伏見 ふしみ 宮 みや 博 ひろし 恭 きょう 王 おう (ふしみのみやひろやすおう、1875年 ねん 〈明治 めいじ 8年 ねん 〉10月16日 にち - 1946年 ねん 〈昭和 しょうわ 21年 ねん 〉8月 がつ 16日 にち )は、日本 にっぽん の皇族 こうぞく 、海軍 かいぐん 軍人 ぐんじん 。ドイツ帝国 ていこく 海軍兵学校 かいぐんへいがっこう ・海軍 かいぐん 大 だい 学校 がっこう 卒業 そつぎょう (日本 にっぽん 海兵 かいへい 18期 き 相当 そうとう )。栄典 えいてん は元帥 げんすい 海軍 かいぐん 大将 たいしょう 大 だい 勲 くん 位 い 功 こう 一 いち 級 きゅう 。伏見 ふしみ 宮 みや 貞 さだ 愛 あい 親王 しんのう の第 だい 一 いち 王子 おうじ (庶長子 ちょうし )。伏見 ふしみ 宮 みや 第 だい 25代 だい 当主 とうしゅ 。議定 ぎてい 官 かん 、軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう を務 つと めた。初 はじ め名 めい を愛 あい 賢 けん 王 おう (なるかたおう)といい、華 はな 頂 いただき 宮 みや 相続 そうぞく に当 あ たり名 めい を博 ひろし 恭 きょう 王 おう と改 あらた めた。日 にち 露 ろ 戦争 せんそう では連合 れんごう 艦隊 かんたい 旗艦 きかん 「三笠 みかさ 」分隊 ぶんたい 長 ちょう として黄海 こうかい 海戦 かいせん に参加 さんか し戦傷 せんしょう を負 お う[注釈 ちゅうしゃく 1] 。艦長 かんちょう や艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん を務 つと める等 ひとし 、皇族 こうぞく 軍人 ぐんじん の中 なか では際立 きわだ って実戦 じっせん 経験 けいけん が豊富 ほうふ であった。伏見 ふしみ 軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう 宮殿 きゅうでん 下 か (ふしみぐんれいぶそうちょうのみやでんか)、伏見 ふしみ 元帥 げんすい 宮殿 きゅうでん 下 か (ふしみげんすいのみやでんか)などとも呼 よ ばれた。
貞 さだ 愛 あい 親王 しんのう とその女房 にょうぼう の河野 こうの 千代子 ちよこ との間 あいだ に第 だい 一 いち 王子 おうじ 愛 あい 賢 けん として生 う まれた。当 とう 時貞 ときさだ 愛 あい 親王 しんのう は満 まん 17歳 さい であった。庶子 しょし であったことから、誕生 たんじょう 当初 とうしょ は王 おう の身 み 位 い も与 あた えられなかった。
公家 くげ 社会 しゃかい の嫡庶の序 じょ を重 おも んじる伝統 でんとう に加 くわ え、一夫一妻 いっぷいっさい 制 せい をとる西洋 せいよう 社会 しゃかい の影響 えいきょう から、伏見 ふしみ 宮 みや の継嗣 けいし の対象 たいしょう からは外 はず された。邦家 ほうか 親王 しんのう とその正妃 せいひ 親王 しんのう 妃 ひ 景子 けいこ との間 あいだ に生 う まれた父 ちち の貞 さだ 愛 あい 親王 しんのう や伯父 おじ で先代 せんだい 伏見 ふしみ 宮 みや の貞 さだ 教 きょう 親王 しんのう も、庶子 しょし であった数 すう 人 にん の兄 あに たちを飛 と ばして伏見 ふしみ 宮家 みやけ を継承 けいしょう している。当時 とうじ の太政官 だじょうかん 布告 ふこく によれば将来 しょうらい 的 てき に臣籍 しんせき 降下 こうか し華族 かぞく に列 れっ せられる予定 よてい であった。
1876年 ねん (明治 めいじ 9年 ねん )に愛 あい 賢 けん 王 おう の伯父 おじ にあたる華 はな 頂 いただき 宮 みや 博 ひろし 経 けい 親王 しんのう が26歳 さい で薨去 こうきょ 、博 ひろし 経 けい 親王 しんのう の子 こ 博厚 ひろあつ が皇族 こうぞく に列 れっ し、華 はな 頂 いただき 宮家 みやけ を継承 けいしょう した[注釈 ちゅうしゃく 2] 。
その博厚 ひろあつ も1883年 ねん (明治 めいじ 16年 ねん )に8歳 さい で薨去 こうきょ 。明治天皇 めいじてんのう の特旨 とくし をもって華 はな 頂 いただき 宮 みや の存続 そんぞく を決定 けってい し、まず博厚 ひろあつ 王 おう [2] を猶子 ゆうし ・親王 しんのう 宣下 せんげ により博厚 ひろあつ 親王 しんのう とした上 うえ で、華 はな 頂 いただき 宮 みや 自体 じたい の継承 けいしょう に関 かん しては、本家 ほんけ に当 あ たる伏見 ふしみ 宮 みや から王子 おうじ を充当 じゅうとう し宮家 みやけ を立 た てることとし、行先 いきさき の決 き まっていなかった愛 あい 賢 けん 王 おう が華 はな 頂 いただき 宮 みや を継承 けいしょう 、同時 どうじ に名 な を博 ひろし 恭 きょう と改 あらた めた。
華 はな 頂 いただき 宮 みや を継承 けいしょう して3年 ねん 後 ご の1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )4月 がつ 5日 にち 、博 ひろし 恭 きょう 王 おう は海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 予 よ 科 か に入学 にゅうがく し(16期 き )、海軍 かいぐん 軍人 ぐんじん としてのスタートを切 き る。3年 ねん 後 ご に海軍兵学校 かいぐんへいがっこう を中退 ちゅうたい してドイツ に渡 わた り、キール海軍兵学校 かいぐんへいがっこう 、キール海軍 かいぐん 大 だい 学校 がっこう (Marineakademie und -schule )で学 まな び、1895年 ねん (明治 めいじ 28年 ねん )まで滞在 たいざい した。この間 あいだ 、1891年 ねん (明治 めいじ 24年 ねん )4月 がつ にはキール軍港 ぐんこう の軍艦 ぐんかん 進水 しんすい 式 しき に親臨 しんりん したウィルヘルム二 に 世 せい と対面 たいめん した。1893年 ねん (明治 めいじ 26年 ねん )3月 がつ 30日 にち には海軍 かいぐん 少尉 しょうい 候補 こうほ 生 せい を命 めい じられ、1894年 ねん (明治 めいじ 27年 ねん )4月 がつ 20日 はつか に海軍 かいぐん 少尉 しょうい に任官 にんかん した[4] 。ドイツ海軍 かいぐん 大 だい 学校 がっこう を卒業 そつぎょう した後 のち には貴族 きぞく 院 いん 議員 ぎいん (皇族 こうぞく 議員 ぎいん )に任 にん じられた。
