西にしじゅう小次郎こじろう

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西にしじゅう 小次郎こじろう
にしずみ こじろう
陸軍りくぐん歩兵ほへい中尉ちゅうい戦車せんしゃだい1連隊れんたい時代じだい西にしじゅう小次郎こじろう
渾名あだな軍神ぐんしん西にしじゅう戦車せんしゃちょう」「しょうジュ」
だかノッポ」「サトガラ」「宣長のりなが
「トウボシかき」「デロいれ」ほか多数たすう
生誕せいたん 1914ねん1がつ13にち
日本の旗 日本にっぽん熊本くまもとけん
死没しぼつ (1938-05-17) 1938ねん5月17にち(24さいぼつ
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこくじょしゅう
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
ぐんれき 1934ねん - 1938ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん歩兵ほへい大尉たいい
墓所はかしょ 大谷おおやほんびょう分骨ぶんこつ
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西にしじゅう 小次郎こじろう(にしずみ こじろう、1914ねん大正たいしょう3ねん1がつ13にち - 1938ねん昭和しょうわ13ねん5月17にち)は、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん軍人ぐんじん陸士りくし46最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん歩兵ほへい大尉たいいくんとうこうよんきゅう[1]熊本くまもとけん上益城かみましきぐん甲佐こうさまち仁田子にたご出身しゅっしん

にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)におけるだい上海しゃんはい事変じへんからじょしゅう会戦かいせんいたるまで、はちきゅうしきちゅう戦車せんしゃをもって戦車せんしゃちょうとして活躍かつやく戦死せんし軍部ぐんぶから公式こうしきに「軍神ぐんしん」として最初さいしょ指定していされた軍人ぐんじんとしてられる。

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

西にしじゅう生家せいか

1914ねん大正たいしょう3ねん)、ちちさんさくははせんだいあいだに、三男さんなんよんじょ二男じなんとしてまれた。ちちさんさく退役たいえき軍人ぐんじんであり、明治めいじ陸軍りくぐん教導きょうどうだん台湾たいわん抗日こうにち勢力せいりょく鎮圧ちんあつにち戦争せんそう参加さんか曹長そうちょうから中尉ちゅうい(予備よびやくこう大尉たいい昇進しょうしん)までのぼめた人物じんぶつだった。また祖父そふふか九郎くろう西南せいなん戦争せんそうに薩軍熊本くまもとたい一員いちいんとして参加さんか、その戦友せんゆうのつてで一番いちばん小隊しょうたいちょうだった佐々ささともぼう設立せつりつした熊本くまもと国権こっけんとういんとなり、さんさくとともに地元じもと公共こうきょう事業じぎょう尽力じんりょくしていた[2]。こうした環境かんきょう幼少ようしょう小次郎こじろうおおきな影響えいきょうあたえており、はやくから軍人ぐんじんへのみちこころざしていた。

1920ねん大正たいしょう9ねん)、甲佐こうさ尋常じんじょう小学校しょうがっこう入学にゅうがく当初とうしょ病気びょうきからだよわく、1・2ねんともにいちげつほど欠席けっせきしていたが、成績せいせき優秀ゆうしゅうであり[3]、1・2年生ねんせいではばん、3ねんから6年生ねんせい首席しゅせきだったという。

1926ねん大正たいしょう15ねん)4がつ旧制きゅうせい御船みふね中学校ちゅうがっこうげん熊本くまもと県立けんりつ御船みふね高等こうとう学校がっこう)に入学にゅうがく成績せいせきは1ねんで18ばん、2ねんで5ばん、3ねんが3ばん、4ねんとき陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう入学にゅうがく優先ゆうせんしたため7ばんだった。また、在学ざいがくちゅう陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうへの入学にゅうがく希望きぼうしていたが、視力しりょくよわいため不合格ふごうかくとなった[4]小学校しょうがっこうころ西にしじゅう活発かっぱつ印象いんしょうだったが、中学ちゅうがくころ温和おんわ寡黙かもくわば文学ぶんがく少年しょうねんといった印象いんしょうであり、たりまえのことをたりまえ淡々たんたんむタイプ、クラスメイトのなかではどちらかとえば記憶きおくのこらないような存在そんざいだった[5]

4がつ上旬じょうじゅん陸士りくし合格ごうかく。このとき御船みふね中学ちゅうがくからは赤星あかほししげる西田にしだ義晴よしはる甲斐かい勝衛かつえい西にしじゅうめぐみ(のち胸膜炎きょうまくえんのため退学たいがく)、高田たかだぞう[注釈ちゅうしゃく 1]の5にんおなじく陸士りくしに、岡田おかだ茂正しげまさ海軍かいぐん機関きかん学校がっこう同時どうじ合格ごうかくしている。在学ざいがくちゅう目黒めぐろ叔父おじちち義妹ぎまいおっと)の陸軍りくぐん獣医じゅうい少佐しょうさ斉藤さいとう清左衛門せいざえもんたく下宿げしゅくした。陸士りくしではだい1中隊ちゅうたいだい3たい隊長たいちょう岩国いわくに泰彦やすひこ中尉ちゅうい)の配属はいぞくとなる。在学ざいがくちゅう中学ちゅうがく以来いらい一蓮托生いちれんたくしょうであった親友しんゆう病気びょうきにより失意しついのうちに退学たいがく、さらにルームメイトとちち相次あいついでうしなうという衝撃しょうげきてき出来事できごと相次あいつぎ、そのかれ人生じんせいおおきな影響えいきょうあたえた。

