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天草あまくさ四郎しろう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
あまくさ しろう / ますだ ときさだ

天草あまくさ 四郎しろう / 益田ますだ 時貞ときさだ
きおいぜいよいとらでん天草あまくさ四郎しろう月岡つきおか芳年よしとしさく
生誕せいたん 元和がんわ7ねん1621ねん)?(諸説しょせつあり)
しょう諸説しょせつあり)
死没しぼつ 寛永かんえい15ねん2がつ28にち1638ねん4がつ12にち
原城はらのじょう
死因しいん 戦死せんし
墓地ぼち はら城跡じょうせき墓石はかいし長崎ながさきけんみなみ島原しまばら南有馬みなみありままち
石碑せきひうえ天草あまくさ大矢野おおやのまち天草あまくさ四郎しろう公園こうえん
記念きねん 天草あまくさ四郎しろうぞうはら城跡じょうせき
天草あまくさ四郎しろうぞう本渡ほんどしろ天草あまくさキリシタンかん熊本くまもとけん天草あまくさ船之尾ふねのおまち19)
天草あまくさ四郎しろうぞう殉教じゅんきょう公園こうえん熊本くまもとけん天草あまくさ船之尾ふねのおまち12)
天草あまくさ四郎しろうぞう鬼池おにいけこう熊本くまもとけん天草あまくさ五和ごわまち
天草あまくさ四郎しろうぞうあいのあまくさむら熊本くまもとけん上天じょうてん草市くさいち大矢野おおやのまち
天草あまくさ四郎しろうぞう天草あまくさパールセンター(熊本くまもとけんじょう天草あまくさ松島まつしままち合津あいつ
天草あまくさ四郎しろうぞう・(熊本くまもとけん天草あまくさ船之尾ふねのおまち
天草あまくさ四郎しろうぞう天草あまくさ四郎しろうミュージアム(天草あまくさ四郎しろう公園こうえん
洗礼せんれいめい:ジェロニモ[1][2]、フランシスコ[2]
宗教しゅうきょう キリスト教きりすときょうカトリック教会きょうかい
配偶はいぐうしゃ 有家ありやかんぶつむすめ
おや ちち益田ますだ好次よしつぐはは:「マルタ」の洗礼せんれいめいつが、実名じつめい不明ふめい[3]
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天草あまくさ 四郎しろう(あまくさ しろう、きゅう字体じたい天草あまくさ 四郞しろう元和がんわ7ねん1621ねん〉? - 寛永かんえい15ねん2がつ28にち1638ねん4がつ12にち〉)は、江戸えど時代じだい初期しょきキリシタンで、島原しまばららんにおける一揆いっきぐん中心ちゅうしん人物じんぶつとされる[4]

本名ほんみょう益田ますだ 時貞ときさだ(ますだ ときさだ、きゅう字体じたいえき󠄁 時貞ときさだ)。洗礼せんれいめい当初とうしょは「ジェロニモGeronimo[1][2]」だったが、のちに「フランシスコFrancisco[2]」にあらためる。一般いっぱんには天草あまくさ四郎しろうというられる。また、後述こうじゅつとおり、豊臣とよとみ秀頼ひでより落胤らくいんであったとする伝説でんせつもあるが、信憑しんぴょうせいひくい。

生涯しょうがい

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時貞ときさだはは松平まつだいら伊豆いずまもる調しらべをけたとき申立もうしたてによると、時貞ときさだ肥後ひごこく宇土うとぐん江部えべむら現在げんざい宇土うとあさひまち[5][6]そだち、事件じけん発生はっせい直前ちょくぜんちちともなわれて、大矢野おおやのむら親戚しんせきのもとにったらしい[5]肥後ひごまれであることは、ドアルテ・コレテの手記しゅきからも確認かくにんできる[1]学問がくもん修養しゅうようのためになん長崎ながさきおとずれ、一揆いっき直前ちょくぜんちちともなわれて天草てんぐさうつったという[7]。キリストきょうには長崎ながさき入信にゅうしんしたと推測すいそくされる[1][7]。なお信憑しんぴょうせいひくいが時貞ときさだ長崎ながさき浜町はまちょうんでいて、その屋敷やしきあとがのちまでのこっていたということが『長崎ながさき地名ちめいこう』にっている[1]

