめにおいては奮戦ふんせんして勝利しょうりし、左近さこんかたきである小原おはら鎮実やぶった。のち駿河するがこくわれ掛川かけがわじょうのがれた今川いまがわ氏真うじざね家康いえやす攻略こうりゃくしたさいには、氏真うじざねこう北条ほうじょう領地りょうちである伊豆いずこく護送ごそうするにんたした。天正てんしょう3ねん1575ねん)の長篠ながしのたたかにも参戦さんせん活躍かつやくする。

天正てんしょう10ねん1582ねん)に形原かたはらにおいて死去しきょした。法名ほうみょうきよしくも

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ひがしさんかわ平定へいていした今川いまがわ義元よしもと形原かたはらじょう奥平おくだいらさだともあたえており、形原かたはら松平まつだいら今川いまがわによって一時いちじてき形原かたはらわれた可能かのうせいたかいとされる。
  2. ^ 戦国せんごく豊臣とよとみ大名だいみょう徳川とくがわかたちはら松平まつへい」P42-43.
  3. ^ 戦国せんごく豊臣とよとみ大名だいみょう徳川とくがわかたちはら松平まつへい」P43-47.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 小川おがわつよし戦国せんごく豊臣とよとみ大名だいみょう徳川とくがわかたちはら松平まつへい戦国せんごく研究けんきゅうかい へん戦国せんごく政治せいじ論集ろんしゅう 西国さいこくへん』(岩田いわた書院しょいん、2017ねんISBN 978-4-86602-013-6