1934ねん昭和しょうわ9ねん)6がつ卒業そつぎょうだい46兵科へいか歩兵ほへい見習みならい士官しかんとして宇都宮うつのみや歩兵ほへいだい59連隊れんたい同年どうねん12がつには、静岡しずおか歩兵ほへいだい34連隊れんたい陸軍りくぐん歩兵ほへい少尉しょういとして満州まんしゅう事変じへん従軍じゅうぐん。これにおいて飛行機ひこうきとともに戦車せんしゃ重要じゅうようせいかんじた西にしじゅうは、内地ないち帰還きかんみずか戦車せんしゃへいへのてん要望ようぼうした。1936ねん昭和しょうわ11ねん)1がつから習志野ならしの戦車せんしゃだい2連隊れんたい練習れんしゅう戦車せんしゃへいとしての教育きょういくけたのち同年どうねん8がつから久留くるよね戦車せんしゃだい1連隊れんたい転任てんにんして陸軍りくぐん歩兵ほへい中尉ちゅうい任官にんかん

はちきゅうしきちゅう戦車せんしゃ

翌年よくねんの1937ねん昭和しょうわ12ねん)9がつ3にちだい上海しゃんはい事変じへんにおいて戦車せんしゃだい5大隊だいたいだい2中隊ちゅうたい(ちょう高橋たかはしきよし大尉たいい)配下はいか戦車せんしゃ小隊しょうたいちょうとして上海しゃんはい淞に上陸じょうりく急遽きゅうきょだい11師団しだん歩兵ほへいだい10旅団りょだん基幹きかんとする天谷あまや支隊したい歩兵ほへいだい22連隊れんたい配属はいぞくされた。翌日よくじつどうすみ大学だいがく校舎こうしゃない進入しんにゅうてき陣地じんちがある大金たいきん家村いえむら東方とうほう橋梁きょうりょう偵察ていさつ。9月5にち歩兵ほへいだい22連隊れんたい、68連隊れんたい支援しえんほう山城やましろ守備しゅびたいだい98だい292たびだい583だんだい3営、ちょう姚子あお中国語ちゅうごくごばんちゅうこう)と交戦こうせん。また、7にちにはひね家宅かたく付近ふきん戦闘せんとう参加さんかした。

以降いこう歩兵ほへい支援しえんという重要じゅうよう任務にんむ大場おおば鎮のたたかい、みなみしょうおさむしろせん激戦げきせんたたかき、うち5かい重傷じゅうしょういながらも、一回いっかい前線ぜんせん退しりぞくことなく、じつけい34かい戦闘せんとう参加さんかして武勲ぶくんげた。また、高橋たかはし大尉たいい負傷ふしょうしたさいには、中隊ちゅうたいちょう代理だいりとしてだい2中隊ちゅうたい指揮しきつとめた。

じょしゅう会戦かいせんなかの1938ねん昭和しょうわ13ねん)5がつ17にち午後ごご6時半じはんごろ、宿やどけん南方なんぽう大庄だいしょう付近ふきんいて、高粱こうりゃんはたけをかき前進ぜんしんしていたいちぎょうは、戦車せんしゃ進路しんろ前方ぜんぽうクリーク発見はっけんした。西にしじゅうは、戦車せんしゃ渡渉としょう可能かのう場所ばしょさがしに下車げしゃ単身たんしん斥候せっこうおこなった。そして指揮しきかんはた水面すいめんして地点ちてん確認かくにんし、高橋たかはし中隊ちゅうたいちょう報告ほうこくおもむこうとした直後ちょくご背後はいごから対岸たいがん中国ちゅうごくへい狙撃そげきされた[注釈ちゅうしゃく 2]銃弾じゅうだん西にしじゅうみぎ太腿ふともも懐中時計かいちゅうどけい貫通かんつうひだり大腿だいたい動脈どうみゃく切断せつだんした。

すぐに部下ぶかであるじょう秀雄ひでお伍長ごちょう砲手ほうしゅであり当番とうばんへい高松たかまつ高雄たかお上等じょうとうへい戦車せんしゃからして西にしじゅうかつみ、またべつ戦車せんしゃ2りょう前面ぜんめんてクリークと西にしじゅうあいださえぎたてとなった。西にしじゅう出血しゅっけつ多量たりょうのために意識いしき朦朧もうろうとなりながらも、高松たかまつ上等じょうとうへい高橋たかはし中隊ちゅうたいちょうへクリークの渡渉としょう可能かのう地点ちてん伝達でんたつするようめいじた。部下ぶかたちによって自身じしん戦車せんしゃなかへともどされた西にしじゅうは、衛生えいせいたい軍医ぐんい服部はっとり(階級かいきゅう不明ふめい)から応急おうきゅう措置そち止血しけつしたが、すでに手遅ておくれであった。みずからの最期さいごさとった西にしじゅうは、高松たかまつ部下ぶか高橋たかはし中隊ちゅうたいちょう、そして内地ないち家族かぞくへのわかれの言葉ことばげ、午後ごご730ふんごろ、「天皇陛下てんのうへいかまんさい」の言葉ことば最後さいごいきった[7]享年きょうねん24。死後しご陸軍りくぐん歩兵ほへい大尉たいい特進とくしんした。

軍神ぐんしん西にしじゅう小次郎こじろう[編集へんしゅう]

