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いみな

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いみな(いみな)とは、人名じんめいいち要素ようそたいする中国ちゅうごくなどひがしアジア漢字かんじけんにおける呼称こしょうである。「めい」とも表記ひょうきされる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

いみなという漢字かんじは、日本語にほんごにおいて「いむ」とくんぜられるように、本来ほんらいくちすことがはばかられることを意味いみする動詞どうしである。

この漢字かんじは、古代こだい貴人きじん死者ししゃ本名ほんみょうぶことをける習慣しゅうかんがあったことから、てんじてひと実名じつめい本名ほんみょうのことをすようになった。本来ほんらい名前なまえ表記ひょうき生前せいぜんであれば「」、死後しごは「いみな」とんで区別くべつするが[1]、のちになって生前せいぜんさかのぼいみな表現ひょうげんするなど、混同こんどうられるようになった。いみな対照たいしょうして普段ふだんじんぶときに使つか名称めいしょうを「」といい、時代じだいくだるとおおくの人々ひとびといみなつようになった。

いみなびかけることはおや主君しゅくんなどのみにゆるされ、それ以外いがい人間にんげんおこなった場合ばあいきわめて無礼ぶれいであるとかんがえられた(詳細しょうさい後述こうじゅつの「実名じつめいけい避俗」およ避諱参照さんしょう)。

また、僧侶そうりょ受戒じゅかいするときにける法名ほうみょうのことを、仏弟子ぶつでしとしてあらたににつけるしん名前なまえという意義いぎからいみな厳密げんみつにはほういみな(ほうい・ほうき))といった。

日本にっぽんでは時代じだいくだると、僧侶そうりょ受戒じゅかいが、俗人ぞくじん葬式そうしき死者ししゃ授戒じゅかい戒名かいみょうとしていみなあたえる儀礼ぎれいとしてれられた。このため、現在げんざいいみなおくりな混同こんどうされ、現代げんだい日本語にほんごではほとんど同義どうぎもちいられることもしばしばある。

実名じつめいけい避俗[編集へんしゅう]

実名じつめいけいする(うやまってける)習ぞくという意味いみかたりである。漢字かんじ文化ぶんかけんにおいて、いみなびかけることはおや主君しゅくんなどのみにゆるされ、それ以外いがい人間にんげんおこなった場合ばあいきわめて無礼ぶれいであるとかんがえられた。これは、ある人物じんぶつ本名ほんみょうはその人物じんぶつ霊的れいてき人格じんかくつよむすびついたものであり、そのくちにするとその霊的れいてき人格じんかく支配しはいすることができるとかんがえられたためである。

そのいちれいとして高堂こうどうたかし逸話いつわげられる。『とくぐん薛悌論争ろんそうしたとき、薛悌を名前なまえんで怒鳴どなりつけた。高堂こうどうたかしけんをかけてとくぐんしかり、「むかし魯のていおおやけ侮辱ぶじょくされたとき、なか(孔子こうし)階段かいだんがってたしなめ、ちょうおうはたきんかされたとき、しょうはたおうかん(かめ。打楽器だがっきとして使つかう。)[2]たたかせた。したしんまえにして主君しゅくん名前なまえべば、道義どうぎではたすことになっている。」とくぐんさおになり、薛悌はあわてておこり(た)ちがりかれめた。』[3]

日本にっぽんでは、ほんきょ宣長のりながせつ主流しゅりゅうであった。それによれば、いみなとは中国ちゅうごくからつたわった「漢意からごころ」であって日本にっぽん古来こらい風習ふうしゅうではなく、むしろ日本にっぽんでは古来こらい名前なまえとは美称びしょうであった。そしてのちに漢国かんごく中国ちゅうごく)の風俗ふうぞくにならい、名指なざしが無礼ぶれいとされるようになった[4]。しかし穂積ほづみ陳重のぶしげは、フレイザー金枝きんしへん』などの文献ぶんけん独自どくじ調査ちょうさし、このような名前なまえかんするタブー漢字かんじ文化ぶんかけんのみならず、世界せかい各地かくち存在そんざいすることをめたとべた。そして日本にっぽんでも中国ちゅうごくいみなれいせい導入どうにゅうされる以前いぜんから、実名じつめいける習慣しゅうかん存在そんざいしたとして、これを「実名じつめいけい避俗」と定義ていぎした[5][6]。また陳重のぶしげは、宣長のりなが名前なまえ美称びしょう認識にんしきしたのは、『古事記こじき』『日本書紀にほんしょき』に記録きろくされたかみ天皇てんのう名前なまえは、実名じつめいおおくがわすられ、ふくしょう尊号そんごうのみがつたえられた結果けっか指摘してきした[7]。たとえば、耶那いのちよこしま岐命かみめいは、賀茂真淵かものまぶち宣長のりなが[8]せつしたがい「耶(イザ)」を「さそえ(いざなふことば)」の意味いみ、すなわちくにのための遘合たがいにさそったことからんだものとすれば、これはあきらかにからたてまつられた尊号そんごうであって、実名じつめいではないことになる[9]

実名じつめいけい避俗の発想はっそうから貴人きじんいみなけることを「避諱(ひき)」という。とく天子てんし皇帝こうてい)のいみな厳重げんじゅうけられ、みことのりみことのり以下いか公文書こうぶんしょにもいっさいもちいられず、おな使つかった臣下しんか地名ちめい官職かんしょくめい改名かいめいさせられたり、漢字かんじすえかせるなどのあらゆるくし使用しようみとめなかった。たとえば、かん初代しょだい皇帝こうてい劉邦りゅうほういみなは「くに」であったため、かんだいには「くに」のをまったく使用しようできなくなった。以後いごくに」の使つかうことが一般いっぱんし、戦国せんごく時代じだいに「あいくに」とばれていた役職やくしょく相国しょうこくとなった。避諱の実際じっさい時代じだいによってことなるが、おおくは王朝おうちょう初代しょだいげん皇帝こうていから8だいまえまでさかのぼる歴代れきだい皇帝こうていいみなけた。また皇帝こうていのほか、自分じぶんおやも避諱の対象たいしょうとなった(たとえば、もりはじめはたくさんののこしたが、ちちである「閑」というはすべての作品さくひん使用しようしなかった)。(くわしくは避諱こう参照さんしょう。)

