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大久保おおくぼただしけん (旗本はたもと)

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大久保おおくぼ ただしけん
時代じだい 江戸えど時代じだい
生誕せいたん 寛永かんえい8ねん1631ねん
死没しぼつ 宝永ほうえい3ねん10月12にち1706ねん11月16にち
別名べつめい 虎之助とらのすけ七郎しちろう兵衛ひょうえ四郎しろう左衛門さえもん
戒名かいみょう 日光にっこう
官位かんい したがえ玄蕃げんばあたま
氏族しぞく 大久保おおくぼ
父母ちちはは ちち大久保おおくぼ忠重ただしげはは天野あまのつよしとくむすめ
兄弟きょうだい ちゅうけん服部はっとり正勝まさかつ女子じょし伊沢いさわ正次まさつぐつま)、女子じょし三宅みやけかんしゅんつま)、女子じょし妻木つまき幸広ゆきひろつま)、女子じょし松下まつしたぼうつま
つま 牧野まきの信成のぶなりむすめ
忠明ただあき女子じょし川口かわぐち宗直むねなおつま)、女子じょし渡辺わたなべ富義とみよしつまちゅうぼう秀広ひでひろつま)、女子じょし安藤あんどう定房さだふさつま)、女子じょし女子じょし
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大久保おおくぼ ただしけん(おおくぼ ただかね)は、大久保おおくぼ玄蕃げんば知行ちぎょうしょの3代目だいめ当主とうしゅ上級じょうきゅう旗本はたもと。5000せき相続そうぞくし、出世しゅっせかさね1700せき加増かぞうされ、知行ちぎょうは6700せきとなった[1]したがえ玄蕃げんばあたま叙任じょにんし、大久保おおくぼ玄蕃げんばあたまちゅうけんばれる。

領土りょうど瀬名せな貯水池ちょすいち弁天べんてん造営ぞうえいした。ちゅうけんつま牧野まきの信成のぶなりむすめ)がゆめのおげで弁天べんてんさまに、上野うえのにんならってつくれとわれたという伝説でんせつがある。くわしくは大久保おおくぼ玄蕃げんば知行ちぎょうしょの「瀬名せなむねがた神社じんじゃ弁天べんてん」を参照さんしょう

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

上記じょうき年表ねんぴょうは『しんてい 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか だいじゅういち』(1965ねん)を参照さんしょう作成さくせいした。

エピソード[編集へんしゅう]

殿とのさまに直訴じきそ[編集へんしゅう]

御免ごめん切願せつがんどおり訳合わけあいれんしるしこと」という古文書こもんじょ[2]がある。

元禄げんろく9ねん(1696ねん)1がつ大久保おおくぼ玄蕃げんば知行ちぎょうしょ方ノ上かたのかみむらの3めい上組かみぐみ庄屋しょうやちょう左衛門さえもん下組しもくみ庄屋しょうや助兵衛すけべえ下組しもくみ組頭くみがしらひらみぎ衛門えもん)が、12ねんまえ殿様とのさま大久保おおくぼただしけん)に直訴じきそ処罰しょばつをされた3めい処罰しょばついてほしいむね直訴じきそである。3ねんまえより押切おしきりむら庵原いはらぐんにある大久保おおくぼ知行ちぎょう)の役人やくにん減免げんめんをおねがいしているがかなわない。なにぶんかなえてくれ。との内容ないようである。

下記かき減免げんめんねがいを直訴じきそする12ねんまえ貞享ていきょう2ねん(1685ねん)の出来事できごとである。元禄げんろく9ねん(1696ねん)に訴状そじょう殿様とのさま直訴じきそしたもの名前なまえおなじであるが別人べつじんである。「御免ごめん切願せつがんどおり訳合わけあいれんしるしこと」に経緯けいいしるされている。

  • 登場とうじょう人物じんぶつ
    • 大久保おおくぼただしけん殿様とのさま
    • ちょう左衛門さえもん上組かみぐみ庄屋しょうや
    • 助兵衛すけべえ下組しもくみ庄屋しょうや
    • ひらみぎ衛門えもん下組しもくみ組頭くみがしら

貞享ていきょう2ねん(1685ねん)、むらの3にん殿様とのさま年貢ねんぐげてもらうよう直訴じきそするため江戸えどひょうき、こうじまち宿やどをとり、永田ながた馬場ばば[3]殿様とのさま屋敷やしき御門みかどまえに3日出にっしゅつちしていた。

明日あした殿様とのさまかけるのをり、宿やどかえって、願書がんしょたしかめ、翌朝よくあさむっ半時はんとき(7)にもんまえめてっていた。殿様とのさまかけるさいに、3にん手分てわけで、ちょう左衛門さえもんさき近習きんじゅけ、助兵衛すけべえ殿様とのさまっているかごけ、ひらみぎ衛門えもん直訴じきそぶんかごなかした。

