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きた村西むらにしのぞむ

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きた村西むらにしのぞむ
新潮社しんちょうしゃ芸術げいじゅつ新潮しんちょうだい4かんだい3ごう(1953)より
本名ほんみょう 北村きたむら 西にしのぞむ(きたむら にしも)[1]
誕生たんじょう 1884ねん12月16にち[2]
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 長崎ながさきけん南高来みなみたかきぐん南有馬みなみありまむらしろ木野この[3]げんみなみ島原しまばら
死没しぼつねん (1987-03-04) 1987ねん3月4にち(102さいぼつ
死没しぼつ 東京とうきょう武蔵野むさしの[2]
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
芸術げいじゅつ分野ぶんや 彫刻ちょうこく
出身しゅっしんこう 京都きょうと市立しりつ美術びじゅつ工芸こうげい学校がっこう彫刻ちょうこくげん京都きょうと市立しりつどう美術びじゅつ工芸こうげい高等こうとう学校がっこう)、東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこうげん東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく
代表だいひょうさく板垣いたがき退助たいすけおう国会こっかい議事堂ぎじどううち[3]
平和へいわ祈念きねんぞう長崎ながさき平和公園へいわこうえん[3]
受賞じゅしょう 1958ねん-文化ぶんか勲章くんしょう[3]
文化ぶんか功労こうろうしゃ
紺綬こんじゅ褒章ほうしょう
ウェブサイト 西にしもち記念きねんかん
メモリアル きた村西むらにしのぞむしょう西にしもちしょう
影響えいきょうけた
芸術げいじゅつ
朝倉あさくら文夫ふみおたてはたけ大夢だいむ
影響えいきょうあたえた
芸術げいじゅつ
石原いしはらのぼる羽下はねした修三しゅうぞう
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北村きたむら 西にしのぞむ(きたむら せいぼう、1884ねん明治めいじ17ねん12月16にち - 1987ねん昭和しょうわ62ねん3月4にち)は、長崎ながさきけん出身しゅっしん日本にっぽん彫刻ちょうこく本名ほんみょう北村きたむら 西にしのぞむ(きたむら にしも)。

人物じんぶつ

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昭和しょうわ代表だいひょうする彫刻ちょうこく一人ひとり代表だいひょうさく長崎ながさき平和公園へいわこうえん設置せっち巨大きょだいぞう長崎ながさき平和へいわ祈念きねんぞう[6]国会こっかい議事堂ぎじどううち設置せっちの「板垣いたがき退助たいすけおう」などがある[3]文化ぶんか勲章くんしょう[3]紺綬こんじゅ褒章ほうしょう受章じゅしょうしゃ文化ぶんか功労こうろうしゃ日本にっぽん彫刻ちょうこくかいでは西にしもち功績こうせきとなえ、どうかい展覧てんらんかいにおける最優秀さいゆうしゅう作品さくひんおくられるしょう名称めいしょうを「きた村西むらにしのぞむしょう」(西にしもちしょう)としている。

また、個人こじん寄付きふにより小中学生しょうちゅうがくせい教育きょういく美術びじゅつ振興しんこう目的もくてきとした「きた村西むらにしのぞむしょう基金ききん」をもう[7]、これは2016ねん12月 (2016-12)現在げんざい、「きた村西むらにしのぞむしょう教育きょういく美術びじゅつてん」として公募こうぼてんかたち継続けいぞくしている[8]

長男ちょうなん北村きたむらおさむおな彫刻ちょうこく[9]

