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松平忠和 (島原藩主) - Wikipedia コンテンツにスキップ

松平まつだいら忠和ただかず (島原しまばら藩主はんしゅ)

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松平まつだいら 忠和ただかず
松平まつだいら忠和ただかず
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき - 大正たいしょう時代じだい
生誕せいたん よしみひさし4ねん2がつ12にち1851ねん3月14にち
死没しぼつ 大正たいしょう6ねん1917ねん6月8にち
改名かいめい ろく麿まろ幼名ようみょう)、あきら嗣(はつ)、忠和ただかず
戒名かいみょう しんりゅういん殿どのせんやまみなもとすぐるだい居士こじ
墓所はかしょ 愛知あいちけん額田ぬかたぐん幸田こうだまち深溝ふかみぞ本光寺ほんこうじ
官位かんい したがえしゅ殿しんがりあたま
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家茂いえもち慶喜よしのぶ明治天皇めいじてんのう
はん 肥前ひぜん島原しまばらはんあるじ
氏族しぞく 水戸みと徳川とくがわ深溝ふかみぞ松平まつだいら
父母ちちはは 徳川とくがわ斉昭なりあきこうおかひさしむすめ徳子とくこ
松平まつだいらただしあい
兄弟きょうだい けんひめしゅくひめ徳川とくがわ慶篤よしあつまつひめ
徳川とくがわ慶喜よしのぶ池田いけだ慶徳けいとく池田いけだしげるせいじきこう
はちだいひめたけさとし喜連川きつれがわなわあきらくん
徳川とくがわ貞子さだこ忠和ただかず土屋つちやきょじき愛子あいこ
徳川とくがわ昭武あきたけとくよりゆきこれせいひめら22なん15じょ
つま 酒井さかいただしはつむすめ錦子きんこやぶ実方じつかたむすめ中山なかやま文子ふみこ
やすふく田鶴子たづこ
ちゅう千家せんげたかししつ
テンプレートを表示ひょうじ

松平まつだいら 忠和ただかず(まつだいら ただかず)は、江戸えど時代じだい後期こうき大名だいみょう肥前ひぜんこく島原しまばらはんだい8だい最後さいご)の藩主はんしゅ江戸えど幕府ばくふの15だい将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶ異母弟いぼてい深溝ふかみぞ松平まつだいら18だい当主とうしゅ維新いしんはんごと子爵ししゃく

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

よしみひさし4ねん1851ねん)2がつ12にち常陸ひたちこく水戸みとはん9だい藩主はんしゅ徳川とくがわ斉昭なりあきじゅうろくおとことして誕生たんじょうした。幼名ようみょうろく麿まろはつあきら(あきつぐ)。文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)に7だい藩主はんしゅ松平まつだいらただしあい嗣子ししくして急死きゅうししたため、して急遽きゅうきょ末期まっき養子ようしとなって家督かとくいだ。12月16にちしたがえしゅ殿しんがりあたま叙位じょい任官にんかんする。

文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)には海防かいぼう強化きょうか必要ひつようせいから軍制ぐんせい改革かいかくおこなうが、佐賀さがはん薩摩さつまはんのような洋式ようしき軍制ぐんせいではなく、時代遅じだいおくれの軍制ぐんせいであった。忠和ただかず慶喜よしのぶおとうとだったことから、元治もとはる元年がんねん1864ねん)にはだいいち長州ちょうしゅう征討せいとう幕府ばくふかたとして参加さんかし、慶応けいおう2ねん1866ねん)のだい長州ちょうしゅう征討せいとうにも参加さんかした。

ところが、忠和ちゅうわ佐幕さばくてき行動こうどう尊王そんのう攘夷じょういである下級かきゅう武士ぶし不満ふまんまねき、一部いちぶ過激かげき尊攘そんじょう藩士はんし脱藩だっぱんして天誅てんちゅうぐみへん天狗てんぐとうらん参加さんかしたりした。慶応けいおう元年がんねん1865ねん)8がつ13にちには伊東いとう虎之助とらのすけらの過激かげきはん中老ちゅうろう松坂まつさかただしつな私邸していおそって松坂まつさかころし、「激烈げきれつぐみ」という尊王そんのう攘夷じょうい運動うんどうこすほどの内紛ないふんこって島原しまばらはん混乱こんらんしたが、あまりに過熱かねつした行動こうどう周囲しゅうい支持しじられなくなり、やがて沈静ちんせいした。