西にしじゅうとその搭乗とうじょうしゃうつした雑誌ざっし記事きじ

死後しご西にしじゅう上官じょうかんだった細見さいけんおもんみゆう大佐たいさは、11月、千葉ちば陸軍りくぐん戦車せんしゃ学校がっこうおこなわれた講演こうえんかい西にしじゅうについてれた。さらに12月17にち陸軍りくぐんしょう記者きしゃ倶楽部くらぶめの記者きしゃ陸軍りくぐん戦車せんしゃ学校がっこうまねき、戦車せんしゃ演習えんしゅうせるとともに、細見ほそみ大佐たいさが「西にしじゅう大尉たいいに就て」とだいした講演こうえんおこなった。細見さいけん大佐たいさは、「新聞紙しんぶんしのもつ偉大いだいなるちからつて、この西にしじゅう大尉たいいにより顕現けんげんされた軍人ぐんじん精神せいしんぜん国民こくみんらしめ、国民こくみん精神せいしん総動員そうどういんのために裨益ひえきするところあらしめたい」と要請ようせいしたという[8]。この翌日よくじつ、まず東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶんが「昭和しょうわ軍神ぐんしん西にしじゅう大尉たいい 陸軍りくぐんぜん学校がっこう教材きょうざいかざ偉勲いくんてつうし部隊ぶたい若武者わかむしゃ」との見出みだしをけ、その生涯しょうがい戦績せんせきについてほうじた。12月23にち西にしじゅう乗車じょうしゃであった戦車せんしゃ公開こうかいされ、26にちにラジオで細見さいけん大佐たいさ西にしじゅうについてのラジオ講演こうえんおこなうと報道ほうどう過熱かねつ、マスコミは西にしじゅうのことを一斉いっせいて、軍神ぐんしん称賛しょうさんした。背景はいけいとして、南京なんきんかんこうとしたにもかかわらずつづにちちゅう戦争せんそう厭戦えんせんかんただよはじめた国民こくみんかつれる材料ざいりょうとして使つかわれたとの見方みかたがある[8]

翌年よくねん3がつ11にちささえ事変じへん戦死せんししゃだいはちかい論功行賞ろんこうこうしょうにおいて西にしじゅうは「もうぶんない典型てんけいてき武人ぶじん」「ただしれつ鬼神きじんかしむるてつうし隊長たいちょう」として陸軍りくぐん報道ほうどうによって顕彰けんしょうされ、殊勲しゅくんかぶと優賞ゆうしょうこうよんきゅう金鵄勲章きんしくんしょうおよくんとう旭日きょくじつあきら授与じゅよされた。

戦前せんぜん日本にっぽんにおいて、にち戦争せんそう広瀬ひろせ武夫たけお中佐ちゅうさたちばな周太しゅうた中佐ちゅうさなどがすでに「軍神ぐんしん」の尊称そんしょう著名ちょめい存在そんざいになっていたものの、軍部ぐんぶによって公式こうしきに「軍神ぐんしん」として指定していされたのは西にしじゅう最初さいしょであった。以降いこう西にしじゅうは「軍神ぐんしん西にしじゅう戦車せんしゃちょう」などとうたわれ、ひろ国民こくみんられることとなる。

また、西にしじゅうっていた1,300はつにもおよ被弾ひだんこんのこはちきゅうしきちゅう戦車せんしゃ靖国神社やすくにじんじゃ展示てんじされ、おおきな話題わだいとなった。そのにも、西にしじゅうをテーマにした小説しょうせつ戦時せんじ歌謡かよう軍歌ぐんか)、子供こどもけの伝記でんき数多かずおおつくられている。とくに、軍部ぐんぶ依頼いらいによってかれた菊池きくちひろしによる小説しょうせつ西にしじゅう戦車せんしゃちょうでん』は1939ねん昭和しょうわ14ねん)、東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん連載れんさいされると好評こうひょうはくし、1940ねん昭和しょうわ15ねん)には松竹しょうちくにより映画えいが監督かんとく吉村よしむらこう三郎さぶろう脚本きゃくほん野田のだ高梧こうご担当たんとうし、上原うえはらけん西にしじゅうやくとして主演しゅえんしている(後述こうじゅつ)。また主題歌しゅだいかの『西にしじゅう戦車せんしゃ隊長たいちょううた』は北原きたはら白秋はくしゅう作詞さくしを、飯田いいだ信夫しのぶ作曲さっきょくをそれぞれ担当たんとうした。

戦歴せんれき[編集へんしゅう]