日本にっぽんではおや実名じつめいけるれいはほとんどられない。しかし、中国ちゅうごくつよ影響えいきょうにある桓武かんむ天皇てんのう時代じだい編纂へんさんされた正史せいしぞく日本にっぽん』において、天皇てんのうちちであるひかりじん天皇てんのう即位そくいまえ記事きじかんしては、いみなである「白壁しらかべおう」という表記ひょうきけて(大納言だいなごん)「いみな」と記載きさいされている。

江戸えど時代じだいなかごろ以降いこうは、将軍家しょうぐんけ当主とうしゅ家族かぞくいみなのりは実名じつめいでの使用しようける傾向けいこうがあり、しょはんにおいては将軍家しょうぐんけくわえて藩主はんしゅとその家族かぞく実名じつめいおよびのりをけた(後述こうじゅつする将軍しょうぐんから大名だいみょう当主とうしゅ世子せいしとうへのへんいみな授与じゅよ場合ばあいのぞく)。この場合ばあいは、将軍家しょうぐんけ藩主はんしゅむすめ使用しようける対象たいしょうであった。

具体ぐたいれいとしては、徳川とくがわ綱吉つなよし時代じだい綱吉つなよしむすめつるひめおなじ「つる」というえたれいや、長州ちょうしゅうはん毛利もうりしげる当初とうしょ「しげなり」というのりだったのを、徳川とくがわ家斉いえなり将軍しょうぐんになってからは「しげたか」とあらためたれいがある。また薩摩さつまはんでは、将軍家しょうぐんけ当主とうしゅ正室せいしつ子女しじょいみなおよ藩主はんしゅとその正室せいしつ子女しじょ実名じつめいおよびのりをけるようにはんほう規定きていしていたことが、「薩藩政はんせい要録ようろく」や「さんしゅう治世ちせい要覧ようらん」からかる。その、「仙台せんだい 通史つうし4 近世きんせい2」によれば、伊達だて宗村むねむら徳川とくがわ吉宗よしむね養女ようじょ利根りこんひめくもまついん)がとつぐと、領内りょうないでの「とね」という女性じょせいめい禁止きんしされ、武家ぶけ庶民しょみんべつなく「とね」の女性じょせい改名かいめい令達れいたつされている。

安政あんせい5ねん10がつ松平まつだいら茂昭しげあき将軍家しょうぐんけしげるへんいみなたまわってちょくかどから茂昭しげあきあらためた。このとし以後いご福井ふくいはんみんにおけるしげる忌諱ききによってすべてあらためられ、人別にんべつちょうひとしには左衛門さえもん兵衛ひょうえとうしるされている。

薩摩さつまはんではまた、将軍家しょうぐんけおよ藩主はんしゅ実名じつめいのりの禁止きんしは、将軍家しょうぐんけ藩主はんしゅ一族いちぞく死去しきょもしくは結婚けっこんなどでいえ場合ばあい解除かいじょされたことが「鹿児島かごしまけん史料しりょう」で散見さんけんされる。

漢字かんじけんでの[編集へんしゅう]

中国ちゅうごくはじめとするひがしアジアの漢字かんじけんで、いみなけるためにもちいられた代替だいたいてき呼称こしょう以下いか列挙れっきょする。

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元々もともと中国ちゅうごく習慣しゅうかんで、成人せいじんした人間にんげんとしてもちいられた。

せい  いみな実名じつめい くに地域ちいき
すえ ふちあきら せん 中国ちゅうごく
  いん 中国ちゅうごく
ちょう こうじき ひかり 朝鮮半島ちょうせんはんとう
きむ たてこれ とみ 朝鮮半島ちょうせんはんとう
荻生おぎゅう しげきょう(もけい) しげるきょう(しげのり) 日本にっぽん
宇野うの しん かなえ 日本にっぽん

ごう[編集へんしゅう]

ごう文人ぶんじん知識ちしきじん創作そうさく発表はっぴょうするさいもちいた筆名ひつめいである。ひとりの人物じんぶつ複数ふくすうごうつこともある。

せい ごう ごう いみな実名じつめい くに地域ちいき
 ひがし ひがし坡居 中国ちゅうごく
まご 中山なかやま 日新にっしんはぐれせん ぶん 中国ちゅうごく
 栗谷くりや - 朝鮮半島ちょうせんはんとう
もと らんゆきのき らんゆき すわえひめ 朝鮮半島ちょうせんはんとう
阮 そもそもとき - ベトナム
阮 きよしのき - ベトナム
新井あらい 白石しらいし - きみ 日本にっぽん
吉田よしだ 松陰しょういん じゅういちかいたけし のりかた 日本にっぽん
平山ひらやま 行蔵こうぞう うん籌真じんなど多数たすう せん 日本にっぽん

おくりな[編集へんしゅう]

おうみかど領主りょうしゅなどが、死後しごおくられるおくりなである。

せい おくりな いみな実名じつめい くに地域ちいき
しょかずら 忠武ただたけこう あきら 中国ちゅうごく
おう ぶんこう やすせき 中国ちゅうごく
 忠武ただたけおおやけ 舜臣しゅんしん 朝鮮半島ちょうせんはんとう
かわ 文孝ふみたかおおやけ えんじ 朝鮮半島ちょうせんはんとう
徳川とくがわ こう 光圀みつくに 日本にっぽん
伊達だて 貞山ていざんこう せいむね 日本にっぽん

