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丹羽にわ長重ながしげ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
丹羽にわ 長重ながしげ
時代じだい 安土あづち桃山ももやま時代じだい - 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん もとかめ2ねん4がつ18にち1571ねん5月11にち
死没しぼつ 寛永かんえい14ねんうるう3月6にち1637ねん4がつ30にち
改名かいめい なべまる幼名ようみょう)→ 長重ながしげ
別名べつめい 五郎左衛門ごろうざえもん通称つうしょう)、小松こまつ侍従じじゅう小松こまつ宰相さいしょう羽柴はしば松任まっとう侍従じじゅう
戒名かいみょう だいとなりてら殿どのぜん参議さんぎ三品傑俊浄英大居士
墓所はかしょ 福島ふくしまけん白河しらかわ円明寺えんみょうじ白河しらかわはん大名だいみょう墓所はかしょ
官位かんい 侍従じじゅうしたがえさん参議さんぎ加賀かがまもる
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよし秀頼ひでより徳川とくがわ家康いえやす秀忠ひでただ家光いえみつ
はん 常陸ひたちこく古渡こわたりはん藩主はんしゅ常陸ひたちこく江戸崎えどさきはん藩主はんしゅ陸奥みちのくこく棚倉たなぐらはん藩主はんしゅ陸奥みちのくこく白河しらかわはん藩主はんしゅ
氏族しぞく 丹羽にわ
父母ちちはは ちち丹羽にわ長秀ながひでははかつらみねいん
兄弟きょうだい 長重ながしげ長正ながまさ藤堂とうどうだかきち蜂屋はちや直政なおまさ長俊ながとしちょうけつこういんげきりんいん定光じょうこういんちょうきよしいん円光えんこういん栄輝えいきいん伊木いぎ忠次ちゅうじしつたねはし成章しげあきしつ
つま

正室せいしつ報恩ほうおんいん織田おだ信長のぶながむすめ

側室そくしつ竜光りゅうこういん山形やまがた
かめせんだいなべ麻呂まろ光重みつしげ酒井さかい忠正ただまさ正室せいしつ大島おおしまよしただ正室せいしつ浅野あさのちょうただし正室せいしつ
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丹羽にわ 長重ながしげ(にわ ながしげ)は、安土あづち桃山ももやま時代じだいから江戸えど時代じだい前期ぜんきにかけての武将ぶしょう大名だいみょう丹羽にわ長秀ながひで長男ちょうなん

生涯しょうがい

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織田おだ豊臣とよとみ家臣かしん時代じだい

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もとかめ2ねん1571ねん)、織田おだ家臣かしん丹羽にわ長秀ながひで長男ちょうなんとして誕生たんじょうはは織田おだ信広のぶひろむすめで、信長のぶながめいたる。

主君しゅくん織田おだ信長のぶなが死後しごは、ちち長秀ながひでとも羽柴はしば秀吉ひでよし豊臣とよとみ秀吉ひでよし)にしたがった。

天正てんしょう10ねん1582ねん)11がつ10日とおか長秀ながひで秀吉ひでよし会談かいだんする[1]。このさい信長のぶながむすめめとっている[1]

天正てんしょう11ねん1583ねん)の賤ヶだけたたか天正てんしょう12ねん1584ねん)の小牧こまき長久手ながくてたたか病床びょうしょうにあったちち代理だいり)に出陣しゅつじんした。

天正てんしょう13ねん1585ねん)、秀吉ひでよしから羽柴はしばせい名字みょうじあたえられた[2]同年どうねんちち死去しきょし、越前えちぜんこく若狭わかさこく加賀かがこく2ぐん123まんせき相続そうぞくした。ところが、同年どうねんたい佐々ささしげるせい越中えっちゅう征伐せいばつ従軍じゅうぐんしたさい家臣かしん[注釈ちゅうしゃく 1]なりせい内応ないおうしたものがいたとのうたがいをかけられ、羽柴はしば秀吉ひでよしによって越前えちぜんこく加賀かがこくげられ、若狭わかさ1こく15まんせきとなり、さらに主君しゅくん織田おだ信長のぶながちち長秀ながひで以来いらい重臣じゅうしん戸田とだ勝成かつなり長束ながつかただし溝口みぞぐち秀勝ひでかつ村上むらかみよりゆきかち上田うえだ重安しげやす太田おおた牛一ごいちらそのおおくのものたちげられた。さらに天正てんしょう15ねん1587ねん)の九州きゅうしゅう平定へいていさいにも家臣かしん[注釈ちゅうしゃく 2]狼藉ろうぜきうたがいを理由りゆう若狭わかさこくげられ、わずかに加賀かが松任まっとう4まんせきしょう大名だいみょうがった。これは、秀吉ひでよし丹羽にわ勢力せいりょくぐためにった処置しょちであるといわれている。天正てんしょう16ねん1588ねん)、豊臣とよとみせい下賜かしされた[3]

