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里見さとみ義実よしざね

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里見さとみ 義実よしざね
時代じだい 室町むろまち時代ときよ後期こうき
生誕せいたん おうひさし23ねん1416ねん
死没しぼつ ちょうとおる2ねん4がつ7にち1488ねん5月18にち
戒名かいみょう つえたまいん殿どのけんたからきょうこう居士こじ
墓所はかしょ 千葉県南房総市白浜町白浜4295 つえたまいん
官位かんい ひだりすけ大隅おおすみまもる刑部おさかべしょう
氏族しぞく 安房あわ里見さとみ
父母ちちはは ちち里見さとみもと?、ははしょう
兄弟きょうだい いえ?、義実よしざね海保かいほよし
成義なりよし?、なりよりゆき?、義秀よしひで?、中里なかさとみのる?、
義富よしとみ?、どおり?、じつ?、東条とうじょうみのるりん?
特記とっき
事項じこう
上記じょうき記述きじゅつ系譜けいふによる。史料しりょうてきには架空かくうせつ有力ゆうりょくである。
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里見さとみ 義実よしざね(さとみ よしざね)は、室町むろまち時代ときよ武将ぶしょう

義実よしざね出自しゅつじについて[編集へんしゅう]

通説つうせつでは、里見さとみけんまご里見さとみもととされて、安房あわこく安房あわ里見さとみ初代しょだいとなったとされる人物じんぶつであるが、近年きんねんでは架空かくう人物じんぶつせつ美濃みの里見さとみ庶流出身しゅっしんせつなどがある。里見さとみ成義なりよし中里なかさとみのるがいるとされているが、近年きんねんでは成義なりよし存在そんざい否定ひていされて従来じゅうらい系譜けいふうえ成義なりよしとされてきた里見さとみよしどおり里見さとみみのる兄弟きょうだい義実よしざね実子じっしであるとかんがえられている。しかし、生物せいぶつがくてき年代ねんだい分析ぶんせきからての蓋然性がいぜんせいから、むしろ里見さとみ成義なりよし存在そんざい架空かくうとすること自体じたい里見さとみ系譜けいふ関係かんけいいちじるしく不自然ふしぜんにする事情じじょうなどから、この成義なりよし実在じつざい支持しじするせつもある。

上野うえのこく新田にった一族いちぞくであった里見さとみ南朝なんちょうかたしたがっていたものの、宗家そうけ没落ぼつらく一族いちぞくなか北朝ほくちょうがわ参加さんかするものあらわれた。やがて、室町むろまち幕府ばくふしたがって美濃みのこく所領しょりょう里見さとみ義宗よしむねかんおう擾乱じょうらん足利あしかが直義ただよしがわにつくと直義ただよし南朝なんちょうむすんだこともあり、里見さとみ一族いちぞく直義ただよしかたとして参加さんかする。だが、直義ただよし敗北はいぼくして美濃みの里見さとみ所領しょりょううしなって没落ぼつらくした。

その里見さとみ惣領そうりょう里見さとみけん鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが満兼みつかねしだされて常陸ひたちこく所領しょりょうたという。ところが、えいとおるらんいえけん自害じがいし、つづいて結城ゆうき合戦かっせんいえけんいえもとがそのいえとともにたれて、いえもとのもうひとりのとされる義実よしざね安房あわびたとされている。

だが、近年きんねんにおいて、義実よしざね旧来きゅうらい伝承でんしょうによる上野うえの里見さとみ嫡流ちゃくりゅうではなく、美濃みの里見さとみ義宗よしむね末裔まつえいであったとするせつされている[1]同時どうじ義実よしざねみなもとせい里見さとみとは無関係むかんけい人物じんぶつで、義実よしざね脱出だっしゅつ伝承でんしょうについては虚構きょこううたがいがたれているせつもある[2]

義実よしざね安房あわ入国にゅうこく伝説でんせつ[編集へんしゅう]

義実よしざね鎌倉かまくら公方くぼう古河ふるかわ公方くぼう)・足利あしかが成氏しげうじしたがっていたとされているが、その安房あわ入国にゅうこく経緯けいいについては様々さまざませつがある。

