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大河内おおこうちしんいにしえ

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松平まつだいらしんいにしえ / 大河内おおこうちしんいにしえ
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき - 明治めいじ時代じだい
生誕せいたん 文政ぶんせい12ねん4がつ23にち1829ねん5月25にち
死没しぼつ 明治めいじ21ねん1888ねん11月27にち
改名かいめい 理三郎りさぶろう幼名ようみょう)→間部まべかいしん松平まつだいらしんいにしえ
大河内おおこうちしんいにしえ
別名べつめい 松峰まつみね
戒名かいみょう 瑞雲ずいうんいん殿どの松峰まつみねそうしげるだい居士こじ
墓所はかしょ 埼玉さいたまけん新座にいざ野火止のびどめ平林寺へいりんじ
官位かんい したがえ伊豆いずまもる刑部おさかべ大輔だいすけ
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ奏者そうしゃばん寺社じしゃ奉行ぶぎょう大坂おおさか城代じょうだい
主君しゅくん 徳川とくがわ家慶いえよし家定いえさだ家茂いえもち慶喜よしのぶ
はん 三河みかわ吉田よしだはんおも豊橋とよはしはん知事ちじ
氏族しぞく 間部まべ大河内おおこうち松平まつへい
父母ちちはは ちち間部まべ詮勝あきかつははすだれ松平まつだいらやすしにんむすめ
養父ようふ松平まつだいらしんあきら
兄弟きょうだい 間部まべ右京うきょう間部まべかいしんじふる間部まべかいぜん間部まべ虎之助とらのすけ大河内おおこうちただししつ菅沼すがぬまじょうちょう杉浦すぎうらただしいん間部まべかいどう室賀むろがただしさち松平まつだいらただしただしつねつう市橋いちはし長和おさわしつ)、ただしやすし、鉚(板倉いたくら勝弘かつひろしつ)、ぶく聚(大沢おおさわはじめ寿ことぶきしつのち浅野あさの友三郎ともさぶろうしつ)、くすりひろし太田おおたしつ)、まこと
つま 正室せいしつぼうひめ松平まつだいらしんじゅんむすめしんあきら養女ようじょ
継室けいしつ鋹子溝口みぞぐちただしむすめ
ぼう大河内おおこうち信好のぶよし大河内おおこうち小三郎こさぶろう大河内おおこうち信成のぶなり一子かずこ大河内おおこうち正敏まさとしつま
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大河内おおこうち しんいにしえ(おおこうち のぶひさ)は、三河みかわ吉田よしだはんだい7だい最後さいご)の藩主はんしゅ松平まつだいら伊豆いずまもるけい大河内おおこうち松平まつへい11だい。はじめ松平まつだいらしんいにしえ名乗なのる。

生涯しょうがい

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文政ぶんせい12ねん1829ねん)4がつ23にち越前えちぜん鯖江さばえはんあるじ間部まべ詮勝あきかつ次男じなんとして江戸えどまれる。間部まべ家時いえときだい元服げんぷくのち間部まべかいしん名乗なのった。よしみひさし2ねん1849ねん)9がつ24にち吉田よしだ藩主はんしゅ松平まつだいらしんあきら没後ぼつご婿養子むこようしむかえられ、どう26にちしんじふる名乗なのる。同年どうねん11がつ15にち家督かとく相続そうぞくし、12月1にち家督かとく御礼おれいとしてはじめて将軍しょうぐん家慶いえよし世子せいし家定いえさだ拝謁はいえつする。その奏者そうしゃばん寺社じしゃ奉行ぶぎょう歴任れきにんする。

万延まんえん元年がんねん1860ねん)5がつ正室せいしつ男子だんし出産しゅっさんするが、母子ぼしともにくなってしまう。しんいにしえ異姓いせい養子ようしであったため、大河内おおこうち松平まつへい血縁けつえん女性じょせい継室けいしつむかえることがもとめられ、文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん)12がつ10日とおか松平まつだいらしんしゅくむすめ[1]越後えちご新発田しばたはんあるじ溝口みぞぐちただしむすめ・鋹子を継室けいしつむかえた。

文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)6がつ30にち大坂おおさか城代じょうだい登用とうようされ大坂おおさかかうが、このとき継室けいしつ同伴どうはんねがゆるされている。大坂おおさか城代じょうだい在任ざいにんちゅう幕末ばくまつ動乱どうらんであり、やく200ねんぶりの将軍しょうぐん上洛じょうらく生野いくのへんだいいち長州ちょうしゅう征討せいとうなど様々さまざま難問なんもん山積さんせきしていた時期じきであった。