かんめい[編集へんしゅう]

官職かんしょくについている(いた)人物じんぶつをそのかんめいぶこともあった。日本にっぽんでも同様どうよう慣習かんしゅうがあったが、朝廷ちょうていさづけたかんめいそのままではなく唐名とうみょうとすることもおおかった。

せい かんめいとう かんめい いみな実名じつめい くに地域ちいき
嵆 ちゅう - かん 中国ちゅうごく
もり こう - はじめ 中国ちゅうごく
 相国しょうこく 宰相さいしょう 奎報 朝鮮半島ちょうせんはんとう
- とも 大納言だいなごん 善男ぜんなん 日本にっぽん
たいら 相国しょうこく 太政大臣だじょうだいじん 清盛きよもり 日本にっぽん
徳川とくがわ うち 内大臣ないだいじん 家康いえやす 日本にっぽん

また中国ちゅうごくでいう刺史ししのような地方ちほう長官ちょうかん場合ばあいおさめる土地とちばれることもあった。

せい 地名ちめい 官位かんい いみな実名じつめい くに地域ちいき
りゅう しゅう しゅう刺史しし 中国ちゅうごく
やなぎ やなぎしゅう やなぎしゅう刺史しし そうはじめ 中国ちゅうごく
かち 安房あわ したがえ安房あわもり 義邦よしくに安芳やすよし 日本にっぽん
小堀こぼり とおしゅう したがえ遠江とおとうみまもる 政一まさかず 日本にっぽん

ただし中世ちゅうせい以降いこう日本にっぽん場合ばあい任官にんかんされていない百官ひゃっかんめい受領じゅりょうめい勝手かって自称じしょうする武士ぶしもいるため、その実際じっさい官職かんしょくであるかたんなる自称じしょうであるかは検討けんとうようする。たとえば織田おだ信長のぶなが朝廷ちょうていから右大臣うだいじんにんぜられているため、織田おだ右府うふ」(右大臣うだいじん唐名とうみょう)という実際じっさいかんめい沿ったものである。しかし一般いっぱんられる織田おだ上総かずさかい」は、いわゆる百官ひゃっかんめいでありまったくの自称じしょうである。

左衛門さえもんみぎ衛門えもん兵衛ひょうえといったかんめい頻繁ひんぱん使つかわれたため、もとかんめいであったことすらわすられ、へいのう分離ぶんり以降いこう平民へいみん名前なまえとして一般いっぱんてき使つかわれた。

はいぎょう[編集へんしゅう]

はいぎょうまたはやからぎょうめいは、もともとは中華ちゅうかけんにおける一種いっしゅで、兄弟きょうだい長幼ちょうよう順序じゅんじょしめ番号ばんごう名前なまえわりにしたものである。

せい はいぎょう いみな実名じつめい くに地域ちいき
しゅ じゅうはち げんあきら 中国ちゅうごく
しろ じゅう きょえき 中国ちゅうごく
きむ きゅう あきら 朝鮮半島ちょうせんはんとう
那須なす 与一よいち そうたかし 日本にっぽん
天草てんぐさ 四郎しろう 時貞ときさだ 日本にっぽん

本籍ほんせき[編集へんしゅう]

本籍ほんせき出身しゅっしん)の地名ちめいもちいるれい

せい 本籍ほんせき いみな実名じつめい くに地域ちいき
はじめ じょう 浩然こうぜん 中国ちゅうごく
かん 南海なんかい 有為ゆうい 中国ちゅうごく

けいつう[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん半島はんとうでは、祖先そせんいみなけるわりにどういち血統けっとうどう世代せだいものいみななか特定とくてい共有きょうゆうする習慣しゅうかんがあり、けいもしくはつうという(やからぎょう)。どう世代せだいあいだ共通きょうつうもちいることから、とくれつけいばれることもある。

南北なんぼくあさ時代じだい以降いこう中国ちゅうごくでは、いみな漢字かんじ文字もじもちいることがひろまるが、そのうちのいちについて、兄弟きょうだい従兄弟いとこなど、同族どうぞくどう世代せだい男子だんし世代せだいあいだ序列じょれつあらわすためおな文字もじ共有きょうゆうする。これにより一族いちぞくなか世代せだいあいだにおける長幼ちょうようじょ確認かくにんうことができる。いちめい場合ばあいは、どう部首ぶしゅ漢字かんじもちいることでけいとする(わだちなど)。また、世代せだいあいだ規則きそくしたがったけいじゅんはいすることもあり、この場合ばあい行列ぎょうれつともいわれる(ある世代せだいが「みずけい場合ばあいぎょうせつによってつぎ世代せだいに「けいもちいるなど)。

なお、現代げんだい北朝鮮きたちょうせんでは国家こっか指導しどうしゃに、きむ日成いるそんきむ正日じょんいるまごきむただしおんと、むしろ日本にっぽんしきちかつう使用しようられる。朝鮮ちょうせん伝統でんとうはんするこうした命名めいめいについての理由りゆうは、識者しきしゃから種々しゅじゅ憶測おくそくがなされているもののあきらかではない。

この習慣しゅうかんは、日本にっぽんでも平安へいあん時代じだい初期しょき一時いちじおこなわれたが、のちには一族いちぞくなかで、世代せだいにわたっておないみなのうちのいちとしてもちいるつうがむしろひろおこなわれ、れつけいたいしてくだりけいばれる(後述こうじゅつ)。

日本にっぽん[編集へんしゅう]

日本にっぽんにおけるいみな歴史れきし[編集へんしゅう]