博 ひろし 恭 きょう 王 おう は、日本 にっぽん の海軍兵学校 かいぐんへいがっこう は「期 き 外 がい 」である[5] 。しかし、海軍 かいぐん 史家 しか の野村 のむら 実 みのる は「日本 にっぽん 海軍 かいぐん は明 あき らかに、博 ひろし 恭 きょう 王 おう を海兵 かいへい 十 じゅう 八 はち 期生 きせい として待遇 たいぐう していたわけである。」[6] と述 の べている。博 ひろし 恭 きょう 王 おう の進級 しんきゅう は、海軍 かいぐん 中尉 ちゅうい 進級 しんきゅう から海軍 かいぐん 大佐 たいさ 進級 しんきゅう まで、兵 へい 18期 き クラスヘッドの加藤 かとう 寛治 かんじ と同時 どうじ であった(海軍 かいぐん 少将 しょうしょう 進級 しんきゅう は、博 ひろし 恭 きょう 王 おう が大正 たいしょう 2年 ねん 8月 がつ 、加藤 かとう が大正 たいしょう 5年 ねん 12月 がつ )[6] [7] [8] 。
日本 にっぽん への帰国 きこく 後 ご は巡洋艦 じゅんようかん や戦艦 せんかん での艦隊 かんたい 勤務 きんむ を重 かさ ね、このため後述 こうじゅつ する様 よう に皇族 こうぞく とはかけ離 はな れた行動 こうどう 様式 ようしき や生活 せいかつ が身 み につくことになる。
帰国 きこく 後 ご 、海軍 かいぐん 少尉 しょうい として海防 かいぼう 艦 かん 「厳島 いつくしま 」、「松島 まつしま 」に乗船 じょうせん 、明治 めいじ 30年 ねん 海軍 かいぐん 中尉 ちゅうい として戦艦 せんかん 「富士 ふじ 」に乗船 じょうせん 。その後 ご 、海軍 かいぐん 大尉 たいい として装甲 そうこう 巡洋艦 じゅんようかん 「浅間 あさま 」、同 どう 「出雲 いずも 」、戦艦 せんかん 「朝日 あさひ 」、明治 めいじ 39年 ねん には海軍 かいぐん 少佐 しょうさ となり戦艦 せんかん 「三笠 みかさ 」に乗船 じょうせん した。
1897年 ねん (明治 めいじ 30年 ねん )1月 がつ 9日 にち 、徳川 とくがわ 慶喜 よしのぶ の九 きゅう 女 じょ ・経子 けいこ と結婚 けっこん した[10] 。
1903年 ねん (明治 めいじ 36年 ねん )に海軍 かいぐん 少佐 しょうさ に任官 にんかん される。
戦艦 せんかん 「三笠 みかさ 」の第 だい 三 さん 分 ふん 隊長 たいちょう として後部 こうぶ 砲塔 ほうとう の指揮 しき に当 あ たる。
1904年 ねん (明治 めいじ 37年 ねん )日 にち 露 ろ 戦争 せんそう が開戦 かいせん すると同 どう 配属 はいぞく のまま、司令 しれい 長官 ちょうかん ・東郷 とうごう 平八郎 へいはちろう 、艦長 かんちょう ・伊地知 いじち 彦次郎 ひこじろう 、砲術 ほうじゅつ 長 ちょう ・加藤 かとう 寛治 かんじ らとともに同 おな じ船 せん で出征 しゅっせい した。日本 にっぽん 海軍 かいぐん が博 ひろし 恭 きょう 王 おう を海上 かいじょう 第 だい 一線 いっせん の最 さい 重要 じゅうよう 部門 ぶもん に配置 はいち していたことは明 あき らかである。
翌 よく 1904年 ねん (明治 めいじ 37年 ねん )、邦芳 くによし 王 おう の廃嫡 はいちゃく に伴 ともな い、華 はな 頂 いただき 宮 みや から急遽 きゅうきょ 伏見 ふしみ 宮 みや に復籍 ふくせき して後嗣 こうし となり、また第 だい 二 に 王子 おうじ で僅 わず か2歳 さい の博 ひろし 忠 ちゅう 王 おう が華 はな 頂 いただき 宮 みや を継承 けいしょう することとなった[12] [注釈 ちゅうしゃく 3] 。
伏見 ふしみ 宮 みや 復籍 ふくせき 後 ご も艦隊 かんたい 勤務 きんむ での実績 じっせき を積 つ み、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の黄海 こうかい 海戦 かいせん において、旗艦 きかん 「三笠 みかさ 」の第 だい 三 さん 分 ふん 隊長 たいちょう として後部 こうぶ の30センチ砲塔 ほうとう を指揮 しき 、その際 さい 負傷 ふしょう した。
復帰 ふっき すると巡洋艦 じゅんようかん 「新高 にいたか 」に乗船 じょうせん 、横浜 よこはま 港 こう の日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 凱旋 がいせん 観艦式 かんかんしき で明治天皇 めいじてんのう と対顔 たいがん し、大 だい 勲 くん 位 い 菊花 きっか 大 だい 綬章 じゅしょう を授与 じゅよ された。
その後 ご 、海軍 かいぐん 少佐 しょうさ として海防 かいぼう 艦 かん 「沖島 おきのしま 」、巡洋艦 じゅんようかん 「浪速 なにわ 」に乗船 じょうせん した。
日 にち 露 ろ 戦争 せんそう で旅順 りょじゅん が陥落 かんらく し、満州 まんしゅう の陸戦 りくせん で日本 にっぽん が勝利 しょうり を納 おさ めると大韓 たいかん 帝国 ていこく 皇帝 こうてい の李 り 太 ふとし 王 おう は義 ぎ 陽 ひ 君 くん を特使 とくし として新書 しんしょ を寄 よ せて日本 にっぽん の戦勝 せんしょう を祝 しゅく した。明治天皇 めいじてんのう はその答礼 とうれい 使 し として博 ひろし 恭 きょう 王 おう を選 えら び大韓 たいかん 帝国 ていこく に派遣 はけん した。
1906年 ねん (明治 めいじ 39年 ねん )には海軍 かいぐん 中佐 ちゅうさ となりイギリスの日本 にっぽん 大使館 たいしかん 駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん として勤務 きんむ した。
明治 めいじ 39年 ねん に明治天皇 めいじてんのう が清国 きよくに 皇室 こうしつ に対 たい し表敬 ひょうけい した際 さい にも博 ひろし 恭 きょう 王 おう が派遣 はけん され、博 ひろし 恭 きょう 王 おう は西 にし 太 ふとし 后 きさき 、光 ひかり 緒 いとぐち 帝 みかど と対面 たいめん した。