略歴りゃくれき

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1884ねん明治めいじ17ねん12月16にち長崎ながさきけん南高来みなみたかきぐん南有馬みなみありまむらしろ木野この[2]宮野木みやのぎじょうげんみなみ島原しまばら)のきゅう名家めいかまれる[3]ちちちんれん(のぶつら)、はは・サイのよんなん末子まっしであった[10]。1892ねん明治めいじ25ねん)にしろ木野この尋常じんじょう小学校しょうがっこうはいり、1896ねん明治めいじ29ねん)に有馬ありま尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこうすすんで1900ねん卒業そつぎょうすると、同年どうねん12がつ小学校しょうがっこうじゅん教員きょういん免許めんきょ取得しゅとくして南有馬みなみありま尋常じんじょう小学校しょうがっこう臨時りんじ採用さいよう(3ヵ月かげつ)され[注釈ちゅうしゃく 1]翌年よくねん母校ぼこうしろ木野この小学校しょうがっこうてんじて、月給げっきゅう6えん代用だいよう教員きょういんけんじゅん訓導くんどうとしてはたらくうち、せい教員きょういん目指めざして教職きょうしょくをやめると長崎ながさき師範しはん学校がっこうすす[10]。ところが入学にゅうがくした1902ねん明治めいじ34ねん)に風土病ふうどびょうにかかり、長期ちょうき欠席けっせきのため退学たいがくとなると帰郷ききょうして療養りょうよう、このころちち隠居いんきょしょ欄間らんま[10]天満てんま神社じんじゃ神官しんかん京都きょうと美術びじゅつ学校がっこうまなぶようすすめられて入学にゅうがくこころざ[10]

学生がくせい時代じだい

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病気びょうき退学たいがくして療養りょうようちゅうった欄間らんま3めん[11]めた家族かぞく[12][13]天満てんま神社じんじゃ神官しんかんすす[10]で、1903ねん明治めいじ36ねんあらためて京都きょうと市立しりつ美術びじゅつ工芸こうげい学校がっこう彫刻ちょうこくげん京都きょうと市立しりつどう美術びじゅつ工芸こうげい高等こうとう学校がっこう)に入学にゅうがく[2]補欠ほけつであった[10]彫刻ちょうこくとはることだととらえていたころ生涯しょうがい最愛さいあいともでライバルのけんはたけ大夢だいむ出会であ[10]。1907ねん明治めいじ40ねん)に同校どうこう首席しゅせき卒業そつぎょうし、同年どうねん東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう彫刻ちょうこくすす[2]

東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう時代じだいは1908ねん明治めいじ41ねん開催かいさいだい2かい文展ぶんてん出品しゅっぴんさくいきどおたたかえ」がはつ入選にゅうせん以後いご1909ねん明治めいじ42ねんだい3かい文展ぶんてんゆうふう褒状ほうじょう翌々年よくよくねん1911ねん明治めいじ44ねんだい5かい文展ぶんてん壮者そうしゃ」も褒状ほうじょう受賞じゅしょう[2]。1912ねん明治めいじ45ねん)、同校どうこう首席しゅせき卒業そつぎょうした[2]

戦前せんぜん

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1915ねん大正たいしょう4ねんだい9かい文展ぶんてん怒涛どとう」がとうしょうとなり、よく1916ねん大正たいしょう5ねんだい10かい文展ぶんてん出品しゅっぴんさく晩鐘ばんしょう」が特選とくせん受賞じゅしょう以後いご1917ねん大正たいしょう6ねんだい11かい文展ぶんてんひかりにうたれた悪魔あくま」が鑑査かんさとなる[2]。この1917ねんより西にしもち東京とうきょう滝野川たきのがわげん東京とうきょうきた [9])にきょかまえ、制作せいさくにつとめた。

文展ぶんてんみかどてんあらたまった[14]1919ねん大正たいしょう8ねんだい1かいみかどてん以降いこう審査しんさいんつとめた[2]同年どうねん曠原しゃ(こうげんしゃ)を結成けっせいした[2][9]

1921ねん大正たいしょう10ねん)より母校ぼこう東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう教授きょうじゅ就任しゅうにん[注釈ちゅうしゃく 2]よく1922ねん大正たいしょう11ねん)には彫刻ちょうこく研究けんきゅうのため西ケ原にしがはら彫刻ちょうこく研究所けんきゅうじょ開設かいせつした[2][9]

1925ねん大正たいしょう14ねん)には帝国ていこく美術びじゅついん会員かいいんとなっており(40さい)、1933ねん昭和しょうわ8ねん)からは東邦とうほう彫塑ちょうそいん顧問こもんつとめた[2]