日本にっぽんでの個人こじん名前なまえは「石川いしかわ麻呂まろ(いしかわまろ)」や「あなあいだじん(あなほべのはしひと)」などながくん漢字かんじててきた。しかし、嵯峨天皇さがてんのうのころ遣唐使けんとうしであった菅原すがわらきよしおおやけ進言しんげんによって、男子だんし名前なまえ漢字かんじ文字もじいち女子じょし名前なまえは「○」とするといった、かんふう名前なまえ使用しようすすめられ、定着ていちゃくした[よう出典しゅってん]

このように、中国ちゅうごく伝統でんとうれた名前なまえ習慣しゅうかん定着ていちゃくすると、実名じつめい本名ほんみょうのことを漢文かんぶん表記ひょうきするときは、中国ちゅうごく同様どうように「いみな(いみな)」とんだ。

これは中国ちゅうごくおなじく実名じつめい霊的れいてき人格じんかくむすびついているという宗教しゅうきょうてき思想しそうもとづく。そのため、平安へいあん時代じだいには武士ぶしなどが主従しゅうじゅうおよび師弟してい関係かんけいむすぶときに、主君しゅくん師匠ししょう自分じぶんいた名簿めいぼ(みょうぶ)を提出ていしゅつするしきたりがあった。また、親子おやこ関係かんけい夫婦ふうふ関係かんけい以外いがい社会しゃかいてき主従しゅうじゅう関係かんけいとぼしかった女性じょせいでは秘匿ひとくがよりすすみ、公的こうてき活躍かつやくした人物じんぶつですら、後世こうせい実名じつめい不明ふめいとなる場合ばあいおおかった。清少納言せいしょうなごん紫式部むらさきしきぶ菅原孝標女すがわらたかすえのむすめ実名じつめい不明ふめいなのはこのためである(少納言しょうなごん式部しきぶは、父親ちちおやとう官職かんしょくめいからけられた女房にょうぼうとしての職務しょくむじょう呼称こしょうである。また、こうしるべおんなちち菅原すがわらたかししるべがそのままつけられている)。

また、平安へいあん時代じだい以降いこう貴人きじん居住きょじゅうする邸宅ていたく所在地しょざいちめい官職かんしょくめいなどにもとづく通称つうしょうばれ、武士ぶしをはじめ身分みぶんのさらにひくもの太郎たろう次郎じろうなどの兄弟きょうだい出生しゅっしょう順序じゅんじょなどからつけられた、仮名かめい(けみょう)とばれる通称つうしょうもちいられた。仮名かめいについては、室町むろまち時代ときよ以降いこう官職かんしょくふう人名じんめいとして百官ひゃっかんめい、さらにひがし百官ひゃっかんのようなものまで派生はせいし、いみなべつにつけられた通称つうしょうをもって人名じんめいとすることが明治めいじ時代じだいまでおこなわれていた。

時代じだいげき例示れいじすると、『遠山とおやまきむさん』の主人公しゅじんこうである遠山とおやま景元かげもと実在じつざいした旗本はたもと)の場合ばあいいみなは「景元かげもと」であるが、げきちゅうにおいてこのばれることはない。しょ大夫たいふじょされ左衛門さえもん少尉しょうい名乗なのっていたことから「左衛門尉さえもんのじょうさま」、あるいは仮名かめいである「金四郎きんしろう」(さらにここから派生はせいしたきむさん)のばれる。 だが戦国せんごく時代じだいには官職かんしょくめいではなくあえていみなび、さらには敬称けいしょうをつけずとすることが最上級さいじょうきゅう敬意けいいあらわ事例じれいもあるため、日本にっぽん歴史れきしうえにおいていみな行為こういつね礼儀れいぎくわけではない[10]。また、本能寺ほんのうじへんしるした本城ほんじょう惣右衛門そうえもん覚書おぼえがきには、「のぶながさま」「いへやすさまべつ箇所かしょでは「いゑやすさま」とも)」と記載きさいがあり、いみな使用しようされるれい皆無かいむということもない(一方いっぽう同書どうしょでは自軍じぐんである明智めいちぜい明智あけち秀満ひでみつ通称つうしょうの「弥平やへい」、斎藤さいとう利三としみつを「くらかい」「さいとうくらかい」と官職かんしょくめいになっている)。

明治めいじいたり、1870ねん明治めいじ3ねん12月22にち太政官だじょうかん布告ふこく在官ざいかんやから名称めいしょう是迄これまで苗字みょうじかんしょうしょらいこうしょ自今じこんかん苗字みょうじ実名じつめいしょうしょさるごと」、1871ねん明治めいじ4ねん10月12にち太政官だじょうかん布告ふこく自今じこん位記いき官記かんきはじめ一切いっさい公用こうよう文書ぶんしょせいしかばねじょ苗字みょうじ実名じつめいノミしょうようこうごと」、1872ねん明治めいじ5ねん5月7にち太政官だじょうかん布告ふこく従来じゅうらい通称つうしょう名乗なのりりょう様相ようそうようらいこうやから自今じこんいちめいタルヘキごと」により、いみな通称つうしょう併称へいしょうすることが公式こうしき廃止はいしされている。すべての国民こくみん戸籍こせきに「および「」を登録とうろくすることとなり、それまで複数ふくすういみなおよび通称つうしょうならびにごうなど)をっていたものは、それぞれ自身じしん選択せんたくしたものを「」として戸籍こせき登録とうろくすることとし、登録とうろく婚姻こんいん養子ようし縁組えんぐみともなわないもの改名かいめい禁止きんしされた。当時とうじ明治めいじ政府せいふ高官こうかんれいでは、伊藤いとう春輔はるすけ博文ひろぶみいみなの「博文ひろぶみ」を、山本やまもと権兵衛ごんべえもりたけし通称つうしょうの「権兵衛ごんべえ」をそれぞれ登録とうろくしている。

