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木下きのした俊治しゅんじ

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木下きのした俊治しゅんじ
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 慶長けいちょう19ねん10月27にち1614ねん11月28にち
死没しぼつ 万治まんじ4ねん4がつ3にち1661ねん5月1にち
改名かいめい 文蔵ぶぞうひだり兵衛ひょうえ伊賀いがまもる通称つうしょう
戒名かいみょう てんさわいんとくがん宗高むなだか
墓所はかしょ 大分おおいたけん速見はやみぐん日出ひのでまち松屋まつやてら
官位かんい したがえ伊賀いがまもる
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ秀忠ひでただ家光いえみつ家綱いえつな
はん 豊後ぶんご日出にっしゅつはんあるじ
氏族しぞく 木下きのした
父母ちちはは ちち木下きのしたのべしゅんははくもおくいん福富ふくとみ内記ないきむすめ
兄弟きょうだい 俊治しゅんじおんな松平まつだいら忠重ただしげ正室せいしつ)、おんな木下きのしたとしとう正室せいしつ)、のべゆかり俊之としゆきしゅんじゅう、ほか
つま 正室せいしつ松平まつだいら忠利ただとしむすめ
継室けいしつ西尾にしおただしひさしむすめ
側室そくしつ安藤あんどうほか
女児じょじしゅんちょう長治ながはる、紹策
テンプレートを表示ひょうじ

木下きのした 俊治しゅんじ(きのした としはる)は、江戸えど時代じだい前期ぜんき大名だいみょう豊後ぶんご日出にっしゅつはん2だい藩主はんしゅ官位かんいしたがえ伊賀いがまもる

略歴りゃくれき

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慶長けいちょう19ねん1614ねん)10がつ27にち初代しょだい藩主はんしゅ木下きのしたのべしゅん三男さんなんとして日出ひのでまれる。

元和がんわ9ねん1623ねん)、9さいのときにはじめて将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただ拝謁はいえつした。

寛永かんえい14ねん(1637ねん)に島原しまばららんき、ちちのべしゅんとも出陣しゅつじんするように命令めいれいけた。12月1にち島原しまばら到着とうちゃくしたが、ほどなく鎮定ちんていされた。

寛永かんえい19ねん1642ねん)5がつ19にちちち死去しきょによりのこりょうぐ。このとき2まん5,000せきりょうし、おとうと延次のぶじのべよしに5,000せき分与ぶんよした。6月にはじめて将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ拝謁はいえつした。

正保まさやす元年がんねん1644ねん)12月29にちしたがえ伊賀いがまもる叙任じょにんされた。同年どうねん4がつ25にちはじめて領地りょうち下向げこうする。

あかりれき2ねん1656ねん)の豊後ぶんご府内ふないはんおも日根野ひねの吉明よしあき改易かいえきでは、うるう4がつ13にち松平まつだいらえいおやとも豊後ぶんご府内ふないおとずれてしろわたさせ、そのままざいばんつとめた。翌年よくねん正月しょうがつ帰還きかん

その江戸えど府内ふないばんやくなどをつとめ、藩政はんせいでは薩摩さつまはんから「七島ななしまらん」を導入どうにゅうして、その国産こくさんつとめている。

万治まんじ4ねん1661ねん)4がつ3にち参勤交代さんきんこうたい途中とちゅう三河みかわ二川ふたかわ駅舎えきしゃにおいて急死きゅうしした。享年きょうねん48。死後しご家督かとく長男ちょうなんしゅんちょういだ。墓所はかしょ大分おおいたけん速見はやみぐん日出ひのでまち松屋まつやてら法号ほうごうてんさわいん法名ほうみょうとくがんむねだか

系譜けいふ

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父母ちちはは
妻子さいし

参考さんこう文献ぶんけん

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