1908年 ねん (明治 めいじ 41年 ねん )5月 がつ にはイギリス、バッキンガム宮殿 きゅうでん にてエドワード七 なな 世 せい 、皇太子 こうたいし 時代 じだい のジョージ五 ご 世 せい に対顔 たいがん した。同 どう 7月 がつ には特別 とくべつ に艦長 かんちょう の客分 きゃくぶん 待遇 たいぐう にて戦艦 せんかん 「アガメンノン 」に乗艦 じょうかん が許可 きょか され、イギリス海軍 かいぐん の北海 ほっかい 演習 えんしゅう を視察 しさつ した。この時 とき 、旗艦 きかん 「ドレッドノート 」にて司令 しれい 長官 ちょうかん ブリッジマン中将 ちゅうじょう とも交流 こうりゅう した。またこの他 ほか にイギリス駐在 ちゅうざい 時代 じだい にはイギリス海軍 かいぐん のブリッジ大将 たいしょう 、ダグラス大将 たいしょう 、シーモア大将 たいしょう との交流 こうりゅう しアームストロング社 しゃ やヴィッカース社 しゃ を視察 しさつ した。
1910年 ねん にエドワード七 なな 世 せい が崩御 ほうぎょ すると大葬 たいそう 参列 さんれつ のために天皇 てんのう の名代 なだい として訪英 ほうえい した伏見 ふしみ 宮 みや 貞 さだ 愛 あい 親王 しんのう とともに5月 がつ 25日 にち に新 しん 国王 こくおう のジョージ五 ご 世 せい に対面 たいめん した。
1913年 ねん (大正 たいしょう 2年 ねん )8月 がつ 31日 にち に海軍 かいぐん 少将 しょうしょう に任官 にんかん されると共 とも に横須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 艦隊 かんたい 司令 しれい 官 かん に就任 しゅうにん 。更 さら に海軍 かいぐん 大学 だいがく 校長 こうちょう ・第 だい 二 に 艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん などを歴任 れきにん し、1923年 ねん (大正 たいしょう 12年 ねん )に貞 さだ 愛 あい 親王 しんのう の薨去 こうきょ に伴 ともな い、伏見 ふしみ 宮 みや を継承 けいしょう した(第 だい 25代 だい )。
1915年 ねん (大正 たいしょう 5年 ねん )には当時 とうじ 16歳 さい の皇太子 こうたいし 裕仁 ひろひと 親王 しんのう (後 ご の昭和 しょうわ 天皇 てんのう )の北陸 ほくりく 行啓 ぎょうけい に際 さい して博 ひろし 恭 きょう 王 おう が司令 しれい 官 かん として指揮 しき する「生駒 いこま 」「鞍馬 あんば 」に裕仁 ひろひと 親王 しんのう が乗艦 じょうかん して艦隊 かんたい 訓練 くんれん を見学 けんがく した。博 ひろし 恭 きょう 王 おう は常 つね に裕仁 ひろひと 親王 しんのう の身近 みぢか にあり、裕仁 ひろひと 親王 しんのう にとっては博 ひろし 恭 きょう 王 おう は明治天皇 めいじてんのう 、大正天皇 たいしょうてんのう と同等 どうとう かそれ以上 いじょう に敬意 けいい を払 はら うべき存在 そんざい であったという。
1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )、連合 れんごう 艦隊 かんたい 基本 きほん 演習 えんしゅう にて美保関 みほのせき 事件 じけん が起 お き、「神通 じんずう 」艦長 かんちょう の水城 みずき 圭 けい 次 じ 大佐 たいさ が責任 せきにん を感 かん じ自刃 じじん すると、水城 みずき の自刃 じじん に深 ふか く感動 かんどう した博 ひろし 恭 きょう 王 おう は水 みず 交社におもむき水城 みずき の霊 れい に拝礼 はいれい して遺族 いぞく を感動 かんどう させたという。
1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )のロンドン海軍 かいぐん 軍縮 ぐんしゅく 条約 じょうやく には上司 じょうし の東郷 とうごう 平八郎 へいはちろう 、同僚 どうりょう の加藤 かとう 寛治 かんじ らとともに反対 はんたい の立場 たちば をとるいわゆる艦隊 かんたい 派 は であったが、条約 じょうやく 調印 ちょういん 後 ご に昭和 しょうわ 天皇 てんのう に拝謁 はいえつ した博 ひろし 恭 きょう 王 おう が海軍 かいぐん 軍縮 ぐんしゅく 条約 じょうやく について話 はな そうとしたところ、天皇 てんのう が答 こた えなかったことから天皇 てんのう の意向 いこう を知 し った博 ひろし 恭 きょう 王 おう は以後 いご 、条約 じょうやく 批准 ひじゅん 賛成 さんせい に立場 たちば を変 か えた。
1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )末 まつ 、参謀 さんぼう 総長 そうちょう に皇族 こうぞく の閑院宮 みや 載 の 仁 じん 親王 しんのう が就任 しゅうにん したのに対 たい し、海軍 かいぐん もバランスをとる必要 ひつよう 性 せい から、1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )2月 がつ 2日 にち 付 づけ で、博 ひろし 恭 きょう 王 おう が海軍 かいぐん 軍令 ぐんれい 最高 さいこう 位 い である海軍 かいぐん 軍令 ぐんれい 部長 ぶちょう に就任 しゅうにん した[22] 。同年 どうねん 5月27日 にち [注釈 ちゅうしゃく 4] 付 づけ で、元帥 げんすい 府 ふ に列 れっ せられ元帥 げんすい の称号 しょうごう を受 う ける[23] 。
1933年 ねん (昭和 しょうわ 8年 ねん )10月 がつ 、軍令 ぐんれい 海 うみ 第 だい 5号 ごう 軍令 ぐんれい 部 ぶ 令 れい により海軍 かいぐん 軍令 ぐんれい 部 ぶ は冠 かんむり の「海軍 かいぐん 」が外 はず れて「軍令 ぐんれい 部 ぶ 」となり、海軍 かいぐん 軍令 ぐんれい 部長 ぶちょう も「軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう 」となる。これは陸軍 りくぐん の「参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 」「参謀 さんぼう 総長 そうちょう 」と対応 たいおう させたものであり、特 とく に皇族 こうぞく である博 ひろし 恭 きょう 王 おう は「伏見 ふしみ 軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう 宮 みや (ふしみぐんれいぶそうちょうのみや)」と呼称 こしょう される。また、北原 きたはら 白秋 はくしゅう 作詞 さくし 、海軍 かいぐん 軍楽隊 ぐんがくたい 作曲 さっきょく による国民 こくみん 歌 か 「伏見 ふしみ 軍令 ぐんれい 部 ぶ 總長 そうちょう 宮 みや を讃 たた え奉 たてまつ る」も作 つく られている(#外部 がいぶ リンク を参照 さんしょう )。
