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牧野まきのとみなり

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牧野まきのとみなり
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 寛永かんえい5ねん1628ねん
死没しぼつ 元禄げんろく6ねん8がつ6にち1693ねん9月5にち
改名かいめい 大吉だいきち幼名ようみょう)、教成のりなりはつ)、とみなり
墓所はかしょ 埼玉さいたまけん鴻巣こうのす本町ほんまち勝願寺しょうがんじ
官位かんい したがえ因幡いなばまもる
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ奏者そうしゃばん
主君しゅくん 徳川とくがわ家綱いえつな綱吉つなよし
はん 丹後たんご田辺たなべはんあるじ
氏族しぞく 牧野まきの
父母ちちはは ちち牧野まきの信成のぶなりはは生駒いこまみつるただしむすめちょういさおいん
養父ようふ牧野まきのちかしなり
兄弟きょうだい きゅうみぎ衛門えもんしんなりいんしげる小笠原おがさわら吉政よしまさえいしげるとみなりちょくなり村越むらこしただしなりしょうはま嘉隆よしたか正室せいしつ阿部あべ正能しょうのう正室せいしつ細川ほそかわ興隆こうりゅう正室せいしつ毛利もうり高直たかなお正室せいしつ
つま 正室せいしつ京極きょうごくだかさんむすめまつひかりいん
継室けいしつ藤波ふじなみいさおただしむすめ暁雲ぎょううんいん
養子ようし英成えいせい
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牧野まきの とみなり(まきの とみしげ)は、丹後たんごこく田辺たなべはんだい2だい藩主はんしゅ丹後たんご田辺たなべはん牧野ぼくや3だい京極きょうごく田辺たなべはん初代はつよ藩主はんしゅ京極きょうごくだかさんむすめ婿むこである。

略歴りゃくれき

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寛永かんえい5ねん(1628ねん)、大身たいしん旗本はたもと(のち下総しもうさこく関宿せきやどはんおも牧野まきの信成のぶなりはちおとことしてまれる。寛永かんえい18ねん1641ねん)に徳川とくがわ家綱いえつな小姓こしょうにんじられ、あかりれき元年がんねん1655ねん)にあに初代しょだい藩主はんしゅしんなり養子ようしとなる。

のべたから元年がんねん1673ねん)9がつ29にちおやなり隠居いんきょにより家督かとくぐ。日光にっこう祭祀さいし奉行ぶぎょうのべたから9ねん1681ねん)8がつには奏者そうしゃばんにんじられた。しかしとなりはん宮津みやづはんとの領地りょうち境界きょうかいあらそいでは、幕府ばくふ裁定さいていにより貞享ていきょう4ねん1687ねん)にやぶれている。

元禄げんろく6ねん(1693ねん)に田辺たなべ死去しきょした。享年きょうねん66。あとおい養子ようし英成えいせいいだ。

系譜けいふ

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