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大河内 信古(おおこうち のぶひさ)は、三河吉田藩の第7代(最後)の藩主。松平伊豆守系大河内松平家11代。はじめ松平信古と名乗る。
文政12年(1829年)4月23日、越前鯖江藩主間部詮勝の次男として江戸で生まれる。間部家時代は元服後に間部詮信を名乗った。嘉永2年(1849年)9月24日に吉田藩主松平信璋の没後婿養子に迎えられ、同26日に信古と名乗る。同年11月15日に家督を相続し、12月1日に家督の御礼として初めて将軍家慶・世子家定に拝謁する。その後奏者番、寺社奉行を歴任する。
万延元年(1860年)5月に正室が男子を出産するが、母子ともに亡くなってしまう。信古は異姓養子であったため、大河内松平家の血縁の女性を継室に迎えることが求められ、文久元年(1861年)12月10日に松平信祝の娘の血を引く[1]越後新発田藩主溝口直溥の娘・鋹子を継室に迎えた。
文久2年(1862年)6月30日に大坂城代に登用され大坂に向かうが、この時に継室の同伴を願い出て許されている。大坂城代在任中は幕末の動乱期であり、約200年ぶりの将軍上洛や生野の変、第一次長州征討など様々な難問が山積していた時期であった。
慶応元年(1865年)1月に江戸に召し出され、2月15日に溜間詰格となる。溜間詰は特定の親藩・譜代数家が世襲するもので、重要事について幕閣の諮問を受ける地位であった。これに老中を永年勤めて退任した大名が1代限りで溜間詰格として加わることがあった。したがって、老中を経験していない信古が任命されたのは異例の抜擢と言える。
慶応3年(1867年)12月13日、将軍慶喜に合流するため幕府の軍艦翔鶴丸で品川沖を発する。途中暴風雨に見舞われ、同月25日にようやく天保山沖に到着する。しかし慶応4年(1868年)1月3日に鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、慶喜がひそかに大坂を脱出すると信古も大坂を離れ、陸路を経て吉田城へ帰城する。それまで吉田藩は穂積清軒らの佐幕派と勤王派に分かれていたが、間もなく新政府軍に加わり、家名も「松平」から「大河内」に復姓した。
新政府側についた吉田藩は、鳥羽・伏見で旧幕府軍を指揮した大河内正質(信古の実弟)が藩主であった上総大多喜藩の領知人民を預けられ、さらには江戸を追放された信古の実父・間部詮勝の護送役も命じられた。
明治4年(1871年)7月14日に廃藩となると東京谷中へ移住し、1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵した[2]。1888年(明治21年)11月27日に死去。享年60。
絵画を好み、吉田藩御用絵師稲田文笠に師事した。松峰という画号を持ち、多くの作品を残している。
※ 日付は1871年(明治4年)まで旧暦。
父母
正室、継室
子女
- 日本史籍協会編・続日本史籍協会叢書『増補幕末明治重職補任 附諸藩一覧』東京大学出版会
- 児玉幸多監修・新田完三編『内閣文庫蔵・諸侯年表』東京堂出版
- 東京大学史料編纂所「維新史料綱要データベース」
- 大日本近世史料『柳営補任』
- 『豊橋市史』第2巻・第6巻
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