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伏見ふしみみやひろしきょうおう

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ひろしきょうおうから転送てんそう
伏見ふしみみやひろしきょうおう
伏見ふしみみや
1920年代ねんだい撮影さつえい
続柄つづきがら

おう
敬称けいしょう 殿下でんか
出生しゅっしょう 1875ねん10月16にち
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう麹町こうじまち
死去しきょ (1946-08-16) 1946ねん8がつ16にち(70さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう品川しながわ上大崎かみおおさき伏見ふしみみやてい
埋葬まいそう 1946ねん8がつ21にち
豊島としまおか墓地ぼち
配偶はいぐうしゃ 徳川とくがわ経子けいこ
子女しじょ 博義ひろよしおう
恭子きょうこ女王じょおう
はないただきみやひろしちゅうおう
博信ひろのぶおう
敦子あつこ女王じょおう
知子ともこ女王じょおう
博英ひろひでおう
父親ちちおや 伏見ふしみみやさだあい親王しんのう
母親ははおや 河野こうの千代子ちよこ
栄典えいてん だいくん菊花きっかあきら頸飾
役職やくしょく 大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
元帥げんすい海軍かいぐん大将たいしょう軍令ぐんれい総長そうちょう
議定ぎていかん
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伏見ふしみみやひろしきょうおう(ふしみのみやひろやすおう、1875ねん明治めいじ8ねん10月16にち - 1946ねん昭和しょうわ21ねん8がつ16にち)は、日本にっぽん皇族こうぞく海軍かいぐん軍人ぐんじんドイツ帝国ていこく海軍兵学校かいぐんへいがっこう海軍かいぐんだい学校がっこう卒業そつぎょう日本にっぽん海兵かいへい18相当そうとう)。栄典えいてん元帥げんすい海軍かいぐん大将たいしょうだいくんこういちきゅう伏見ふしみみやさだあい親王しんのうだいいち王子おうじ(庶長子ちょうし)。伏見ふしみみやだい25だい当主とうしゅ議定ぎていかん軍令ぐんれい総長そうちょうつとめた。はじめいあいけんおう(なるかたおう)といい、はないただきみや相続そうぞくたりめいひろしきょうおうあらためた。にち戦争せんそうでは連合れんごう艦隊かんたい旗艦きかん三笠みかさ分隊ぶんたいちょうとして黄海こうかい海戦かいせん参加さんか戦傷せんしょう[注釈ちゅうしゃく 1]艦長かんちょう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんつとめるひとし皇族こうぞく軍人ぐんじんなかでは際立きわだって実戦じっせん経験けいけん豊富ほうふであった。伏見ふしみ軍令ぐんれい総長そうちょう宮殿きゅうでん(ふしみぐんれいぶそうちょうのみやでんか)、伏見ふしみ元帥げんすい宮殿きゅうでん(ふしみげんすいのみやでんか)などともばれた。

生涯しょうがい

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さだあい親王しんのうとその女房にょうぼう河野こうの千代子ちよことのあいだだいいち王子おうじあいけんとしてまれた。とう時貞ときさだあい親王しんのうまん17さいであった。庶子しょしであったことから、誕生たんじょう当初とうしょおうあたえられなかった。

公家くげ社会しゃかいの嫡庶のじょおもんじる伝統でんとうくわえ、一夫一妻いっぷいっさいせいをとる西洋せいよう社会しゃかい影響えいきょうから、伏見ふしみみや継嗣けいし対象たいしょうからははずされた。邦家ほうか親王しんのうとその正妃せいひ親王しんのう景子けいことのあいだまれたちちさだあい親王しんのう伯父おじ先代せんだい伏見ふしみみやさだきょう親王しんのうも、庶子しょしであったすうにんあにたちをばして伏見ふしみ宮家みやけ継承けいしょうしている。当時とうじ太政官だじょうかん布告ふこくによれば将来しょうらいてき臣籍しんせき降下こうか華族かぞくれっせられる予定よていであった。

はないただきみや継承けいしょう

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1876ねん明治めいじ9ねん)にあいけんおう伯父おじにあたるはないただきみやひろしけい親王しんのうが26さい薨去こうきょひろしけい親王しんのう博厚ひろあつ皇族こうぞくれっし、はないただき宮家みやけ継承けいしょうした[注釈ちゅうしゃく 2]

その博厚ひろあつも1883ねん明治めいじ16ねん)に8さい薨去こうきょ明治天皇めいじてんのう特旨とくしをもってはないただきみや存続そんぞく決定けっていし、まず博厚ひろあつおう[2]猶子ゆうし親王しんのう宣下せんげにより博厚ひろあつ親王しんのうとしたうえで、はないただきみや自体じたい継承けいしょうかんしては、本家ほんけたる伏見ふしみみやから王子おうじ充当じゅうとう宮家みやけてることとし、行先いきさきまっていなかったあいけんおうはないただきみや継承けいしょう同時どうじひろしきょうあらためた。

海軍かいぐん軍人ぐんじん

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はないただきみや継承けいしょうして3ねんの1886ねん明治めいじ19ねん)4がつ5にちひろしきょうおう海軍兵学校かいぐんへいがっこう入学にゅうがくし(16)、海軍かいぐん軍人ぐんじんとしてのスタートをる。3ねん海軍兵学校かいぐんへいがっこう中退ちゅうたいしてドイツわたり、キール海軍兵学校かいぐんへいがっこうキール海軍かいぐんだい学校がっこうMarineakademie und -schule)でまなび、1895ねん明治めいじ28ねん)まで滞在たいざいした。このあいだ、1891ねん明治めいじ24ねん)4がつにはキール軍港ぐんこう軍艦ぐんかん進水しんすいしき親臨しんりんしたウィルヘルムせい対面たいめんした[3]。1893ねん明治めいじ26ねん)3がつ30にちには海軍かいぐん少尉しょうい候補こうほせいめいじられ、1894ねん明治めいじ27ねん)4がつ20日はつか海軍かいぐん少尉しょうい任官にんかんした[4]。ドイツ海軍かいぐんだい学校がっこう卒業そつぎょうしたのちには貴族きぞくいん議員ぎいん皇族こうぞく議員ぎいん)ににんじられた。

