穂積ほづみ陳重のぶしげ

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穂積ほづみ 陳重のぶしげ
人物じんぶつ情報じょうほう
別名べつめい 邑次ろう
生誕せいたん (1855-08-23) 1855ねん8がつ23にち安政あんせい2ねん7がつ11にち
伊予いよこく宇和うわぐん宇和島うわじまなかまちげん愛媛えひめけん宇和島うわじま京町きょうまち
死没しぼつ (1926-04-07) 1926ねん4がつ7にち(70さいぼつ
東京とうきょう東京とうきょう牛込うしごめ払方はらいかたまち9(げん東京とうきょう新宿しんじゅく
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしんこう 東京とうきょう開成かいせい学校がっこう法学ほうがく中途ちゅうと海外かいがい留学りゅうがく
ミドル・テンプル法曹ほうそういん
ベルリン大学だいがく聴講生ちょうこうせい
配偶はいぐうしゃ 歌子うたこ渋沢しぶさわ栄一えいいち長女ちょうじょ
両親りょうしん 重樹しげきちち)、綱子つなこはは)、入江いりえひだりきち養父ようふ
子供こども 重遠しげとお長男ちょうなん)、りつすけ次男じなん)、貞三ていぞう三男さんなん)、孝子たかこ長女ちょうじょ渋沢しぶさわ元治もとはるつま)、光子こうし次女じじょ石黒いしぐろ忠篤ただあつつま)、六郎ろくろう四男よつお)、晴子はるこさんじょ市河いちかわ三喜さんきつま
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 法学ほうがく法理ほうりがく
研究けんきゅう機関きかん 東京大学とうきょうだいがく法学部ほうがくぶ帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく
学位がくい 法学ほうがく博士はかせ日本にっぽん・1888ねん
称号しょうごう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅ(1912ねん
主要しゅよう作品さくひん法律ほうりつ進化しんかろん』(1924-1927ねん
学会がっかい 帝国ていこく学士がくしいん
国家こっか学会がっかい
法学ほうがく協会きょうかい
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穂積ほづみ 陳重のぶしげ
ほづみ のぶしげ
生年月日せいねんがっぴ 1855ねん8がつ23にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん伊予いよこく宇和うわぐん宇和島うわじまなかまちげん愛媛えひめけん宇和島うわじま京町きょうまち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1926-04-07) 1926ねん4がつ7にち(70さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう東京とうきょう牛込うしごめ払方はらいかたまち9(げん東京とうきょう新宿しんじゅく
ぜんしょく 東京大学とうきょうだいがく教授きょうじゅ
称号しょうごう せい
旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう
帝都ていと復興ふっこう記念きねんあきら
したがえ
一等いっとうだい綬嘉禾章
大礼たいれい記念きねんあきら
旭日大綬章あさひだいじゅしょう
せいさん
したがえさん
勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう
せいよん
くんとう旭日重光章きょくじつじゅうこうしょう
くんさんとう瑞宝章ずいほうしょう
したがえよん
くんよんとう瑞宝章ずいほうしょう
せい
せいろく
したがえろく
せいなな
配偶はいぐうしゃ 穂積ほづみ歌子うたこ
子女しじょ 長男ちょうなん穂積ほづみ重遠しげとお
次男じなん穂積ほづみただしこれすけ
四男よつお穂積ほづみ真六しんろくろう
親族しんぞく 義父ぎふ渋沢しぶさわ栄一えいいち貴族きぞくいん議員ぎいん
おとうと穂積ほづみ八束やつか貴族きぞくいん議員ぎいん
義弟ぎてい阪谷さかたに芳郎よしお貴族きぞくいん議員ぎいん
義弟ぎてい大川おおかわ平三郎へいさぶろう貴族きぞくいん議員ぎいん
むすめ婿むこ石黒いしぐろ忠篤ただあつのうしょう大臣だいじん