戦前せんぜん作品さくひんは、「児玉こだま源太郎げんたろう大将たいしょう騎馬きばぞう」「山県やまがた有朋ありとも元帥げんすい騎馬きばぞう」など勇壮ゆうそう男性だんせいぞうかつ戦意せんい高揚こうよう意図いとした作品さくひんおおがけた[2]西にしもち指導しどうし、石原いしはらのぼるら7にん彫刻ちょうこく報国ほうこく芸術げいじゅつかい」によって制作せいさくされた戦没せんぼつしゃ7てん[注釈ちゅうしゃく 3]胸像きょうぞうが1939ねん3がつ19にちゆう就館献納けんのうされている[15]。このほか、大政たいせい翼賛よくさんかい会合かいごうにも芸術げいじゅつかい代表だいひょうしゃとして参加さんかしている[16]

戦後せんご

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平和へいわ祈念きねんぞう

戦後せんごになると西にしもち彫刻ちょうこくモチーフは平和へいわ自由じゆう宗教しゅうきょう変化へんかし、そういった作品さくひんおお制作せいさく日展にってん出品しゅっぴんした[2]

西にしもち代表だいひょうさくでもある長崎ながさき平和へいわ祈念きねんぞう青銅せいどうせいたかさ10メートルじゃく巨大きょだい男性だんせいぞう[17]であり、長崎ながさき委嘱いしょくけて1951ねん昭和しょうわ26ねん)より4ねん歳月さいげつついやし[2]公費こうひりない制作せいさく内外ないがいからの浄財じょうざい3せんまんえんでまかない作成さくせいした。1955ねん昭和しょうわ30ねん)に完成かんせい同年どうねん8がつ8にち長崎ながさき平和公園へいわこうえん設置せっちされている[18]

このほかにも、西にしもち長崎ながさき原爆げんばくのみならず広島ひろしま原爆げんばく被害ひがいけた広島ひろしま市民しみんたいしても「飛躍ひやく」や平和へいわ観世音菩薩かんぜおんぼさつぞうなどおおくの平和へいわ祈念きねんぞう制作せいさくしている[2]

現代げんだい美術家びじゅつか名鑑めいかん 昭和しょうわ29年度ねんど改正かいせいばん美術びじゅつ倶楽部くらぶ出版しゅっぱん昭和しょうわ29年刊ねんかん

1947ねん昭和しょうわ22ねん)より日本にっぽん芸術げいじゅついん会員かいいん、1949ねん昭和しょうわ24ねん日展にってん理事りじ[19]、1958ねん昭和しょうわ33ねん日本にっぽん芸術げいじゅついん選考せんこう委員いいん[20]、1962ねん昭和しょうわ37ねん)より日本にっぽん彫塑ちょうそかい名誉めいよ会長かいちょう、1969ねん昭和しょうわ44ねん日展にってん会長かいちょう就任しゅうにん、1974ねん昭和しょうわ49ねん日展にってん名誉めいよ会長かいちょう[2]

晩年ばんねん

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1953ねん昭和しょうわ28ねん)に戦前せんぜんよりながんだ東京とうきょうきたから東京とうきょう武蔵野むさしの転居てんきょし、都立とりつ頭公園かしらこうえんうち自身じしんアトリエ建立こんりゅう[2]のち東京とうきょうにアトリエと制作せいさくしたやく350てんにのぼる作品さくひん寄贈きぞう[21]、それらはかしら自然しぜん文化ぶんかえん彫刻ちょうこくかん展示てんじされた[2]。なお、西にしもち寄贈きぞうした作品さくひんはその増加ぞうか最終さいしゅうてきやく500てんとなっている[2]

1986ねん昭和しょうわ61ねん)12月より風邪かぜわずら自宅じたく静養せいようしていたもののよく1987ねん昭和しょうわ62ねん3月4にち西にしもち心不全しんふぜんのため東京とうきょう武蔵野むさしの自宅じたくぼっした。102さいぼつ[2]墓所はかしょ台東たいとう寛永寺かんえいじだいさん霊園れいえん

西にしもちの「平和へいわいのる」ぞうは1987ねん昭和しょうわ62ねん)1がつ東京とうきょう板橋いたばし区役所くやくしょしん庁舎ちょうしゃまえ設置せっちされ、生前せいぜん公開こうかいされた最後さいご作品さくひんぜっさく)である[2]