生涯しょうがいについては、まれながらにしてカリスマせいがあったという。また、経済けいざいてきめぐまれていたため、幼少ようしょうから学問がくもんしたしみ、すぐれた教養きょうようがあったようである。小西こにし旧臣きゅうしんやキリシタンのあいだ救世主きゅうせいしゅとして擁立ようりつ神格しんかくされた人物じんぶつであるとかんがえられており、様々さまざま奇跡きせき盲目もうもく少女しょうじょれると視力しりょくもどした、海面かいめんあるいた、からばとしたなど)をこしたという逸話いつわもある。もっとも、このようなるい逸話いつわは、イエス・キリストこした奇跡きせきとして新約しんやく聖書せいしょよっつの福音ふくいんしょにも多数たすうかれており、上記じょうき逸話いつわよんろう名声めいせいたかめる目的もくてきでこれら福音ふくいんしょのいいつたえを参考さんこう創作そうさくされたとることもできる。

寛永かんえい14ねん1637ねん)に勃発ぼっぱつした島原しまばららんではカリスマてき人気にんき背景はいけい一揆いっきぐんそう大将たいしょうとなる(「山田やまだみぎ衛門えもんさくこう書写しょしゃ」)[8]戦場せんじょうでは十字架じゅうじかかかげてぐんひきいたともつたわるが、四郎しろう本人ほんにんはまだ10代なかばの少年しょうねんであり、実際じっさいらん計画けいかく指揮しきしていたのは浪人ろうにん庄屋しょうやたちで、四郎しろう一揆いっきぐん戦意せんい高揚こうようのために浪人ろうにん庄屋しょうやたちに利用りようされていたにぎないとられている。

神秘しんぴつつまれた天草あまくさ四郎しろうだが、らん当時とうじキリシタンや農民のうみんたち一揆いっきぐんひきいたそう大将たいしょう天草あまくさ四郎しろう久留米くるめ商人しょうにん目撃もくげきしたという古文書こもんじょがある。

どう資料しりょう美濃紙みのがみ48まいかれた53てん古文書こもんじょで、熊本くまもとはん久留くるべいはんなどが大坂おおさか城代じょうだい目付めつけにあてたらん当時とうじ報告ほうこくしょなどである。なかでも注目ちゅうもくされるのは熊本くまもとはん家老がろう長岡ながおかかんぶつ阿部あべ備中びっちゅうもり大坂おおさか城代じょうだい)にあてた四郎しろう目撃もくげき情報じょうほうで、1637ねん11月14にちから16にちまでの合戦かっせんで、3500にん一揆いっきぜい唐津からつはん三宅みやけふじ兵衛ひょうえ富岡とみおかしろばんだい)のくびるなど勝利しょうりおさめたさい本渡ほんどまち滞在たいざいちゅうだった久留くるべい城下じょうか商人しょうにんあずかよんみぎ衛門えもんが、実際じっさい合戦かっせん幕府ばくふがわ文書ぶんしょけ、つぎのように証言しょうげんしている。

キリシタンぐんは14にち本渡ほんどりくうみからせる。四郎しろうふね本渡ほんどまち茂木もぎ上陸じょうりくし、うまる。そのときちは、「しろきぬ着物きものて、はかまをて、あたまにはからむし(からむし)をぐみにしてあて、いとぐちをつけのどしたにてとめ、がくにはちいさな十字架じゅうじかてていた。には御幣ごへいって、一揆いっきぐん指揮しきしていた」と詳細しょうさい描写びょうしゃをしている。

翌日よくじつ島原しまばらから一揆いっきぐん応援おうえんていたいの大膳だいぜん宿主しゅくしゅ)らとともふねばたへくと、四郎しろう島原しまばらはん藩主はんしゅ松倉まつくら勝家かついえからうばった80ちょうてのふねっていた。「わたし大膳だいぜんったとき、よんろうた」と証言しょうげんしている。[9]商人しょうにん立場たちばなので、りょうぐん自由じゆう往来おうらいでき、よんろう間近まぢかることができたとおもわれる。[10]

