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葛飾かつしかけん印旛いんば県庁けんちょうあと

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葛飾かつしかけん印旛いんば県庁けんちょうあと
葛飾かつしかけん印旛いんば県庁けんちょうあと 正面しょうめん 地図
情報じょうほう
所在地しょざいち 千葉ちばけん流山ながれやま1225-6
座標ざひょう 北緯ほくい3551ふん24びょう 東経とうけい13954ふん9びょう / 北緯ほくい35.85667 東経とうけい139.90250 / 35.85667; 139.90250 (葛飾かつしかけん印旛いんば県庁けんちょうあと)座標ざひょう: 北緯ほくい3551ふん24びょう 東経とうけい13954ふん9びょう / 北緯ほくい35.85667 東経とうけい139.90250 / 35.85667; 139.90250 (葛飾かつしかけん印旛いんば県庁けんちょうあと)
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葛飾かつしかけん印旛いんば県庁けんちょうあと(かつしかけんいんばけんちょうあと)は、千葉ちばけん流山ながれやまにある史跡しせき明治めいじ初年しょねん葛飾かつしかけん1869ねんから1871ねんまで)および印旛いんばけん1872ねんから1873ねんまで)の県庁けんちょう所在しょざいした。流山ながれやま市立しりつ博物館はくぶつかん流山ながれやま市立しりつ中央ちゅうおう図書館としょかん建物たてもの隣接りんせつして記念きねん建立こんりゅうされている。

歴史れきし

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所在地しょざいち流山ながれやまざかした[1])は、江戸えど時代じだい下総しもうさこく葛飾かつしかぐんむらであった。江戸えど時代じだい前期ぜんきむらふく一帯いったい本多ほんだただしじゅう本多ほんだ正信まさのぶおとうと)にはじまる本多ほんだ領地りょうち旗本はたもとから下総しもうさ舟戸ふなとはんおも、のち上野うえのこく沼田ぬまたはんおも移転いてん)となり[2]とおる15ねん(1730ねん)に本多ほんだただしのり駿河するがこく田中たなかはんうつりふうされたことによって田中たなかはんりょうとなった[1][2]舟戸ふなとはん参照さんしょう)。

文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)6がつ藩主はんしゅ本多ほんだただしのとき、むら台地だいちじょうむらだい)に「かりたく[1]下屋敷しもやしき[1])としてむら陣屋じんや[注釈ちゅうしゃく 1]建設けんせつされ、江戸えど深川ふかがわにあった下屋敷しもやしき藩士はんし移住いじゅうして[1]りょう管轄かんかつたった[3][4][5]陣屋じんや敷地しきちは、現在げんざい流山ながれやま市役所しやくしょから流山ながれやま市立しりつ博物館はくぶつかんにかけての南北なんぼく300m×東西とうざい150mほどで[1]中心ちゅうしんてき建物たてものである御殿ごてん敷地しきち北西ほくせいはしにあたる現在げんざい流山ながれやま市立しりつ博物館はくぶつかん付近ふきんにあった[1]明治めいじ元年がんねん(1868ねん)7がつ田中たなかはん安房あわこくへの移転いてんめいじられ長尾ちょうびはんとなった[3]

江戸えど時代じだい下総しもふさこくにはきゅう幕府ばくふりょうしょはんりょうんでいた。明治めいじ政府せいふ旧幕きゅうばく府領ふりょう管理かんりのため下総しもうさともけんごと任命にんめい東京とうきょう薬研堀やげんぼりの「薬研堀やげんぼり役所やくしょ」で事務じむった[1]政府せいふんだ領地りょうち再編さいへん[6]、1869ねん明治めいじ2ねん)1がつ行政ぎょうせい組織そしきとして葛飾かつしかけん設置せっちされた[1][5]。このさい長尾ちょうびはんはなれたきゅうむら陣屋じんや(「むら役所やくしょ」とばれた)が葛飾かつしか県庁けんちょうとして使用しようされた[1]