その秀吉ひでよしによる小田原おだわら征伐せいばつ従軍じゅうぐんしたこうによって、加賀かがこく小松こまつ12まんせき加増かぞううつりふうされ、このときにしたがえさん参議さんぎ加賀かがまもる叙位じょい任官にんかんされたため、小松こまつ宰相さいしょうしょうされた。慶長けいちょう3ねん1598ねん)に秀吉ひでよし死去しきょすると、徳川とくがわ家康いえやすから前田まえだ利長としなが監視かんし密命みつめいけている。

関ヶ原せきがはらから江戸えど時代じだい

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慶長けいちょう5ねん1600ねん)、関ヶ原せきがはらたたかでは丹羽たんばぐん3せん西にしぐんくみして前田まえだぐん2まん5せんあまりひがしぐん前田まえだ利長としながたたかった(浅井あさいなわてたたか)において丹羽にわ長重ながしげ快勝かいしょうした。とき江戸城えどじょう入居にゅうきょしていた芳春よしはるいん前田まえだ利家としいえつま前田まえだ100まんせきけた決死けっし嘆願たんがんにより「前田まえだ芳春よしはるいん殿どの切腹せっぷくさなかった」、「徳川とくがわ家康いえやす徳川とくがわ秀忠ひでただ両君りょうくん真剣しんけん面持おももちで丹羽にわ長重ながしげ蟄居ちっきょもうくだした」くわえて「丹羽たんばせん支度じたくてん晴也はるや」(出典しゅってん石川いしかわけん』)、丹羽たんば戦後せんご一旦いったん改易かいえきとなる。慶長けいちょう8ねん1603ねん)に常陸ひたちこく古渡こわたり1まんせきあたえられて大名だいみょう復帰ふっきする。これは、まれなことであり、ちち丹羽にわ長秀ながひで以来いらい織田おだ信長のぶなが家系かけいとの血縁けつえん関係かんけいり、徳川とくがわ秀忠ひでただ前田まえだ利長としながとは縁者えんじゃ関係かんけいあたる。さらに特異とくいせん支度じたくちち長秀ながひでゆずりの築城ちくじょう技術ぎじゅつたか評価ひょうかされたことに所以ゆえんする。慶長けいちょう19ねん1614ねん)からの大坂おおさかじんでは武功ぶこうげたため、1617ねん江戸えど幕府ばくふ2だい将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただ御伽おとぎしゅとして、細川ほそかわきょうもと佐久間さくま安政あんせい立花たちばな宗茂むねしげらととも抜擢ばってきされる(この3めい長重ながしげより年長ねんちょうで、武功ぶこう実績じっせきおおかった[4])。

その元和がんわ5ねん1619ねん)に常陸ひたちこく江戸崎えどさき2まんせき元和がんわ8ねん1622ねん)には陸奥みちのくこく棚倉たなぐら5まんせきにそれぞれ加増かぞううつりふうされる(なお、ぜん棚倉たなぐら藩主はんしゅは、長重ながしげとも秀忠ひでただ御伽おとぎしゅである立花たちばな宗茂むねしげ)。

長重ながしげ出世しゅっせり、各地かくち離散りさんしていたきゅう丹羽たんば家臣かしんたちが、長重ながしげもともどってきた。それまで、長重ながしげ立花たちばな宗茂むねしげ居城きょじょうとしていた赤館あかだてじょう使つかっていたが、あらたなしろ築城ちくじょうめ、そこからみなみにある近津ちかつ明神みょうじん境内けいだいあらたなしろ築城ちくじょうすることを決意けついした[5]。この近津ちかつ明神みょうじんうごかすことで、住民じゅうみん悶着もんちゃくこったが、長重ながしげ別当べっとう高松たかまつ一族いちぞくから高松たかまつりょうあつし家老がろうとして登用とうようし、かれ主導しゅどう明神みょうじん遷宮せんぐうおよしろ築城ちくじょうおこなわせた[5]。このしろがのちの棚倉たなぐらしろとなる。