天草あまくさ四郎しろう使つかったとされる旗印はたじるし天草あまくさ切支丹きりしたんかん所蔵しょぞう

12月、一揆いっきぐん当時とうじすでにはいじょうとなっていた原城はらのじょうてこもり、幕府ばくふぐん板倉いたくら重昌しげまさはいさせるなどしたが、3ヵ月かげつおよ籠城ろうじょうせん水利すいりがあったためつづけたものの、最終さいしゅうてきには食料しょくりょう弾薬だんやくきて原城はらのじょう陥落かんらくし、一揆いっきぐん幕府ばくふぐんそう攻撃こうげきによって全滅ぜんめつさせられた。幕府ばくふぐん記録きろくでは、内通ないつうしゃ山田やまだみぎ衛門えもんさくただ一人ひとりのぞいて一揆いっきぐん皆殺みなごろしにされたとわれるが、幕府ばくふぐんそう攻撃こうげきおこなわれるまえに1まんにん以上いじょう投降とうこうしてびたとするせつもある[11]。このとき四郎しろう原城はらのじょう本丸ほんまるにて幕府ばくふかた肥後ひご細川ほそかわ藩士はんしじん左衛門さえもんられたとつたえられる。四郎しろうくびは、原城はらのじょうさんまる大手おおて門前もんぜん、そして長崎ながさき出島でじま正面しょうめん口前くちまえさらされた。なお、このとき幕府ばくふがわには天草あまくさ四郎しろう姿すがた容貌ようぼう情報じょうほうまったつたわっておらず、幕府ばくふぐんじんにはよんろうおな年頃としごろられる少年しょうねんたちのくび次々つぎつぎまれたものの、幕府ばくふぐんはどれが本物ほんものよんろうくびであるかからなかったため、以前いぜんから幕府ばくふぐんとらえられていた四郎しろうはは洗礼せんれいめい:マルタ)にこれらのくびせたところ、ははじん左衛門さえもんってくび顔色かおいろえ、そのくずれた。これにより、幕府ばくふぐん左衛門さえもんってくびよんろうくび断定だんていしたという(細川ほそかわはん資料しりょう肥前ひぜん国有こくゆう戦記せんき』)。

現在げんざいはら城跡じょうせきをはじめ天草てんぐさ島原しまばらなどいたところ天草あまくさ四郎しろうをイメージした銅像どうぞうてられている。また、四郎しろうはは建立こんりゅうしたとおもわれる墓石はかいし後年こうねん民家みんか石垣いしがきから発見はっけんされ、はら城跡じょうせき移築いちくされた。

家族かぞく

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また、尾張おわり徳川とくがわ蔵書ぞうしょなどを所蔵しょぞうする名古屋なごやよもぎひだり文庫ぶんこおさめられていた「天草てんぐさじん雑記ざっき」において、四郎しろう妻帯さいたいしていたとおもわれる記述きじゅつつかっている。それによると、つま有家ありやかんぶつむすめとされている[12]

天草あまくさ四郎しろう豊臣とよとみ秀頼ひでより落胤らくいんであるとするせつは、四郎しろう馬印うまじるし豊臣とよとみ秀吉ひでよしのものとおな瓢箪ひょうたんであることなどから、大坂おおさかなつじんにおいて死亡しぼうしたはずの秀頼ひでよりだい坂城さかき脱出だっしゅつして薩摩さつまこくのがれていたとする論拠ろんきょで、豊臣とよとみ権威けんい糾合きゅうごうはかったともかんがえられている。「豊臣とよとみしげるつな」というがあったと鹿児島かごしま所有しょゆう書物しょもつしるされている。

天草あまくさ四郎しろうミュージアム

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天草あまくさ四郎しろうミュージアム

天草あまくさ四郎しろうミュージアムは、熊本くまもとけん上天じょうてん草市くさいちにある記念きねんかん。2018ねん、「天草あまくさ四郎しろうメモリアルホール」から名称めいしょう変更へんこう