ひろしきょうおうは、日本にっぽん海軍兵学校かいぐんへいがっこうは「がい」である[5]。しかし、海軍かいぐん史家しか野村のむらみのるは「日本にっぽん海軍かいぐんあきらかに、ひろしきょうおう海兵かいへいじゅうはち期生きせいとして待遇たいぐうしていたわけである。」[6]べている。ひろしきょうおう進級しんきゅうは、海軍かいぐん中尉ちゅうい進級しんきゅうから海軍かいぐん大佐たいさ進級しんきゅうまで、へい18クラスヘッドの加藤かとう寛治かんじ同時どうじであった(海軍かいぐん少将しょうしょう進級しんきゅうは、ひろしきょうおう大正たいしょう2ねん8がつ加藤かとう大正たいしょう5ねん12がつ[6][7][8]

日本にっぽんへの帰国きこく巡洋艦じゅんようかん戦艦せんかんでの艦隊かんたい勤務きんむかさね、このため後述こうじゅつするよう皇族こうぞくとはかけはなれた行動こうどう様式ようしき生活せいかつにつくことになる。 帰国きこく海軍かいぐん少尉しょういとして海防かいぼうかん厳島いつくしま」、「松島まつしま」に乗船じょうせん明治めいじ30ねん海軍かいぐん中尉ちゅういとして戦艦せんかん富士ふじ」に乗船じょうせん。その海軍かいぐん大尉たいいとして装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん浅間あさま」、どう出雲いずも」、戦艦せんかん朝日あさひ」、明治めいじ39ねんには海軍かいぐん少佐しょうさとなり戦艦せんかん三笠みかさ」に乗船じょうせんした[9]

1897ねん明治めいじ30ねん)1がつ9にち徳川とくがわ慶喜よしのぶきゅうじょ経子けいこ結婚けっこんした[10]

1903ねん明治めいじ36ねん)に海軍かいぐん少佐しょうさ任官にんかんされる。 戦艦せんかん三笠みかさ」のだいさんふん隊長たいちょうとして後部こうぶ砲塔ほうとう指揮しきたる。

1904ねん明治めいじ37ねんにち戦争せんそう開戦かいせんするとどう配属はいぞくのまま、司令しれい長官ちょうかん東郷とうごう平八郎へいはちろう艦長かんちょう伊地知いじち彦次郎ひこじろう砲術ほうじゅつちょう加藤かとう寛治かんじらとともにおなせん出征しゅっせいした。日本にっぽん海軍かいぐんひろしきょうおう海上かいじょうだい一線いっせんさい重要じゅうよう部門ぶもん配置はいちしていたことはあきらかである[11]

よく1904ねん明治めいじ37ねん)、邦芳くによしおう廃嫡はいちゃくともない、はないただきみやから急遽きゅうきょ伏見ふしみみや復籍ふくせきして後嗣こうしとなり、まただい王子おうじわずか2さいひろしちゅうおうはないただきみや継承けいしょうすることとなった[12][注釈ちゅうしゃく 3]

伏見ふしみみや復籍ふくせき艦隊かんたい勤務きんむでの実績じっせきみ、にち戦争せんそう黄海こうかい海戦かいせんにおいて、旗艦きかん三笠みかさ」のだいさんふん隊長たいちょうとして後部こうぶの30センチ砲塔ほうとう指揮しき、そのさい負傷ふしょうした。

復帰ふっきすると巡洋艦じゅんようかん新高にいたか」に乗船じょうせん横浜よこはまこうにち戦争せんそう凱旋がいせん観艦式かんかんしき明治天皇めいじてんのう対顔たいがんし、だいくん菊花きっかだい綬章じゅしょう授与じゅよされた[11]。 その海軍かいぐん少佐しょうさとして海防かいぼうかん沖島おきのしま」、巡洋艦じゅんようかん浪速なにわ」に乗船じょうせんした[11]

にち戦争せんそう旅順りょじゅん陥落かんらくし、満州まんしゅう陸戦りくせん日本にっぽん勝利しょうりおさめると大韓たいかん帝国ていこく皇帝こうていふとしおうくん特使とくしとして新書しんしょせて日本にっぽん戦勝せんしょうしゅくした。明治天皇めいじてんのうはその答礼とうれい使としてひろしきょうおうえら大韓たいかん帝国ていこく派遣はけんした[13]

1906ねん明治めいじ39ねん)には海軍かいぐん中佐ちゅうさとなりイギリスの日本にっぽん大使館たいしかん駐在ちゅうざい武官ぶかんとして勤務きんむした[14]

明治めいじ39ねん明治天皇めいじてんのう清国きよくに皇室こうしつたい表敬ひょうけいしたさいにもひろしきょうおう派遣はけんされ、ひろしきょうおう西にしふとしきさきひかりいとぐちみかど対面たいめんした[15]

1908ねん明治めいじ41ねん)5がつにはイギリス、バッキンガム宮殿きゅうでんにてエドワードななせい皇太子こうたいし時代じだいジョージせい対顔たいがんした[14]どう7がつには特別とくべつ艦長かんちょう客分きゃくぶん待遇たいぐうにて戦艦せんかんアガメンノン」に乗艦じょうかん許可きょかされ、イギリス海軍かいぐん北海ほっかい演習えんしゅう視察しさつした[16]。このとき旗艦きかんドレッドノート」にて司令しれい長官ちょうかんブリッジマン中将ちゅうじょうとも交流こうりゅうした。またこのほかにイギリス駐在ちゅうざい時代じだいにはイギリス海軍かいぐんのブリッジ大将たいしょう、ダグラス大将たいしょう、シーモア大将たいしょうとの交流こうりゅうアームストロングしゃヴィッカースしゃ視察しさつした[17]