日本にっぽんにおけるつう[編集へんしゅう]

日本にっぽんでは「ある人物じんぶついみなもちいられているものと同一どういつ漢字かんじもちいることそのものがその人物じんぶつ霊的れいてき人格じんかくたいする侵害しんがいだ」とする観念かんねんが、中国ちゅうごく朝鮮ちょうせんほどつよくはなかった。

そのため、漢字かんじからなる一般いっぱんてきとなった平安へいあん時代じだい中期ちゅうき以後いご日本にっぽんでは、いえ代々だいだい継承けいしょうされ、先祖せんぞ代々だいだいにわたり特定とくてい文字もじいみなれる「つう(とおりじ)」あるいは「けい」という習慣しゅうかんがあった。これにより、そのいえ正統せいとう後継こうけいしゃ、または一族いちぞく一員いちいんであることを明示めいじする意図いとがあった。

代表だいひょうてきれい[編集へんしゅう]

皇族こうぞく公家くげ[編集へんしゅう]
武家ぶけ[編集へんしゅう]
門跡もんぜきぼうかん寺院じいん)・社家しゃけ神社じんじゃ[編集へんしゅう]

など、類例るいれい枚挙まいきょにいとまがない。なかには、活躍かつやくした祖先そせん事績じせきにあやかり、つうもちいるだけではなく祖先そせんとまったくおないみなしょうする場合ばあいもあり、これを先祖返せんぞがえりといった。たとえば朝倉あさくらたかしけい伊達だてまさしむね毛利もうり元春もとはるなどがげられる。

伝統でんとう芸能げいのうである大相撲おおずもうにおいては、部屋へや単位たんいでその部屋へや開祖かいそ四股しこめいからつうもうけているれいがある(春日野かすがの部屋へやの「とち」、佐渡さどだけ部屋へやの「きん」など)。仏教ぶっきょう僧侶そうりょにおいても、浄土真宗じょうどしんしゅう門主もんしゅの「如」、日蓮宗にちれんしゅうの「」のようにつうもうけているれいがある。

このような「つう」「けい」の文化ぶんかは、天子てんし先祖せんぞける中国ちゅうごく避諱とはまったく対照たいしょうてきな、日本にっぽん独特どくとく風習ふうしゅうである(日本にっぽん以外いがいでのれいでは、あきらきよし皇室こうしつ兄弟きょうだいおよびどう世代せだいあいだおなあかりえいむねしゅ鎮・だいむねしゅ鈺の兄弟きょうだい熹宗しゅゆかりこうあつしむねしゅゆかりけん兄弟きょうだいきよしぶんむね詝・きょう親王しんのうあつし親王しんのう兄弟きょうだいきよしむねじゅん従弟じゅうていとくむね湉・あつし親王しんのう兄弟きょうだいなど)を、またベトナムこうみなみ阮氏阮朝でも阮福げん以降いこう代々だいだいいみなに「ぶく」をれている)。

へんいみな[編集へんしゅう]

めいのうち、おもつうではないほうはある程度ていどける習慣しゅうかんがあり、このように避諱がおこなわれたを「へんいみな(へんき・かたいみな)」という。

へんいみな授与じゅよ風習ふうしゅう[編集へんしゅう]

へんいみな(へんき)はけるだけではなく、貴人きじんから臣下しんかへの恩恵おんけい付与ふよとしてへんいみなあたえるれいが、鎌倉かまくら時代ときよから江戸えど時代じだいにかけて非常ひじょうおおられる。

鎌倉かまくら時代じだいには、4だい将軍しょうぐん藤原ふじわらよりゆきけいから5だい執権しっけん北条ほうじょうときよりゆき、6だい将軍しょうぐんそうみこと親王しんのうから8だい執権しっけん北条ほうじょうときそうよりゆき嫡男ちゃくなん)へのへんいみななど、したにつく場合ばあいもままあったが、時代じだいくだるにつれて主君しゅくんへのはばかりからへんいみなけるがわうえとなる場合ばあいがほとんどとなった。

室町むろまち時代ときよには重臣じゅうしん嫡子ちゃくしなどの元服げんぷくさいして烏帽子えぼしおやとなった主君しゅくんが、特別とくべつ恩恵おんけいとして自身じしんへんいみなあたえることがひろられるようになった(いち拝領はいりょうともいう)。とく足利あしかが将軍しょうぐんいち拝領はいりょうすることが顕著けんちょで、畠山はたけやま満家みついえ細川ほそかわ勝元かつもとなどの守護しゅご大名だいみょうから赤松あかまつみつるせいのような近臣きんしんにもあたえられた。したがって、武家ぶけにおいてへんいみなさづけるということは直接的ちょくせつてき主従しゅうじゅう関係かんけいあかしとなるものであり、主君しゅくん自分じぶん家臣かしんつかえている陪臣ばいしんへんいみなさづけることができなかった。実際じっさいに、有馬ありまはれじゅんよしじゅんしょうとの被官ひかん関係かんけいのこしたまま、将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはるからへんいみな授与じゅよされたことが後日ごじつ問題もんだいとなったれいがある(『大舘おおたちつねきょう日記にっき天文てんもん8ねん7がつ8にちどう9ねん2がつ8にちりょうじょう)。しかし、これも戦国せんごく時代じだい以降いこうでは陪臣ばいしん立場たちばでも(主君しゅくん将軍しょうぐん臣下しんか)をかいするかたちで)将軍しょうぐんなどから間接かんせつてきにそのへんいみなける現象げんしょうしょうじている(後述こうじゅつ参照さんしょう)。一方いっぽう公家くげでも近衛このえきゅうじょうじょうのように将軍しょうぐんからへんいみなけるいえあらわれた。

