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楠木くすのき

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
楠木くすのき
家紋
菊水きくすい(きくすい)[1]
本姓ほんせい しょうたちばな
越智おち伊予いよたちばな)?[2]
種別しゅべつ 武家ぶけ
出身しゅっしん 不明ふめい一説いっせつ駿河するがこく入江いりえそう楠木くすのき[3]静岡しずおかけん静岡しずおか清水しみずくすのき)、あるいは河内かわうちこく石川いしかわぐん太子たいしまち山田やまだ小字こあざ楠木くすのき[4]
おも根拠地こんきょち 河内かわうちこく
著名ちょめい人物じんぶつ 楠木くすのき正成まさしげ大楠公だいなんこう
楠木くすのき正行まさゆき小楠公しょうなんこう
楠木くすのき正儀まさよし
つて虚無きょむ楠木くすのき正勝まさかつ
せんただしおも
楠木くすのきただし
楠木くすのきただしとら
支流しりゅう分家ぶんけ 木俣きまた[5][6]武家ぶけ華族かぞく男爵だんしゃく))
河内かわうち和田わだ武家ぶけ
河内かわうち武家ぶけ
橋本はしもと武家ぶけ
うちとう?(武家ぶけ
蜂須賀はちすか?(武家ぶけ
せんただしおも[5]刀工とうこう名跡みょうせき
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

楠木くすのき(くすのきし)は、河内かわうちこく中心ちゅうしんに、南北なんぼくあさ時代じだい活躍かつやくした南朝なんちょうかた武家ぶけ。「くすのき」と表記ひょうきされることもある。

歴史れきし

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本姓ほんせいたちばなである[7]正確せいかく出自しゅつじ不明ふめい諸説しょせつある。『系図けいず纂要』などでは伊予いよたちばな越智おち分家ぶんけ)のたちばなどお末裔まつえいとされる。『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』(たちばな系図けいず)や『太平たいへい』は楠木くすのき正成まさしげ出自しゅつじたちばな嫡流ちゃくりゅう系統けいとう為政いせい後裔こうえいとしている。『吾妻あづまきょう』に登場とうじょうする楠木くすのきもと関東かんとうにいた御家人ごけにんで、玉井たまいしのぶ岡部おかべ滝瀬たきせ武蔵むさしななとう横山よこやまとう猪俣いのまたとうなら家柄いえがらであるようにしるされるが、河内かわうち楠木くすのきとの関係かんけい不明ふめいである。『吾妻あづまきょう』には1190ねんたてひさ1ねん)のみなもと頼朝よりとも入洛にゅうらくさいずいへいとして楠木くすのき四郎しろう名前なまええる。御家人ごけにん一人ひとりおもわれるが、正成まさしげりゅうとの関係かんけいしょうである[8]熊野くまの新宮しんぐう神職しんしょくくすのき系統けいとうとするせつ(『熊野くまの年代ねんだい』)や熊野くまの国造くにのみやつこ末裔まつえいとするせつ(長谷ながたに1975)もある。楠木くすのき正成まさしげ以降いこう河内かわちこく金剛山こんごうざんふもと本拠ほんきょつようになり、和泉いずみこくまで一族いちぞくひろがった[8]

史料しりょうじょうはっきりしるされているのは、鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき後醍醐天皇ごだいごてんのう鎌倉かまくら幕府ばくふたいして挙兵きょへいした元弘もとひろらんにおいて楠木くすのき正成まさしげ宮方みやかたしたがい、幕府ばくふ滅亡めつぼう成立せいりつしたたてたけし政権せいけんくわわり、南北なんぼくあさ時代じだい南朝なんちょう吉野よしの朝廷ちょうていかたとして活躍かつやくする以降いこうである。

その正成まさしげ正行まさゆき正時まさときや、正成まさしげおとうと正季まさすえなどは北朝ほくちょう足利尊氏あしかがたかうじとのたたかいで戦死せんしし、のこった正成まさしげ正儀まさよし南朝なんちょうれい落後らくごにも有力ゆうりょく武将ぶしょうとして活躍かつやくし、北朝ほくちょうとの和睦わぼく仲介ちゅうかいする。

また、『えんたいれき文和ふみかず元年がんねんがつじゅうはちにちじょうによれば、足利あしかが義詮よしあきら北朝ほくちょうひかりげん光明こうみょうたかしこうの3上皇じょうこう返還へんかんもとめてみなみ朝方あさがた派遣はけんした總持寺そうじじそうくもり楠木くすのき縁者えんじゃであったという。