1910ねんにエドワードななせい崩御ほうぎょすると大葬たいそう参列さんれつのために天皇てんのう名代なだいとして訪英ほうえいした伏見ふしみみやさだあい親王しんのうとともに5がつ25にちしん国王こくおうジョージせい対面たいめんした[18]

1913ねん大正たいしょう2ねん)8がつ31にち海軍かいぐん少将しょうしょう任官にんかんされるととも横須賀よこすか鎮守ちんじゅ艦隊かんたい司令しれいかん就任しゅうにんさら海軍かいぐん大学だいがく校長こうちょうだい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんなどを歴任れきにんし、1923ねん大正たいしょう12ねん)にさだあい親王しんのう薨去こうきょともない、伏見ふしみみや継承けいしょうした(だい25だい)。

1915ねん大正たいしょう5ねん)には当時とうじ16さい皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう昭和しょうわ天皇てんのう)の北陸ほくりく行啓ぎょうけいさいしてひろしきょうおう司令しれいかんとして指揮しきする「生駒いこま」「鞍馬あんば」に裕仁ひろひと親王しんのう乗艦じょうかんして艦隊かんたい訓練くんれん見学けんがくした。ひろしきょうおうつね裕仁ひろひと親王しんのう身近みぢかにあり、裕仁ひろひと親王しんのうにとってはひろしきょうおう明治天皇めいじてんのう大正天皇たいしょうてんのう同等どうとうかそれ以上いじょう敬意けいいはらうべき存在そんざいであったという[19]

1927ねん昭和しょうわ2ねん)、連合れんごう艦隊かんたい基本きほん演習えんしゅうにて美保関みほのせき事件じけんき、「神通じんずう艦長かんちょう水城みずきけい大佐たいさ責任せきにんかん自刃じじんすると、水城みずき自刃じじんふか感動かんどうしたひろしきょうおうみず交社におもむき水城みずきれい拝礼はいれいして遺族いぞく感動かんどうさせたという[20]

1930ねん昭和しょうわ5ねん)のロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやくには上司じょうし東郷とうごう平八郎へいはちろう同僚どうりょう加藤かとう寛治かんじらとともに反対はんたい立場たちばをとるいわゆる艦隊かんたいであったが、条約じょうやく調印ちょういん昭和しょうわ天皇てんのう拝謁はいえつしたひろしきょうおう海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやくについてはなそうとしたところ、天皇てんのうこたえなかったことから天皇てんのう意向いこうったひろしきょうおう以後いご条約じょうやく批准ひじゅん賛成さんせい立場たちばえた[21]

海軍かいぐん頂点ちょうてん

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1931ねん昭和しょうわ6ねんまつ参謀さんぼう総長そうちょう皇族こうぞく閑院みやじん親王しんのう就任しゅうにんしたのにたいし、海軍かいぐんもバランスをとる必要ひつようせいから、1932ねん昭和しょうわ7ねん)2がつ2にちづけで、ひろしきょうおう海軍かいぐん軍令ぐんれい最高さいこうである海軍かいぐん軍令ぐんれい部長ぶちょう就任しゅうにんした[22]同年どうねん5月27にち[注釈ちゅうしゃく 4]づけで、元帥げんすいれっせられ元帥げんすい称号しょうごうける[23]

1933ねん昭和しょうわ8ねん)10がつ軍令ぐんれいうみだい5ごう軍令ぐんれいれいにより海軍かいぐん軍令ぐんれいかんむりの「海軍かいぐん」がはずれて「軍令ぐんれい」となり、海軍かいぐん軍令ぐんれい部長ぶちょうも「軍令ぐんれい総長そうちょう」となる。これは陸軍りくぐんの「参謀さんぼう本部ほんぶ」「参謀さんぼう総長そうちょう」と対応たいおうさせたものであり、とく皇族こうぞくであるひろしきょうおうは「伏見ふしみ軍令ぐんれい総長そうちょうみや(ふしみぐんれいぶそうちょうのみや)」と呼称こしょうされる。また、北原きたはら白秋はくしゅう作詞さくし海軍かいぐん軍楽隊ぐんがくたい作曲さっきょくによる国民こくみん伏見ふしみ軍令ぐんれい總長そうちょうみやたたたてまつる」もつくられている(#外部がいぶリンク参照さんしょう)。

1934ねん昭和しょうわ9ねん)に海軍かいぐんさい長老ちょうろう東郷とうごう平八郎へいはちろう死去しきょすると海軍かいぐんでただひとりの元帥げんすいとなった [24]

海軍かいぐん軍令ぐんれい部長ぶちょう軍令ぐんれい総長そうちょう時代じだいは、軍令ぐんれい権限けんげん強化きょうかうごしたときで、ひろしきょうおう自身じしんも(陸軍りくぐんちがい、伝統でんとうてき海軍かいぐんしょう優位ゆういであった海軍かいぐんにあって)軍令ぐんれい権限けんげん強化きょうかのための軍令ぐんれいれいおよしょう互渉規定きてい改正かいせいあんについて「わたし在任ざいにんちゅうでなければできまい。ぜひともやれ」と高橋たかはし三吉さんきち嶋田しまだ繁太郎しげたろうといった軍令ぐんれい次長じちょう指示しじして艦隊かんたいりの政策せいさく推進すいしんした。本来ほんらい海軍かいぐんでは人事じんじけんがなかったはずの軍令ぐんれいひろしきょうおうだが、皇族こうぞくあるいは海軍かいぐん長老ちょうろうとしての権威けんい大角おおすみうみしょう圧力あつりょくをかけ、人事じんじへの介入かいにゅうつよめ、艦隊かんたいのこ条約じょうやく推進すいしん海軍かいぐんから罷免ひめんさせていった[25]。さらに海軍かいぐん軍令ぐんれい呼称こしょう軍令ぐんれいに、海軍かいぐん軍令ぐんれい部長ぶちょう呼称こしょう軍令ぐんれい総長そうちょう変更へんこう、ついには兵力へいりょくりょう決定けっていけん編成へんせいけん)を海軍かいぐんしょうから軍令ぐんれいうつして軍令ぐんれい権限けんげん大幅おおはば強化きょうかし、海軍かいぐんしょう機能きのう制度せいどじょう人事じんじじょう弱体じゃくたいさせることに成功せいこう軍令ぐんれい海軍かいぐんしょうたいして対等たいとう以上いじょうちからることとなった。