在任ざいにん期間きかん 1925ねん10月1にち - 1926ねん4がつ8にち
天皇てんのう 大正天皇たいしょうてんのう

在任ざいにん期間きかん 1925ねん3がつ31にち - 1925ねん10がつ1にち

在任ざいにん期間きかん 1916ねん1がつ26にち - 1925ねん3がつ31にち

選挙せんきょみことのりせん議員ぎいん
在任ざいにん期間きかん 1890ねん9月29にち - 1892ねん2がつ17にち
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穂積ほづみ 陳重のぶしげ(ほづみ のぶしげ、入江いりえ陳重のぶしげ、いりえ のぶしげ、1855ねん8がつ23にち安政あんせい2ねん7がつ11にち) - 1926ねん大正たいしょう15ねん4がつ7にち)は、明治めいじから大正たいしょう日本にっぽん法学ほうがくしゃ日本にっぽんはつ法学ほうがく博士はかせ一人ひとり[1]東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ学部がくぶちょう[2]えい吉利よしとし法律ほうりつ学校がっこう中央大学ちゅうおうだいがく前身ぜんしん)の創立そうりつしゃ一人ひとり貴族きぞくいん議員ぎいんみことのりせん)。男爵だんしゃく枢密院すうみついん議長ぎちょう勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう現在げんざい愛媛えひめけん宇和島うわじま出身しゅっしん獨逸どいつがく協会きょうかい会員かいいん弟子でし牧野まきの英一ひでかずなど。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

1855ねん8がつ23にち伊予いよこく宇和島うわじまはんりょう国学こくがくしゃ鈴木すずき穗積ほづみ重樹しげき次男じなん・邑次ろうとしてまれた[注釈ちゅうしゃく 1]明治めいじはい鈴木すずき穂積ほづみ改姓かいせいしている。13さい婿養子むこようしとして入江いりえ養子ようし縁組えんぐみ婚約こんやく)をし、宇和島うわじまはんみつぎしんせいとして大学南だいがくみなみこう入学にゅうがく入江いりえ邑次ろう開成かいせい学校がっこうでは入江いりえ陳重のぶしげ名乗なのっている[8]入江いりえ援助えんじょにより1876ねんからえいどく留学りゅうがく

1881ねん明治めいじ14ねん)、えいどく留学りゅうがくから帰国きこく東大とうだい法学部ほうがくぶ講師こうし就任しゅうにん。この時点じてんではボアソナードや仏法ぶっぽうがくにも好意こういてきだったが、翌年よくねんから仏文ふつぶん財産ざいさんほう草案そうあん(プロジェ)を検討けんとうするにつれ批判ひはんてきになる。このとき学生がくせいだった江木えぎ衷や奥田おくだ義人よしひとらが穏健おんけん陳重のぶしげき、明治めいじ22ねんからの民法みんぽうてん論争ろんそう延期えんき中核ちゅうかくにな[9]。なお陳重のぶしげ自身じしんえいふつ両派りょうは派閥はばつてき感情かんじょうてきあらそいからは距離きょりき、もっぱら学者がくしゃてき見地けんちからの公平こうへい法典ほうてん批判ひはんてっしている[10]

1882ねん明治めいじ15ねん)、穂積ほづみせい復帰ふっきして渋沢しぶさわ栄一えいいち長女ちょうじょ歌子うたこ結婚けっこんした。

1885ねん明治めいじ18ねん)、司法省しほうしょう援助えんじょ増島ますしまろくいちろう菊池きくち武夫たけおらとともにえい吉利よしとし法律ほうりつ学校がっこう(イギリス法律ほうりつ学校がっこう中央大学ちゅうおうだいがく前身ぜんしん)を創立そうりつ

1888ねん明治めいじ21ねん)、箕作みつくり麟祥りんしょう田尻たじり稲次郎いねじろう菊池きくち武夫たけお鳩山はとやま和夫かずおとともに日本にっぽんはじめて法学ほうがく博士はかせごう授与じゅよされる。

1890ねん明治めいじ23ねん)3がつ主著しゅちょ法典ほうてんろん』を刊行かんこう欧米おうべい各国かっこく法典ほうてん編纂へんさん歴史れきし方法ほうほう網羅もうら日本にっぽん法典ほうてん拙速せっそく主義しゅぎ批判ひはん法典ほうてん断行だんこうろんしゃをして反省はんせいさせるにるものがあったといわれ[11]のち明治めいじ民法みんぽう制定せいてい理論りろんてき基盤きばんとなった[12]