ところが、寛永かんえい4ねん1627ねん)に会津あいづはん蒲生がもうただしきょう嫡子ちゃくしなくして死去しきょし、蒲生がもう改易かいえきされる。その領地りょうち加藤かとう嘉明よしあき長重ながしげうつり、長重ながしげ白河しらかわ10まん700せきとなった。結局けっきょく築城ちくじょうちゅうであった棚倉たなぐらじょう放置ほうちされ、そのうつってきた内藤ないとうしんあきらによって完成かんせいした[6]白河しらかわはいってからも、各地かくち離散りさんしていた丹羽たんば旧臣きゅうしんたちはますますあつまり、くわえて蒲生がもう旧臣きゅうしんなどもかかえたこと[6]白河しらかわ小峰こみねじょう築城ちくじょうしたことにより[7]丹羽たんば財政ざいせい逼迫ひっぱくしたという[7]

寛永かんえい14ねん1637ねんうるう3月4にち江戸えど桜田さくらだ上屋敷かみやしき死去しきょした[8]享年きょうねん67[8]まん65さいぼつ)。法名ほうみょうだいとなりてら殿どのぜん参議さんぎ三品傑俊浄英大居士[8]

あと光重みつしげいだ。

人物じんぶつ評価ひょうか

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丹羽にわ長重ながしげ

関ヶ原せきがはらたたかいで領土りょうどうしなった大名だいみょううち数少かずすくない大名だいみょうとしてかえいた武将ぶしょうであった。さらに、それらのなかでも最終さいしゅうてきに10まんせき以上いじょうりょうしたのは長重ながしげ立花たちばな宗茂むねしげのみであり、そのことは特筆とくひつされる。

長重ながしげ築城ちくじょう技術ぎじゅつたかさを評価ひょうかされていた。かれ築城ちくじょうした棚倉たなぐらしろ白河しらかわ小峰こみねじょうはいずれもしろとしてのしつたか[9]棚倉たなぐらじょう西側にしがわ急峻きゅうしゅんがけであり、まもりにてきした立地りっち条件じょうけんっていた[10]白河しらかわ小峰こみねじょうそう石垣いしがきづくりのしろで、これは東北とうほく地方ちほうでは数少かずすくないつくりのしろであった[9]。こうした築城ちくじょう技術ぎじゅつ幕府ばくふがわからも評価ひょうかされ、陸奥みちのくくちである要衝ようしょう長重ながしげ領地りょうちあたえられたと指摘してきされる[9]

死去しきょさいして子息しそく家臣かしんに「将軍しょうぐんおんだいいちとして、幕僚ばくりょう円滑えんかつい、徳川とくがわ幕府ばくふへの忠勤ちゅうきんはげめ、しかし、機転きてんかせすぎたり、へつらうのはよくない」と遺言ゆいごんのこしている。河合かわいあつしはこの遺言ゆいごんにも長重ながしげ堅実けんじつ実直じっちょく人柄ひとがらあらわれているとひょうしている[11]

浅井あさいなわてたたかののち、講和こうわのために前田まえだから人質ひとじちとして前田まえだ利常としつねつかわされた。利常としつね前田まえだ利家としいえではあるが、兄弟きょうだいちが身分みぶんひく側室そくしつしたまれた庶子しょしであった。小松こまつしろ抑留よくりゅうされていた人質ひとじち利常としつねに、長重ながしげみずかなしあたえたことがあった[注釈ちゅうしゃく 3]利常としつね晩年ばんねんまでなしべるたびにこのおもはなした、という逸話いつわのこっている。