以上いじょう一連いちれんながれは元々もともと海軍かいぐんない軍令ぐんれい中心ちゅうしんとした艦隊かんたい海軍かいぐんしょう中心ちゅうしんとした条約じょうやく内部ないぶ対立たいりつがあり、艦隊かんたい軍令ぐんれい伏見ふしみみやひろしきょうおうかつぎだし条約じょうやくロンドン条約じょうやく意趣いしゅがえしをしたという背景はいけいがある[26]

二・二六事件ににろくじけんでは事件じけん発生はっせいあさ加藤かとう寛治かんじ真崎まさき三郎さぶろう協議きょうぎおこなってから参内さんだいしている。このとき叛乱はんらんぐん同情どうじょうてきであった伏見ふしみみや昭和しょうわ天皇てんのういかりをい、その叛乱はんらん鎮圧ちんあつけてうごいている[27]。ところが、2019ねんNHKスペシャルにより発見はっけんされた海軍かいぐん軍令ぐんれい極秘ごくひ資料しりょうによれば海軍かいぐん事件じけんまえからろく事件じけん予兆よちょう把握はあくしており、事件じけん発生はっせい直後ちょくご参内さんだいしたひろしきょうおう昭和しょうわ天皇てんのうは「海軍かいぐん青年せいねん士官しかん合流ごうりゅうすることなきや」とたずねたところ、ひろしきょうおう海軍かいぐん反乱はんらんくわわることはないむね明言めいげんし、さらに天皇てんのうから大海たいかいれいたまわ事件じけん鎮圧ちんあつのために海軍かいぐんトップとして天皇てんのうがわ重要じゅうよう戦力せんりょくとして事件じけん最初さいしょからうごいたことがあきらかになった[28]思惑おもわくのはずれた加藤かとう寛治かんじは「終日しゅうじつ憂鬱ゆううつ」と日記にっきしるしている[29]以後いご海軍かいぐん鎮圧ちんあつけて決起けっき部隊ぶたい包囲ほういするかたち艦隊かんたい陸戦りくせんたい展開てんかいしている。

午後ごごさん十分じゅうぶんおこなわれた皇族こうぞく会議かいぎにおいても伏見ふしみみやひろしきょうおう事前じぜん高松宮たかまつのみや久邇くにみやわせをし、宮家みやけ皇族こうぞく長老ちょうろうとして会議かいぎをリードし反乱はんらん部隊ぶたいすみやかな鎮圧ちんあつ方針ほうしんけっ戒厳かいげん司令しれいつたえるとともに、秩父宮ちちぶのみや高松宮たかまつのみや天皇てんのう補佐ほさすることを助言じょげんした。これに秩父宮ちちぶのみや高松宮たかまつのみやあたましだれてこたえたという[30]

さんこく同盟どうめいには当初とうしょから反対はんたいしており、おなじく反対はんたいだった昭和しょうわ天皇てんのうさんこく同盟どうめい阻止そしするためにひろしきょうおう相談そうだんをして、米内よない光政みつまさ総理そうり大臣だいじん推薦すいせんしたという[31]米内よない光政みつまさ内閣ないかく)。

またたいべい開戦かいせんたいしてもこの当時とうじ絶対ぜったい反対はんたい主張しゅちょうしていたという[32]

たいべい開戦かいせんはちげつまえの1941ねん昭和しょうわ16ねん)4がつ9にち病気びょうきのため軍令ぐんれい総長そうちょう辞任じにんした。

軍政ぐんせいからしたひろしきょうおうであったが、依然いぜんとして海軍かいぐんない権力けんりょくをもっており、太平洋戦争たいへいようせんそうなかにおいても、大臣だいじん総長そうちょうクラスの人事じんじにはひろしきょうおう諒解りょうかいることが不文ふぶんりつであった。

晩年ばんねん

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1938ねん昭和しょうわ13ねん)10がつ長男ちょうなん博義ひろよしおう急死きゅうし1939ねん昭和しょうわ14ねん)8がつ18にちには経子けいこ死別しべつ。さらに1943ねん昭和しょうわ18ねん)8がつ四男よつお伏見ふしみ博英ひろひで伯爵はくしゃく戦死せんし天皇てんのうまも役目やくめった宮家みやけとして、当然とうぜん役割やくわりたしたと、冷静れいせいめた[33]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)6がつ25にちサイパンとう放棄ほうき決定けっていした天皇てんのう臨席りんせき元帥げんすい会議かいぎにおいて、「りく海軍かいぐんとも、なにか特殊とくしゅ兵器へいきかんがえ、これをもちいて戦争せんそうをしなければならない。そしてこの対策たいさくは、いそがなければならない。戦局せんきょくがこのように困難こんなんとなった以上いじょう航空機こうくうき軍艦ぐんかんしょう舟艇しゅうていとも特殊とくしゅなものを考案こうあん迅速じんそく使用しようするをようする」と発言はつげんした[34]。この「特殊とくしゅ兵器へいき」は特攻とっこう兵器へいき意味いみするものであったとのせつがある[35]同年どうねんまつごろに、脳出血のうしゅっけつこし、心臓しんぞうやまいかかえ、熱海あたみ別邸べってい療養りょうよう生活せいかつおく[36]