陸士りくし合格ごうかく直後ちょくご西にしじゅう(前列ぜんれつひだり)。先輩せんぱい友人ゆうじんたちとともに。配属はいぞく将校しょうこう浜田はまだじゅうこれすけ大尉たいい撮影さつえい
歩兵ほへいだい59連隊れんたい士官しかん候補こうほせい時代じだい
西にしじゅう最後さいご記念きねん写真しゃしんみぎから2人ふたり)。左端ひだりはし細見さいけんおもんみ中佐ちゅうさ
  • 昭和しょうわ5ねん4がつ 陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう入学にゅうがく
  • 昭和しょうわ7ねん3がつ卒業そつぎょう士官しかん候補こうほせいとして歩兵ほへいだい59連隊れんたい
  • 同年どうねん9がつ 陸士りくし本科ほんか入校にゅうこう
  • 昭和しょうわ9ねん3がつ28にち ちちさんさく死去しきょ享年きょうねん57
  • 同年どうねん6がつ 陸士りくし本科ほんか卒業そつぎょう見習みならい士官しかんとして歩兵ほへいだい59連隊れんたい
  • 同年どうねん10がつ 陸軍りくぐん歩兵ほへい少尉しょうい任官にんかん
  • 同年どうねん12がつ じょせいはち歩兵ほへいだい34連隊れんたい編入へんにゅう満州まんしゅう治安ちあんせん従軍じゅうぐん
  • 昭和しょうわ10ねん12月 凱旋がいせん歩兵ほへいだい59連隊れんたい復帰ふっき
  • 昭和しょうわ11ねん1がつ 戦車せんしゃだい2連隊れんたい練習れんしゅう入隊にゅうたい
  • 同年どうねん3がつ 練習れんしゅう修業しゅうぎょう歩兵ほへいだい59連隊れんたい復帰ふっき
  • 同年どうねん7がつ くんろくとうたんこう旭日きょくじつあきらおよ昭和しょうわろくねん乃至ないしきゅうねん事変じへん従軍じゅうぐん記章きしょう拝受はいじゅ
  • 同年どうねん8がつ 戦車せんしゃだい1連隊れんたい転任てんにん
  • 同年どうねん10がつ 陸軍りくぐん歩兵ほへい中尉ちゅうい任官にんかん
  • 昭和しょうわ12ねん8がつ27にち 上海しゃんはい派遣はけんぐんとして出征しゅっせい
    • 9月3にち 上海しゃんはい上陸じょうりく
    • 9月5にち たから山城やましろ付近ふきん戦闘せんとう
    • 7にち ひね家宅かたく付近ふきん戦闘せんとう
    • 8にち しゅう家宅かたく付近ふきん戦闘せんとう
    • 9にち とう家宅かたく付近ふきん戦闘せんとう中隊ちゅうたいちょう代理だいり
    • 10日とおか 顧家たく付近ふきん戦闘せんとう中隊ちゅうたいちょう代理だいり
    • 11にち 月浦つきうら付近ふきん戦闘せんとう中隊ちゅうたいちょう代理だいり
    • 13にち かたきょう付近ふきん戦闘せんとう中隊ちゅうたいちょう代理だいり
    • 14にち よしさときょう付近ふきん戦闘せんとう中隊ちゅうたいちょう代理だいり
    • 15にち みなみ付近ふきん戦闘せんとう中隊ちゅうたいちょう代理だいり
    • 16にち てん鎮東南端なんたん馬道うまみち付近ふきん戦闘せんとう中隊ちゅうたいちょう代理だいり
    • 21にち 馬橋まばし付近ふきん戦闘せんとう
    • 23にち てん鎮白かべあか屋根やね付近ふきん戦闘せんとう
    • 24にち しょうどう付近ふきん戦闘せんとう
    • 27にち 沈家きょう付近ふきん戦闘せんとう中隊ちゅうたいちょう代理だいり
    • 29にち しゃむら付近ふきん戦闘せんとう独立どくりつ小隊しょうたいちょう
    • 30にち すりぬのたく付近ふきん戦闘せんとう
    • 10月1にち ひがししゅたく付近ふきん戦闘せんとう中隊ちゅうたいちょう代理だいり
    • 5にち かく家宅かたく付近ふきん戦闘せんとう
    • 21にち ちょうろうたく戦闘せんとう
    • 24にち はしうま塘「クリーク」の偵察ていさつ戦闘せんとう
    • 25にち はしうま塘「クリーク」の戦闘せんとうおよび揚子ようこ付近ふきん戦闘せんとう
    • 26にち ちょう王家おうけたくおよびしゅう涇橋付近ふきん戦闘せんとう
    • 27にち 蘇州そしゅう河畔かはんいた追撃ついげき戦闘せんとう
    • 30にち ちょうせんびょうしゃ家宅かたく付近ふきん戦闘せんとう中隊ちゅうたいちょう代理だいり
    • 31にち 馬道うまみちわん付近ふきん戦闘せんとう中隊ちゅうたいちょう代理だいりほおみぎあし負傷ふしょうじゅうしゅ前田まえだ秀雄ひでお上等じょうとうへい戦死せんし
    • 11月8にち こうきょう鎮の戦闘せんとう
    • 10日とおか 土地とちどうしろ隍橋付近ふきん戦闘せんとう
    • 12にち~29にち みなみしょう鎮よりつねしゅう付近ふきんいた追撃ついげき戦闘せんとうおよびつねじゅく付近ふきん戦闘せんとう独立どくりつ小隊しょうたいちょう
    • 30にち~12がつ宜興いいしんより南京なんきんいた進撃しんげき戦闘せんとうちゅう南京なんきんがいきんりょうへい工廠こうしょう戦闘せんとう大隊だいたい副官ふっかん代理だいり
    • 5月1にち~4にち 南京なんきん警備けいび太平おうひら付近ふきん戦闘せんとう独立どくりつ小隊しょうたいちょう
    • 17にち じょしゅう会戦かいせん南平みなみだいら鎮西ちんぜい北方ほっぽうめん戦闘せんとう戦死せんし
  • 3月11にち こうよんきゅう金鵄勲章きんしくんしょう追贈ついぞう

人物じんぶつぞう[編集へんしゅう]