3にんしたにひれし、殿様とのさまかごなかにて願書がんしょ確認かくにんした。殿様とのさまは「願書がんしょとおかなえてやろう」ときびしくつたえた。「かえってくるまで、ひかえていよ」と3にんわれ、そのとき3にん処罰しょばつはなしかった。

殿様とのさまかえりをっていたところ、ここの半時はんとき(13)に殿様とのさまが、屋敷やしきかえってきた、評定ひょうじょううえ屋敷やしきみ、役所やくしょとどられ、3にんもうしつけられたのは「大望たいぼうねがもうであり、ことそとおしかりあそばれ、とが(つみ)のは、ってもうしつけるので、宿やどまてて」というので、宿やどにてしをち、4にちされ、国元くにもとかえることをゆるされた。

処罰しょばつは、村方むらかたさとぞうへ100にち獄舎ごくしゃ。100にちむら追放ついほうちょう左衛門さえもんひらみぎ衛門えもん関方せきがたむらに、助兵衛すけべえ越後えちごしまむらやめこし。そこで7ねん居住きょじゅうしたら8ねんゆるしてやる。という内容ないようだった。

年貢ねんぐりつななふんりん(72.5%)のところを、むっふんりん(62.5%)にしてもらった。

家老がろう慈悲じひねが[編集へんしゅう]

宝永ほうえい5ねん(1708ねん)12月に方ノ上かたのかみむら庄屋しょうや三郎兵衛さぶろべえ平十郎へいじゅうろうそう百姓ひゃくしょうだいろく兵衛ひょうえ弥左衛門やざえもんまんみぎ衛門えもんが、大久保おおくぼ家老がろう渡辺わたなべ彦兵衛ひこべえてた、方ノ上かたのかみむら追放ついほう百姓ひゃくしょう3めい新五郎しんごろう孫七郎まごしちろうひら太夫たゆう)の「乍恐こう上書うわがきを以奉ねがいじょうこう御事おんこと」(おそれながら書付かきつけをもってねがいじょうまつこう)というまり文句もんくからはじまる赦免しゃめんねが[4]当時とうじ様子ようすることが出来できる。内容ないよう下記かきとおりである。

8ねんまえ元禄げんろく13ねん(1700ねん)のくれのこと[注釈ちゅうしゃく 1]新五郎しんごろう孫七郎まごしちろうひら太夫たゆうの3めいすすんでいない訴訟そしょう役所やくしょってったが、げてくれなかったので、江戸えど訴訟そしょうはなしもうげた。殿様とのさま無礼ぶれいであった。もうわけない。

家老がろう詮議せんぎもうわたした内容ないようは、「3にん追放ついほう。3にん石高こくだか49せきげる。」というものだが、方ノ上かたのかみむら岡部おかべまち人馬じんばやくおおくしていますが、3にんがいないと、おやくをするのに難儀なんぎしている。役所やくしょよりかんぶんほどのぜにいただいているが、3にん石高こくだかの5ぶんの1にもとどいていない。そう百姓ひゃくしょうこまっている。新五郎しんごろう妻子さいしは8にん孫七郎まごしちろうしん子供こどもは10にんひら太夫たゆうのせがれのひらはち妻子さいしは5にん。とてもこまっている。あさひるかなしみにれている。にいる3にんものどもの親類しんるいも、ゆるされるのをねがっている。近年きんねん役所やくしょまで訴訟そしょうもうげども、げてくれない。殿様とのさまざいばんでおあそばれているので、今年ことし役所やくしょまでたびたび訴訟そしょうもうげている。おそれながら、3にんゆるしてくれるよう慈悲じひをくれ。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 上記じょうき殿とのさまに直訴じきそ」の元禄げんろく9ねん(1696ねん)に直訴じきそしてから4ねんおなむら新五郎しんごろうたちがうったえたのはおな案件あんけんなのかべつ案件あんけんかは不明ふめい

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ しんてい 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか だいじゅういち』(1965ねん、P400、P401)
  2. ^ 焼津やいづ市立しりつ図書館としょかん焼津やいづ近世きんせい資料集しりょうしゅう』(1987ねん、P12)
  3. ^ HP[1]永田ながた馬場ばば-人文じんぶんがくオープンデータ共同きょうどう利用りようセンター
  4. ^ 焼津やいづ市立しりつ図書館としょかん焼津やいづ近世きんせい資料集しりょうしゅう』(1987ねん、P14)

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • しんてい 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか だいじゅういち』(1965ねん
  • 西奈にしな図書館としょかんともかい“けやき”『長尾ながおがわ流域りゅういきのふるさとむかしばなし』(長田ながた文化ぶんかどう、2006ねん
  • 焼津やいづ市立しりつ図書館としょかん焼津やいづ近世きんせい資料集しりょうしゅう』(1987ねん