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米子よなごはん

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米子よなごじょう

米子よなごはん(よなごはん)は、伯耆ほうきこく会見かいけんぐん存在そんざいしたはんはんちょう米子よなごじょう現在げんざい鳥取とっとりけん米子よなご久米くめまち)。江戸えど時代じだい初期しょき短期間たんきかんのみ存続そんぞくした。

沿革えんかく

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たてはん

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戦国せんごく時代じだい米子よなご尼子あまこ毛利もうりうばいをかえ戦略せんりゃくじょう重要じゅうよう拠点きょてんであった。豊臣とよとみ時代じだい伯耆ほうきこく東西とうざい二分にぶんされ、西部せいぶ毛利もうり所領しょりょうとなり、毛利もうり一族いちぞく吉川よしかわひろ月山がっさん富田とみたしろ拠点きょてん支配しはいしていた。天正てんしょう19ねん1591ねん)、吉川よしかわひろあらたな拠点きょてんとしてべい湊山みなとやま米子よなごじょう築城ちくじょう開始かいしした。慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたか毛利もうり西にしぐんにつき、戦後せんご大幅おおはばげんふう処分しょぶんけた。こういえ周防すおう岩国いわくにはんうつることとなった。

伯耆ほうきこく17まん5000せき領主りょうしゅとして、あらたに中村なかむらいちちゅう入国にゅうこくした。いちちゅう豊臣とよとみさん中老ちゅうろう一人ひとりであった駿府すんぷじょうあるじ中村なかむら一氏かずうじである。一氏いちうじ関ヶ原せきがはら本戦ほんせん直前ちょくぜんの7がつ17にちやまいにより急死きゅうししているが、まえ駿府すんぷ城下じょうか徳川とくがわ家康いえやす会談かいだんしており、ひがしぐんくわわることをあきらかにしていた。一氏いちうじ功績こうせきにより、一氏いちうじ嫡子ちゃくしであるいちちゅうに3まんせき加増かぞうされてうつりふう実現じつげんし、米子よなごはんだてはんしたのである。

横田よこた騒動そうどう

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中村なかむらいちちゅうは、入部にゅうぶ当時とうじ11さい幼少ようしょうであった。このため、藩政はんせい担当たんとうしたのは叔父おじたる中村なかむら一栄かずえと、家康いえやすからいちちゅう後見こうけんやくとして執政しっせい家老がろういのちをうけ派遣はけんされた横田よこたむらかいであった。むらかいは、幼少ようしょういちちゅうのもとで手腕しゅわん発揮はっきし、吉川よしかわひろによって着手ちゃくしゅされていた米子よなごじょう築城ちくじょう完成かんせいさせるとともに、城下町じょうかまち整備せいび建設けんせつおこない、米子よなご発展はってんいしずえきずいた。藩政はんせい確立かくりつ尽力じんりょくしたむらかいであったが、いちちゅう側近そっきんである安井やすい清一郎せいいちろう天野あまのはじめ杷らと対立たいりつするようになった。

慶長けいちょう8ねん1603ねん)11月14にち安井やすい天野あまのらにそそのかされたいちちゅうむらかい殺害さつがいした。むらかいしゅうますけや、むらかい客分きゃくぶんであった柳生やぎゅうそうあきららは憤激ふんげきして飯山いいやまもったが、いちちゅう隣国りんごく出雲いずも堀尾ほりお吉晴よしはる助勢じょせい鎮圧ちんあつした。事件じけん報告ほうこくをうけた徳川とくがわ家康いえやすは、みずからが派遣はけんした横田よこたむらかい殺害さつがい激怒げきど首謀しゅぼうしゃである安井やすい天野あまのおこないを幕府ばくふへの反逆はんぎゃくとみなし、吟味ぎんみ即刻そっこく切腹せっぷくしょした。城主じょうしゅいちちゅう品川しながわ宿やどめ(謹慎きんしん)におさめ、おかまいなしとした(横田よこた騒動そうどう、あるいは米子よなご騒動そうどう)。

はいはん

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中村なかむらいちちゅうと、殉死じゅんししゃ木像もくぞう感應寺かんのうじ

慶長けいちょう14ねん1609ねん)5がつ11にちいちちゅうは20さい急死きゅうしした。いちちゅうには3にん子供こどもがいたが、領国りょうごく継承けいしょうみとめられず、中村なかむら改易かいえきとなった。

よく慶長けいちょう15ねん1610ねん)7がつ19にち美濃みの黒野くろのはんおも加藤かとうさだやすしが2まんせき加増かぞうけ、6まんせき米子よなご入部にゅうぶする。さだやすし大坂おおさかじんにおいて軍功ぐんこうげたことから、元和がんわ3ねん1617ねん)に大洲おおすはんうつされ、米子よなごはんはいはんとなった。

その

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加藤かとううつりふう旧領きゅうりょう元和がんわ3ねん1617ねん)、播磨はりまからいんはく両国りょうこくはいった池田いけだ光政みつまさ領地りょうちとなった。光政みつまさ伯耆ほうき拠点きょてんである米子よなごじょう筆頭ひっとう家老がろう池田いけだ由之よしゆき(3まん2000せき)をれた。由之よしゆきのあとは池田いけだゆかりなりいだ。

寛永かんえい9ねん1632ねん)、国替くにがえによってよしはく両国りょうこくはいった池田いけだひかりなかは、着座ちゃくざ筆頭ひっとう荒尾あらおしげる米子よなごじょうれた。その城下じょうか荒尾あらお自分じぶんしゅ政治せいじにまかせ、幕末ばくまつまでつづくこととなる。

歴代れきだい藩主はんしゅ

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中村なかむら

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外様とざま。17まん5000せき

  1. いちちゅう

加藤かとう

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外様とざま。6まんせき

  1. さだやすし