1934年 ねん (昭和 しょうわ 9年 ねん )に海軍 かいぐん 最 さい 長老 ちょうろう の東郷 とうごう 平八郎 へいはちろう が死去 しきょ すると海軍 かいぐん でただひとりの元帥 げんすい となった
。
海軍 かいぐん 軍令 ぐんれい 部長 ぶちょう ・軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう 時代 じだい は、軍令 ぐんれい 部 ぶ が権限 けんげん 強化 きょうか に動 うご き出 だ した時 とき で、博 ひろし 恭 きょう 王 おう 自身 じしん も(陸軍 りくぐん と違 ちが い、伝統 でんとう 的 てき に海軍 かいぐん 省 しょう 優位 ゆうい であった海軍 かいぐん にあって)軍令 ぐんれい 部 ぶ 権限 けんげん 強化 きょうか のための軍令 ぐんれい 部 ぶ 令 れい 及 およ び省 しょう 部 ぶ 互渉規定 きてい 改正 かいせい 案 あん について「私 わたし の在任 ざいにん 中 ちゅう でなければできまい。ぜひともやれ」と高橋 たかはし 三吉 さんきち 、嶋田 しまだ 繁太郎 しげたろう といった軍令 ぐんれい 部 ぶ 次長 じちょう に指示 しじ して艦隊 かんたい 派 は 寄 よ りの政策 せいさく を推進 すいしん した。本来 ほんらい 海軍 かいぐん では人事 じんじ 権 けん がなかったはずの軍令 ぐんれい 部 ぶ の博 ひろし 恭 きょう 王 おう だが、皇族 こうぞく あるいは海軍 かいぐん 長老 ちょうろう としての権威 けんい で大角 おおすみ 海 うみ 相 しょう に圧力 あつりょく をかけ、人事 じんじ への介入 かいにゅう を強 つよ め、艦隊 かんたい 派 は を残 のこ し条約 じょうやく 推進 すいしん 派 は を海軍 かいぐん から罷免 ひめん させていった[25] 。さらに海軍 かいぐん 軍令 ぐんれい 部 ぶ の呼称 こしょう を軍令 ぐんれい 部 ぶ に、海軍 かいぐん 軍令 ぐんれい 部長 ぶちょう の呼称 こしょう を軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう に変更 へんこう 、ついには兵力 へいりょく 量 りょう の決定 けってい 権 けん (編成 へんせい 権 けん )を海軍 かいぐん 省 しょう から軍令 ぐんれい 部 ぶ に移 うつ して軍令 ぐんれい 部 ぶ の権限 けんげん を大幅 おおはば に強化 きょうか し、海軍 かいぐん 省 しょう の機能 きのう を制度 せいど 上 じょう ・人事 じんじ 上 じょう 弱体 じゃくたい 化 か させることに成功 せいこう 、軍令 ぐんれい 部 ぶ は海軍 かいぐん 省 しょう に対 たい して対等 たいとう 以上 いじょう の力 ちから を得 え ることとなった。
以上 いじょう の一連 いちれん の流 なが れは元々 もともと 、海軍 かいぐん 内 ない に軍令 ぐんれい 部 ぶ を中心 ちゅうしん とした艦隊 かんたい 派 は と海軍 かいぐん 省 しょう を中心 ちゅうしん とした条約 じょうやく 派 は の内部 ないぶ 対立 たいりつ があり、艦隊 かんたい 派 は の軍令 ぐんれい 部 ぶ が伏見 ふしみ 宮 みや 博 ひろし 恭 きょう 王 おう を担 かつ ぎだし条約 じょうやく 派 は にロンドン条約 じょうやく の意趣 いしゅ 返 がえ しをしたという背景 はいけい がある。
二・二六事件 ににろくじけん では事件 じけん 発生 はっせい の朝 あさ 、加藤 かとう 寛治 かんじ 、真崎 まさき 甚三郎 さぶろう と協議 きょうぎ を行 おこな ってから参内 さんだい している。この時 とき 、叛乱 はんらん 軍 ぐん に同情 どうじょう 的 てき であった伏見 ふしみ 宮 みや は昭和 しょうわ 天皇 てんのう の怒 いか りを買 か い、その後 ご は叛乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ に向 む けて動 うご いている[27] 。ところが、2019年 ねん にNHKスペシャル により発見 はっけん された海軍 かいぐん 軍令 ぐんれい 部 ぶ の極秘 ごくひ 資料 しりょう によれば海軍 かいぐん は事件 じけん 前 まえ から二 に ・二 に 六 ろく 事件 じけん の予兆 よちょう を把握 はあく しており、事件 じけん 発生 はっせい 直後 ちょくご 、参内 さんだい した博 ひろし 恭 きょう 王 おう に昭和 しょうわ 天皇 てんのう は「海軍 かいぐん の青年 せいねん 士官 しかん の合流 ごうりゅう することなきや」と尋 たず ねたところ、博 ひろし 恭 きょう 王 おう は海軍 かいぐん が反乱 はんらん に加 くわ わることはない旨 むね を明言 めいげん し、さらに天皇 てんのう から大海 たいかい 令 れい を賜 たまわ り事件 じけん 鎮圧 ちんあつ のために海軍 かいぐん トップとして天皇 てんのう 側 がわ の重要 じゅうよう な戦力 せんりょく として事件 じけん の最初 さいしょ 期 き から動 うご いたことが明 あき らかになった[28] 。思惑 おもわく のはずれた加藤 かとう 寛治 かんじ は「終日 しゅうじつ 憂鬱 ゆううつ 」と日記 にっき に記 しる している[29] 。以後 いご 、海軍 かいぐん は鎮圧 ちんあつ に向 む けて決起 けっき 部隊 ぶたい を包囲 ほうい する形 かたち で艦隊 かんたい 、陸戦 りくせん 隊 たい を展開 てんかい している。
午後 ごご 二 に 時 じ 三 さん 十分 じゅうぶん に行 おこな われた皇族 こうぞく 会議 かいぎ においても伏見 ふしみ 宮 みや 博 ひろし 恭 きょう 王 おう は事前 じぜん に高松宮 たかまつのみや 、久邇 くに 宮 みや と打 う ち合 あ わせをし、宮家 みやけ 、皇族 こうぞく の長老 ちょうろう として会議 かいぎ をリードし反乱 はんらん 部隊 ぶたい の速 すみや かな鎮圧 ちんあつ の方針 ほうしん を決 けっ し戒厳 かいげん 司令 しれい 部 ぶ に伝 つた えるとともに、秩父宮 ちちぶのみや と高松宮 たかまつのみや に天皇 てんのう を補佐 ほさ することを助言 じょげん した。これに秩父宮 ちちぶのみや と高松宮 たかまつのみや は頭 あたま を垂 しだ れて応 こた えたという[30] 。