ひろしきょうおうよんにん男子だんしはすべて海軍兵学校かいぐんへいがっこうすすみ、だいいち王子おうじ博義ひろよしおうだい王子おうじひろしちゅうおう戦病死せんびょうしし、だいよん王子おうじ博英ひろひでおうはセレベスとう南部なんぶのボネわん上空じょうくう撃墜げきついされ戦死せんしした。だいさん王子おうじ博信ひろのぶおうのみがびた。閑院みやじん親王しんのうだい王女おうじょ華子はなこ結婚けっこんし、戦後せんごはアメリカにわたったという[37]

敗戦はいせん直後ちょくご病躯びょうくをおして上京じょうきょう。しばらくは、戦災せんさい焼失しょうしつした伏見ふしみみやていちかくの旅館りょかん福田ふくだ」で生活せいかつおくった[36]。さらに、目黒めぐろ所在しょざいした三条さんじょう公爵こうしゃく邸宅ていたくって移住いじゅう[36]敗戦はいせん前後ぜんごし、重要じゅうよう書類しょるい日記にっきすべ焼却しょうきゃく処分しょぶんしたため、べいぐん接収せっしゅうされていない[36]

1946ねん昭和しょうわ21ねん8がつ16にち午前ごぜん938ふん伏見ふしみみやていにて薨去こうきょした[38]薨去こうきょしたそのに、昭和しょうわ天皇てんのう弔問ちょうもんおとずれた[39]

8がつ21にちに、豊島としまおか墓地ぼち葬儀そうぎおこなわれた[40]伏見ふしみみや嫡孫ちゃくそんひろし明王みょうおう継承けいしょうした。

評価ひょうか

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伏見ふしみみやひろしきょうおう評価ひょうかとしては海軍かいぐんトップの軍令ぐんれい総長そうちょうとして君臨くんりんしたその責任せきにんこえがあることも事実じじつである(後述こうじゅつ)が、ひろしきょうおうはおかざてき皇族こうぞく軍人ぐんじんではなく、実戦じっせん実務じつむ経験けいけん豊富ほうふな「潮気しおけのある」一流いちりゅう海軍かいぐん軍人ぐんじんとしての風格ふうかくっていた。みずか率先そっせんして最前線さいぜんせんち、つね部下ぶか将兵しょうへい鼓舞こぶ苦楽くらくともにするのをいとわない姿勢しせいや、操艦そうかん名手めいしゅとして関門海峡かんもんかいきょうのような「ふね難所なんしょ」でも難無なんなかんあやつるその実力じつりょく海軍かいぐんないでも評価ひょうかされていた[41]皇族こうぞくふうかせない人柄ひとがらや、軍人ぐんじんとしての実力じつりょく・けじめをわせており、海軍かいぐん軍人ぐんじんないではひろ敬愛けいあいされた人物じんぶつだったという [42]

また、伏見ふしみみや軍令ぐんれい総長そうちょうにした経緯けいいは、陸軍りくぐん内部ないぶ派閥はばつあらそいが深刻しんこくなものになったため元老げんろう西園寺さいおんじ公望きんもち相談そうだんうえ閑院みや参謀さんぼう総長そうちょういてもらった。その先例せんれいならって海軍かいぐん伏見ふしみみや軍令ぐんれい総長そうちょういてもらったと昭和しょうわ天皇てんのうべており伏見ふしみ宮本みやもとじんたいする不満ふまんべてはいない(「昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく」)[43]

海軍かいぐん頂点ちょうてんとして

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東郷とうごう平八郎へいはちろうとは『みやさま神様かみさま殿下でんか神様かみさま)』とばれ、海軍かいぐんない神格しんかくされていた。ひろしきょうおう大艦だいかんきょほう主義しゅぎものであったので、ひろしきょうおう威光いこう利用りようした艦隊かんたい台頭たいとうまねくことにつながった。これについて井上いのうえ成美まさみは、皇族こうぞく総長そうちょうくことで、意見いけん硬直こうちょくまねいたことを「明治めいじあたま昭和しょうわ戦争せんそうをした」としょうして批判ひはんしている。ひろしきょうおう総長そうちょう退任たいにん及川おいかわ古志こしろううみしょう意見いけんもとめられた井上いのうえは、「もともと皇族こうぞくほうはこういうおも大事だいじ総長そうちょうになるようにはそだっておられない」「みやさま総長そうちょうだと次長じちょう総長そうちょうのような権力けんりょくつことになる」と手厳てきびしく批判ひはんしている。これらのことから、海軍かいぐんない条約じょうやく追放ついほうし、日米にちべい開戦かいせん元凶げんきょうになった一因いちいんとなったとして、戦後せんご批判ひはんてき評価ひょうかけることがおお[44][45]。しかし、そもそもひろしきょうおう軍令ぐんれい部長ぶちょうかついだのは「艦隊かんたい」であり、その運動うんどう中心ちゅうしんとなったのは艦隊かんたいのシンボル東郷とうごう平八郎へいはちろうとその腹心ふくしん小笠原おがさわら長生ながおであった[46][47]艦隊かんたい拠点きょてんである軍令ぐんれいひろしきょうおうかつぐことにより条約じょうやく海軍かいぐんしょう意趣いしゅがえしをしたのであった[48]。しかし、昭和しょうわ13ねんから翌年よくねんにかけて陸軍りくぐん海軍かいぐんにちどくさんこく同盟どうめいについて対立たいりつすると、米内よない光政みつまさ海軍かいぐん大臣だいじん山本やまもと五十六いそろく次官じかんらはえいまい無用むよう刺激しげきするともう反対はんたいしたが、ひろしきょうおうべいないらを一貫いっかんして支持しじする姿勢しせい堅持けんじしていた[31][49]海軍かいぐん関係かんけいしゃらからは、たいべい開戦かいせんについてもひろしきょうおう当初とうしょ絶対ぜったい反対はんたい主張しゅちょうしていたという[50][49]開戦かいせん主張しゅちょうするようになったのは9月6にち御前ごぜん会議かいぎで10がつ下旬げじゅんをめどとしてたいべいえいらん戦争せんそう準備じゅんび完了かんりょうするとした「帝国ていこく国策こくさく遂行すいこう要領ようりょう決定けってい以降いこうのことである[51]伏見ふしみみやは10月9にち参内さんだいして天皇てんのうに「米国べいこく戦争せんそうしなければ陸軍りくぐん反乱はんらんきる」「人民じんみん開戦かいせん希望きぼうしている」とかたったが天皇てんのうに「いまはその時期じきではない」と反論はんろんされひろしきょうおう主張しゅちょうしたということを木戸きど幸一こういち天皇てんのうからいたという[52]。この発言はつげんは9月6にち御前ごぜん会議かいぎたいえいべいらん戦争せんそう準備じゅんびを10がつ下旬げじゅんには完了かんりょうするとした「帝国ていこく国策こくさく遂行すいこう要領ようりょう」の決定けっていや10がつ5にち連合れんごう艦隊かんたい作戦さくせん準備じゅんびめいじられた以降いこうのものであり、ひろしきょうおう発言はつげん軍事ぐんじてきには暴論ぼうろんとはえないとわれる[51]