1890ねん明治めいじ23ねん)11月、井上いのうえかおる三井みつい家政いえまさ改革かいかくにおいて相談役そうだんやくとなっていた渋沢しぶさわ栄一えいいち益田ますだたかし三野村みのむら利助としすけから、家憲かけん草案そうあん作成さくせい委嘱いしょくされた[13]

1893ねん明治めいじ26ねん)3がつ法典ほうてん調査ちょうさかい起草きそう委員いいん就任しゅうにん現行げんこう民法みんぽうてん起草きそう中心ちゅうしんてき役割やくわりたし[14]商法しょうほうにも関与かんよした。

1922ねん大正たいしょう11ねん)に、起訴きそ便宜べんぎ主義しゅぎ法制ほうせいした改正かいせい刑事けいじ訴訟そしょうほう法案ほうあん成立せいりつしたさいには、枢密院すうみついん枢密すうみつ顧問こもんかんつとめていた。

1926ねん4がつ8にち心臓麻痺しんぞうまひのため逝去せいきょまん70さいぼつ享年きょうねん72)[15]墓所はかしょ谷中たになか霊園れいえん

学説がくせつ[編集へんしゅう]

穂積ほづみは、イギリス留学りゅうがく時代じだい法理ほうりがくおよイギリスほう研究けんきゅうするかたわら、法学ほうがくわくえ、当時とうじイギリスではげしい議論ぎろんまとになっていたチャールズ・ダーウィン進化しんかろんハーバート・スペンサー社会しゃかい進化しんかろんなどについて、幅広はばひろ研究けんきゅうをした。

そのドイツ転学てんがくし、ハインリヒ・デルンブルヒ講義こうぎ聴講ちょうこうしてドイツほう研究けんきゅうし、サヴィニー触発しょくはつされ、日本にっぽん民法みんぽうへのパンデクテン法体ほうたいけい導入どうにゅうのきっかけをつくった。

穂積ほづみ学説がくせつは、歴史れきし学派がくは進化しんか主義しゅぎ立場たちばつもので、民法みんぽうてん論争ろんそうでは、富井とみいとも延期えんきにくみし、断行だんこうにくみするうめ対立たいりつした[16]

刑法けいほうでは、ロンブローゾ生来せいらい犯罪はんざいじんせつ研究けんきゅうし、新派しんぱ刑法けいほう理論りろん日本にっぽん紹介しょうかいした。

進化しんかろんてき立場たちばから、天賦てんぷ人権じんけんろんきびしく批判ひはんするとともに、日本にっぽん古来こらい習俗しゅうぞく研究けんきゅうし、法律ほうりつもまた生物せいぶつ社会しゃかい同様どうよう進化しんかするものとかんがえ、こう掲『法律ほうりつ進化しんかろん』を完成かんせいさせ出版しゅっぱんすることを企図きとしていたが、未完みかんのままにわっている[17]

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

著書ちょしょ
訳書やくしょ
へんしょ
遺文いぶんしゅう

エピソード[編集へんしゅう]

穂積ほづみきょう
穂積ほづみきょう記念きねん
  • 1887ねん明治めいじ20ねん)、矢田部やたべ良吉りょうきちらとともに、鹿しかかん舞踏ぶとうかい仮装かそうして出演しゅつえんした[24]
  • 死後しご出身しゅっしん宇和島うわじま銅像どうぞう建立こんりゅうはなしがったが、「老生ろうせい銅像どうぞうにてぎょうがるるよりまんにんわたらるるはしとなりたし」との生前せいぜん穂積ほづみ言葉ことばから遺族いぞくはそれをかた辞退じたいした。それでは改築かいちくちゅうほんひらききょうを「穂積ほづみきょう」と命名めいめいすることにしてはというもうれにたいして遺族いぞく了承りょうしょうし、現在げんざい宇和島うわじま市内しない辰野たつのがわにかかるはし名前なまえとしてそののこっている。
  • 大正たいしょう10ねん(1921ねん)に故郷こきょう宇和島うわじままち隣接りんせつする八幡やはたむら合併がっぺい協議きょうぎ頓挫とんざしたおり反対はんたい東京とうきょう私邸していまねき、懇切こんせつ丁寧ていねい合併がっぺい必要ひつようせいき、翻意ほんいさせて合併がっぺい実現じつげん貢献こうけんした。
  • 大正たいしょう11ねん(1922ねん)に皇太子こうたいし宇和島うわじま行啓ぎょうけい同行どうこうし、宇和島うわじまじょうける茶会ちゃかいおり皇太子こうたいしまえせきには県知事けんちじはいするというけん方針ほうしんたい英国えいこくれい引用いんようし「殿下でんかには宇和島うわじま市民しみん敬意けいいあらわすべき」との理由りゆうから市長しちょうはいすると主張しゅちょう実現じつげんした。