三 さん 国 こく 同盟 どうめい には当初 とうしょ から反対 はんたい しており、同 おな じく反対 はんたい 派 は だった昭和 しょうわ 天皇 てんのう は三 さん 国 こく 同盟 どうめい を阻止 そし するために博 ひろし 恭 きょう 王 おう に相談 そうだん をして、米内 よない 光政 みつまさ を総理 そうり 大臣 だいじん に推薦 すいせん したという(米内 よない 光政 みつまさ 内閣 ないかく )。
また対 たい 米 べい 開戦 かいせん に対 たい してもこの当時 とうじ は絶対 ぜったい 反対 はんたい を主張 しゅちょう していたという[32] 。
対 たい 米 べい 開戦 かいせん 八 はち か月 げつ 前 まえ の1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )4月 がつ 9日 にち に病気 びょうき のため軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう を辞任 じにん した。
軍政 ぐんせい から辞 じ した博 ひろし 恭 きょう 王 おう であったが、依然 いぜん として海軍 かいぐん 内 ない に権力 けんりょく をもっており、太平洋戦争 たいへいようせんそう 中 なか においても、大臣 だいじん 総長 そうちょう クラスの人事 じんじ には博 ひろし 恭 きょう 王 おう の諒解 りょうかい を得 え ることが不文 ふぶん 律 りつ であった。
1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )10月 がつ 、長男 ちょうなん ・博義 ひろよし 王 おう が急死 きゅうし 。1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )8月 がつ 18日 にち には経子 けいこ 妃 ひ と死別 しべつ 。さらに1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )8月 がつ 、四男 よつお ・伏見 ふしみ 博英 ひろひで 伯爵 はくしゃく が戦死 せんし 。天皇 てんのう を守 まも る役目 やくめ を負 お った宮家 みやけ として、当然 とうぜん の役割 やくわり を果 は たしたと、冷静 れいせい に受 う け止 と めた[33] 。
1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )6月 がつ 25日 にち 、サイパン島 とう の放棄 ほうき を決定 けってい した天皇 てんのう 臨席 りんせき の元帥 げんすい 会議 かいぎ において、「陸 りく 海軍 かいぐん とも、なにか特殊 とくしゅ な兵器 へいき を考 かんが え、これを用 もち いて戦争 せんそう をしなければならない。そしてこの対策 たいさく は、急 いそ がなければならない。戦局 せんきょく がこのように困難 こんなん となった以上 いじょう 、航空機 こうくうき 、軍艦 ぐんかん 、小 しょう 舟艇 しゅうてい とも特殊 とくしゅ なものを考案 こうあん し迅速 じんそく に使用 しよう するを要 よう する」と発言 はつげん した[34] 。この「特殊 とくしゅ な兵器 へいき 」は特攻 とっこう 兵器 へいき を意味 いみ するものであったとの説 せつ がある[35] 。同年 どうねん 末 まつ 頃 ごろ に、脳出血 のうしゅっけつ を起 お こし、心臓 しんぞう の病 やまい を抱 かか え、熱海 あたみ 別邸 べってい で療養 りょうよう 生活 せいかつ を送 おく る[36] 。
博 ひろし 恭 きょう 王 おう の四 よん 人 にん の男子 だんし はすべて海軍兵学校 かいぐんへいがっこう に進 すす み、第 だい 一 いち 王子 おうじ ・博義 ひろよし 王 おう 、第 だい 二 に 王子 おうじ ・博 ひろし 忠 ちゅう 王 おう は戦病死 せんびょうし し、第 だい 四 よん 王子 おうじ の博英 ひろひで 王 おう はセレベス島 とう 南部 なんぶ のボネ湾 わん 上空 じょうくう で撃墜 げきつい され戦死 せんし した。第 だい 三 さん 王子 おうじ の博信 ひろのぶ 王 おう のみが生 い き延 の びた。閑院宮 みや 載 の 仁 じん 親王 しんのう の第 だい 五 ご 王女 おうじょ ・華子 はなこ と結婚 けっこん し、戦後 せんご はアメリカに渡 わた ったという。
敗戦 はいせん 直後 ちょくご 、病躯 びょうく をおして上京 じょうきょう 。しばらくは、戦災 せんさい で焼失 しょうしつ した伏見 ふしみ 宮 みや 邸 てい 近 ちか くの旅館 りょかん 「福田 ふくだ 屋 や 」で生活 せいかつ を送 おく った[36] 。さらに、目黒 めぐろ に所在 しょざい した三条 さんじょう 公爵 こうしゃく 家 か の邸宅 ていたく を買 か い取 と って移住 いじゅう [36] 。敗戦 はいせん に前後 ぜんご し、重要 じゅうよう な書類 しょるい や日記 にっき は全 すべ て焼却 しょうきゃく 処分 しょぶん したため、米 べい 軍 ぐん に接収 せっしゅう されていない[36] 。
1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )8月 がつ 16日 にち 午前 ごぜん 9時 じ 38分 ふん 、伏見 ふしみ 宮 みや 邸 てい にて薨去 こうきょ した[38] 。薨去 こうきょ したその日 ひ に、昭和 しょうわ 天皇 てんのう が弔問 ちょうもん に訪 おとず れた[39] 。
8月 がつ 21日 にち に、豊島 としま 岡 おか 墓地 ぼち で葬儀 そうぎ が執 と り行 おこな われた[40] 。伏見 ふしみ 宮 みや は嫡孫 ちゃくそん の博 ひろし 明王 みょうおう が継承 けいしょう した。
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伏見 ふしみ 宮 みや 博 ひろし 恭 きょう 王 おう の評価 ひょうか としては海軍 かいぐん トップの軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう として君臨 くんりん したその責任 せきにん を問 と う声 こえ があることも事実 じじつ である(後述 こうじゅつ )が、博 ひろし 恭 きょう 王 おう はお飾 かざ り的 てき な皇族 こうぞく 軍人 ぐんじん ではなく、実戦 じっせん ・実務 じつむ 経験 けいけん 豊富 ほうふ な「潮気 しおけ のある」一流 いちりゅう の海軍 かいぐん 軍人 ぐんじん としての風格 ふうかく を持 も っていた。自 みずか ら率先 そっせん して最前線 さいぜんせん に立 た ち、常 つね に部下 ぶか 将兵 しょうへい を鼓舞 こぶ し苦楽 くらく を共 とも にするのを厭 いと わない姿勢 しせい や、操艦 そうかん の名手 めいしゅ として関門海峡 かんもんかいきょう のような「船 ふね の難所 なんしょ 」でも難無 なんな く艦 かん を操 あやつ るその実力 じつりょく は海軍 かいぐん 内 ない でも評価 ひょうか されていた[41] 。皇族 こうぞく 風 ふう を吹 ふ かせない人柄 ひとがら や、軍人 ぐんじん としての実力 じつりょく ・けじめを持 も ち合 あ わせており、海軍 かいぐん 軍人 ぐんじん 内 ない では広 ひろ く敬愛 けいあい された人物 じんぶつ だったという