戦国せんごく時代じだいから安土あづち時代じだいには外交がいこう手段しゅだんとしていちもらけることもあった(織田おだしんなが長宗我部ちょうそかべしんおやなど)。桃山ももやま時代じだいには、豊臣とよとみ秀吉ひでよし積極せっきょくてき大名だいみょう子息しそくに「しゅう」のあたえている。結城ゆうきしゅうかん徳川とくがわしゅうただし家康いえやす次男じなん三男さんなん)、宇喜多うきたしゅういえ毛利もうりしゅうもと伊達だてしゅうそうなど。

江戸えど時代じだいになると主君しゅくんから家臣かしんへのへんいみな授与じゅよ風習ふうしゅう氾濫はんらんした。しかし、徳川とくがわ御三家ごさんけ以外いがい将軍家しょうぐんけへんいみなけられるいえは、よんひん国持くにもち大名だいみょう福井ふくいはん越前えちぜん松平まつへい福井ふくい藩主はんしゅ)・加賀かがはん前田まえだ)・福岡ふくおかはん黒田くろだ)・米沢よねざわはん上杉うえすぎ)・仙台せんだいはん伊達だて)など)をはじめとする限定げんていされたはん歴代れきだい当主とうしゅ(の世嗣せいしふくむ)やじょうなどにまり、精選せいせんされた人物じんぶつのみにあたえられる特権とっけん格式かくしきあらわれとなされるようになった。そのため、かくはん一族いちぞくささえはん分家ぶんけなどの当主とうしゅあたえられるれいきわめてまれであり、抜擢ばってきされたいちだいなどをのぞき、代々だいだいあたえられるれいはない。 一部いちぶ例示れいじするが、徳川とくがわ家光いえみつの「ひかり」から徳川とくがわ光圀みつくに徳川とくがわ光友みつとも徳川とくがわ家綱いえつなの「つな」から徳川とくがわ綱重つなしげ徳川とくがわ綱吉つなよし徳川とくがわ綱吉つなよしの「きち」から柳沢やなぎさわ吉保よしやす徳川とくがわ吉宗よしむね徳川とくがわ吉宗よしむねの「むね」から徳川とくがわ宗春むねはる徳川とくがわ家治いえはるの「おさむ」から徳川とくがわ治済はるさだ上杉うえすぎ治憲はるのり徳川とくがわ家斉いえなりの「ひとし」から徳川とくがわ斉昭なりあき島津しまつ斉彬なりあきら徳川とくがわ家慶いえよしの「けい」から徳川とくがわ慶喜よしのぶ松平まつだいら慶永よしながなど枚挙まいきょにいとまがない。

女性じょせい朝廷ちょうてい官位かんいるのにさいしてあたえられる位記いきいみな必要ひつようがあることから、女性じょせいにもへんいみな慣習かんしゅうがみられる。その場合ばあい父親ちちおやないし近親きんしんしゃからへんいみなける。北条ほうじょう時政ときまさむすめ北条ほうじょう政子まさこまさしくは平政子たいらのまさこ)、近衛このえぜんひさむすめぜん中和ちゅうわもんいん)、豊臣とよとみ秀吉ひでよし正室せいしつ吉子よしこ高台院こうだいいん)などおおくのれいがある。

まれではあるが、おとうとあにたいしてへんいみなあたえるれいもあった。これは(長幼ちょうようじょ観点かんてんでいえばあにうえおとうとした立場たちばではあるが)あに庶子しょしであるがゆえにおとうと嫡男ちゃくなんもしくはうえ立場たちばとなり、兄弟きょうだいあつかいがぎゃくに(おとうとあにあにおとうととして)なっているからである。たとえば、室町むろまち幕府ばくふだい6だい将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのり庶子しょしそうとなっていた清久きよひさ(せいきゅう)は、のちに還俗げんぞくするさい異母弟いぼていだい8だい将軍しょうぐんとなっていた足利あしかが義政よしまさから「せい」の授与じゅよけて足利あしかが政知まさとも改名かいめいしている。また、水戸みとはんだい4だい藩主はんしゅ徳川とくがわはじめ長子ちょうしであった松平まつだいらよりゆきじゅんは、おとうとどうはんだい5だい藩主はんしゅとなった徳川とくがわ宗翰むねもとから「翰」のあたえられてはじめは松平まつだいら翰鄰(もとちか)と名乗なのっていた。

また、「たまわった1へんいみな)は授与じゅよけたその人物じんぶつしかもちいることができない」という規定きていまったくない。その具体ぐたいれいとしては以下いかのものがげられる。

こうした事例じれいにより、前述ぜんじゅつの「武家ぶけにおいてへんいみなさづけるということは直接的ちょくせつてき主従しゅうじゅう関係かんけいあかしとなるものであり、将軍しょうぐんとうからへんいみなさずかった大名だいみょうとう自分じぶん家臣かしん陪臣ばいしん)にそのままそのさづけることができない」といった原則げんそく戦国せんごく時代じだい以降いこうでは通用つうようしないことが証明しょうめいされている。

また、へんいみなあたえられても実際じっさい使用しようできるかかはべつ問題もんだいである。相良さがら頼房よりふさ足利あしかが義輝よしてるへんいみなて「よし」としょうしたとき、隣国りんごく大友おおとも宗麟そうりん身分みぶん不相応ふそうおうであるとして反発はんぱつしたため家中いえじゅうたいしてさえ旧名きゅうめい頼房よりふさもちいざるをなくなった。しかし、のちに島津しまつ義久よしひさ宗麟そうりん関係かんけい悪化あっかすると、大友おおとも宗麟そうりん相良さがら味方みかたとしてつなぎとめるためにさき抗議こうぎしたことで公称こうしょうできるようになったという経緯けいいがある[12]