南北なんぼくあさ合一ごういつ以降いこう

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楠木くすのき一族いちぞくはほとんどがみなみ朝方あさがたについた。そのため、南朝なんちょう衰退すいたいとも一族いちぞく没落ぼつらくした。南北なんぼくあさ合一ごういつこう南朝なんちょう武将ぶしょうとしても楠木くすのきただししゅう楠木くすのき光正みつまさ楠木くすのき一族いちぞく確認かくにんできる。北朝ほくちょう擁立ようりつした足利あしかが幕府ばくふ時代じだいには、朝廷ちょうてい北朝ほくちょう)にかたきをなしたとして、朝敵ちょうてき逆賊ぎゃくぞく)としてあつかわれていた[9]

ひろしただし元年がんねん1460ねん)3がつ28にち楠木くすのき一族いちぞく正儀まさきまごとされる)がろくじょう河原かわらにて処刑しょけいされたさい東福寺とうふくじだいきょくせいえきはその日記にっき(『あおやまろく』)に楠木くすのき無辜むこみんを戮殺した積悪せきあくほうによってほろびた、としるしている。

ところが、『太平たいへい』の流布るふによって正成まさしげたいする同情どうじょうてき見方みかたひろがった戦国せんごく時代じだいには、楠木くすのき正成まさしげ末裔まつえい自称じしょうする楠木くすのきただしとらなる人物じんぶつあらわれ、その名誉めいよ回復かいふく尽力じんりょくした[9][10]せいとら朝敵ちょうてきあつかいであった楠木くすのき赦免しゃめんため、朝廷ちょうていにその赦免しゃめんもとめ、松永まつなが久秀ひさひでしや足利あしかが義輝よしてる了解りょうかいけた[9][10]。その結果けっかえいろく2ねん1559ねん)11がつ20日はつかせいとら正親町おおぎまち天皇てんのうより、正成まさしげ楠木くすのき赦免しゃめんする綸旨りんじけることになった[11]のちせいとら能書のうがきとして織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよしからも重用じゅうようされた。もっとも、せいとら家系かけい北畠きたばたけつかえた伊勢いせ国人くにびとくすのきくす伊勢いせ諏訪すわ)の末裔まつえい河内かわうち移住いじゅうして正成まさしげ末裔まつえい名乗なのったもので、正成まさしげとの血縁けつえん関係かんけいはないともいわれている[12]

俗説ぞくせつでは、江戸えど時代じだい慶安けいあんへんこした由井ゆい正雪しょうせつせいとら子孫しそんという楠木くすのきつて軍学ぐんがくまなび、その養子ようしとなったというが、これは実録じつろくほん慶安けいあん太平たいへい』などの脚色きゃくしょくである[13]

南朝なんちょう正統せいとう朝廷ちょうていとする史観しかん定着ていちゃくすると、楠木くすのき正成まさしげ楠木くすのき忠臣ちゅうしん代表だいひょうとして賞賛しょうさんされ、顕彰けんしょうされるようになる。しかし嫡流ちゃくりゅうがはっきりせず、おなじくみなみ朝方あさがた武将ぶしょうだった菊池きくち名和なわなどの子孫しそん華族かぞくれつしたのにたいし、楠木くすのき子孫しそんからは華族かぞくまれていない。きゅう旗本はたもと士族しぞく甲斐かいしょう大正たいしょう時代じだいいたるまで楠木くすのき正成まさしげ正統せいとう子孫しそんしょうして華族かぞくへんれつ請願せいがん運動うんどうをやっていたが、みや内省ないせい系図けいず疑問ぎもんてんがあるとして許可きょかとしている[14]。また伊勢いせ楠木くすのきの庶流としょうする木俣きまた華族かぞく男爵だんしゃくれっせられているが、これは楠木くすのき末裔まつえいみとめられてのことではなく、きゅうまんせき以上いじょう陪臣ばいしん彦根ひこね藩主はんしゅ井伊いい家老がろう1まんせき)だったことからの授爵じゅしゃくである[5][6][15]。また木俣きまた出自しゅつじ真実しんじつ楠木くすのきだったと仮定かていしても、木俣きまたまもるかちだい実子じっしく、つながりのない養子ようし守安もりやす木俣きまた当主とうしゅいでいるため、守安もりやす木俣きまた宗家そうけ楠木くすのき血筋ちすじじょうつながりはい。