開戦かいせん嶋田しまだ繁太郎しげたろううみしょうが避戦から開戦かいせん転向てんこうしたのも伏見ふしみみやはたらきかけによるとされる[53]伏見ふしみみや昭和しょうわ16ねん(1941ねん)まで軍令ぐんれい総長そうちょうつとめていたが、総長そうちょうにあと1ねんなが在任ざいにんしていれば、開戦かいせん責任せきにんわれて戦犯せんぱんとされていた可能かのうせいたかく、もしそうなっていれば開戦かいせん責任せきにん皇族こうぞく関係かんけいしゃおよぶことになる可能かのうせいもあり[54]海軍かいぐん反省はんせいかいでもひろしきょうおう戦争せんそう責任せきにんについて問題もんだい提起ていきされたが、皇族こうぞくという存在そんざいおもさゆえか、議論ぎろんふかまらなかった[55]。このてんかんしてはこの時期じきひがし久邇くにみや総理そうり候補こうほになっていたのを昭和しょうわ天皇てんのう皇室こうしつ開戦かいせん責任せきにんおよぼしかねないことを見越みこして却下きゃっかしたのとおな背景はいけいで、「病気びょうきになられた機会きかいわっていただいた」(「昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく」)[43]という事情じじょうと、海軍かいぐん内部ないぶおなじく開戦かいせん責任せきにん伏見ふしみみやおよぼさないためめていただいたという事情じじょうだったという(「ひろしきょう殿下でんかしのまつりて」南郷なんごう次郎じろう海軍かいぐん少将しょうしょう[56]

反面はんめんひろしきょうおう自身じしん日米にちべいせんについて「日本にっぽんから和平わへいもとめても米国べいこくおうじることはないであろう。ならば早期そうき米国べいこく開戦かいせんし、如何いかにして最小限さいしょうげん犠牲ぎせい米国べいこく損害そんがいあたえ、日本にっぽん有利ゆうり条件じょうけん早期そうき和平わへいむすぶべきである」という『早期そうき決戦けっせん早期そうき和平わへい』のかんがえをっていたとされ、実際じっさいにそのよう内容ないよう昭和しょうわ天皇てんのうにも上奏じょうそうおこなっている[注釈ちゅうしゃく 5]艦隊かんたい重鎮じゅうちんであったひろしきょうおうとは反対はんたい立場たちばであった『欧米おうべい協調きょうちょう』の山本やまもと五十六いそろくとは、日米にちべいせんについてちかかんがえをしていたとかんがえられる[57]

一軍いちぐんじんとしての人柄ひとがら

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軍令ぐんれい権限けんげん強化きょうかはかるべくひろしきょうおう主導しゅどうした「軍令ぐんれいれいおよしょう互渉規定きてい改正かいせいあん」にたいし、井上いのうえ成美まさみみずからの軍務ぐんむきょくだい1課長かちょうしょくしてはげしく抵抗ていこうし、結果けっかとして更迭こうてつされた。井上いのうえ横須賀よこすか鎮守ちんじゅづけとなり、待命たいめい予備よびやく編入へんにゅう危機ききにさらされた。しかし大佐たいさ昇進しょうしん5ねんにして戦艦せんかん比叡ひえい艦長かんちょうされ、艦長かんちょう任期にんき通常つうじょう1ねんのところを2ねんつとめて少将しょうしょう進級しんきゅうしている[注釈ちゅうしゃく 6]井上いのうえ予備よびやく編入へんにゅうされずに比叡ひえい艦長かんちょう栄転えいてんしたのは、ひろしきょうおうてきであったはずの井上いのうえについて「井上いのうえをよいポストにやってくれ」[58]海軍かいぐん人事じんじ当局とうきょく口添くちぞえしたためだという(井上いのうえ本人ほんにんが、当時とうじ海軍かいぐんしょう人事じんじきょくだい1課長かちょうであった清水しみず光美てるみから聴取ちょうしゅした。なお異説いせつもある[59]。)[58]