[42] 。
また、伏見 ふしみ 宮 みや を軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう にした経緯 けいい は、陸軍 りくぐん 内部 ないぶ の派閥 はばつ 争 あらそ いが深刻 しんこく なものになったため元老 げんろう 西園寺 さいおんじ 公望 きんもち に相談 そうだん の上 うえ で閑院宮 みや に参謀 さんぼう 総長 そうちょう に就 つ いてもらった。その先例 せんれい に倣 なら って海軍 かいぐん も伏見 ふしみ 宮 みや に軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう に就 つ いてもらったと昭和 しょうわ 天皇 てんのう は述 の べており伏見 ふしみ 宮本 みやもと 人 じん に対 たい する不満 ふまん も述 の べてはいない(「昭和 しょうわ 天皇 てんのう 独白 どくはく 録 ろく 」)。
東郷 とうごう 平八郎 へいはちろう とは『宮 みや 様 さま と神様 かみさま (殿下 でんか と神様 かみさま )』と呼 よ ばれ、海軍 かいぐん 内 ない で神格 しんかく 化 か されていた。博 ひろし 恭 きょう 王 おう は大艦 だいかん 巨 きょ 砲 ほう 主義 しゅぎ 者 もの であったので、博 ひろし 恭 きょう 王 おう の威光 いこう を利用 りよう した艦隊 かんたい 派 は の台頭 たいとう を招 まね くことに繋 つな がった。これについて井上 いのうえ 成美 まさみ は、皇族 こうぞく が総長 そうちょう に就 つ くことで、意見 いけん の硬直 こうちょく 化 か を招 まね いたことを「明治 めいじ の頭 あたま で昭和 しょうわ の戦争 せんそう をした」と称 しょう して批判 ひはん している。博 ひろし 恭 きょう 王 おう の総長 そうちょう 退任 たいにん 時 じ に及川 おいかわ 古志 こし 郎 ろう 海 うみ 相 しょう に意見 いけん を求 もと められた井上 いのうえ は、「もともと皇族 こうぞく の方 ほう はこういう重 おも 大事 だいじ に総長 そうちょう になるようには育 そだ っておられない」「宮 みや 様 さま が総長 そうちょう だと次長 じちょう が総長 そうちょう のような権力 けんりょく を持 も つことになる」と手厳 てきび しく批判 ひはん している。これらのことから、海軍 かいぐん 内 ない の条約 じょうやく 派 は を追放 ついほう し、日米 にちべい 開戦 かいせん の元凶 げんきょう になった一因 いちいん となったとして、戦後 せんご は批判 ひはん 的 てき な評価 ひょうか を受 う けることが多 おお い[44] [45] 。しかし、そもそも博 ひろし 恭 きょう 王 おう を軍令 ぐんれい 部長 ぶちょう に担 かつ いだのは「艦隊 かんたい 派 は 」であり、その運動 うんどう の中心 ちゅうしん となったのは艦隊 かんたい 派 は のシンボル東郷 とうごう 平八郎 へいはちろう とその腹心 ふくしん 、小笠原 おがさわら 長生 ながお であった[46] 。
艦隊 かんたい 派 は の拠点 きょてん である軍令 ぐんれい 部 ぶ は博 ひろし 恭 きょう 王 おう を担 かつ ぐことにより条約 じょうやく 派 は の海軍 かいぐん 省 しょう に意趣 いしゅ 返 がえ しをしたのであった。しかし、昭和 しょうわ 13年 ねん から翌年 よくねん にかけて陸軍 りくぐん と海軍 かいぐん が日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい について対立 たいりつ すると、米内 よない 光政 みつまさ 海軍 かいぐん 大臣 だいじん 、山本 やまもと 五十六 いそろく 次官 じかん らは英 えい 米 まい を無用 むよう に刺激 しげき すると猛 もう 反対 はんたい したが、博 ひろし 恭 きょう 王 おう は米 べい 内 ない らを一貫 いっかん して支持 しじ する姿勢 しせい を堅持 けんじ していた。海軍 かいぐん 関係 かんけい 者 しゃ らからは、対 たい 米 べい 開戦 かいせん についても博 ひろし 恭 きょう 王 おう は当初 とうしょ は絶対 ぜったい 反対 はんたい と主張 しゅちょう していたという[50] 。
開戦 かいせん を主張 しゅちょう するようになったのは9月6日 にち の御前 ごぜん 会議 かいぎ で10月 がつ 下旬 げじゅん をめどとして対 たい 米 べい 英 えい 蘭 らん 戦争 せんそう の準備 じゅんび を完了 かんりょう するとした「帝国 ていこく 国策 こくさく 遂行 すいこう 要領 ようりょう 」決定 けってい 以降 いこう のことである。伏見 ふしみ 宮 みや は10月9日 にち に参内 さんだい して天皇 てんのう に「米国 べいこく と戦争 せんそう しなければ陸軍 りくぐん に反乱 はんらん が起 お きる」「人民 じんみん は開戦 かいせん を希望 きぼう している」と語 かた ったが天皇 てんのう に「今 いま はその時期 じき ではない」と反論 はんろん され博 ひろし 恭 きょう 王 おう は主張 しゅちょう を取 と り消 け したということを木戸 きど 幸一 こういち は天皇 てんのう から聞 き いたという[52] 。この発言 はつげん は9月6日 にち の御前 ごぜん 会議 かいぎ で対 たい 英 えい 米 べい 蘭 らん 戦争 せんそう の準備 じゅんび を10月 がつ 下旬 げじゅん には完了 かんりょう するとした「帝国 ていこく 国策 こくさく 遂行 すいこう 要領 ようりょう 」の決定 けってい や10月 がつ 5日 にち に連合 れんごう 艦隊 かんたい に作戦 さくせん 準備 じゅんび が命 めい じられた以降 いこう のものであり、博 ひろし 恭 きょう 王 おう の発言 はつげん は軍事 ぐんじ 的 てき には暴論 ぼうろん とは言 い えないと言 い われる。