西にしじゅうのポケットにはいっていた懐中時計かいちゅうどけい血痕けっこん生々なまなましい
  • 公私こうし明確めいかくにして、軍規ぐんきにはいかめしかったが、普段ふだん部下ぶかやさしくせっしていた[9]
  • つね戦果せんか報告ほうこくひかえめであり、部下ぶかにも自分じぶん手柄てがらをむやみにかたることはきびしくきんじていた。
  • 中学ちゅうがくでは柔道じゅうどうおこなっておりよんきゅうだった。あまりつよくはなかったが、反面はんめんまえねばづよさでしつこくかってきたため、周囲しゅういにとってはべつ意味いみごわい相手あいてだったという。だが陸士りくしでは剣道けんどう重視じゅうしだったため、柔道じゅうどう選択せんたくしたことを後悔こうかいしたという[10]
  • 幼少ようしょうから大変たいへん読書どくしょであり、中学校ちゅうがっこうころ図書としょ委員いいんつとめていた。士官しかん学校がっこうころ上着うわぎのポケットにつね英語えいごほんしのばせ、また昼食ちゅうしょく時間じかん上官じょうかん退庁たいちょう候補こうほせいたちが将校しょうこう集会しゅうかいしょ囲碁いご将棋しょうぎきょうじるなかいちにん図書館としょかんかよい、読書どくしょ没頭ぼっとうしていたという。そのなかでもとく岡谷おかや繁実しげみの「名将めいしょう言行げんこうろく」をよくんでいた。
  • 幼少ようしょうのあだは「しょうジュ」「しょうジュさん」、中学ちゅうがく時代じだいは「だかノッポ」「トウボシかき」「サトガラ」など[10]士官しかん学校がっこう入学にゅうがく以降いこうは、では「宣長のりなが本科ほんかでは「デロいれ」だった[11]
  • 中学ちゅうがくころ英語えいご得意とくいぎゃく不得意ふとくいなのは物理ぶつり化学かがく)であり、陸士りくし時代じだいには分厚ぶあつ解説かいせつしょを3日間にちかんかけて翻訳ほんやくしたことがあった[12]
  • 詩吟しぎん口上こうじょう得意とくいで、宴席えんせきでよく披露ひろうしており[13]日頃ひごろ吉田よしだ松陰しょういんうたをよくぎんじていた。また自分じぶんでもしばしばつくっていた。
  • 宮部みやべかなえぞう橋本はしもとひだりない吉田よしだ松陰しょういん乃木のぎ希典まれすけ尊敬そんけいしていた。とく松陰しょういんかんしては陸士りくし時代じだいひまさえあれば松陰まつかげでん紐解ひもとき、従弟じゅうていれて松陰神社しょういんじんしゃ参拝さんぱいするほどだったという[14]
  • 中学校ちゅうがっこう入学にゅうがく当時とうじ体格たいかく検査けんさひょうによると、身長しんちょう4しゃく7すん6ふんやく1.43m)、体重たいじゅう53kg、視力しりょく1.2とあり、4年生ねんせいのころには当時とうじ平均へいきん身長しんちょうおおきく上回うわまわり、1m83cmまでびた巨漢きょかんとなっている[15]

逸話いつわ[編集へんしゅう]

西にしじゅう祭壇さいだん扁額へんがく荒木あらき貞夫さだお直筆じきひつのもの
  • 戦死せんし鉄兜てつかぶとかわ脚絆きゃはんき、指揮しきかんはた軍刀ぐんとうっていた[16]
  • ちちさんさくはかつて熊本くまもと歩兵ほへいだい23連隊れんたいちょうだった荒木あらき貞夫さだお部下ぶかであり、荒木あらき師団しだんちょう就任しゅうにんしたのち親交しんこうつづけていた。ちちいえ座敷ざしき荒木あらきいた「滅私めっし奉公ほうこう」の扁額へんがくかざっており、また西にしじゅう陸士りくし合格ごうかくしたさいにも、荒木あらき保証人ほしょうにんとなっている[12]
  • 出征しゅっせいすう週間しゅうかんまえ軍刀ぐんとうちちにち戦争せんそう使つかった遺品いひん仕込しこもうとかんがえ、久留くるべい刀剣とうけんってったが、鍔元つばもとまでこぼれがあったため実戦じっせんでは使つかものにならないとげられ、結局けっきょくあきらめざるをなかった[17]
  • 戦闘せんとう合間あいま西にしじゅう部下ぶかたちが付近ふきん民家みんか地元じもと住民じゅうみん女性じょせいあかぼうもうとしているところ直面ちょくめんした。西にしじゅうはすぐさま軍医ぐんいび、出産しゅっさんった。まれた女児じょじたいし、西にしじゅう自分じぶん負傷ふしょうしたさい衛生えいせいへいからもらった牛乳ぎゅうにゅうあたえた。翌朝よくあさるとあかぼうおっとれられた母親ははおやからてられ、すでこごんでいた。恩知おんしらずだとおこ部下ぶかをなだめると、西にしじゅうあかぼうはかつくった。
  • 1938ねん2がつ9にち南京なんきんにて戦車せんしゃだい5大隊だいたい上海しゃんはい派遣はけんぐん司令しれいかん朝香あさかみやばと彦王巡閲じゅんえつけたさい弾痕だんこんすさまじい西にしじゅう戦車せんしゃおどろいたばと彦王は、「この戦車せんしゃは、まだ使つかえるか」とたずねた。乗務じょうむいん位置いち直立ちょくりつした西にしじゅう恐懼きょうくしつつ説明せつめいした。2にちははあておくった手紙てがみで『わたし自身じしんはもちろん、家門かもん光栄こうえいこのうえないこととぞんじます』とべている[18]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