天皇てんのう皇室こうしつたいする避諱[編集へんしゅう]

上述じょうじゅつのとおり、貴人きじんから臣下しんかへんいみな授与じゅよされるれいおおいが、天皇てんのうかんしておこなわれたれいはほとんどない。後醍醐天皇ごだいごてんのういみなみこと)から足利尊氏あしかがたかうじへんいみな授与じゅよがされたのは、きわめて異例いれいのこととされる。

現代げんだいいたるまで、天皇てんのう皇族こうぞくとく天皇てんのう直系ちょっけい1親等しんとう親王しんのう内親王ないしんのう)にたいして、本人ほんにん以外いがいいみな呼称こしょうすることはひかえられる傾向けいこうにあった。とく天皇てんのうへは、一般人いっぱんじんにとどまらず、天皇てんのう傍系ぼうけい尊属そんぞく皇族こうぞくといえどもいみなもちいて呼称こしょうしないのが暗黙あんもく通例つうれいとなっている。崩御ほうぎょした天皇てんのうについては諡号しごう(「明治天皇めいじてんのう」・「大正天皇たいしょうてんのう」・「昭和しょうわ天皇てんのう」など)で呼称こしょうすることがほとんどである。在位ざいいちゅう天皇てんのうについては、げん在位ざいいにある天皇てんのうという意味いみで、一般いっぱんにはあまりもちいられないが「今上きんじょう天皇てんのう」、あるいはあえて呼称こしょうけてしょくけいめいで「(天皇てんのう陛下へいか」と呼称こしょうする場合ばあいがほとんどである(天皇てんのう皇后こうごうそろってうご場合ばあいは“陛下へいか”がならことになるため「天皇てんのう皇后こうごうりょう陛下へいか」の表現ひょうげんもちいられる[ちゅう 1])。

親王しんのう内親王ないしんのう)・宮家みやけ当主とうしゅたいしても、皇室こうしつさい上位じょういにあたる天皇てんのうをはじめ直系ちょっけい傍系ぼうけい尊属そんぞくにあたる皇族こうぞくでさえいみなけ、みやごう称号しょうごうもちいて呼称こしょうするのが慣例かんれいとなっている。一般人いっぱんじん呼称こしょうするさいには、天皇てんのう直系ちょっけい1親等しんとう親王しんのう内親王ないしんのうを「○○みや親王しんのう殿下でんか)」・「○○みや内親王ないしんのう殿下でんか)」、宮家みやけ当主とうしゅを「○○みや殿下でんか)」と呼称こしょうすることがほとんどである。その範疇はんちゅうから親等しんとうすすんだ皇族こうぞくかんしては、天皇てんのうから2親等しんとう親王しんのう内親王ないしんのうには「○○(いみな親王しんのう内親王ないしんのう殿下でんか)」、あるいは「○○(いみな)さま」と呼称こしょうすることがおおい。

日本にっぽん公文書こうぶんしょにおいては、伝統でんとうてき用法ようほうとして天皇てんのう署名しょめいについては「御名ぎょめい」、捺印なついんについては「御璽ぎょじ」と表記ひょうきして公刊こうかんされるのが通例つうれいである。外国がいこく天皇てんのうゆびしょうする場合ばあいにはいみなもちいることがおおいが、近代きんだい以前いぜん天皇てんのうについては追号ついごうぶことがおおい。

天皇てんのう直系ちょっけい1親等しんとう親王しんのう内親王ないしんのうは「○○みや殿下でんか)」と称号しょうごう呼称こしょうされることが通例つうれいだったが、とく天皇てんのうとくひとし世代せだいからは、すたれつつあるのが現状げんじょうである。昭和しょうわ天皇てんのう長子ちょうし明仁あきひとには3あり、浩宮ひろのみやとくじん親王しんのう礼宮あやのみやぶんじん親王しんのう紀宮のりのみや清子きよこ内親王ないしんのうとそれぞれ称号しょうごうゆうしていたが、明仁あきひとまご4にんのうち称号しょうごうゆうしているのはとくじん長女ちょうじょけいみや愛子あいこ内親王ないしんのうのみであり、秋篠宮あきしののみやぶんじん親王しんのうの3眞子しんじ内親王ないしんのう佳子けいこ内親王ないしんのうゆうじん親王しんのうにはそもそも称号しょうごうがない。称号しょうごうゆうする皇族こうぞく愛子いとしご内親王ないしんのうだけであるため、称号しょうごう使用しようする機会きかい減少げんしょうしているのもおおきな要因よういんである。明仁あきひと天皇てんのう在位ざいいときは、天皇てんのう皇后こうごうは4にんまご言及げんきゅうするときは称号しょうごうゆうしない3にんまごわせて愛子あいこ内親王ないしんのう名前なまえぶ。民間みんかんでも、たかしみや愛子あいこ内親王ないしんのう殿下でんか)を「愛子あいこいみな)さま」と表記ひょうきするのがもはや一般いっぱんてきとなっている。また、かつて黒田くろだ清子きよこ内親王ないしんのうだったころは「紀宮のりのみや殿下でんか)」ではなく「清子きよこいみな)さま」・「サーヤ(皇室こうしつもちいられていた愛称あいしょう)」などと表記ひょうきするケースがられた。

天皇てんのう親王しんのう内親王ないしんのう宮家みやけ当主とうしゅ著作ちょさく学術がくじゅつ論文ろんぶん分野ぶんやぞくするものである場合ばあい(たとえば昭和しょうわ天皇てんのう上皇じょうこう明仁あきひとによる生物せいぶつがく関連かんれん論文ろんぶんなど)、科学かがくてき文献ぶんけんについては出自しゅつじ貴賎きせん不問ふもんであるという国際こくさいてき解釈かいしゃくから、著者ちょしゃ署名しょめいにはいみなしるして公刊こうかんされるのが通例つうれいとなっている。そうした文献ぶんけんしゃによって引用いんようされる場合ばあいも、もと著作ちょさくしゃめいとしていみながそのままもちいられる。日本語にほんご文献ぶんけんにおいても「アキヒトぞくハゼぞくめい)」「アキヒト・バヌアツ(アキヒトぞくぞくするハゼの一種いっしゅ)」のようにカタカナ表記ひょうきされる。