開戦 かいせん 時 じ の嶋田 しまだ 繁太郎 しげたろう 海 うみ 相 しょう が避戦派 は から開戦 かいせん 派 は に転向 てんこう したのも伏見 ふしみ 宮 みや の働 はたら きかけによるとされる[53] 。伏見 ふしみ 宮 みや は昭和 しょうわ 16年 ねん (1941年 ねん )まで軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう を務 つと めていたが、総長 そうちょう にあと1年 ねん 長 なが く在任 ざいにん していれば、開戦 かいせん 責任 せきにん を問 と われて戦犯 せんぱん とされていた可能 かのう 性 せい も高 たか く、もしそうなっていれば開戦 かいせん 責任 せきにん が皇族 こうぞく 関係 かんけい 者 しゃ に及 およ ぶことになる可能 かのう 性 せい もあり得 え た[54] 。海軍 かいぐん 反省 はんせい 会 かい でも博 ひろし 恭 きょう 王 おう の戦争 せんそう 責任 せきにん について問題 もんだい 提起 ていき されたが、皇族 こうぞく という存在 そんざい の重 おも さゆえか、議論 ぎろん は深 ふか まらなかった[55] 。この点 てん に関 かん してはこの時期 じき 、東 ひがし 久邇 くに 宮 みや が総理 そうり 候補 こうほ になっていたのを昭和 しょうわ 天皇 てんのう が皇室 こうしつ に開戦 かいせん の責任 せきにん を及 およ ぼしかねないことを見越 みこ して却下 きゃっか したのと同 おな じ背景 はいけい で、「病気 びょうき になられた機会 きかい に替 か わっていただいた」(「昭和 しょうわ 天皇 てんのう 独白 どくはく 録 ろく 」)という事情 じじょう と、海軍 かいぐん 内部 ないぶ も同 おな じく開戦 かいせん 責任 せきにん を伏見 ふしみ 宮 みや に及 およ ぼさないため辞 や めていただいたという事情 じじょう だったという(「博 ひろし 恭 きょう 殿下 でんか を偲 しの び奉 まつ りて」南郷 なんごう 次郎 じろう 海軍 かいぐん 少将 しょうしょう )。
反面 はんめん 、博 ひろし 恭 きょう 王 おう 自身 じしん は日米 にちべい 戦 せん について「日本 にっぽん から和平 わへい を求 もと めても米国 べいこく は応 おう じることはないであろう。ならば早期 そうき に米国 べいこく と開戦 かいせん し、如何 いか にして最小限 さいしょうげん の犠牲 ぎせい で米国 べいこく に損害 そんがい を与 あた え、日本 にっぽん に有利 ゆうり な条件 じょうけん で早期 そうき 和平 わへい を結 むす ぶべきである」という『早期 そうき 決戦 けっせん ・早期 そうき 和平 わへい 』の考 かんが えを持 も っていたとされ、実際 じっさい にその様 よう な内容 ないよう を昭和 しょうわ 天皇 てんのう にも上奏 じょうそう を行 おこな っている[注釈 ちゅうしゃく 5] 。艦隊 かんたい 派 は の重鎮 じゅうちん であった博 ひろし 恭 きょう 王 おう とは反対 はんたい の立場 たちば であった『欧米 おうべい 協調 きょうちょう 派 は 』の山本 やまもと 五十六 いそろく とは、日米 にちべい 戦 せん について近 ちか い考 かんが えをしていたと考 かんが えられる[57] 。
軍令 ぐんれい 部 ぶ の権限 けんげん 強化 きょうか を図 はか るべく博 ひろし 恭 きょう 王 おう が主導 しゅどう した「軍令 ぐんれい 部 ぶ 令 れい 及 およ び省 しょう 部 ぶ 互渉規定 きてい 改正 かいせい 案 あん 」に対 たい し、井上 いのうえ 成美 まさみ は自 みずか らの軍務 ぐんむ 局 きょく 第 だい 1課長 かちょう の職 しょく を賭 と して激 はげ しく抵抗 ていこう し、結果 けっか として更迭 こうてつ された。井上 いのうえ は横須賀 よこすか 鎮守 ちんじゅ 府 ふ 付 づけ となり、待命 たいめい ・予備 よび 役 やく 編入 へんにゅう の危機 きき にさらされた。しかし大佐 たいさ 昇進 しょうしん 後 ご 5年 ねん 目 め にして戦艦 せんかん 比叡 ひえい 艦長 かんちょう に補 ほ され、艦長 かんちょう の任期 にんき は通常 つうじょう 1年 ねん のところを2年 ねん 務 つと めて少将 しょうしょう に進級 しんきゅう している[注釈 ちゅうしゃく 6] 。井上 いのうえ が予備 よび 役 やく 編入 へんにゅう されずに比叡 ひえい 艦長 かんちょう に栄転 えいてん したのは、博 ひろし 恭 きょう 王 おう が敵 てき であったはずの井上 いのうえ について「井上 いのうえ をよいポストにやってくれ」[58] と海軍 かいぐん 人事 じんじ 当局 とうきょく に口添 くちぞ えしたためだという(井上 いのうえ 本人 ほんにん が、当時 とうじ の海軍 かいぐん 省 しょう 人事 じんじ 局 きょく 第 だい 1課長 かちょう であった清水 しみず 光美 てるみ から聴取 ちょうしゅ した。なお異説 いせつ もある[59] 。)[58] 。
海軍 かいぐん での生活 せいかつ や習慣 しゅうかん が身 み に付 つけ いていた博 ひろし 恭 きょう 王 おう には、皇族 こうぞく らしからぬ逸話 いつわ が残 のこ っている。入浴 にゅうよく 後 ご 、皇族 こうぞく であれば湯 ゆ かたびらを何 なん 枚 まい も着替 きが えて体 からだ の水分 すいぶん を取 と るのが普通 ふつう であるが、博 ひろし 恭 きょう 王 おう は一般 いっぱん の庶民 しょみん と同 おな じように、使 つか っていた手 て ぬぐいを固 かた く絞 しぼ り、パンパンと払 はら い伸 の ばしてから体 からだ を拭 ふ いていたという。下着 したぎ の洗濯 せんたく などは自 みずか ら行 おこな うこともあり、周 まわ りの者 もの から「いつその様 よう なことを憶 おぼ えられたのですか?」と聞 き かれると「海軍 かいぐん では当 あ たり前 まえ である」と答 こた えたといわれる。