出典しゅってん:山村やまむら豊次郎とよじろうつて

  • 穂積ほづみ陳重のぶしげとその兄弟きょうだい子女しじょむすんだねやばつ関係かんけい当時とうじのモラルとしてもぎたものと槍玉やりだまげられることがあり、ジャーナリスト鵜崎うざき鷺城ろじょうによれば「学閥がくばつ出身しゅっしんちゅうおい最初さいしょねやばつ記録きろくつくりたるもの穂積ほづみ陳重のぶしげとす。伊予いよ宇和島うわじまさんはじ入江いりえぼうちゅう入江いりえ佐吉さきち穂積ほづみ兄弟きょうだいちちじゅう嵜(しげのぶ、重樹しげきとも)の同僚どうりょう)の養子ようしとなり(ちゅう明治めいじ元年がんねん9がつ22にち婿養子むこようし縁組えんぐみ。しかし陳重のぶしげ(邑次ろう)は14さい入江いりえむすめいたっては長女ちょうじょ5さい二女じじょ2さいである)、其資をもっ年間ねんかんえいどく留学りゅうがくし、帰朝きちょう鴻恩こうおんある養家ようかちて渋沢しぶさわ婿むことなれり(ちゅう明治めいじ14ねん6がつ帰国きこくよく7がつきゅう宇和島うわじま藩主はんしゅ伊達だて宗城むねなり家令かれい西園寺さいおんじこうなりより渋沢しぶさわ栄一えいいち長女ちょうじょ歌子うたことのえん談話だんわまれ、8がつ見合みあい、11月まつ入江いりえとの縁組えんぐみ解消かいしょうして渋沢しぶさわ結納ゆいのうよく15ねん4がつ25にち婚礼こんれい)。かれわがくに学界がっかい耆宿きしゅく(キシュク、学識がくしき経験けいけんのすぐれた老大家ろうたいかのこと)なれども、国法こくほう学者がくしゃとしては現代げんだいしん智識ちしきよりとおざかる。ただ大学だいがく教授きょうじゅ相当そうとうなる生活せいかつし、何程なにほど朝野ちょうやあいだおもんぜらるゝは背後はいご渋沢しぶさわひかえへ、又一またいち児玉こだま源太郎げんたろうおんなむかえへていき重遠しげとおはいし(ちゅう長男ちょうなん重遠しげとお明治めいじ41ねん10がつ9にち児玉こだまさんじょ・ナカ(仲子なかこ)と結婚けっこん。なお、児玉こだまよんじょ・モトは藤田ふじた嗣雄つぐお藤田ふじた嗣治つぐじあに憲法けんぽう学者がくしゃ)、じょ・ツルは木戸きど幸一こういち最後さいご内大臣ないだいじん木戸きど孝允たかよしいもうと木戸きど侯爵こうしゃくいえぐ)にす)、寺内てらうちとも姻戚いんせき関係かんけいちゅう寺内てらうち正毅まさき長女ちょうじょ・サワは児玉こだま源太郎げんたろう長男ちょうなん秀雄ひでおす)あるのゆえもってにあらざる乎。おとうとはちたば浅野あさの総一郎そういちろう女婿じょせいなり(ちゅう明治めいじ14ねん8がつ17にち最初さいしょつま郷子きょうこ西園寺さいおんじこうなり長女ちょうじょ)と死別しべつ、24ねん4がつ23にち浅野あさの総一郎そういちろう長女ちょうじょ松子まつこ結納ゆいのうよく25ねん2がつ12にち婚礼こんれい)。……はちたばごときは閥族ばつぞくおもねねる所謂いわゆる曲学きょくがくにしてあに憲法けんぽう神髄しんずいかいたるものならんや」などとろんじられることがあった[25]