1871ねん明治めいじ4ねん)のだい1府県ふけん統合とうごうにより、葛飾かつしかけんおよび旧藩きゅうはんからてんじた諸県もろかた佐倉さくらけんなど)を統合とうごうして、下総しもうさ国内こくない9ぐん管轄かんかつする印旛いんばけん設置せっちされた。印旛いんば県庁けんちょう当初とうしょ印旛いんばぐん佐倉さくらかれる予定よていであったが、適当てきとう庁舎ちょうしゃ候補こうほがないとされ、葛飾かつしかぐん本行徳ほんぎょうとくむら現在げんざい千葉ちばけん市川いちかわ本行徳ほんぎょうとく)のとくねがいてら県庁けんちょうがおかれた。さらに、本行徳ほんぎょうとくでは交通こうつう便びんわるいとされ、1872ねん明治めいじ5ねん)1がつよりきゅう葛飾かつしか県庁けんちょう印旛いんば県庁けんちょうとして使つかわれることとなった。

1873ねん明治めいじ6ねん)6がつ15にち印旛いんばけん木更津きさらづけんとが合併がっぺいし、両者りょうしゃ境界きょうかいにあたる千葉ちばぐん千葉ちば県庁けんちょう千葉ちばけん設置せっちされた。これによりきゅうむら陣屋じんや県庁けんちょうとしての役割やくわりえた。跡地あとち開墾かいこん宅地たくちによってきゅうじょうをとどめていない[1]

1977ねん昭和しょうわ52ねん)から1978ねん昭和しょうわ53ねん)にかけ、かつての陣屋じんや敷地しきち一部いちぶ市立しりつ博物館はくぶつかん図書館としょかん建設けんせつされるのにさいして発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれた[1]。1977ねん昭和しょうわ52ねん)6がつ市立しりつ博物館はくぶつかん開館かいかんしたさいに「葛飾かつしかけん印旛いんばけん史跡しせき」の記念きねん建立こんりゅうされた[7]

場所ばしょ

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葛飾かつしかけん印旛いんば県庁けんちょうあと

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 名前なまえについては「陣屋じんや[1]や「むらだい屋敷やしき」とも。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 陣屋じんや” (pdf). 千葉ちばけん教育きょういく振興しんこう財団ざいだん研究けんきゅう紀要きよう だい28ごう 房総ぼうそうにおける近世きんせい陣屋じんや. 千葉ちばけん教育きょういく振興しんこう財団ざいだん. p. 39 (2013ねん3がつ). 2019ねん4がつ5にち閲覧えつらん
  2. ^ a b むら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2022ねん11月13にち閲覧えつらん
  3. ^ a b 下総しもうさりょう”. 長尾ちょうびはんりゃく年表ねんぴょう. 館山たてやま市立しりつ博物館はくぶつかん. 2019ねん4がつ5にち閲覧えつらん
  4. ^ 下総しもうさりょう”. 房州ぼうしゅう長尾ちょうびはん明治維新めいじいしん大名だいみょう武士ぶしたち-. 館山たてやま市立しりつ博物館はくぶつかん. 2019ねん4がつ5にち閲覧えつらん
  5. ^ a b 常設じょうせつ展示てんじ(8 葛飾かつしかけん印旛いんばけん誕生たんじょう”. 流山ながれやま博物館はくぶつかん. 流山ながれやま. 2019ねん4がつ5にち閲覧えつらん
  6. ^ ひがしかずら県庁けんちょうあと流山ながれやま市立しりつ博物館はくぶつかん”. 流山ながれやま観光かんこう協会きょうかい. 2019ねん4がつ5にち閲覧えつらん
  7. ^ 葛飾かつしかけん印旛いんばけん史跡しせき”. まるごとe!ちば. 千葉ちばけん. 2019ねん4がつ5にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 廣瀬ひろせ早苗さなえ「『むらだい屋敷やしき』―田中たなかはん本多ほんだ藩士はんし移転いてん」『流山ながれやま研究けんきゅうだい21ごう流山ながれやま、2012ねん
  • 博物館はくぶつかんでタイム・トリップ』流山ながれやま市立しりつ博物館はくぶつかんども展示てんじガイド、2006ねん3がつ25にち、pp.40 - 41
  • ひがしかずら観光かんこう歴史れきし事典じてん流山ながれやま市立しりつ博物館はくぶつかんともかい、1997ねん、pp.46 - 47(該当がいとう箇所かしょ執筆しっぴつ相原あいはら正義まさよし
  • 流山ながれやま市立しりつ博物館はくぶつかんへん)『流山ながれやまのむかし』流山ながれやま市立しりつ博物館はくぶつかん、1989ねん、p.117(「葛飾かつしかけん印旛いんばけん成立せいりつ県庁けんちょうあと」)