天草あまくさ四郎しろう中心ちゅうしんに、天草てんぐさ島原しまばららん当時とうじ南蛮なんばん文化ぶんかキリスト教きりすときょう伝来でんらい様子ようすなどを紹介しょうかいしている[13][14]

四郎しろう法度はっとしょ

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四郎しろう法度はっとしょ(しろうはっとしょ)とは、一揆いっき指導しどうそう原城はらのじょうない一揆いっきぜいたいして寛永かんえい15ねん2がつ1にちづけ、「益田ますだ四郎しろう ふらんしすこ」名義めいぎ発布はっぷした文書ぶんしょ

無理むりやりキリシタンにさせられたもの赦免しゃめんみとめるという通告つうこくさいして、「天草あまくさ四郎しろう意思いし」をしめすことで一揆いっきぜい動揺どうようふせごうとした。一揆いっきへの参加さんかを「かみ慈悲じひこたえるための奉公ほうこう」としてとらえ、一揆いっきからの離脱りだついましめている。上天じょうてん草市くさいち天草あまくさ四郎しろうミュージアムに、その複製ふくせい展示てんじされている。

天草あまくさ四郎しろう主題しゅだいとする作品さくひん

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天草あまくさ四郎しろう関連かんれん作品さくひん
明石あかしうしおよんろうえんじた『栄光えいこうけん』(1924ねん東亜とうあキネマ等持院とうじいん撮影さつえいしょ))

実像じつぞうについてはほとんど史料しりょうがなく、様々さまざま創作そうさく作品さくひん影響えいきょうで、昭和しょうわ初期しょきには天正てんしょうおう少年しょうねん使節しせつ支倉はせくら常長つねなが肖像しょうぞうなどから発想はっそうたとおもわれる、華美かび羽織はおりマントひだえりまつわった姿すがたステレオタイプぞうとなった。戦後せんご一部いちぶ作品さくひんでは女性じょせいせつ採用さいようしたものも登場とうじょうしている。ただし、『天草あまくさ軍記ぐんき』のような初期しょき軍記ぐんきほんでは、天草あまくさ四郎しろう普通ふつう武士ぶしとしてえがかれており、時代じだいによるイメージの変遷へんせんはげしい。

小説しょうせつ
映画えいが
OV
ドラマ
  • 時空じくう警察けいさつ PART5 史上しじょう最悪さいあくだい虐殺ぎゃくさつ 豊臣とよとみ秀吉ひでよしVS時空じくう警察けいさつ』(2005ねん) - えんじ須賀すかたかただし
演劇えんげき作品さくひん
アニメ
漫画まんが
ゲーム
歌謡かようきょく
絵画かいが
彫刻ちょうこく
  • 亀井かめいいさむ天草あまくさ四郎しろうぞう』(1967ねん) - 天草あまくさキリシタンかん建立こんりゅう
  • きた村西むらにしのぞむ信念しんねんにもゆる天草あまくさ四郎しろう』(1973ねん) - 原城はらのじょう本丸ほんまるあと西にしもち記念きねんかん建立こんりゅう
人形にんぎょう
  • 清水しみず真理まり天草あまくさ四郎しろう』(2012ねん) - 天草あまくさキリシタンかんぞう