系譜けいふ

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父母ちちはは

正室せいしつ

側室そくしつ

  • 千賀ちか
  • 竜光りゅうこういん家臣かしん山形やまがたたけ兵衛ひょうえあね

子女しじょ

  • 丹羽にわひさし千代ちよ生母せいぼ報恩ほうおんいん正室せいしつ
  • 庭田にわたなべ麻呂まろ生母せいぼ報恩ほうおんいん正室せいしつ
  • 酒井さかい忠正ただまさ正室せいしつ生母せいぼ報恩ほうおんいん正室せいしつ
  • 丹羽にわ光重みつしげ三男さんなん生母せいぼ竜光りゅうこういん側室そくしつ
  • 大島おおしまよしただ正室せいしつ生母せいぼ千賀ちか側室そくしつ
  • 浅野あさのちょうただし正室せいしつ生母せいぼ竜光りゅうこういん側室そくしつ

家臣かしん

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関連かんれん作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 成田なりた道徳みちのりとするせつ「『丹羽たんば』や『丹羽にわ歴代れきだい年譜ねんぷ』にのこされている」。丹羽たんばは「うたがいであり豊臣とよとみいがかり」とするせつ丹羽たんば』『こしのぼるさんしゅうこころざし』では成田なりた道徳どうとく佐々ささしげるせい共謀きょうぼうしたと密告みっこくしたのはおな丹羽たんば家臣かしん戸田とだ勝成かつなり長束ながつかただしであったとつたえている。後世こうせい研究けんきゅうにより「丹羽たんば豊臣とよとみいがかりとするせつ」が有力ゆうりょくとされる。戸田とだ勝成かつなり長束ながつかただし行動こうどう保身ほしんであり密告みっこくとするかかは後世こうせい解約かいやくもとめられる。」成田なりた道徳どうとく重忠しげただ子孫しそん代々だいだい丹羽たんば陸奥みちのく二本松にほんまつはん)に幕末ばくまつまでつかえ、また道徳どうとく重忠しげただ親子おやこ子孫しそん1人ひとり二本松にほんまつはん二本松にほんまつ少年しょうねんたい成田なりたざい次郎じろう14さいであり、戊辰戦争ぼしんせんそうにおいて長州ちょうしゅうはん部隊ぶたいちょう白井しらい小四郎こしろうもと兵隊へいたいたい)をとっきによって直後ちょくご戦死せんしした(「き」は二本松にほんまつはん伝統でんとう剣法けんぽうである)。先祖せんぞである道徳どうとく汚名おめい返上へんじょうした。
  2. ^ 豊臣とよとみ主張しゅちょうする肝心かんじん狼藉ろうぜきはたらいた家臣かしん不明ふめいであり、後世こうせいにもつたわる真偽しんぎ不明ふめいいがかりせつ有力ゆうりょくとされる。
  3. ^ 利常としつねはこののちあに利長としなが養子ようしとなり徳川とくがわひめしつむかえ、のち加賀かがはん前田まえださん代目だいめとなる。

出典しゅってん

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  1. ^ a b 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく 1928, p. 959.
  2. ^ 村川むらかわ 2000, p. 27.
  3. ^ 村川むらかわ 2000, p. 36.
  4. ^ 河合かわい 2009, p. 50.
  5. ^ a b 河合かわい 2009, pp. 52–53.
  6. ^ a b 河合かわい 2009, p. 53.
  7. ^ a b 河合かわい 2009, p. 54.
  8. ^ a b c 丹羽にわ長重ながしげびょう”. 白河しらかわ (2016ねん2がつ23にち). 2023ねん8がつ17にち閲覧えつらん
  9. ^ a b c 河合かわい 2009, p. 56.
  10. ^ 河合かわい 2009, p. 52.
  11. ^ 河合かわい 2009, pp. 57–58.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 河合かわいあつし関ヶ原せきがはら敗者はいしゃたち復活ふっかつせん けてもなおのこ人物じんぶつとは』グラフしゃ、2009ねんISBN 4766212924 
  • 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく へんだい日本にっぽん史料しりょうだいじゅういちへん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ史料しりょう編纂へんさんかけ、1928ねん10がつ20日はつかNDLJP:3450625 オープンアクセス
  • 村川むらかわ浩平こうへい日本にっぽん近世きんせい武家ぶけ政権せいけんろん近代きんだい文芸ぶんげいしゃ、2000ねん 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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先代せんだい
丹羽にわ長秀ながひで
児玉こだま丹羽たんば当主とうしゅ
1585ねん - 1637ねん
次代じだい
丹羽にわ光重みつしげ