海軍かいぐんでの生活せいかつ習慣しゅうかんつけいていたひろしきょうおうには、皇族こうぞくらしからぬ逸話いつわのこっている。入浴にゅうよく皇族こうぞくであればかたびらをなんまい着替きがえてからだ水分すいぶんるのが普通ふつうであるが、ひろしきょうおう一般いっぱん庶民しょみんおなじように、使つかっていたぬぐいをかたしぼり、パンパンとはらばしてからからだいていたという。下着したぎ洗濯せんたくなどはみずかおこなうこともあり、まわりのものから「いつそのようなことをおぼえられたのですか?」とかれると「海軍かいぐんではたりまえである」とこたえたといわれる。

嶋田しまだ繁太郎しげたろう日記にっきによると、艦内かんないではにぎめし漬物つけものという簡易かんい食事しょくじこのみ、吉田よしだ俊雄としおよんにん軍令ぐんれい総長そうちょう」(文春ぶんしゅん文庫ぶんこ)によると、海軍かいぐんしょう食堂しょくどうでの昼食ちゅうしょくにおけるひろしきょうおう好物こうぶつてんぷらうどんだったという。また、軍令ぐんれい総長そうちょう在任ざいにんながことけて、海軍かいぐんないでは特徴とくちょうてきながかおから「長面ながおもてくん(ちょうめんくん)」と渾名あだなけられていた。

あるとき部下ぶかが「殿下でんか殿下でんか」と部屋へやのドアをノックすると、「すぐにるから「んか、んか」とさわぐな」というエピソードものこされ、ユーモアあふれる人柄ひとがらで、その容貌ようぼうから「長面ながおもてくん」とあだされ海軍かいぐん軍人ぐんじんからひろ敬愛けいあいされた人物じんぶつだったという[60]

ひろしきょうおう岳父がくふ徳川とくがわ慶喜よしのぶであったが、あるとき艦内かんない士官しかんたちが幕末ばくまつ議論ぎろんをしていてだれかが徳川とくがわ慶喜よしのぶはげしく批判ひはんしたことがあった。そのさいひろしきょうおうだまってせきったが、のちにその士官しかん謝罪しゃざいたときに、「いやにすることはない、勉強べんきょうになった」とこえをかけたという。

また臣籍しんせき降下こうかした四男よつお伏見ふしみ博英ひろひで1943ねん戦死せんししたさい戦死せんししゃ合同ごうどうそう博英ひろひで霊位れいいさい上位じょういこうとした海軍かいぐん当局とうきょくうごきをめ、あくまで海軍かいぐん階級かいきゅうじゅんとさせた。

長老ちょうろう皇族こうぞくとして

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伏見ふしみ宮家みやけ家長かちょうとして、傍系ぼうけい宮家みやけにもをかけた。久邇くにみや邦彦くにひこおうが、そのだいいち王子おうじである久邇くにみやちょうとおるおう酒井さかい菊子きくことの婚約こんやく私事しじにより一方いっぽうてき解消かいしょうさせた事件じけんがあった。これ以前いぜんに、邦彦くにひこおうだいいち王女おうじょである良子りょうこ女王じょおうこうじゅん皇后こうごう)と皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう昭和しょうわ天皇てんのう)との婚姻こんいんかんし、周囲しゅうい反対はんたいってそれを成立せいりつさせただけに(宮中きゅうちゅうぼう重大じゅうだい事件じけん)、ぎゃく立場たちばおちいった久邇くに宮家みやけへの風当かぜあたりはつよかった。

そのなかはくきょうおう自身じしんむすめ知子ともこ女王じょおうを、あさとおるおう性質せいしつをいいふくめたうえ久邇くに宮家みやけとつがせ、皇室こうしつない空気くうきめに一役ひとやくったとえる。しかしその直後ちょくごあさとおるおう裏切うらぎかたち侍女じじょ懐妊かいにんさせ、ひろしきょうおう久邇くにみや父子ふし度重たびかさなる不貞ふていつよしんいためたという[61]


経歴けいれき

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栄典えいてん

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家族かぞく

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敦子あつこ女王じょおう知子ともこ女王じょおう双生児そうせいじである。

系図けいず

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伏見ふしみ宮家みやけ系図けいず

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93だい天皇てんのう
こう伏見天皇ふしみてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北朝ほくちょう初代しょだい天皇てんのう
ひかりげん天皇てんのう
 
北朝ほくちょう2だい天皇てんのう
光明こうみょう天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北朝ほくちょう3だい天皇てんのう
たかしこう天皇てんのう
 
北朝ほくちょう4だい天皇てんのう
後光ごこうげん天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
初代しょだい伏見ふしみみや
さかえじん親王しんのう
 
北朝ほくちょう5だい天皇てんのう
こう円融天皇えんゆうてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2だい伏見ふしみみや
仁王におう
 
3だい伏見ふしみみや
さだなり親王しんのう
 
100だい天皇てんのう
こう小松こまつ天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
101だい天皇てんのう
しょうこう天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
102だい天皇てんのう
こう花園天皇はなぞのてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4だい伏見ふしみみや
さだつね親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5だい伏見ふしみみや
くにだか親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6だい伏見ふしみみや
さだあつし親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7だい伏見ふしみみや
くに輔親おう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8だい伏見ふしみみや
さだかん親王しんのう
 
9だい伏見ふしみみや
くにぼう親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10代伏見ふしみみや
貞清さだきよ親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11だい伏見ふしみみや
くになお親王しんのう
 
13だい伏見ふしみみや
さだ致親おう
 
12だい伏見ふしみみや
くにどう親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14だい伏見ふしみみや
くになが親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
116だい天皇てんのう
桃園ももぞの天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15だい伏見ふしみみや
さだけん親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
118だい天皇てんのう
こう桃園ももぞの天皇てんのう
 
17だい伏見ふしみみや
貞行さだゆき親王しんのう
 
16だい伏見ふしみみや
くにちゅう親王しんのう
 
18だい伏見ふしみみや
くによりゆき親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19だい伏見ふしみみや
さだけい親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20/23だい伏見ふしみみや
邦家ほうか親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あきら親王しんのう
山階やましな宮家みやけ
 