1937ねん昭和しょうわ12ねん)5がつ25にちに、楠木くすのき子孫しそんによって、湊川みなとがわ神社じんじゃうち楠木くすのき同族どうぞくかい結成けっせいされた[16]初代しょだい会長かいちょう伊勢いせ楠木くすのき末裔まつえい山下やました太郎たろうである[16]

歴代れきだい当主とうしゅ

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伝統でんとうてきには楠木くすのきたちばな後裔こうえいとされ、正成まさしげちちたちばな正遠まさとお楠木くすのき正遠まさとお)ともわれるが、確実かくじつなところははっきりとしないため、ここではかり正成まさしげ初代しょだいとする。正勝まさかつとそれ以降いこう当主とうしゅなま没年ぼつねんは『全休ぜんきゅうあんくすのき系図けいず』にもとづく。

  1. 楠木くすのき正成まさしげ(1294ねん? - 1336ねん
  2. 楠木くすのき正行まさゆき(1326ねん? - 1348ねん
  3. 楠木くすのき正儀まさよし(1330ねん? - 1383ねん?)
  4. 楠木くすのき正勝まさかつ(1351ねん - 1400ねん
  5. 楠木くすのきただしあきら(1377ねん - 1438ねん) - 伊勢いせ楠木くすのき初代しょだい
  6. 楠木くすのきただしじゅう(1403ねん - 1456ねん
  7. 川俣かわまたただしじゅう(1427ねん - 1488ねん) - 川俣かわまたあらため
  8. 川俣かわまたただしじゅう(1449ねん - 1525ねん) - ちち同姓どうせい同名どうめい
  9. 川俣かわまたただしたかし(1477ねん - 1527ねん
  10. 楠木くすのきただしただし(1498ねん - 1574ねん) - 1559ねん先祖せんぞ朝敵ちょうてき御免ごめん復姓ふくせい
  11. 楠木くすのきただし(1516ねん - 1576ねん
  12. 楠木くすのきただしもり(1569ねん - 1584ねん) - 絶家ぜっけ

伊勢いせ楠木くすのき

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概要がいよう

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伊勢いせ楠木くすのきは、正成まさしげ曾孫そうそんせいあらわおうながらんにおけるおうなが6ねん12がつまつ1400ねん1がつ)のさかい落城らくじょうにより伊勢いせこくびたことをもってはじまり、 だい8だい当主とうしゅ楠木くすのきもりしん小牧こまき長久手ながくてたたかなか加賀野井かがのいじょう落城らくじょうにより天正てんしょう12ねん5がつ7にち1584ねん6月14にち)にはいしたことをもって断絶だんぜつする系統けいとう[5]。 ただし、血筋ちすじじょう長子ちょうし直系ちょっけいである刀工とうこうせんただしおも系統けいとうすくなくとも1662ねんごろまでは存続そんぞくしたことが刀剣とうけんめいによって確認かくにんできる [17]楠木くすのき棟梁とうりょう楠木くすのき正儀まさよし息子むすこかず長幼ちょうようについては不明ふめいとされるてんおおたしかなことはわからないが、 伊勢いせ楠木くすのき家系かけいせいあらわちち正勝まさかつ正儀まさき長男ちょうなんにして「南朝なんちょう棟梁とうりょうしん」と主張しゅちょうしており[5]、その主張しゅちょうしんじるかぎりにおいてはこの系統けいとう楠木くすのき嫡流ちゃくりゅうということになる。

伊勢いせ楠木くすのき最大さいだい特徴とくちょうともえるのが、当主とうしゅふく多数たすう人材じんざいが、伊勢いせこく桑名くわな刀工とうこうむらただしとするせん刀工とうこうとなったことである。 だい2だい当主とうしゅ初代しょだいせいじゅうだい3だい当主とうしゅだいせいじゅうむらまさ弟子でしりし、刀鍛冶かたなかじわざおしまれた[5]せんただしおもは200ねん以上いじょうつづせん一大いちだい派閥はばつになり、桑名くわなはじめしゃ奉献ほうけんがたなせいじゅう寛文ひろふみ2ねん1がつ(1662ねん)のめいってある[17]刀工とうこうとしてのせいじゅう楠木くすのきでもたちばなでもなく藤原ふじわらめいつが、身分みぶんかくしたのかむらせい藤原ふじわらであることにったのかは不明ふめい)。 だいせいじゅう次男じなんであるせん正真しょうしん一派いっぱ名工めいこうとしてられ、酒井さかい忠次ただつぐあいがたないのきり本多ほんだ忠勝ただかつあいやり蜻蛉とんぼきりなどが正真しょうしんさくである(蜻蛉とんぼきりについては同名どうめい別人べつじん正真しょうしんというせつもある)[18][19]伊勢いせ楠木くすのきから刀工とうこうとして、雲林院うじいせいもり坂倉さかくらせき正利まさとしなどがいる[5]正利まさとしりょう業物わざものくらいれつされ[20]代表だいひょうてき作品さくひんとして丹羽にわあいやりいわ突」などがある[21]

