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一色いっしきよしぬき

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一色いっしき よしぬき / 一色いっしき 義範よしのり
時代じだい 室町むろまち時代ときよ
生誕せいたん おうひさし7ねん1400ねん
死没しぼつ えいとおる12ねん5月15にち1440ねん6月14にち
改名かいめい 義範よしのりよしぬき
別名べつめい 五郎ごろう
戒名かいみょう 安養寺あんようじたいくも
官位かんい 兵部ひょうぶしょう修理しゅうり大夫たいふ左京さきょう大夫たいふ
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ さむらいしょあたまじん丹後たんごこく若狭わかさこく三河みかわこく山城やましろこく守護しゅご
尾張おわりこく知多ちたぐんぐんぬし
主君しゅくん 足利あしかが義持よしもち義量よしかず義教よしのり
氏族しぞく 一色いっしき丹後たんご一色いっしょく
父母ちちはは ちち一色いっしょくまんはんはは不明ふめい
兄弟きょうだい もちはんぬきもちしん
つま 不明ふめい
とお義直よしなお[1]
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一色いっしき よしぬき(いっしき よしつら)は、室町むろまち時代ときよ武将ぶしょう守護しゅご大名だいみょうさむらいしょあたまじん[2]丹後たんご一色いっしょく当主とうしゅ。はじめ義範よしのり、のちぬきしょうした[3][4]五郎ごろう[5]若狭わかさこく三河そうごこく丹後たんごこくおよび尾張おわりこく知多ちたぐん同国どうこくかいひがしぐんゆうし、一色いっしき最盛さいせいきずいた[6]

生涯しょうがい

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おうひさし16ねん1409ねん)1がつ6にちちち一色いっしょくまんはん死去しきょする[5]。このとき10さい[7]家督かとくぐと同時どうじ丹後たんごこく守護しゅごおよ尾張おわりこくうみひがしぐん知多ちたぐんぐんぬしにんじられる。どう18ねん1411ねん)11月、兵部ひょうぶしょうにんじられる[5]

若狭わかさこく守護しゅごしょく次第しだい」に、おうなが18ねん6がつ13にち一色いっしき次郎じろうもちはん)と五郎ごろうよしぬき)の兄弟きょうだい和睦わぼくしたとあり、両者りょうしゃあいだ家督かとくあらそいがあったことを反映はんえいしているとかんがえられる[7][5]

このころおうなが18〜19ねんごろ元服げんぷくし、将軍しょうぐん足利あしかが義持よしもちよりへんいみなよし」をあたえられたと推測すいそくされる[8]ぬきちちまんはん以前いぜん一色いっしょく当主とうしゅは、「」「かい」「みつる」のへんいみな拝領はいりょうしており、「よしあたえられたのはぬき最初さいしょとなる[8]

おうなが19ねん1412ねん)に若狭わかさこくどう22ねん1415ねん)には三河みかわこくどう25ねん1418ねん)10がつ以降いこうには山城やましろこく守護しゅご[9]となったことで4カ国かこく守護しゅごねる有力ゆうりょく大名だいみょうとなった。おうなが21ねん1414ねん)8がつ9にちさむらいしょあたまじん在職ざいしょく徴証ちょうしょうがあり、どう28ねん1421ねん)2がつ7にちまでつとめた[2]

おうなが22ねん1415ねん)、伊勢いせこく国司こくし北畠きたばたけみつるみやび小倉おぐらみやきよしうけたまわようして挙兵きょへいした[2]ぬき追討ついとうぐんそう大将たいしょう任命にんめいされ、同年どうねん4がつ伊勢いせかい、援軍えんぐん畠山はたけやまみつるけいともにこれを平定へいていした[2]

おうなが23ねん1416ねん)、鎌倉かまくらにて上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅうらんきたさい上杉うえすぎ禅秀ぜんしゅうむすめわらわとしている足利あしかが義嗣よしつぐきょうから出奔しゅっぽん山城やましろ高雄たかお遁世とんせい義持よしもちにより仁和寺にんなじきょう徳庵とくあんうつされる騒動そうどうきると、義嗣よしつぐ身柄みがら奪還だっかん懸念けねんからさむらいしょ別当べっとうであったよしぬき当時とうじ義範よしのり)が警固けいごしている。

おうなが25ねん(1418ねん)10がつ24にち山城やましろこく守護しゅご補任ほにんされた[2]。また、このころ左京さきょう大夫たいふとなった[10]

