(Translated by https://www.hiragana.jp/)
藤原諸成 - Wikipedia コンテンツにスキップ

藤原ふじわらしょなり

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原ふじわらしょなり
時代じだい 平安へいあん時代じだい初期しょき
生誕せいたん のべれき12ねん793ねん
死没しぼつ ひとし3ねん4がつ18にち856ねん5月25にち
官位かんい したがえよんじょう右京大夫うきょうのだいぶ
主君しゅくん 淳和天皇じゅんなてんのう仁明天皇にんみょうてんのう文徳ふみのり天皇てんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらみなみ巨勢こせ麻呂まろりゅう
父母ちちはは ちち藤原ふじわら助川すけかわはは平群へぐり秋津あきつむすめ[1]
兄弟きょうだい しょなりこうもと
テンプレートを表示ひょうじ

藤原ふじわら しょなり(ふじわら の もろなり)は、平安へいあん時代じだい初期しょき貴族きぞく藤原ふじわらみなみ巨勢こせ麻呂まろながれせいろくじょう藤原ふじわら助川すけかわ長男ちょうなん官位かんいしたがえよんじょう右京大夫うきょうのだいぶ

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

ひろしひとし年間ねんかん文章ぶんしょうせいせられる。非常ひじょう理解りかいはやくてかしこく、文選ぶんせん半分はんぶん暗唱あんしょうするほどであり、だい学寮がくりょううちさんすぐるしょうされたという[2]ひろじん12ねん821ねん修理しゅうりしょうすすむにんぜられたのちみんしょうすすむ式部しきぶだいすすむて、淳和じゅんなちょうてんちょう3ねん826ねんしたがえ相模さがみけんかい叙任じょにんされる。

仁明天皇にんみょうてんのう即位そくいまもないてんちょう10ねん833ねん)5がつみぎしょうべんにんぜられるが、6がつにはだいおさむしょうてんじる。うけたまわ6ねん839ねん治部じぶしょうにんぜられたのち、式部しきぶしょう輔・かんかいよし次官じかん春宮とうぐうあきら仁明にんみょうちょうちゅうきょうかん歴任れきにんし、このあいだうけたまわ8ねん841ねんしたがえじょううけたまわ12ねん845ねんせい順調じゅんちょう昇進しょうしんうけたまわ15ねん848ねん)にはしたがえよんみぎちゅうべん叙任じょにんされた。また、うけたまわ9ねん842ねん)に渤海使ぶくのべ入京にゅうきょうしたさいには、郊労使ろうしつとめている。

仁明にんみょうちょうまつよしみさち2ねん849ねん備前びぜんもりとしてふたた地方ちほうかんつとめるが、よしみさち3ねん850ねん文徳ふみのり天皇てんのう即位そくいすると右京大夫うきょうのだいぶ転任てんにんする。じん寿ことぶき3ねん853ねんしたがえよんじょうひとし3ねん856ねん)4がつ18にち卒去そっきょ享年きょうねん64。最終さいしゅう官位かんい右京大夫うきょうのだいぶしたがえよんじょう

人物じんぶつ

[編集へんしゅう]

ざいがく朋輩ほうばいおくれをることがなかったとひょうされ、しょなり自身じしん生来せいらい精勤せいきんむねとした。参議さんぎ任官にんかんされないことをうらみにおもっているうちに、突然とつぜん急逝きゅうせいしたという[2]

かんれき

[編集へんしゅう]

ろく国史こくし』による。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』による。同書どうしょしょほんなかにはひらあきなかむすめとするものもある。
  2. ^ a b 日本にっぽん文徳ふみのり天皇てんのう実録じつろくひとし衡3ねん4がつ18にちじょう

出典しゅってん

[編集へんしゅう]