  • 中学ちゅうがく当時とうじ教師きょうしらは、当時とうじ西にしじゅうについて、「今西いまにしじゅうことおもせとっても、よくうことをいた生徒せいとだったので、ててあたまかんでこない、非常ひじょうあばれた生徒せいとだとか、また校内こうないっての秀才しゅうさいとか、そういう生徒せいと記憶きおくのこるが、なに特徴とくちょうのない生徒せいとは、ついそのままになる」とべている[19]
  • 同期生どうきせい月岡つきおか大尉たいいは、「西にしじゅうは、真面目まじめにやっとるなとおもうたぐらいで一向いっこうまらんかった。だが、かれ親孝行おやこうこうぶりだけは、だれもがっていた。」とかたっている。また、同期生どうきせいは、「西にしじゅうには、あいつはきだが、こいつはきらいだという区別くべつがない。だれでも、おなじようにっていた。まんにん一様いちようだ。だから、西にしじゅうにはてきがいない。西にしじゅうのどこにそういう魅力みりょくがあるのかわからないが、みな西にしじゅうかおると、気持きもちがほがらかになった。」とかたっている[20]
  • 太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう末期まっき西にしじゅうおな戦車せんしゃだい1連隊れんたい機甲きこうへい将校しょうこうだった作家さっか司馬しばりょう太郎たろうは、戦後せんご軍神ぐんしん西にしじゅう戦車せんしゃちょう』というエッセイを発表はっぴょうし、戦車せんしゃ学校がっこうでは「いち西にしじゅう戦車せんしゃちょうはなしをきいたことがなかった」、戦車せんしゃだい1連隊れんたいでも「逸話いつわさえもつたわっておらず、その話題わだいにするものもなかった」と述懐じゅっかいしている。また、「西にしじゅう小次郎こじろう篤実とくじつ有能ゆうのう下級かきゅう将校しょうこうであったことは間違まちがいない」とみとめつつ、「この程度ていど有能ゆうのう篤実とくじつ下級かきゅう将校しょうこうは、その当時とうじも、それ以後いごだい東亜とうあ戦争せんそうにも、いくらでもいた」とし、それにもかかわらず西にしじゅう軍神ぐんしんになりえた理由りゆうを「かれ戦車せんしゃっていたからである」「軍神ぐんしんつくって壮大そうだい機甲きこう兵団へいだんがあるかのごとき宣伝せんでんをする必要ひつようがあったのだ」と推察すいさつしている。

家族かぞく[編集へんしゅう]

西にしじゅう(後列こうれつ中央ちゅうおう)とその家族かぞく前列ぜんれつひだりより孝子こうしははせんだいちちさんさくだい次子じし一人ひとりいて後列こうれつひだりよりけいごと福田ふくだひろし小次郎こじろう小太郎こたろう美知子みちこ。こののちまもなくさんさく病死びょうししたため、西にしじゅう家族かぞく全員ぜんいんそろった最後さいご記念きねん写真しゃしんとなった。
おや
  • ちちさんさく
  • はは千代ちよ旧姓きゅうせい西澤にしざわ
兄弟きょうだい
  • あに小太郎こたろう・・・上海しゃんはい特務とくむ機関きかんいん
  • おとうとけいごと・・・上海しゃんはい特務とくむ機関きかんいん
姉妹しまい
  • 長姉ちょうしだい・・・教師きょうし福田ふくだひろし結婚けっこん
  • あね次子じし・・・本田ほんだすすむ結婚けっこん
  • ちょういもうと美知子みちこ・・・福田ふくだ清之きよゆき結婚けっこん
  • いもうと孝子たかこ

関連かんれん人物じんぶつ[編集へんしゅう]

戦車せんしゃだい2連隊れんたい練習れんしゅう在籍ざいせきちゅう私服しふく姿すがたでくつろぐ西にしじゅう(みぎ)。ひだり同期生どうきせい大隈おおくまいた

細見さいけんおもんみゆう[編集へんしゅう]

長野ながのけん松本まつもと出身しゅっしん戦車せんしゃだい5大隊だいたいちょう当時とうじ中佐ちゅうさ西にしじゅう同様どうよう歩兵ほへい出身しゅっしんであり、黎明れいめい戦車せんしゃ研究けんきゅうたずさわった第一人者だいいちにんしゃでもある。その戦車せんしゃだい1師団しだんちょう就任しゅうにん最終さいしゅう階級かいきゅう中将ちゅうじょう

高橋たかはしきよし[編集へんしゅう]

新潟にいがたけん出身しゅっしん本籍ほんせき石川いしかわけん)。戦車せんしゃだい5大隊だいたいだい2中隊ちゅうたいちょう当時とうじ大尉たいい自身じしん重傷じゅうしょうったさい西にしじゅう中隊ちゅうたいちょう代理だいりえるなど、西にしじゅう非常ひじょう信頼しんらいしていた。その戦車せんしゃだい6連隊れんたい教育きょういく班長はんちょうつとめ、ルソン島るそんとうたたかにて連隊れんたいちょう代理だいり終戦しゅうせんむかえる。最終さいしゅう階級かいきゅう中佐ちゅうさ

高松たかまつ高雄たかお[編集へんしゅう]