だい2だい当主とうしゅ楠木くすのきただしじゅう初代しょだいせいじゅう)はこう南朝なんちょうあらそいにはくわわらなかったが、おとうと楠木くすのき正威まさたけ禁闕きんけつへん(1443ねん)に参加さんかして死亡しぼう[5]、のちにもう一人ひとりおとうと楠木くすのきただしぶんやす4ねん12月(1448ねん1がつ紀伊きいこく北山きたやま蜂起ほうきまもるせいいんみや#その)にくわわったが戦死せんししている[5]だい3だい当主とうしゅであるだいせいじゅうは、楠木くすのきせいけて川俣かわまたただしじゅう名乗なのり、伊勢いせ川俣かわまたとなった[5]よんだいせいじゅう当主とうしゅがず、傍系ぼうけいせいたかしだい4だい当主とうしゅさんだいせいじゅう養子ようしとなってだい5だい当主とうしゅいだ[5]。その息子むすこだい6だい川俣かわまたただしちゅう時代じだいに、楠木くすのき朝廷ちょうていから先祖せんぞ朝敵ちょうてき御免ごめんた(楠木くすのきただしとら項目こうもく参照さんしょう)ことにより、楠木くすのき復姓ふくせいするよう六角ろっかくから通達つうたつされ、楠木くすのきただしただしとなる[5]

伊勢いせ楠木くすのき中興ちゅうこうだい7だいせい北畠きたばたけきょう家臣かしんとなり、北畠きたばたけ本拠ほんきょ大河内おおこうちしろ住居じゅうきょうつ[5]。『いきおいしゅう軍記ぐんき』によると、神戸こうべもり血筋ちすじ北畠きたばたけ)の男子だんし楠木くすのき婿むこれるなど、北畠きたばたけとの関係かんけい強化きょうかつとめていたらしい[22]えいろく4ねん(1561–1562ねん)には八田はったじょううつり、しゅうへのさえをにんじられる(せい八田はった城主じょうしゅになったとするせつがあるが、藤田ふじた精一せいいち当時とうじ記録きろくからて、本来ほんらい城主じょうしゅ大多和おおたわであって、せい臨時りんじ守将しゅしょうとしてしろまもっただけであるとする[23])。 えいろく10ねん(1567ねん)、だい6だいせいちゅう織田おだぐん攻撃こうげきたい楠城なわしろ籠城ろうじょうして奮戦ふんせんするも衆寡しゅうかてきせず降伏ごうぶく[24]恭順きょうじゅんして高岡たかおかしろ攻略こうりゃく参加さんかするそぶりをせたのちに、すぐに離脱りだつした[24]同年どうねんだい7だいせい八田はったじょう籠城ろうじょうするが、こちらはわずか500の手勢てぜい織田おだぐん撃退げきたいしている[25]えいろく11ねん織田おだぐんさい侵攻しんこうにもせい籠城ろうじょうせん勝利しょうりするが、主家しゅか北畠きたばたけ信長のぶなが降伏ごうぶくし、孤立こりつ無援むえんとなってしまった[25]。 そのため伊勢いせ出奔しゅっぽんしたせいは、えいろく12ねん(1569–1570ねん本願寺ほんがんじはい剃髪ていはつして顕如けんにょ[5]客将かくしょうとなる。 もとかめ2ねん(1571ねん)、信長のぶなが意向いこうだい6だいせいちゅう強制きょうせいてき隠居いんきょさせられたため、家督かとく正式せいしきだい7だいせいうつった[26]。 そのせい顕如けんにょ配下はいかとして織田おだぐんたたかうが、天正てんしょう4ねん(1576ねん天王寺てんのうじたたか落命らくめい

だい7だいせいには男子だんしがなかったため、むすめだい8だい当主とうしゅ楠木くすのきただしもりもりしんとも)としてのちいだが、天正てんしょう12ねん(1584ねん)、小牧こまき長久手ながくてたたかみねじょうたたかいに織田おだ信雄のぶおがわ参加さんか敗北はいぼく、のち加賀野井かがのいじょうでも敗北はいぼくし、わずかかぞえ16さい斬首ざんしゅされて伊勢いせ楠木くすのき嫡流ちゃくりゅうえた[5]