慶応けいおう元年がんねん1865ねん)1がつ江戸えどされ、2がつ15にちためあいだつめかくとなる。ためあいだつめ特定とくてい親藩しんぱん譜代ふだいかず世襲せしゅうするもので、じゅう要事ようじについてまくかく諮問しもんける地位ちいであった。これに老中ろうじゅう永年えいねんつとめて退任たいにんした大名だいみょうが1だいかぎりでためあいだつめかくとしてくわわることがあった。したがって、老中ろうじゅう経験けいけんしていないしんいにしえ任命にんめいされたのは異例いれい抜擢ばってきえる。

慶応けいおう3ねん1867ねん)12月13にち将軍しょうぐん慶喜よしのぶ合流ごうりゅうするため幕府ばくふ軍艦ぐんかんしょう鶴丸つるまる品川しながわおきはっする。途中とちゅう暴風雨ぼうふうう見舞みまわれ、同月どうげつ25にちにようやく天保山てんぽうざんおき到着とうちゃくする。しかし慶応けいおう4ねん1868ねん)1がつ3にち鳥羽とば伏見ふしみたたかきゅう幕府ばくふぐんやぶれ、慶喜よしのぶがひそかにだいさか脱出だっしゅつするとしんじいにしえ大坂おおさかはなれ、陸路りくろ吉田よしだしろかえりしろする。それまで吉田よしだはん穂積ほづみきよしのきらの佐幕さばく勤王きんのうかれていたが、もなくしん政府せいふぐんくわわり、家名かめいも「松平まつだいら」から「大河内おおこうち」に復姓ふくせいした。

しん政府せいふがわについた吉田よしだはんは、鳥羽とば伏見ふしみきゅう幕府ばくふぐん指揮しきした大河内おおこうちただししつしんいにしえ実弟じってい)が藩主はんしゅであった上総かずさ大多喜おおたきはんりょう知人ちじんみんあづけられ、さらには江戸えど追放ついほうされたしんいにしえ実父じっぷ間部まべ詮勝あきかつ護送ごそうやくめいじられた。

明治めいじ4ねん1871ねん)7がつ14にちはいはんとなると東京とうきょう谷中たになか移住いじゅうし、1884ねん明治めいじ17ねん)7がつ8にち子爵ししゃく叙爵じょしゃくした[2]1888ねん明治めいじ21ねん)11月27にち死去しきょ享年きょうねん60。

人物じんぶつ

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絵画かいがこのみ、吉田よしだはん御用ごよう絵師えし稲田いなだぶんかさ師事しじした。松峰まつみねというごうち、おおくの作品さくひんのこしている。

年表ねんぴょう

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日付ひづけ1871ねん明治めいじ4ねん)まで旧暦きゅうれき

栄典えいてん

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家族かぞく

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父母ちちはは

正室せいしつ継室けいしつ

子女しじょ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 松平まつだいらしんしゅくとめひめ溝口みぞぐちただしあつし正室せいしつ)―溝口みぞぐち直信なおのぶ……溝口みぞぐちただし―鋹子
  2. ^ 官報かんぽうだい308ごう明治めいじ17ねん7がつ9にち
  3. ^ 官報かんぽうだい1351ごう叙任じょにん及辞れい」1887ねん12月28にち

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 日本にっぽん史籍しせき協会きょうかいへんぞく日本にっぽん史籍しせき協会きょうかい叢書そうしょ増補ぞうほ幕末ばくまつ明治めいじ重職じゅうしょく補任ほにん しょはん一覧いちらん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい
  • 児玉こだまみゆき監修かんしゅう新田にったかんさんへん内閣ないかく文庫ぶんこぞう諸侯しょこう年表ねんぴょう東京とうきょうどう出版しゅっぱん
  • 東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ維新いしん史料しりょう綱要こうようデータベース」
  • だい日本にっぽん近世きんせい史料しりょう柳営りゅうえい補任ほにん
  • 豊橋とよはしだい2かんだい6かん

関連かんれん項目こうもく

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日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
子爵ししゃく
吉田よしだ大河内おおこうち初代しょだい
1884ねん - 1888ねん
次代じだい
大河内おおこうち信好のぶよし