佐賀さがけんきゅう小城おぎぐん砥川とがわむら(げん小城おぎ)出身しゅっしん[21]。1937ねん1がつ、17さいにて志願しがんへいとして戦車せんしゃだい1連隊れんたい入隊にゅうたい西にしじゅう部下ぶかで、おも砲手ほうしゅじゅうしゅつとめた。一時期いちじき当番とうばんへいつとめたこともある。当時とうじ上等じょうとうへい体重たいじゅう90kgという戦車せんしゃへい不相応ふそうおう巨漢きょかんでありながらも、西にしじゅう右腕うわんとしてつねかれささつづけた。西にしじゅうたれたさいさきり、その最期さいご看取みとった。その大陸たいりくでの戦闘せんとう転々てんてんとしたのち、ノモンハン事件じけん参加さんか太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつ戦車せんしゃだい2師団しだん所属しょぞくとしてフィリピンに転任てんにんした。ルソン島るそんとうアンティポロ南部なんぶにて最前線さいぜんせんち、戦車せんしゃはおろか武器ぶき食料しょくりょうもほぼうしなった。8月14にち餓死がし寸前すんぜん状態じょうたい突撃とつげき玉砕ぎょくさいこころみるも失敗しっぱいし、そのまま翌日よくじつ上官じょうかんからポツダム宣言せんげん受託じゅたくらされ、連合れんごうこくがわ投降とうこうした。マニラの捕虜ほりょ収容しゅうようしょ同年どうねんじゅういちがつ復員ふくいん帰国きこく長崎ながさきけん佐世保させぼ松瀬まつせまち移住いじゅう長寿ちょうじゅたもち、2003ねん8がつ16にちづけ長崎ながさき新聞しんぶん取材しゅざいでは、小泉こいずみ政権せいけん自衛隊じえいたいイラク派遣はけんたいし、批判ひはんてき意見いけんべている[22]最終さいしゅう階級かいきゅう軍曹ぐんそう

井手上いでうえ武夫たけお[編集へんしゅう]

西にしじゅう部下ぶかで、おも操縦そうじゅうしゅつとめた。炊事すいじがかりつとめたこともある。当時とうじ伍長ごちょう。1939ねん時点じてんでは軍曹ぐんそう。その消息しょうそく不明ふめい

松尾まつお[編集へんしゅう]

おなじく西にしじゅう部下ぶかで、おも操縦そうじゅうしゅ砲手ほうしゅつとめた。出身しゅっしん本名ほんみょうその経歴けいれき一切いっさい不明ふめい西にしじゅうたれたさい搭乗とうじょうしゃ操縦そうじゅうになっており、高松たかまつとともにその最期さいご看取みとった。当時とうじ上等じょうとうへい

前田まえだ秀雄ひでお[編集へんしゅう]

長崎ながさきけん出身しゅっしんおなじく西にしじゅう部下ぶかで、おもじゅうしゅつとめた。10月31にち馬道うまみちわん付近ふきん戦闘せんとうで、車内しゃないにおいて腹部ふくぶてきだんけ、西にしじゅうまえいきった[23]。なお、このさい西にしじゅう重傷じゅうしょうっている。戦前せんぜん刊行かんこうされた西にしじゅう大尉たいいあつかった伝記でんきでは、戦車せんしゃなかにいながらてきだんけたという結果けっかがプロパガンダにふさわしくないと判断はんだんされたのか、いずれでもかれ名前なまえ一切いっさい登場とうじょうしない。最終さいしゅう階級かいきゅう上等じょうとうへい

西にしじゅうめぐみ[編集へんしゅう]

西にしじゅう中学校ちゅうがっこうらい親友しんゆう同姓どうせいだが血縁けつえんはない。ともに陸士りくし合格ごうかくするも、胸膜炎きょうまくえんにより退学たいがく失意しついれるかれに、西にしじゅう自作じさくうたおくっている。その龍谷大りゅうこくだいがく仏門ぶつもんはいる。西にしじゅう死後しご遺族いぞく懇願こんがんかれ遺骨いこつ西本願寺にしほんがんじ分骨ぶんこつした。

野口のぐち研司けんじ[編集へんしゅう]

福岡ふくおかけんきゅう門司もじ(げん北九州きたきゅうしゅう門司もじ)出身しゅっしんもと門司もじこう税関ぜいかん職員しょくいん貿易ぼうえきしょう野口のぐち長三郎ちょうさぶろう次男じなん陸士りくしにおいて西にしじゅうのルームメイトだったが、昭和しょうわ9ねん1がつ5にち結核けっかくにより急死きゅうしどう時期じき自身じしんちちうしなった西にしじゅうは、そのさびしさをわせるためか、長三郎ちょうさぶろうを「おとうさん」としたい、その文通ぶんつうつづけた。

大隈おおくまいた[編集へんしゅう]

大分おおいたけん出身しゅっしん西にしじゅう同期生どうきせい親友しんゆう歩兵ほへいだい23連隊れんたい所属しょぞくだったが、満州まんしゅう事変じへん西にしじゅうとともに戦車せんしゃだい2連隊れんたい練習れんしゅう入隊にゅうたいし、戦車せんしゃへい将校しょうこうとなる。その戦車せんしゃだい37連隊れんたいちょうとなり、本土ほんど決戦けっせんそなえるも鹿児島かごしまにて終戦しゅうせんむかえる。最終さいしゅう階級かいきゅう少佐しょうさ

栄典えいてん[編集へんしゅう]

これら2てん現在げんざい熊本くまもとけん護国ごこく神社じんじゃ奉納ほうのうされており、英霊えいれい顕彰けんしょうかんにて一般いっぱん開放かいほうされている。

その[編集へんしゅう]

  • 西にしじゅう故郷こきょうである甲佐こうさまちにはかれ銅像どうぞうがあり、毎年まいとし命日めいにちになると地元じもと住民じゅうみんたちによって慰霊いれいさいおこなわれている[24]
  • 生前せいぜんの1937ねん(昭和しょうわ12ねん)11月9にち地元じもと熊本くまもとにちにち新聞しんぶんより取材しゅざいけたことがある。る10月31にち馬道うまみちわん付近ふきん戦闘せんとう重症じゅうしょうっていた西にしじゅうは、かお半分はんぶん包帯ほうたいおお松葉杖まつばづえいて取材しゅざいおうじ、「あの戦争せんそうじつ壮烈そうれつでした。てきへい勇敢ゆうかん手榴弾しゅりゅうだん抵抗ていこうしました。わたし指揮しきちゅうやられたのであるが、たいしたことはありません。」とべた[23]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが
  • 西にしじゅう戦車せんしゃちょうでん