栄誉えいよ栄典えいてん

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名誉めいよ市民しみん

かく自治体じちたい武蔵野むさしの島原しまばらみなみ島原しまばら東京とうきょうきた長崎ながさきけん)は「はつ」の名誉めいよ市民しみん県民けんみんえらんだ。

  • 武蔵野むさしの名誉めいよ市民しみん 1962ねん昭和しょうわ37ねん
  • 島原しまばら名誉めいよ市民しみん 1972ねん昭和しょうわ47ねん
  • 南有馬みなみありままち名誉めいよ町民ちょうみん 1979ねん昭和しょうわ54ねん)、まち合併がっぺいみなみ島原しまばら名誉めいよ市民しみん
  • 東京とうきょう名誉めいよ都民とみん 1980ねん昭和しょうわ55ねん[2]
  • 東京とうきょうきた名誉めいよ区民くみん 1981ねん昭和しょうわ56ねん[23]
  • 長崎ながさきけん名誉めいよ県民けんみん 同年どうねん

りゃく年譜ねんぷ

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神奈川かながわけん横浜よこはまはちきよし殿どのげん横浜よこはまはちきよし殿どの郷土きょうど資料しりょうかん)に安置あんちされる8たいぞう神鏡しんきょうキリスト銅像どうぞう清水しみず多嘉たかしめせさく)、ソクラテス青銅せいどうぞう藤川ふじかわ勇造ゆうぞうさく)、孔子こうし銅像どうぞうきた村西むらにしのぞむさく)、釈迦しゃか木像もくぞう田島たじまひさし彦作ひこさく)、聖徳太子しょうとくたいし白銅はくどうぞう朝倉あさくら文夫ふみおさく)、弘法大師こうぼうだいし木像もくぞう長谷川はせがわます蔵作くらつくり)、親鸞しんらん銅像どうぞう長谷ながたに秀雄ひでおさく)、日蓮にちれん銅像どうぞうにち名子なご実三じつぞうさく

作品さくひん記念きねんかんなど

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島原しまばらじょううち西にしもち記念きねんかんおく)と案内あんないばん手前てまえ

九州きゅうしゅう

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  • きた村西むらにしのぞむ記念きねんかん長崎ながさきけん島原しまばら城内じょうのうち1-1183-1、島原しまばらじょううち
  • 西にしもち記念きねんかん西にしのぞむ公園こうえんみなみ島原しまばら南有馬みなみありままちへい393-1)[10]
  • 長崎ながさき平和へいわ公園こうえん平和へいわ祈念きねんぞう」(長崎ながさきけん長崎ながさき松山まつやままち9、平和へいわ公園こうえんない
  • 玄海げんかい国定こくてい公園こうえんこいうらガーデン福岡ふくおかけんぶくきゅう玄海げんかい彫刻ちょうこくみさきこいうら
  • 諏訪すわ神社じんじゃ神馬しんめぞう」(長崎ながさきけん長崎ながさき上西山かみにしやままち18-15)

関東かんとう中部ちゅうぶ

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東京とうきょう
西にしもち作品さくひんおお展示てんじされる。
  • 船原ふなはらホテル純金じゅんきん風呂ふろ」(静岡しずおかけん田方たがたぐん天城湯ケ島あまぎゆがしままち上船原かみふなばら511の1)

中国ちゅうごく地方ちほう

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山縣やまがた有朋ありともぞう山口やまぐちけんはぎはぎ中央公園ちゅうおうこうえん[35]

おも著作ちょさく

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  • きた村西むらにしのぞむきた村西むらにしのぞむ作品さくひんしゅう = Seibo Kitamura's Works』ジャパン・アート・サービス・カンパニー、1966ねんNCID BN11830989にちえい併記へいき
  • きた村西むらにしのぞむ さく北村きたむら西にしもちひゃく寿ことぶきしんさん多摩たま新聞しんぶんしゃ、1982ねんNCID BN11755497年譜ねんぷ:341-362ぺーじ
  • きた村西むらにしのぞむひゃくさいのかたつむり』日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1983ねんNCID BN11834946ISBN 4532093155

関連かんれん資料しりょう

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  • きた村西むらにしのぞむ作品さくひんしゅう刊行かんこう委員いいんかい 監修かんしゅうきた村西むらにしのぞむ作品さくひんしゅう = Seibo Kitamura sakuhinshu』芸術げいじゅつ新聞しんぶんしゃ
  • 西にしもちかい 編集へんしゅうきた村西むらにしのぞむ彫刻ちょうこくしゅう西にしもちかい美術びじゅつ出版しゅっぱんしゃ (発売はつばい) 1960ねん
  • はちおきなてん丸栄まるえい、1967ねん
  • 日本にっぽんじゅうにん美術家びじゅつか芸術げいじゅつ新聞しんぶんしゃ、1969ねん
  • ひじりゆたかしゃ編集へんしゅう へん西にしのぞむ塑人 : きた村西むらにしのぞむ作品さくひんしゅう = Scuptor Seibo works of Seibo Kitamura』

