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木下 俊治(きのした としはる)は、江戸時代前期の大名。豊後日出藩2代藩主。官位は従五位下・伊賀守。
慶長19年(1614年)10月27日、初代藩主・木下延俊の三男として日出で生まれる。
元和9年(1623年)、9歳のときに初めて将軍徳川秀忠に拝謁した。
寛永14年(1637年)に島原の乱が起き、父・延俊と共に出陣するように命令を受けた。12月1日に島原に到着したが、ほどなく鎮定された。
寛永19年(1642年)5月19日、父の死去により遺領を継ぐ。このとき2万5,000石を領し、弟・延次(延由)に5,000石を分与した。6月に初めて将軍徳川家光に拝謁した。
正保元年(1644年)12月29日、従五位下・伊賀守に叙任された。同年4月25日、初めて領地に下向する。
明暦2年(1656年)の豊後府内藩主・日根野吉明の改易では、閏4月13日、松平英親と共に豊後府内へ訪れて城を明け渡させ、そのまま在番を務めた。翌年正月に帰還。
その他、江戸府内火番役などを務め、藩政では薩摩藩から「七島蘭」を導入して、その国産化に努めている。
万治4年(1661年)4月3日、参勤交代途中の三河二川の駅舎において急死した。享年48。死後、家督は長男・俊長が継いだ。墓所は大分県速見郡日出町の松屋寺。法号は天沢院。法名は徳岩宗高。
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