1939ねん11月30にち封切ふうきり。陸軍りくぐんしょう後援こうえん文部省もんぶしょう推薦すいせん監督かんとく吉村よしむらこう三郎さぶろう脚本きゃくほん野田のだ高梧こうご担当たんとうし、上原うえはらけん西にしじゅうやく細見さいけん→「細木さいき部隊ぶたいちょう」(佐分利さぶりしん)、高橋たかはし→「高梨たかなし中隊ちゅうたいちょう」(近衛このえ敏明としあき)など、人物じんぶつ仮名かめいえられている。山田やまだ洋次ようじ当時とうじ松竹しょうちく大船おおぶね撮影さつえいしょ所長しょちょうであった城戸きど四郎しろう戦後せんごいたところによれば、城戸きどほんさくではなく、新人しんじん吉村よしむら中国ちゅうごくロケにけ、陸軍りくぐんほう適当てきとうにごまかしていたという[25]吉村よしむらも「いわゆる戦意せんい高揚こうよう宣伝せんでん映画えいがにしたくなかった。大船おおぶね調ちょうのホーム・ドラマふうにしたかった」と戦後せんご証言しょうげんしている[25]批評ひひょうからの反応はんのう不評ふひょうであったが、興行こうぎょうはおおむね好調こうちょうでベストテン2おさめた[25]

歌舞伎かぶき

1940ねん3がつ1にち開演かいえんの「奉祝ほうしゅく紀元きげんせんろくひゃくねんさんがつ興行こうぎょう東西とうざい合同ごうどうだい歌舞伎かぶき」(東京とうきょう劇場げきじょう)のにてえんじられた。脚本きゃくほん菊池きくちひろし手掛てがけ、「つねじゅくじょうがい民家みんか」「どう翌日よくじつ午前ごぜんなな」「大庄だいしょう附近ふきん戦場せんじょう」のさんからなる。西にしじゅうやく代目だいめ 市川いちかわ 猿之助えんのすけ[26]

楽曲がっきょく

いずれも発売はつばいは1939ねん(昭和しょうわ14ねん)。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 工兵こうへい配属はいぞく、のち航空こうくう兵科へいかてんだい3飛行ひこう師団しだん情報じょうほう主任しゅにん参謀さんぼう、1943ねん9がつ9にちよしみより広東かんとんかう途中とちゅうじょうてき戦闘せんとう撃墜げきついされ中薗なかぞのもりたかし中将ちゅうじょうとともに戦死せんし[6]中佐ちゅうさ
  2. ^ このように、指揮しきかんはた目印めじるしとなって戦死せんしした将校しょうこうすくなくなかった。だい大隊だいたいでも、西にしじゅう戦死せんし前後ぜんこうに、今村いまむら村上むらかみという二人ふたりしょう隊長たいちょうおな状況じょうきょう戦死せんししている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 菊池きくち(1995)、p.175
  2. ^ 菊池きくち 1995, p. 144.
  3. ^ 菊池きくち 1995, p. 156.
  4. ^ 菊池きくち(1995)、p.158
  5. ^ 服部はっとり裕子ゆうこども伝記でんき軍神ぐんしん西にしじゅう戦車せんしゃちょうろん軍神ぐんしん形成けいせい作品さくひん特徴とくちょう」『愛知教育大学あいちきょういくだいがく大学院だいがくいん国語こくご研究けんきゅうだい19かん愛知教育大学あいちきょういくだいがく大学院だいがくいん国語こくご教育きょういく専攻せんこう、2011ねん、19-31ぺーじISSN 0919-5157NAID 120003003111 
  6. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ へん中国ちゅうごく方面ほうめん陸軍りくぐん航空こうくう作戦さくせんちょうくも新聞しんぶんしゃ戦史せんし叢書そうしょ74〉、1974ねん、371ぺーじ 
  7. ^ 菊池きくち 1995, p. 231.
  8. ^ a b 田中たなか 2011, p. 26.
  9. ^ 菊池きくち 1995, p. 131.
  10. ^ a b 菊池きくち 1995, p. 160.
  11. ^ 菊池きくち 1995, p. 153.
  12. ^ a b 菊池きくち 1995, p. 161.
  13. ^ 菊池きくち 1995, p. 162.
  14. ^ 望月もちづき 1939, p. 144.
  15. ^ 望月もちづき 1939, p. 95.
  16. ^ 菊池きくち 1995, p. 234.
  17. ^ 望月もちづき 1939, p. 194.
  18. ^ 望月もちづき 1939, p. 237.
  19. ^ 望月もちづき 1939, p. 93.
  20. ^ 望月もちづき 1939, p. 261.
  21. ^ 久米くめ元一げんいち西にしじゅう戦車せんしゃちょう : 昭和しょうわ軍神ぐんしんかねほししゃ、1939ねん 51ぺーじ
  22. ^ 長崎ながさき新聞しんぶん:「戦争せんそう」をかた 2003ねん8がつ16にち
  23. ^ a b 新聞しんぶん世相せそうくまもと 昭和しょうわへん平成へいせい5ねん10がつ10日とおか 熊本くまもとにちにち新聞しんぶん p76
  24. ^ 白秋はくしゅう黄昏たそがれ 慰霊いれいさい様子ようす画像がぞう
  25. ^ a b c 田中たなか 2011, p. 35.
  26. ^ 田中たなか 2011, p. 31.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]