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松平まつだいらゆき

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松平まつだいら ゆき
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき - 中期ちゅうき
生誕せいたん 寛永かんえい21ねん1644ねん
死没しぼつ 正徳まさのり5ねん9月4にち1715ねん10月1にち
改名かいめい ゆきとどこおゆき(法名ほうみょう)
別名べつめい みぎ衛門えもん兵衛ひょうえ
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ 書院しょいんばん きりあいだばん 小納戸こなんど
主君しゅくん 徳川とくがわ家綱いえつな綱吉つなよし家宣いえのぶ家継いえつぐ
氏族しぞく 深溝ふかみぞ松平まつだいら
父母ちちはは ちち松平まつだいら忠久ただひさ はは朝倉あさくらざいじゅうむすめ
兄弟きょうだい ゆき山岡やまおかけいこのみ数馬かずま戸田とだただしことぶきしつ
つま 石丸いしまる定次さだじむすめ
忠久ただひさ忠雄ただお女子じょし稲垣いながきしげるたけしつちゅうぶく五郎左衛門ごろうざえもん女子じょし男子だんし女子じょしじゅうすけ六之助ろくのすけ喜内きない女子じょし女子じょし
養子ようし忠正ただまさ(朝倉あさくらだかきょう次男じなん)
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松平まつだいら ゆき(まつだいら これゆき、寛永かんえい21ねん(1644ねん) - 正徳まさのり5ねん(1715ねん))は、江戸えど時代じだい前期ぜんきから中期ちゅうきにかけての旗本はたもと

略歴りゃくれき

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あかりれき3ねん(1657ねん)7がつ16にち、4だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家綱いえつな拝謁はいえつ寛文ひろふみ3ねん(1663ねん)12月19にち書院しょいんばんになり、貞享ていきょう2ねん(1685ねん)3がつ12にちきりあいだばん転任てんにん、4がつ22にち小納戸こなんど転任てんにん、12月26にち布衣ふい着用ちゃくようゆるされる。

貞享ていきょう3ねん(1686ねん)12月4にちあおいもんえがかれた茶碗ちゃわんたまわる。またこの時期じきに「かそけらくのき」の3文字もじく。

貞享ていきょう4ねん(1687ねん)2がつ3にちじょうこうふうもちいるさい石原いしはら正次まさつぐ署名しょめいしるされているふう加藤かとうただし自身じしん印判いんばんをすえたのとおなじように印判いんばんをすえたことが露見ろけん将軍しょうぐんいかりを所領しょりょう没収ぼっしゅうされ、一柳いちりゅうまつれいのもとにあづけられる。

元禄げんろく元年がんねん(1688ねん)7がつ31にちつみゆるされ、12月11にちふたた出仕しゅっし小普請こぶしんれっする。18にちこめ200ひょうたまわる。元禄げんろく5ねん(1692ねん)3がつ18にちふたた書院しょいんばんとなり、翌年よくねん家督かとくぐ。元禄げんろく9ねん(1696ねん)12月22にち長年ながねんおこたらずに勤務きんむつづけたことをしょうされ、黄金おうごん5まいたまわる。

元禄げんろく16ねん(1703ねん)9がつ21にち書院しょいんばんし、宝永ほうえい5ねん(1708ねん)8がつ6にち隠居いんきょ正徳まさのり5ねん(1715ねん)9がつ4にち死去しきょ享年きょうねん71。

長男ちょうなん忠久ただひさ病気びょうきのため廃嫡はいちゃくしており、自身じしんしたがえおいにあたる忠正ただまさ(朝倉あさくらだかきょう次男じなん)が養子ようしとなって家督かとくいだ。

系譜けいふ

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父母ちちはは

正室せいしつ

子女しじょ

養子ようし

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょかだい1輯,國民こくみん圖書としょ,1922. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 91コマ https://dl.ndl.go.jp/pid/1082717/1/91 (参照さんしょう 2024-03-01)
  • 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょかだい4輯,國民こくみん圖書としょ,1923. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 283コマhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1082713/1/283 (参照さんしょう 2024-03-01)