  1. 結城ゆうき合戦かっせんぶんやす年間ねんかん少数しょうすう家臣かしんまもられて安房あわこく入国にゅうこくして安西あんざいたより、そのかみあまり下克上げこくじょうした山下やましたじょうけん討伐とうばつして人望じんぼうあつめてまる東条とうじょうつねせい屈服くっぷくさせ、やがて驕慢きょうまんになった安西あんざい追放ついほうして安房あわ平定へいていした。その足利あしかがしげるまねかれてづかえた(旧来きゅうらい通説つうせつ)。
  2. 足利あしかがしげる仕官しかん安房あわこく鎌倉かまくらりょう代官だいかんをしていたが、とおるとくらんしげる上杉うえすぎ対立たいりつすると、義実よしざね同国どうこく守護しゅごであった上杉うえすぎとこれにしたが国人くにびと所領しょりょうおよかれらの管理かんりにあった国衙こくがりょう接収せっしゅうした。
  3. とおるとくらんで、しゅうととされる武田たけだ信長のぶながとともに房総半島ぼうそうはんとう上杉うえすぎがわ国人くにびと討伐とうばつする過程かてい安房あわこく割拠かっきょした。

そのいずれがただしいかは不明ふめいであるが、安房あわ里見さとみとおるとくらんさい関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ憲忠のりただ殺害さつがい関与かんよしたことあさえびすぐんちょうたいらぐん)の白浜しらはま現在げんざいみなみ房総ぼうそう)を根拠こんきょとして国内こくない反対はんたいおさえて安房あわ国内こくない中心ちゅうしんであった稲村いなむら進出しんしゅつしたとるのが今日きょう通説つうせつである。

また、義実よしざね架空かくう人物じんぶつとして義実よしざねまご(あるいはか)であるどおりだい里見さとみ安房あわ平定へいていしたとするせつもあるが、関東かんとう地方ちほう室町むろまち体制たいせい根底こんていからくつがえしたとおるとくらんじょうじて、里見さとみ従来じゅうらい強固きょうこ支配しはい体制たいせいきずいていた守護しゅご上杉うえすぎ支配しはいからはなされた安房あわこく進出しんしゅつあるいは平定へいていおこなわれたとかんがえるのが現実げんじつてき見方みかたであり、義実よしざね安房あわ入国にゅうこくして後継こうけいしゃであるどおりとの2だいがかりで安房あわいちこく支配しはいしたとかんがえるほう妥当だとうであるとかんがえられている。

数少かずすくない実在じつざい想定そうていさせる史料しりょうとされているものに、『関東かんとう禅林ぜんりん詩文しぶんとう抄録しょうろく』に所収しょしゅうされているひろしだいの「たてまつよせ 房州ぼうしゅう太守たいしゅげん湯川ゆかわこう」(ちょうとおる元年がんねん1487ねん正月しょうがつ27にちづけ)があり、どう文章ぶんしょう登場とうじょうする「房州ぼうしゅう太守たいしゅげん湯川ゆかわこう」が、時期じきてき里見さとみ義実よしざね相当そうとうする可能かのうせいたかいとされている[3]

義実よしざね安房あわ入国にゅうこく伝説でんせつもとにして、江戸えど時代じだい曲亭馬琴きょくていばきん滝沢たきざわ馬琴ばきん)によってかれたのが、『南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』である。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 峰岸みねぎし純夫すみお ちょとおるとくらん里見さとみ義実よしざね」、里見さとみ稲村いなむら城跡じょうせき保存ほぞんするかい へん里見さとみいね村城むらしろをみつめて だい3しゅう』1998ねん 
  2. ^ 川名かわなのぼる里見さとみ」『国史こくしだい辞典じてん』 6かん、1985ねん 
  3. ^ 佐藤さとう博信ひろのぶ東国とうごく大名だいみょう里見さとみ歴史れきしてき性格せいかく -支配しはい理念りねん側面そくめんから-」『中世ちゅうせい東国とうごく社会しゃかい構造こうぞう 中世ちゅうせい東国とうごくろん:した岩田いわた書院しょいん、2007ねんISBN 978-4-87294-473-0 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]