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河野こうのとおるせん (左京さきょう大夫たいふ)

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河野こうの とおるせん
河野こうの左京さきょう大夫たいふどおりせん肖像しょうぞう(東京大学とうきょうだいがく資料しりょう編纂へんさんしょ所蔵しょぞう)
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん だいひさし2ねん1522ねん
死没しぼつ 天正てんしょう9ねん1581ねん
改名かいめい つうけんつうせん
別名べつめい そう三郎さぶろう四郎しろう
戒名かいみょう にちぜいいん殿どのほらがつ良恵よしえだい禅定ぜんじょうもん
官位かんい 伊予いよもり左京さきょう大夫たいふ
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ守護しゅご
氏族しぞく 河野こうの
父母ちちはは ちち河野こうのとおるただしははしょう
兄弟きょうだい つうせいはれどおり石川いしかわとおるあきらつうせん野島のじま直信なおのぶ
つま 正室せいしつ:大友おおとも義鑑よしあきむすめ
継室けいしつ:宍戸ししどたかしむすめ天遊てんゆう永寿ながとし?)
養子ようしつうじき
テンプレートを表示ひょうじ

河野こうの とおるせん(かわの みちのぶ)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう大名だいみょう河野こうの当主とうしゅ築城ちくじょうおも

生涯しょうがい

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しゅう河野こうのとおるそん(みちまさ、河野こうのとおるはるまご)のわれてきたが、近年きんねんではあに河野こうのとおるせいとも河野こうの弾正だんじょうしょう弼通じき実子じっしであったことが確認かくにんされつつある。天文てんもん12ねん1543ねん)に当主とうしゅであったあにつうせい早世そうせいしたため、家督かとくぐこととなった。しかし若年じゃくねんであったため、ちちつうじき後見こうけんけることとなる。

つうせん家督かとくいだころ河野こうのは、家臣かしん謀反むほん豊後ぶんごこく大友おおとも土佐とさこく一条いちじょうぼうもと侵攻しんこうけ、国内こくないでは宇都宮うつのみやゆたかつなとも対立たいりつし、領内りょうないはまさに危機ききてき状態じょうたいにあった。さら成長せいちょうしたつうせん亡兄ぼうけいつうせい同様どうようちちつうひた対立たいりつし、それにじょうじて天文てんもん22ねん1553ねん)に大野おおの利直としなおが、翌年よくねんには和田わだとおるきょう反乱はんらんこした。これらの反乱はんらん重臣じゅうしん村上むらかみとおるやすし平岡ひらおかぼう遠征えんせいかえし、鎮圧ちんあつおよんだが、もはや国内こくない独力どくりょくでまとめるちからもなかったつうせんは、以前いぜんより姻戚いんせき関係かんけいであった中国ちゅうごく地方ちほうゆう毛利もうり元就もとなり従属じゅうぞくてき同盟どうめいむすび、小早川こばやかわ隆景たかかげ中心ちゅうしんとする毛利もうりぐん支援しえんによって、土佐とさ一条いちじょう宇都宮うつのみや撃退げきたいしている(毛利もうり伊予いよ出兵しゅっぺい)。

しかし、伊予いよ国内こくないへの相次あいつ侵略しんりゃく家臣かしんだん離反りはんなど、内憂ないゆう外患がいかんつづ心労しんろうがたたったのか、つうせんやまいたおれる。足利あしかが義輝よしてるつかえていたうめせんのきれいちょうえいろく5ねん1562ねんごろつうせんてた書状しょじょう[1]内容ないようからは、つうせん中風ちゅうぶにかかっていたことが判明はんめいする[2]

嗣子ししかったため、えいろく11ねん1568ねん)に家督かとく一族いちぞく河野こうのうしぶく伊予いよもりどおりじきゆずって隠居いんきょし、天正てんしょう9ねん(1581ねん)に死去しきょした。ただし、近年きんねん研究けんきゅうによると『高野たかの山上さんじょうぞういん文書ぶんしょちゅうにある「河野こうの過去かこちょう」における記述きじゅつよりそのえいろく13ねん1570ねんごろではないかともわれる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 臼杵きゅうしょ稲葉いなば文書ぶんしょぼうねん推定すいていながろく5ねん)5がつ11にち河野こうのそう三郎さぶろうつうせんあてうめせんのきれいちょう書状しょじょう(『愛媛えひめけん 資料しりょうへん古代こだい中世ちゅうせい』1854ごう
  2. ^ 西尾にしお和美かずみ戦国せんごく末期まっきにおけるげい関係かんけい展開てんかい婚姻こんいん」『戦国せんごく権力けんりょく婚姻こんいん清文せいぶんどう出版しゅっぱん、2005ねん、P70-73

関連かんれん項目こうもく

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