おうなが34ねん1427ねん)9がつ赤松あかまつ義則よしのり死去しきょすると、将軍しょうぐん義持よしもちは、そののこりょう赤松あかまつ満祐みつすけぐことをみとめず、播磨はりまこく御料ごりょうこく将軍しょうぐん直轄ちょっかつ)にし、赤松あかまつもちさだをその代官だいかんにんじた[11]。これに反発はんぱつした満祐みつすけきょう自邸じていはらって帰国きこくすると、義持よしもちぬき山名やまなひろし追討ついとうめいじたが、よしぬき管領かんりょう畠山はたけやま満家みついえ意向いこうけ、出発しゅっぱつしなかった[11]

せいちょう元年がんねん1429ねん)、ふたた反乱はんらんこした北畠きたばたけみつるみやびめに従軍じゅうぐんした。

よんしょく1人ひとりとなって幕政ばくせい参与さんよした。

えいとおる元年がんねん1429ねん)3がつ15にち、6だい将軍しょうぐんとなり、それまでの義宣よしのぶから改名かいめいした足利あしかが義教よしのりおとつうじるため、義範よしのりからぬき改名かいめいする[10]

えいとおる2ねん1430ねん)7がつ25にちおこなわれた義教よしのりみぎ大将たいしょう拝賀はいがしきにおいて、よしぬき布衣ふい一騎打いっきうちの先頭せんとうつよのぞんだもののゆるされず、しき欠席けっせきした[12]。このときぬき処分しょぶん検討けんとうされ、よしぬき一戦いっせんする覚悟かくごだったが、畠山はたけやま満家みついえ管領かんりょう斯波しばよしあつし細川ほそかわらが義教よしのりを諫止したため、処分しょぶん見送みおくられた[12]

えいとおる9ねん1437ねん)3がつ義教よしのりいのち大和やまとこく出陣しゅつじんした(『きょう』)[13]

えいとおる12ねん1440ねん)5がつ15にち[4]大和やまと陣中じんちゅうで、義教よしのりいのちけた武田たけだ信栄のぶえい細川ほそかわつねらによって、土岐ときもちよりゆきとも攻撃こうげきけ、自害じがいした[13]享年きょうねん41。安養寺あんようじごう[4]

その翌日よくじつ同族どうぞく一色いっしょくきょうおやが、京都きょうと勘解由小路かげゆこうじ堀川ほりかわにあるぬき屋形やかた接収せっしゅうした[13]。このさいよしぬき家臣かしんたちは抵抗ていこうし、たれ、屋形やかた焼失しょうしつした[13]

鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが持氏もちうじ家臣かしんであり、えいとおるらん大将たいしょう一人ひとりだった同族どうぞく一色いっしょく持家もちいえ)が、よしぬき守護しゅごしょくつとめていた三河みかわこくのがれており、このことが誅殺ちゅうさつされた要因よういんひとつとみられている[14]ぬきは4かこく守護しゅごねる有力ゆうりょくしゃであるため、義教よしのり警戒けいかいされ、暗殺あんさつされたともわれる。また、一色いっしき内部ないぶでも、家督かとくをめぐり、あにもちはんおいおとうともちしん)であるきょうおやとのこうそうがあった。

ぬき守護しゅごしょくのうち、若狭わかさこく武田たけだ信栄のぶえいに、丹後たんごこく一色いっしょくきょうおやに、三河そうごこく細川ほそかわつねに、それぞれあたえられた[13]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 清水しみず敏之としゆき戦国せんごく丹後たんご一色いっしょく基礎きそてき研究けんきゅう戦国せんごく研究けんきゅうかい へん戦国せんごく研究けんきゅう』(82)p1-16(戦国せんごく研究けんきゅうかい、2021ねん
  2. ^ a b c d e 高橋たかはし 1983, p. 41.
  3. ^ 高橋たかはし 1983, p. 40.
  4. ^ a b c 寛政かんせい 1922, p. 480.
  5. ^ a b c d ぐんしょ類従るいじゅう 1893, p. 363.
  6. ^ 河村かわむら 2016, p. 1.
  7. ^ a b 小浜おばま編纂へんさん委員いいんかい 1992, p. 553.
  8. ^ a b 高橋たかはし 1983, p. 42.
  9. ^ 小浜おばま編纂へんさん委員いいんかい 1992, p. 549.
  10. ^ a b 高橋たかはし 1983, p. 49.
  11. ^ a b 赤穂あこうへんさん専門せんもん委員いいん 1981, pp. 569–570.
  12. ^ a b 高橋たかはし 1983, p. 43.
  13. ^ a b c d e 小浜おばま編纂へんさん委員いいんかい 1992, p. 573.
  14. ^ 高橋たかはし 1983, pp. 47–48.

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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