栄典えいてん授章じゅしょう授賞じゅしょう[編集へんしゅう]

穂積ほづみ陳重のぶしげ
うめ謙次郎けんじろう中央ちゅうおう)・富井とみい政章まさあき(ひだり)とともに(1895ねん
位階いかい
勲章くんしょうとう
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

系譜けいふ家族かぞく[編集へんしゅう]

長男ちょうなん穂積ほづみ重遠しげとお
大正たいしょう7ねん穂積ほづみ一家かずや
晩年ばんねんつま歌子うたこ

穂積ほづみ宇和島うわじまはん伊達だて仙台せんだいより分家ぶんけする以前いぜんからの、伊達だて譜代ふだい家臣かしんである。にょうそくいのちつとわれる。祖父そふじゅう麿まろ宇和島うわじまはん思想しそうとしての国学こくがく導入どうにゅうした人物じんぶつであった。ちち重樹しげき長子ちょうしとしてちち学問がくもんぎ、明治維新めいじいしんこう藩校はんこう国学こくがく教科きょうかもうけられるとその教授きょうじゅとなり、また国学こくがく私塾しじゅくいとなんだ[38]あにじゅう穎(頴)だいじゅう国立こくりつ銀行ぎんこう頭取とうどりなどをつとめた、渋沢しぶさわ栄一えいいちちか実業じつぎょう憲法けんぽう学者がくしゃ穂積ほづみ八束やつかおとうと長男ちょうなん穂積ほづみ重遠しげとおは「日本にっぽん家族かぞくほうちち」といわれ、東大とうだい教授きょうじゅ法学部ほうがくぶちょう最高裁判所さいこうさいばんしょ判事はんじ歴任れきにんつま歌子うたこ(または宇多うた)は、渋沢しぶさわ栄一えいいち長女ちょうじょまご穂積ほづみ重行しげゆき大東文化大学だいとうぶんかだいがく学長がくちょう専攻せんこう近代きんだいイギリス)。

