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松平忠房 (島原藩主) - Wikipedia コンテンツにスキップ

松平まつだいらただしぼう (島原しまばら藩主はんしゅ)

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松平まつだいら ただしぼう
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき - 中期ちゅうき
生誕せいたん 元和がんわ5ねん2がつ12にち1619ねん3月27にち
死没しぼつ 元禄げんろく13ねん10月1にち1700ねん11月11にち
改名かいめい 五郎八ごろうはち幼名ようみょう)→ただぼう
戒名かいみょう きょうけいいん殿どの大倉おおくられいたいくもげんどおりだい居士こじ
墓所はかしょ 愛知あいちけん額田ぬかたぐん幸田こうだまち深溝ふかみぞ本光寺ほんこうじ
官位かんい したがえしゅ殿しんがりあたましたがえよん
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家光いえみつ家綱いえつな綱吉つなよし
はん 三河みかわ吉田よしだはんおもどう刈谷かりやはんおも丹波たんば福知山ふくちやまはんおも肥前ひぜん島原しまばらはんあるじ
氏族しぞく 深溝ふかみぞ松平まつだいら
父母ちちはは ちち松平まつだいら忠利ただとしははまつ平家ひらかきよしむすめ
兄弟きょうだい ちゅうぼうちゅういもうと木下きのした俊治しゅんじ正室せいしつ
つま 正室せいしつ鍋島なべしま勝茂かつしげむすめえいはるいん殿どの
側室そくしつ石丸いしまる定次さだじむすめ
こうぼうちゅうりん
養子ようし忠雄ただお
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松平まつだいら ただしぼう(まつだいら ただふさ)は、江戸えど時代じだい前期ぜんき大名だいみょう三河みかわこく吉田よしだはんだい2だい藩主はんしゅ。のちさんかわ刈谷かりやはんおも丹波たんばこく福知山ふくちやまはんあるじて、肥前ひぜんこく島原しまばらはん初代しょだい藩主はんしゅとなる。「いえちゅう日記にっき」で有名ゆうめいまつ平家ひらかただし嫡孫ちゃくそん深溝ふかみぞ松平まつだいら6だい当主とうしゅ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

元和がんわ5ねん1619ねん)2がつ12にち吉田よしだはん初代はつよ藩主はんしゅ松平まつだいら忠利ただとし長男ちょうなんとして吉田よしだしろ誕生たんじょう寛永かんえい9ねん1632ねん)にちち死去しきょしたため家督かとくいだが、8がつ12にち三河みかわ刈谷かりやうつりふうされた。12月にしたがえしゅ殿しんがりあたま叙位じょい任官にんかんする。慶安けいあん2ねん1649ねん)2がつ18にち丹波たんば天田あまだぐんなに鹿しかぐんなどに1まん5000せき加増かぞうされて4まん5000せき丹波たんば福知山ふくちやま加増かぞううつりふうされた。寛文ひろふみ6ねん1666ねん)には丹後たんごこく宮津みやづはん3だい藩主はんしゅ京極きょうごくだかこく改易かいえきによる宮津みやづしろやくつとめた。

寛文ひろふみ9ねん1669ねん)6がつ8にち、2まん3000せき加増かぞうされて6まん5900せきうえ肥前ひぜん島原しまばら加増かぞううつりふうされた。島原しまばらはんでは藩政はんせい確立かくりつのために積極せっきょくてき藩政はんせい改革かいかくおこない、しょ行政ぎょうせい機関きかん設置せっちはじめ、寛文ひろふみ11ねん1671ねん)に宗門しゅうもんあらたおこなって寺社じしゃ政策せいさく尽力じんりょくし、のべたから7ねん1679ねん)には検地けんちおこなって検見けんみせい税率ぜいりつとしてさだめる一方いっぽうで、減税げんぜい政策せいさくなどもおこなって農民のうみん経営けいえい安定あんていつとめた。また文学ぶんがく奨励しょうれいし、ちゅうぼう自身じしんおおくの書物しょもつ収集しゅうしゅうして、現在げんざいではそれらの書物しょもつ松平まつだいら文庫ぶんことして所蔵しょぞうされており[1]みずからも「なおしゃみなもとただしぼう」という蔵書ぞうしょしるしもちいている。

寛文ひろふみ12ねん1672ねん)7がつには天草あまくさぐん1300せきあずかりとしてあたえられたが、これはちゅうぼう長崎ながさき奉行ぶぎょう監督かんとくならびに長崎ながさき警備けいび西国さいごく大名だいみょう監視かんしめいじるものでもあった。このように幕府ばくふから重用じゅうようされたただしぼうは、天和てんわ3ねん1683ねん)12月にしたがえよん昇叙しょうじょされている。

松平まつだいらただしぼうはか(幸田こうだまち本光寺ほんこうじ)

しかしちゅうぼう長男ちょうなんこうぼう早世そうせいし、次男じなんちゅうりん暗愚あんぐなため廃嫡はいちゃく後継こうけいしゃめぐまれず、養子ようし松平まつだいらゆき次男じなん忠雄ただおむかえ、元禄げんろく11ねん1698ねん)4がつ18にち家督かとくゆずって隠居いんきょした。元禄げんろく13ねん(1700ねん)10がつ1にち死去しきょした。享年きょうねん82[1]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

父母ちちはは

正室せいしつ

側室そくしつ

子女しじょ

養子ようし

松平まつだいら写本しゃほん[編集へんしゅう]

豊橋とよはし図書館としょかん蔵書ぞうしょの『松平まつだいらちゅうぼう写本しゃほんが、2023ねんれい5ねん現在げんざい最古さいこ写本しゃほんであることが判明はんめいし、その記述きじゅつにも写本しゃほんとはおおきくちが部分ぶぶんがあり、徳川とくがわ家康いえやす以前いぜん松平まつだいら歴史れきしについての解明かいめいすすむのではないかと期待きたいされている[2]。この写本しゃほんではちゅうぼう自己じこ系図けいずわせて検討けんとうしたとられる記述きじゅつや、大久保おおくぼ忠教ただたか三河みかわ物語ものがたり参考さんこうにして比較ひかく検討けんとうしたとおもわれる記述きじゅつもある。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 勝又かつまたはじめ松平まつだいらただしぼう孝子こうしでん漢文かんぶん孝子こうしでん役割やくわり展開てんかい―」『近世きんせい文藝ぶんげい』、日本にっぽん近世きんせい文学ぶんがくかい、2010ねん、30-43ぺーじdoi:10.20815/kinseibungei.91.0_30 
  2. ^ しん発見はっけん!】当館とうかん所蔵しょぞうの『松平まつだいら』が吉田よしだ藩主はんしゅ松平まつだいらただしぼう直筆じきひつであることを確認かくにんしました!”. 豊橋とよはし図書館としょかん (2023ねん2がつ16にち). 2023ねん12月9にち閲覧えつらん