嶋田 しまだ 繁太郎 しげたろう の日記 にっき によると、艦内 かんない では握 にぎ り飯 めし と漬物 つけもの という簡易 かんい な食事 しょくじ を好 この み、吉田 よしだ 俊雄 としお 「四 よん 人 にん の軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう 」(文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ )によると、海軍 かいぐん 省 しょう 食堂 しょくどう での昼食 ちゅうしょく 時 じ における博 ひろし 恭 きょう 王 おう の好物 こうぶつ は天 てん ぷらうどん だったという。また、軍令 ぐんれい 部 ぶ 総長 そうちょう の在任 ざいにん が長 なが い事 こと に掛 か けて、海軍 かいぐん 部 ぶ 内 ない では特徴 とくちょう 的 てき な長 なが い顔 かお から「長面 ながおもて 君 くん (ちょうめんくん)」と渾名 あだな を付 つ けられていた。
ある時 とき 、部下 ぶか が「殿下 でんか 、殿下 でんか 」と部屋 へや のドアをノックすると、「すぐに出 で るから「出 で んか、出 で んか」と騒 さわ ぐな」というエピソードも残 のこ され、ユーモアあふれる人柄 ひとがら で、その容貌 ようぼう から「長面 ながおもて 君 くん 」とあだ名 な され海軍 かいぐん 軍人 ぐんじん から広 ひろ く敬愛 けいあい された人物 じんぶつ だったという[60] 。
博 ひろし 恭 きょう 王 おう の岳父 がくふ は徳川 とくがわ 慶喜 よしのぶ であったが、あるとき艦内 かんない で士官 しかん たちが幕末 ばくまつ の議論 ぎろん をしていて誰 だれ かが徳川 とくがわ 慶喜 よしのぶ を激 はげ しく批判 ひはん したことがあった。その際 さい に博 ひろし 恭 きょう 王 おう は黙 だま って席 せき を立 た ったが、後 のち にその士官 しかん が謝罪 しゃざい に来 き たときに、「いや気 き にすることはない、勉強 べんきょう になった」と声 こえ をかけたという。
また臣籍 しんせき 降下 こうか した四男 よつお 伏見 ふしみ 博英 ひろひで が1943年 ねん に戦死 せんし した際 さい 、戦死 せんし 者 しゃ 合同 ごうどう 葬 そう で博英 ひろひで の霊位 れいい を最 さい 上位 じょうい に置 お こうとした海軍 かいぐん 当局 とうきょく の動 うご きを止 と め、あくまで海軍 かいぐん の階級 かいきゅう 順 じゅん とさせた。
伏見 ふしみ 宮家 みやけ 家長 かちょう として、傍系 ぼうけい の宮家 みやけ にも気 き をかけた。久邇 くに 宮 みや 邦彦 くにひこ 王 おう が、その第 だい 一 いち 王子 おうじ である久邇 くに 宮 みや 朝 ちょう 融 とおる 王 おう と酒井 さかい 菊子 きくこ との婚約 こんやく を私事 しじ により一方 いっぽう 的 てき に解消 かいしょう させた事件 じけん があった。これ以前 いぜん に、邦彦 くにひこ 王 おう の第 だい 一 いち 王女 おうじょ である良子 りょうこ 女王 じょおう (香 こう 淳 じゅん 皇后 こうごう )と皇太子 こうたいし 裕仁 ひろひと 親王 しんのう (昭和 しょうわ 天皇 てんのう )との婚姻 こんいん に関 かん し、周囲 しゅうい の反対 はんたい を押 お し切 き ってそれを成立 せいりつ させただけに(宮中 きゅうちゅう 某 ぼう 重大 じゅうだい 事件 じけん )、逆 ぎゃく の立場 たちば に陥 おちい った久邇 くに 宮家 みやけ への風当 かぜあ たりは強 つよ かった。
その中 なか で博 はく 恭 きょう 王 おう は自身 じしん の娘 むすめ 知子 ともこ 女王 じょおう を、朝 あさ 融 とおる 王 おう の性質 せいしつ をい含 いふく めた上 うえ で久邇 くに 宮家 みやけ へ嫁 とつ がせ、皇室 こうしつ 内 ない の空気 くうき の引 ひ き締 し めに一役 ひとやく 買 か ったと言 い える。しかしその直後 ちょくご 、朝 あさ 融 とおる 王 おう は妃 ひ を裏切 うらぎ る形 かたち で侍女 じじょ を懐妊 かいにん させ、博 ひろし 恭 きょう 王 おう は久邇 くに 宮 みや 父子 ふし の度重 たびかさ なる不貞 ふてい に強 つよ く心 しん を痛 いた めたという[61] 。
※敦子 あつこ 女王 じょおう と知子 ともこ 女王 じょおう は双生児 そうせいじ である。
^ 長 なが く敵 てき 弾 だん による負傷 ふしょう とされてきたが、実際 じっさい は「三 さん 笠 かさ 」後部 こうぶ 主砲 しゅほう 塔 とう 右 みぎ 砲 ほう の砲身 ほうしん 内 ない 膅発 が原因 げんいん であった[1] 。
^ 当時 とうじ の布告 ふこく により旧来 きゅうらい からの4つの世襲 せしゅう 親王 しんのう 家 か を除 のぞ く宮家 みやけ においては一 いち 代 だい 限 かぎ りの存続 そんぞく とし、その後 ご の子供 こども たちは臣籍 しんせき 降下 こうか して華族 かぞく に列 れっ するとしていた(博厚 ひろあつ は明治 めいじ 9年 ねん の布告 ふこく までは皇族 こうぞく ですら無 な かった)が、これを不憫 ふびん に思 おも った有栖川宮熾仁親王 ありすがわのみやたるひとしんのう ら周囲 しゅうい の人間 にんげん の嘆願 たんがん から、天皇 てんのう 特旨 とくし により華 はな 頂 いただき 宮 みや の継承 けいしょう が認 みと められた格好 かっこう となった。これを切 き っ掛 か けとして一 いち 代 だい 宮家 みやけ とされた新設 しんせつ 宮家 みやけ たちの世襲 せしゅう も徐々 じょじょ に認 みと められるようになる。
^ 伏見 ふしみ 宮 みや の家督 かとく を継承 けいしょう するはずであった邦芳 くによし 王 おう が「不治 ふじ の病 やまい 」となり、またその同母 どうぼ 弟 おとうと である昭徳 あきのり 王 おう は、既 すで に夭折 ようせつ していた。なお、博 ひろし 恭 きょう 王 おう の子 こ である博義 ひろよし 王 おう と恭子 きょうこ 女王 じょおう も同時 どうじ に復籍 ふくせき している[12] 。
^ 同日 どうじつ は海軍 かいぐん 記念 きねん 日 び である。
^ 嶋田 しまだ 繁太郎 しげたろう の日記 にっき による[57] 。
^ 海軍 かいぐん における慣例 かんれい として、大佐 たいさ 進級 しんきゅう から少将 しょうしょう 進級 しんきゅう には6年 ねん を要 よう したが、6年 ねん 目 め の大佐 たいさ として主力 しゅりょく 艦 かん (戦艦 せんかん ・正規 せいき 航空 こうくう 母艦 ぼかん )の艦長 かんちょう を務 つと めれば、1年 ねん 後 ご に少将 しょうしょう へ進級 しんきゅう することが確実 かくじつ であった。
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