学術がくじゅつてき記述きじゅつにおいては、天皇てんのうをはじめとする皇室こうしつ構成こうせいいん言及げんきゅうする場合ばあい実名じつめいもちいる。天皇てんのうせい廃止はいしろんしゃなどは、天皇てんのう皇室こうしつ特別とくべつ敬意けいいしめさないことを間接かんせつてき表現ひょうげんする手段しゅだんとして、あえて意図いとてき実名じつめいもちいる場合ばあいがある。天皇てんのう皇族こうぞくへの実名じつめい使用しようたいして宮内庁くないちょう公式こうしき不快ふかいかん表明ひょうめいすることはない。これは日本国にっぽんこく憲法けんぽうだい19じょう思想しそう良心りょうしん自由じゆう)、だい21じょう言論げんろん表現ひょうげん自由じゆう)に配慮はいりょしているためである。

漢字かんじ文化ぶんかけんいみな[編集へんしゅう]

タイぞくピー信仰しんこうにより本名ほんみょうではなくあだ習慣しゅうかんがある(タイの人名じんめい)。

旧約きゅうやく聖書せいしょ』の唯一ゆいいつかみであるヤハウェ[ちゅう 2]は、一般いっぱんてき名指なざしすることはない。文字もじ記録きろくしてある場合ばあいも、ユダヤじんは「アドナイ」(わがおも)「ハッシェム」(その)、キリスト教きりすときょうでも「あるじ」「わがおも」といいかえ、いみな発音はつおんけている。

モーセかみからさずかったとされる「モーセの十戒じっかい」には、さん番目ばんめに「あなたは、あなたのかみおもを、みだりにとなえてはならない。あるじは、みをみだりにとなえるものを、ばっしないではかないであろう。」といみな禁忌きんきべられている(『旧約きゅうやく聖書せいしょエジプトだい20しょう7せつ)。

年代ねんだいくだるとともに、キリストきょう儀式ぎしきにおいて「あるじ」のいみな発音はつおんするれいられるようになった。2008ねん6月29にちカトリック教会きょうかい総本山そうほんざんローマ教皇きょうこうちょう典礼てんれい秘跡ひせきしょうは、伝統でんとうしたがいみなけるよう指針ししんしている[13]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 貞明皇后ていめいこうごう皇太后こうたいごう在位ざいいちゅうには「天皇てんのう皇后こうごう皇太后こうたいごうさん陛下へいか」のかたり使用しようされた。
  2. ^ いみな正確せいかく発音はつおんうしなわれており、後世こうせい推測すいそくによる。当該とうがい項目こうもく参照さんしょう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 顧炎たけしにちろく』に「なま曰名曰諱」とある。
  2. ^ 素焼すやきのうつわかわらぼん
  3. ^ 三国志さんごくししょ25高堂こうどうりゅうつたえ
  4. ^ ほんきょ宣長のりなが古事記こじきでんまき35-11
  5. ^ 穂積ほづみ陳重のぶしげ実名じつめいけい避俗研究けんきゅうかたなこう書院しょいん大正たいしょう15ねん初版しょはん絶版ぜっぱん口語こうごやく穂積ほづみ陳重のぶしげちょ穂積ほづみ重行しげゆき校訂こうていめい研究けんきゅう講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ 1992ねん3がつ10日とおか初版しょはん ISBN 4061590170
  6. ^ 近代きんだいデジタルライブラリー - 実名じつめいけい避俗研究けんきゅう - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん
  7. ^ 前掲ぜんけい陳重のぶしげめい研究けんきゅう』 p.53-60
  8. ^ 前掲ぜんけい宣長のりなが まき3
  9. ^ 前掲ぜんけい陳重のぶしげめい研究けんきゅう』 p.58-59
  10. ^ 特集とくしゅう さなイチ 別冊べっさつ!インタビュー 時代じだい考証こうしょう 丸島まるしま和洋かずひろさん ~豊臣とよとみ秀吉ひでよしのこした遺言ゆいごん”. NHK大河たいがドラマ田丸たまる』. 2016ねん8がつ7にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん
  11. ^ 本来ほんらいつう斯波しばいえ初代しょだい当主とうしゅ)・斯波しばはじめいえ(2だい当主とうしゅ)・斯波しばいえさだ(3だい当主とうしゅ)・斯波しばいえけんはつめいときいえ。3だい当主とうしゅで4だい当主とうしゅおとうと)・斯波しばいえなが(4だい当主とうしゅ長子ちょうし)などのれいから「いえであったとおもわれる。
  12. ^ 小久保こくぼ嘉紀よしのり将軍しょうぐんへんいみな授与じゅよとその認知にんち相良さがらよし事例じれいから―」(初出しょしゅつ:『九州きゅうしゅう史学しがく』173ごう(2016ねん)/所収しょしゅう:木下きのしたあきらぶんまわし へん『シリーズ・室町むろまち幕府ばくふ研究けんきゅう だいよんかん 足利あしかが義輝よしてる』(えびすひかりさち出版しゅっぱん、2018ねんISBN 978-4-86403-303-9
  13. ^ 司教しきょう協議きょうぎかいへの手紙てがみ――「かみ」について - カトリック中央ちゅうおう協議きょうぎかい フランシス・アリンゼ、アルバート・マルコム・ランジス

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]