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e 岡田おかだ 1987, p. 88.
  2. ^ a b c d 吉村よしむら 2015, p. 90.
  3. ^ 吉村よしむら 2015, p. 89.
  4. ^ 岡田おかだ 1987, p. 2.
  5. ^ a b 岡田おかだ 1987, p. 87.
  6. ^ 吉村よしむら 2015, p. 80.
  7. ^ a b 阿部あべ 1990, p. 720.
  8. ^ 神田かんだ千里せんり島原しまばららん』(中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2005ねん)P125
  9. ^ 「つねのきるものうえしろききぬをき たちつけをき かしらにニハからむしを以ミつくミにしてあて いとぐちをつけのどしたにてとめ ひたいにちいさき十文字じゅうもんじをたてさるこう ニハへいをこうて そうぜい下知げじつかまつこうごと」 「私事しじ大膳だいぜんニ逢申こうよんろうさるこうごと」 なお、東大とうだい総合そうごう図書館としょかんにも同様どうよう写本しゃほん(『しまげん日記にっき』)があるが、誤字ごじ脱字だつじがある。たとえば「四郎しろう殿どの」(東大とうだい総合そうごう図書館としょかんほん)とあるが、「四郎しろう松倉まつくら殿どの・・」(天草あまくさ郷土きょうど資料しりょうかんきゅう蔵本ぞうほん)と殿しんがりまえに「松倉まつくら」がはいっていたことがかる。鶴田つるた倉造くらぞう新出にいで島原しまばららん関係かんけい史料しりょう」『会報かいほう』キリシタン文化ぶんか研究けんきゅうかい1986ねん6がつごう。『しまげん日記にっき』(東大とうだい総合そうごう図書館としょかんほん)は鶴田つるた倉造くらぞうはら史料しりょうつづる 天草てんぐさ島原しまばららん本渡ほんど、1994ねん。に引用いんようされている。
  10. ^ よんろうた!記述きじゅつさい確認かくにん 島原しまばららん関連かんれん古文書こもんじょぐん 14ねんぶりにつかる 唯一ゆいいつ目撃もくげき証言しょうげん注目ちゅうもく」(『西日本にしにほん新聞しんぶん朝刊ちょうかん2017ねん6がつ26にち)。『熊本くまもとにちにち新聞しんぶん』(1985ねん5がつ17にちづけ)と『天草あまくさ毎日新聞まいにちしんぶん』(1986ねん11月23にちづけ)にも史料しりょう紹介しょうかいされた記事きじがある。
  11. ^ 神田かんだ千里せんり宗教しゅうきょう戦国せんごく時代じだい』(講談社こうだんしゃ、2010ねん)p198
  12. ^ 天草あまくさ四郎しろうつま? 尾張おわり徳川とくがわ史料しりょうから発見はっけん”. くまにちコム. 2009ねん6がつ11にち閲覧えつらん
  13. ^ 天草あまくさ四郎しろうメモリアルホール(上天じょうてん草市くさいち”. 2017ねん3がつ8にち閲覧えつらん
  14. ^ 天草あまくさ四郎しろうミュージアム(天草あまくさ宝島たからじま観光かんこう協会きょうかい”. 2017ねん3がつ8にち閲覧えつらん
  15. ^ 作中さくちゅうでは、天草あまくさ四郎しろうを、益田ますだ甚兵衛じんべえ益田ますだ四郎しろう時貞ときさだ」と奇跡きせき天草てんぐさのシロー」という別々べつべつ人物じんぶつとしてえがいており、二人ふたりのSHIROHの物語ものがたりとなっている。益田ますだ四郎しろう上川かみかわが、天草てんぐさのシローを中川なかがわえんじている。
  16. ^ だい13かい公演こうえん『もうひとつの地球ちきゅうあるかた〜How to walk on another Earth.〜』

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 阿部あべたけし; 西村にしむら圭子けいこ へん戦国せんごく人名じんめい事典じてん』(コンパクト)新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1990ねん、720ぺーじISBN 4404017529 
  • 岡田おかだ章雄あきお天草あまくさ時貞ときさだ新装しんそうばん)』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1987ねんはつ版本はんぽんは1960ねん発行はっこう
  • 鶴田つるた倉造くらぞう新出にいで島原しまばららん関係かんけい史料しりょう」『(キリシタン文化ぶんか研究けんきゅうかい会報かいほう』1986ねん6がつごう
  • しまげん日記にっき』(東大とうだい総合そうごう図書館としょかん所蔵しょぞう
  • 鶴田つるた倉造くらぞうはら史料しりょうつづる 天草てんぐさ島原しまばららん本渡ほんど、1994ねん
  • 神田かんだ千里せんり島原しまばららん中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2005ねん
  • 神田かんだ千里せんり宗教しゅうきょう戦国せんごく時代じだい講談社こうだんしゃ、2010ねん
  • 吉村よしむら豊雄とみお天草あまくさ四郎しろう正体しょうたい島原しまばら天草てんぐさらんみなおす―』(よういずみしゃ、2015ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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