島原しまばら、1974ねん

  • 中村なかむら伝三郎でんざぶろう へんきた村西むらにしのぞむ彫塑ちょうそ大成たいせい講談社こうだんしゃ、1976ねん
  • きた村西むらにしのぞむ彫刻ちょうこくてん : 平和へいわ自由じゆうきざ巨匠きょしょう東急とうきゅう百貨店ひゃっかてん、1980ねん
  • 長島ながしま勝正かつまさほか へん越中えっちゅうしんそうしゃ中田図書販売なかだとしょはんばい発売はつばい)、1981ねん別冊べっさつ
  • 北村きたむら西にしもちひゃくいちとしてん三越みつこし、1984ねん
  • 敦賀つるが市立しりつ博物館はくぶつかんきた村西むらにしのぞむてん : 新春しんしゅん特別とくべつ企画きかく敦賀つるが市立しりつ博物館はくぶつかん、1996ねん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 師範しはん学校がっこう病欠びょうけつ退学たいがくになった1902ねん年末ねんまつから京都きょうとうつるまで、ふたた有馬ありま尋常じんじょう小学校しょうがっこう教壇きょうだん[10]
  2. ^ 1944ねん昭和しょうわ19ねん)まで[2]
  3. ^ くらえい辰治たつじ少将しょうしょう加納かのう治雄はるお少将しょうしょう南郷なんごうしげるあきら少佐しょうさ梅林うめばやし孝次たかじ大尉たいい西にしじゅう小次郎こじろう大尉たいい大山おおやま勇夫いさお大尉たいい荒木あらきかつぎょう大尉たいい
  4. ^ a b 彫像ちょうぞうは1931ねん昭和しょうわ6ねん)、石造せきぞう台座だいざは1933ねん昭和しょうわ8ねん制作せいさく。2004ねん平成へいせい16ねん)4がつ1にちづけ中央ちゅうおう区区まちまち民有みんゆうがた文化財ぶんかざい彫刻ちょうこく」に指定してい[26]

