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森川もりかわ俊民としたみ

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森川もりかわ俊民としたみ
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
生誕せいたん 文化ぶんか元年がんねん1804ねん)または文化ぶんか2ねん5月13にち1805ねん6がつ10日とおか)とも
死没しぼつ 安政あんせい2ねん11月5にち1855ねん12月13にち
改名かいめい ばん亀之助かめのすけ幼名ようみょう)→俊民としたみ
戒名かいみょう ゆうがついん徳山とくやま含章
墓所はかしょ 千葉ちばけん千葉ちば中央ちゅうおう重俊しげとしいん
官位かんい したがえ弾正だんじょうちゅう紀伊きいもり出羽守でわのかみ
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ奏者そうしゃばん若年寄わかどしより
主君しゅくん 徳川とくがわ家慶いえよし家定いえさだ
はん 下総しもうさ生実いくみはんあるじ
氏族しぞく 深溝ふかみぞ松平まつだいら森川もりかわ
父母ちちはは ちち松平まつだいらただし養父ようふ森川もりかわしゅん
兄弟きょうだい 井上いのうえただしいおり松平まつだいらただしこう京極きょうごくだかけい中西なかにしもとれき俊民としたみ松平まつだいら忠篤ただあつ真田さなださいわいただし志賀しが板倉いたくらまさるしつ喜代きよ
やしなえ兄弟きょうだい俊一しゅんいち
つま 正室せいしつ森川もりかわしゅん長女ちょうじょ登志とし
しゅんようしゅん
テンプレートを表示ひょうじ

森川もりかわ 俊民としたみ(もりかわ としたみ)は、江戸えど時代じだい後期こうき大名だいみょう若年寄わかどしより下総しもうさこく生実いくみはん9だい藩主はんしゅ官位かんいしたがえ弾正だんじょうちゅう紀伊きいもり出羽守でわのかみ

生涯しょうがい

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文化ぶんか元年がんねん(1804ねん)、肥前ひぜんこく島原しまばらはん2だい藩主はんしゅ松平まつだいらただしはちおとことしてまれる。文政ぶんせい11ねん1828ねん)11月に生実いくみはんの8だい藩主はんしゅ森川もりかわしゅん養子ようしとしてむかえられ、文政ぶんせい12ねん1829ねん)4がつ13にちにはその長女ちょうじょ登志とし結婚けっこんして婿養子むこようしとなった。12月16にちしたがえ弾正だんじょうちゅう叙任じょにんされる。天保てんぽう9ねん1838ねん)、しゅん死去しきょにより家督かとくいだ。

天保てんぽう12ねん1841ねん)4がつ日光にっこう祭祀さいし奉行ぶぎょうにんじられ、ひろし3ねん1846ねん)7がつ17にちだい番頭ばんがしらにんじられる。よしみひさし元年がんねん1848ねん)10がつ18にち奏者そうしゃばんにんじられ、よしみなが5ねん1852ねん)7がつ8にち若年寄わかどしよりにんじられ、出羽守でわのかみに遷任する。安政あんせい2ねん(1855ねん)4がつ19にち若年寄わかどしより辞職じしょくもとめたがゆるされず、9月19にちになって病気びょうき理由りゆう辞職じしょくゆるされ、直後ちょくごの11月5にち死去しきょした。享年きょうねん52。

あと三男さんなんしゅんいだ。

系譜けいふ

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父母ちちはは

正室せいしつ

子女しじょ

血筋ちすじ

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婿養子むこようしながら、女系じょけいでは森川もりかわく。

森川もりかわしゅん土屋つちや忠直ただなおしつ土屋つちやすうただし土屋つちや政直まさなお土屋つちやちんただし松平まつだいら忠刻ただときしつ松平まつだいら忠恕ただひろ松平まつだいらただし森川もりかわ俊民としたみ