慶応けいおう4ねん1868ねん)1がつからの戊辰戦争ぼしんせんそうではしん政府せいふ恭順きょうじゅんし、秋田あきたはん盛岡もりおかはん雫石しずくいしなどに出兵しゅっぺいしている。明治めいじ2ねん1869ねん)6がつ版籍はんせき奉還ほうかん島原しまばらはん知事ちじ任命にんめいされ、明治めいじ4ねん1871ねん)7がつ14にち廃藩置県はいはんちけんはんごと免官めんかんされて、東京とうきょううつった。同年どうねん11がつ明治めいじ政府せいふから欧米おうべい視察しさつ許可きょかる。明治めいじ6ねん1873ねん)10がつ、イギリスから帰国きこくする。帰国きこく、しばらくすると家政かせい問題もんだいしょうじた。忠和ちゅうわ放蕩ほうとうなどによる家計かけい窮乏きゅうぼうきゅう家臣かしんだん派閥はばつ対立たいりつくわわり、混乱こんらんおおきくなった。水戸みとおい徳川とくがわあつしけいらが家政かせい相談役そうだんやくになることによって、事態じたい収拾しゅうしゅうされた。

松平まつだいら忠和ただかずはか(幸田こうだまち本光寺ほんこうじ)

明治めいじ7ねん1874ねん)、東照宮とうしょうぐう宮司ぐうじとなった。明治めいじ14ねん1881ねん)の明治めいじ法律ほうりつ学校がっこう現在げんざい明治大学めいじだいがく)の開校かいこうさいしては、有楽町ゆうらくちょう所在しょざいしたきゅう邸宅ていたく校舎こうしゃとして提供ていきょうするなど、同校どうこう有力ゆうりょく後援こうえんしゃとなった。明治めいじ17ねん1884ねん)に子爵ししゃくれつした。明治めいじ18ねん1885ねん)、みや内省ないせい出仕しゅっしした。明治めいじ27ねん1894ねん)、忠和ちゅうわ監禁かんきんしたとして長男ちょうなんちゅうきゅう家臣かしんらを告訴こくそし、新聞しんぶんは「だい相馬そうま事件じけん」とてた[1]大正たいしょう6ねん(1917ねん)6がつ8にち死去しきょ享年きょうねん67。異母いぼけいである慶喜よしのぶ自身じしんぼっする4ねんまえに77さいぼっしているが、ちち斉昭なりあき正室せいしつ側室そくしつとのあいだもうけた37にん子女しじょなかには早世そうせいした兄弟きょうだい姉妹しまいおおく、兄弟きょうだいなかでは慶喜よしのぶ長生ながいきしたことになるが、斉昭なりあき子女しじょなか最後さいごぼっしたことにもなる。

家族かぞく[編集へんしゅう]

父母ちちはは

つま

側室そくしつ

  • やす
  • ふく
  • 田鶴子たづこ

子女しじょ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ きゅう島原しまばら藩主はんしゅ松平まつだいら忠和ただかず監禁かんきん告訴こくそ新聞しんぶん集成しゅうせい明治めいじ編年史へんねんし. だい9かん林泉りんせんしゃ、1940ねん
  2. ^ 岳父がくふ子爵ししゃく土屋つちやきょじき忠和ちゅうわおとうと)。
  3. ^ 千家せんげ尊福たかとみおとうと
  4. ^ 千家せんげたかしみつる現代げんだい華族かぞくよう維新いしん史料しりょう編纂へんさんかいへん日本にっぽん史籍しせき協会きょうかい、1929
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
子爵ししゃく
島原しまばら深溝ふかみぞ松平まつだいら初代しょだい
1884ねん - 1917ねん
次代じだい
松平まつだいらただしりょう