出典しゅってん

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  1. ^ "きた村西むらにしのぞむみ)きたむら せいぼう". コトバンク. 2018ねん8がつ5にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 東京とうきょう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょかん日本にっぽん美術びじゅつ年鑑ねんかん」より:「きた村西むらにしのぞむ」(2015ねん12月14にち)、2018ねん8がつ5にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f g "西にしもち記念きねんかん". 島原しまばら. 1 December 2016. 2018ねん8がつ5にち閲覧えつらん
  4. ^ 君島きみしま彩子あやこ平和へいわモニュメントと観音かんのんぞう長崎ながさき平和公園へいわこうえんない彫像ちょうぞうにおける信仰しんこう形象けいしょう」『宗教しゅうきょう社会しゃかいだい24かん、「宗教しゅうきょう社会しゃかい学会がっかい、2018ねん6がつ、97-111ぺーじCRID 1390285300171083264doi:10.20594/religionandsociety.24.0_97ISSN 13424726 
  5. ^ 小坂こさか智子さとこ公共こうきょう空間くうかん彫刻ちょうこくをめぐって - 《平和へいわ祈念きねんぞう》のいかけるもの -」『長崎ながさき国際こくさい大学だいがく論叢ろんそうだい4かん長崎ながさき国際こくさい大学だいがく、2004ねん1がつ、83-86ぺーじCRID 1050564288174933888ISSN 13464094 
  6. ^ 北村きたむら特定とくてい宗教しゅうきょうによらないいのりの対象たいしょう目指めざし、納骨のうこつどう別途べっと行政ぎょうせいくわわって設置せっちせい観世音かんぜおんまつった[4]。このぞう彫刻ちょうこく作品さくひん公共こうきょう空間くうかんくときのさまざまな問題もんだい示唆しさする[5]
  7. ^ "つなごう!未来みらい島原半島しまばらはんとう世界せかいジオパーク" (PDF). 島原しまばら. December 2012. 2018ねん8がつ5にち閲覧えつらん
  8. ^ "だい38かいきた村西むらにしのぞむしょう教育きょういく美術びじゅつてん 西にしもちしょう作品さくひん" (PDF). 島原しまばら. December 2016. 2018ねん8がつ5にち閲覧えつらん
  9. ^ a b c d e 仮称かしょう彫刻ちょうこくアトリエかん : きた文化ぶんか振興しんこう財団ざいだん”. kitabunka.or.jp. 2023ねん2がつ23にち閲覧えつらん
  10. ^ a b c d e f g h i 西にしもち記念きねんかん西にしもち生誕せいたんいえ”. 長崎ながさきけん南島なんとう原市はらいち公式こうしきホームページ. 観光かんこう移住いじゅう > 観光かんこう情報じょうほう > 歴史れきし・ガイダンス. みなみ島原しまばら (2017ねん6がつ21にち). 2023ねん2がつ24にち閲覧えつらん。 “西にしのぞむ公園こうえんは、昭和しょうわ54ねん地元じもとみなさんならびに、全国ぜんこくからせられたご協力きょうりょくと、きた村西むらにしのぞむ先生せんせいのご厚意こういにより、ここ西にしもち生誕せいたん作品さくひん展示てんじした公園こうえんです。園内えんないには屋外おくがいに13てん西にしもち生家せいかである西にしもち記念きねんかんには、彫刻ちょうこくしょ絵画かいがなどやく60てん作品さくひん。(ウェブサイトに「きた村西むらにしのぞむ先生せんせい作業さぎょう風景ふうけい」、「せい観世音菩薩かんぜおんぼさつぞう」ほか建物たてもの前景ぜんけい女性じょせい坐像ざぞうはいした「きた村西むらにしのぞむ先生せんせい生家せいか」ほか写真しゃしんがある。)”
  11. ^ a b 佐藤さとう敬助けいすけきた村西むらにしのぞむ研究けんきゅう(その1) 初期しょき作品さくひん欄間らんま」の制作せいさくについて」『長崎大学ながさきだいがく教育きょういく学部がくぶ人文じんぶん科学かがく研究けんきゅう報告ほうこくだい33かん長崎大学ながさきだいがく教育きょういく学部がくぶ、1984ねん3がつ、21-30ぺーじCRID 1050005822275192704hdl:10069/32917ISSN 0388-2772 
  12. ^ a b きた村西むらにしのぞむおう略歴りゃくれき”. 眞秀まほてら山形やまがたけん庄内しょうないまち). 2023ねん2がつ24にち閲覧えつらん。 “『ひゃくさいのかたつむり』より抜粋ばっすい。”
  13. ^ ひゃくさいのかたつむり』
  14. ^ "展覧てんらんかい変遷へんせん開催かいさいねん". 日展にってん公式こうしきサイト. 2018ねん8がつ12にち閲覧えつらん
  15. ^ 東京とうきょう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょかん日本にっぽん美術びじゅつ年鑑ねんかん」より:「戦没せんぼつ勇士ゆうし胸像きょうぞう製作せいさく」(2015ねん11月20にち)、2018ねん8がつ12にち閲覧えつらん
  16. ^ 東京とうきょう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょかん日本にっぽん美術びじゅつ年鑑ねんかん」より:「芸術げいじゅつかいけんじかん運動うんどう」(2015ねん11月20にち)、2018ねん8がつ12にち閲覧えつらん