朝彦親王あさひこしんのう
久邇くに宮家みやけ
 
21だい伏見ふしみみや
さだきょう親王しんのう
 
あきらじん親王しんのう
小松こまつ宮家みやけ
 
能久親王よしひさしんのう
北白川きたしらかわ宮家みやけ
 
ひろしけい親王しんのう
はないただき宮家みやけ
 
22/24だい伏見ふしみみや
さだあい親王しんのう
 
じん親王しんのう
閑院宮家みやけ
 
じん親王しんのう
東伏見ひがしふしみ宮家みやけ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3だいはないただきみや
25だい伏見ふしみみや
ひろしきょうおう
 
邦芳くによしおう
 
昭徳あきのりおう
 
禎子さだこ女王じょおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
博義ひろよしおう
 
恭子きょうこ女王じょおう
 
はないただきみや
ひろしちゅうおう
 
博信ひろのぶおう
はないただき侯爵こうしゃく
 
敦子あつこ女王じょおう
 
知子ともこ女王じょおう
 
博英ひろひでおう
伏見ふしみ伯爵はくしゃく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光子こうし女王じょおう
 
26だい伏見ふしみみや
ひろし明王みょうおう
 
令子れいこ女王じょおう
 
章子あきこ女王じょおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朗子あきこ
 
宣子のぶこ
 
雅子まさこ
 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 井上いのうえ成美まさみ伝記でんき刊行かんこうかい井上いのうえ成美まさみ井上いのうえ成美まさみ伝記でんき刊行かんこうかい、1982ねん 
  • 野村のむらみのる山本やまもと五十六いそろく再考さいこう中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、1996ねんISBN 4-12-202579-6 
  • はたいく編著へんちょ日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてん』(だい2)東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2005ねん 
  • 伏見ふしみ博明ひろあききゅう皇族こうぞく宗家そうけ伏見ふしみ宮家みやけまれて』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2022ねん1がつ26にちISBN 978-4120054952 
  • 寺崎てらさき英成えいせい昭和しょうわ天皇てんのう独白どくはくろく文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん文庫ぶんこ〉、1995ねん7がつ10日とおか 
  • 浅見あさみ雅男まさお伏見ふしみみや講談社こうだんしゃ、2012ねん12月25にち 
  • 野村のむらみのる天皇てんのう伏見ふしみみや日本にっぽん海軍かいぐん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1988ねん2がつ10日とおか 

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ながてきだんによる負傷ふしょうとされてきたが、実際じっさいは「さんかさ後部こうぶ主砲しゅほうとうみぎほう砲身ほうしんない膅発原因げんいんであった[1]
  2. ^ 当時とうじ布告ふこくにより旧来きゅうらいからの4つの世襲せしゅう親王しんのうのぞ宮家みやけにおいてはいちだいかぎりの存続そんぞくとし、その子供こどもたちは臣籍しんせき降下こうかして華族かぞくれっするとしていた(博厚ひろあつ明治めいじ9ねん布告ふこくまでは皇族こうぞくですらかった)が、これを不憫ふびんおもった有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのう周囲しゅうい人間にんげん嘆願たんがんから、天皇てんのう特旨とくしによりはないただきみや継承けいしょうみとめられた格好かっこうとなった。これをけとしていちだい宮家みやけとされた新設しんせつ宮家みやけたちの世襲せしゅう徐々じょじょみとめられるようになる。
  3. ^ 伏見ふしみみや家督かとく継承けいしょうするはずであった邦芳くによしおうが「不治ふじやまい」となり、またその同母どうぼおとうとである昭徳あきのりおうは、すで夭折ようせつしていた。なお、ひろしきょうおうである博義ひろよしおう恭子きょうこ女王じょおう同時どうじ復籍ふくせきしている[12]
  4. ^ 同日どうじつ海軍かいぐん記念きねんである。
  5. ^ 嶋田しまだ繁太郎しげたろう日記にっきによる[57]
  6. ^ 海軍かいぐんにおける慣例かんれいとして、大佐たいさ進級しんきゅうから少将しょうしょう進級しんきゅうには6ねんようしたが、6ねん大佐たいさとして主力しゅりょくかん戦艦せんかん正規せいき航空こうくう母艦ぼかん)の艦長かんちょうつとめれば、1ねん少将しょうしょう進級しんきゅうすることが確実かくじつであった。

出典しゅってん

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  1. ^ 野村のむらみのる山本やまもと五十六いそろく再考さいこう中公ちゅうこう文庫ぶんこP159 - 174。初版しょはんは1988ねん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうかん天皇てんのう伏見ふしみみや日本にっぽん海軍かいぐん
  2. ^ 法令ほうれい全書ぜんしょ明治めいじじゅうろくねんがつじゅうにち みや内省ないせい告示こくじだいいちごう
  3. ^ 野村のむらみのる 1988, p. 36.
  4. ^ a b c 現役げんえき海軍かいぐん士官しかん名簿めいぼ昭和しょうわ9ねん2がつ1にち調ちょう』(国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)海軍かいぐんしょう、1ぺーじhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/19054682022ねん2がつ26にち閲覧えつらん 
  5. ^ はた 2005, pp. 269–288, だい1 主要しゅよう陸海りくかい軍人ぐんじん履歴りれき-べつ索引さくいん
  6. ^ a b 野村のむら 1996, p. 32
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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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日本にっぽん皇室こうしつ
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先代せんだい
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先代せんだい
山屋やまや他人たにん
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だい13だい:1919ねん12月1にち - 1920ねん12月1にち
次代じだい
鈴木すずき貫太郎かんたろう
先代せんだい
谷口たにぐちしょうしん
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1933ねん10がつ1にち改称かいしょう
1932ねん2がつ2にち - 1941ねん4がつ9にち
次代じだい
永野ながの修身しゅうしん