鈴木すずきしげる麿まろ
 
 
穂積ほづみ重樹しげき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穂積ほづみしげる穂積ほづみ陳重のぶしげ穂積ほづみ八束やつか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穂積ほづみ重遠しげとお穂積ほづみただしこれすけ穂積ほづみ真六しんろくろう渋沢しぶさわたかし石黒いしぐろ光子みつこ市河いちかわ晴子はるこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穂積ほづみ重行しげゆき八十島やそじま和歌子わかこ岩佐いわさ美代子みよこ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく
  1. ^ 国学こくがくしゃ鈴木すずき重樹しげきは、明治維新めいじいしん宇和島うわじま藩校はんこうすめらぎがく教授きょうじゅいえじゅく運営うんえいしていた[3]自宅じたくでは歌会うたかいひら和歌わかおしえていた[4][5]作詞さくし軍歌ぐんか元始げんしさい」、「旅寝たびねのゆめ」などがある[6][7]伊予いよこく宇和島うわじまはん皇国こうこく学者がくしゃ鈴木すずきしげる麿まろみなもと兵衛ひょうえ)の。1881ねんぼつ
出典しゅってん
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  3. ^ けいうら直孝なおたか伊予いよ精義せいぎ伊予いよ史籍しせき刊行かんこうかい出版しゅっぱん、1924ねん、689ぺーじhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1019633/1/366 
  4. ^ 大和田おおわだ建樹たけきしたわらび : 紀行きこう漫筆まんぴつ金港きんこうどう。1892ねん
  5. ^ 穂積ほづみ陳重のぶしげのこうた須田すだ武男たけお伊予いよ先哲せんてつ言行げんこうろく文化ぶんか書房しょぼう。1929ねん
  6. ^ 教育きょういく報知ほうち東京とうきょう教育きょういくしゃ。1896ねん
  7. ^ 鈴木すずき重樹しげき作詞さくし元始げんしさい有川ありかわ貞清さだきよへん新定しんじょう日本にっぽんぐん歌集かしゅう教訓きょうくんえん。1893ねん
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  9. ^ 小柳こやなぎ春一しゅんいちろう穂積ほづみ陳重のぶしげきゅう民法みんぽう」『法制ほうせい研究けんきゅうだい1981かんだい31ごう法制ほうせい学会がっかい、1982ねん、108-111ぺーじdoi:10.5955/jalha.1981.105ISSN 04412508 
  10. ^ 星野ほしのとおるさん博士はかせ民法みんぽう制定せいてい とくうめ博士はかせ中心ちゅうしんとしつつ」『法學ほうがくこころざしりん』49かん1ごう法學ほうがくこころざしりん協會きょうかい、1951ねん、40ぺーじ
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  13. ^ 三井みつい文庫ぶんこ 1980.
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  37. ^ 官報かんぽうだい1499ごう付録ふろく辞令じれい」1931ねん12月28にち
  38. ^ 長尾ながお龍一りゅういち穂積ほづみ八束やつか」(潮見しおみ俊隆としたかたに信義のぶよしへん法学ほうがくセミナー増刊ぞうかん 日本にっぽん法学ほうがくしゃ日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1974ねん)99ぺーじ
  39. ^ 法学ほうがくしゃ穂積ほづみ陳重のぶしげつま歌子うたこ物語ものがたり”. 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん 渋沢しぶさわ栄一えいいち記念きねん財団ざいだん 渋沢しぶさわ資料しりょうかん. 2012ねん2がつ14にち閲覧えつらん
  40. ^ 塩崎しおざき文雄ふみお銃後じゅうごにち戦争せんそう : 『穂積ほづみ歌子うたこ日記にっき』をむ (研究けんきゅうプロジェクト 近代きんだい日本にっぽん戦争せんそう軍隊ぐんたい)」『東西とうざい南北なんぼくだい2007かん和光大学わこうだいがく総合そうごう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ、2007ねん3がつ、134-143ぺーじCRID 1050282813290488576NAID 120005381356 
  41. ^ 市河いちかわ三喜さんきわたし博物はくぶつ中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1956ねん 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん
関連かんれん文献ぶんけん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
浜尾はまおしん
日本の旗 枢密院すうみついん議長ぎちょう
だい14だい:1925ねん - 1926ねん
次代じだい
倉富くらとみ勇三郎ゆうさぶろう
先代せんだい
一木いちき喜徳郎きとくろう
日本の旗 枢密院すうみついんふく議長ぎちょう
だい8だい:1925ねん
次代じだい
岡野おかの敬次郎けいじろう
先代せんだい
新設しんせつ
日本の旗 臨時りんじ法制ほうせい審議しんぎかい総裁そうさい
1919ねん - 1925ねん
次代じだい
岡野おかの敬次郎けいじろう
がくしょく
先代せんだい
田尻たじり稲次郎いねじろう
国家こっか学会がっかい評議ひょうぎいんちょう
1906ねん - 1919ねん
次代じだい
阪谷さかたに芳郎よしお
先代せんだい
浜尾はまおしん
日本の旗 帝国ていこく大学だいがく法科ほうかだい学長がくちょう
1893ねん - 1895ねん
次代じだい
富井とみい政章まさあき
先代せんだい
服部はっとり一三かずみ
東京大学とうきょうだいがく法学部ほうがくぶちょう
日本の旗 東京大学とうきょうだいがく法政ほうせいがく部長ぶちょう心得こころえ
1885ねん - 1886ねん
加太かだくにけん共同きょうどう
東京大学とうきょうだいがく法学部ほうがくぶちょう
1882ねん - 1885ねん
次代じだい
渡辺わたなべひろしもと
帝国ていこく大学だいがく法科ほうかだい学長がくちょう
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
男爵だんしゃく
穂積ほづみ初代しょだい
1915ねん - 1926ねん
次代じだい
穂積ほづみ重遠しげとお