  17. ^ 東京とうきょう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょかん日本にっぽん美術びじゅつ年鑑ねんかん」より:「平和へいわ祈念きねんぞう除幕じょまくしき」(2015ねん11月20にち)、2018ねん8がつ12にち閲覧えつらん
  18. ^ "平和へいわ祈念きねんぞう(へいわきねんぞう)". 長崎ながさき. 2018ねん8がつ12にち閲覧えつらん
  19. ^ 東京とうきょう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょかん日本にっぽん美術びじゅつ年鑑ねんかん」より:「日展にってん運営うんえいかい規則きそくなどきま」(2015ねん11月20にち)、2018ねん8がつ12にち閲覧えつらん
  20. ^ 東京とうきょう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょかん日本にっぽん美術びじゅつ年鑑ねんかん」より:「日本にっぽん芸術げいじゅついん会員かいいん選考せんこう委員いいんきま」(2015ねん11月20にち)、2018ねん8がつ12にち閲覧えつらん
  21. ^ 東京とうきょう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょかん日本にっぽん美術びじゅつ年鑑ねんかん」より:「あたま自然しぜん文化ぶんかえん彫刻ちょうこくかん一般いっぱん公開こうかい」(2015ねん11月20にち)、2018ねん8がつ12にち閲覧えつらん
  22. ^ 東京とうきょう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょかん日本にっぽん美術びじゅつ年鑑ねんかん」より:「文化ぶんか勲章くんしょうならびに文化ぶんか功労こうろう年金ねんきん受領じゅりょうしゃ決定けっていおよ授賞じゅしょう顕彰けんしょうしき」(2015ねん11月20にち)、2018ねん8がつ12にち閲覧えつらん
  23. ^ 名誉めいよ区民くみん 北村きたむら 西にしのぞむ(きたむら せいぼう)”. www.city.kita.tokyo.jp. 東京とうきょうきた (2014ねん2がつ1にち). 2023ねん2がつ24にち閲覧えつらん
  24. ^ きた村西むらにしのぞむ”. Sports Reference LLC. 2020ねん4がつ17にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2018ねん8がつ18にち閲覧えつらん
  25. ^ 震災しんさい復興ふっこう記念きねんとう きた村西むらにしのぞむ燈臺とうだい』をめぐって”. 2020ねん7がつ6にち閲覧えつらん
  26. ^ a b 増山ますやま一成いっせい. 中央ちゅうおう郷土きょうど資料しりょうかん: “中央ちゅうおう区民くみん文化財ぶんかざい74 燈臺とうだい きた村西むらにしのぞむさく どうづくり彫刻ちょうこく 石造せきぞう台座だいざ(とうだい きたむらせいぼうさく どうぞうちょうこく つけたりせきぞうだいざ)”. 東京とうきょう中央ちゅうおう. 東京とうきょう中央ちゅうおう教育きょういく委員いいんかい事務じむきょく図書としょ文化財ぶんかざい. 2023ねん2がつ24にち閲覧えつらん。 “増山ますやま一成いっせいによる広報こうほうコラム「区内くない文化財ぶんかざい」(2017ねん平成へいせい29ねん)7がつ21にちごう掲載けいさい)。※=中央ちゅうおう総括そうかつ文化財ぶんかざい調査ちょうさ指導しどういん。”
  27. ^ 武蔵野むさしの名誉めいよ市民しみん”. 2016ねん10がつ5にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2016ねん10がつ4にち閲覧えつらん
  28. ^ 西にしもち記念きねんかん”. 島原しまばら. 2021ねん4がつ17にち閲覧えつらん
  29. ^ 和田わだ拓治たくじろうきた村西むらにしのぞむ生誕せいたん現代げんだい彫刻ちょうこくプロジェクト「interdependence. - Cのかたち-」」『広島市立大学ひろしましりつだいがく芸術げいじゅつ学部がくぶ紀要きようだい11かん広島市立大学ひろしましりつだいがく芸術げいじゅつ学部がくぶ、2006ねん3がつ、45ぺーじCRID 1050015111530389632 
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  37. ^ 大坪おおつぼ, p. 267.
  38. ^ a b 大坪おおつぼ, p. 267

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 大坪おおつぼ潤子じゅんこ騎馬きばぞう居場所いばしょ』(レポート)神奈川大学かながわだいがく21世紀せいきCOE プログラム研究けんきゅう推進すいしん会議かいぎ文字もじ資料しりょう研究けんきゅう可能かのうせい若手わかて研究けんきゅうしゃ研究けんきゅう成果せいかろん文集ぶんしゅう―〉、2008ねん、265-272ぺーじhdl:10487/6768ISBN 978-4-904124-10-9https://kanagawa-u.repo.nii.ac.jp/records/9272。"「ひょう1 騎馬きばぞう作例さくれい」の「山県やまがた有朋ありともぞう」のこう"。 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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西にしもち記念きねんかん西にしのぞむ公園こうえん