伊勢いせ楠木くすのき庶流

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正富まさとみとそのおい名称めいしょう不明ふめい人物じんぶつ神戸こうべいま三重みえけん鈴鹿すずか神戸こうべ)に移住いじゅうして木俣きまたとなり、その子孫しそん木俣きまたまもるかち徳川とくがわ家康いえやす井伊いい直政なおまさつかえて後裔こうえい彦根ひこねはん家老がろう家格かかく明治めいじいたって男爵だんしゃくじょされた[5][6]。ただし、もりしょうには実子じっしく、養子ようし守安もりやす木俣きまた当主とうしゅいだため、現在げんざい木俣きまた宗家そうけ楠木くすのき血筋ちすじじょうつながりはい。

アラビア石油あらびあせきゆ創業そうぎょうしゃ山下やました太郎たろうとその縁戚えんせき所有しょゆうする『山下やましたくすのき くすのき系図けいず』によれば、 だい7だいせい顕如けんにょ客将かくしょうとなってから討死うちじにするまでに正実まさみという息子むすこもうけており、 ただしじつ伊勢神宮いせじんぐう外宮げくうたちばな養子ようしとなってたちばな正実まさみとなり、名跡みょうせきとしては代々だいだいちょう田彦たびこ太夫たゆう」(したがえよん家格かかく)を名乗なのり、その傍系ぼうけい現在げんざい秋田あきたけん横手よこて平鹿ひらかうつってくすのき復姓ふくせいし、途中とちゅうくすのき山下やましたかれ、その山下やました嫡流ちゃくりゅう山下やました太郎たろうであるという[27]山下やました太郎たろう湊川みなとがわ神社じんじゃ大鳥居おおとりい神饌しんせんでんなどの寄進きしんおこない、楠木くすのき同族どうぞくかい初代しょだい会長かいちょうつとめている[16]

三重みえけん高野尾たかのおまち旧家きゅうか高楠たかくすいえのこる『高楠たかくす系図けいず』によれば、だい7だいせい伊勢いせ長島ながしましろ落城らくじょう流浪るろうして、近江おうみ篠原しのはらむら滞在たいざいちゅうにもうけた息子むすこくすのき一角いっかく正治しょうじ、その正治しょうじ高楠たかくす初代しょだいである伝三郎でんざぶろうだという[28]高楠たかくすだい10代当主とうしゅくに三郎さぶろうおとうと孫三郎まごさぶろう婿養子むこようしになったのが仏教ぶっきょう学者がくしゃ高楠たかくす順次郎じゅんじろうである[28]

系譜けいふ

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凡例はんれい

  • 以下いか系図けいずは、原則げんそくとして、ほらいん公定こうていへん尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく所収しょしゅうたちばな系図けいず[29]と、正成まさしげ嫡流ちゃくりゅう子孫しそん伊勢いせ国司くにじ北畠きたばたけ重臣じゅうしんだった伊勢いせ楠木くすのき系図けいず全休ぜんきゅうあんくすのき系図けいず[5]つなわせたものである。
  • 実線じっせん実子じっし破線はせん養子ようし兄弟きょうだい姉妹しまいではひだりにいるものほど年長ねんちょう
  • いろきの背景はいけいは、楠木くすのき当主とうしゅつとめた人物じんぶつしめす。
  • 数字すうじ伊勢いせ楠木くすのき家督かとく継承けいしょうじゅん
  • せんむらただしこした流派りゅうは)の刀工とうこうとなったものにはせん文字もじった。
  • 正成まさしげ三男さんなん楠木くすのき正儀まさよしまで、およ正儀まさきせいしゅうりゅう系図けいずは『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく所収しょしゅうたちばな系図けいず』を使用しようしている。
    • 20世紀せいきまつ以降いこう正成まさしげ鎌倉かまくら幕府ばくふ御家人ごけにんであるというせつ有力ゆうりょくであり、みなもと頼朝よりとも家臣かしん楠木くすのき四郎しろうとの関係かんけい指摘してきされているため(『吾妻あづまきょうたてひさ元年がんねん(1190ねん)11月7にちじょう[30]える人物じんぶつ[31][32][33]正成まさしげちち正遠まさとお以前いぜんたちばなではなく、四郎しろうつなげる(四郎しろう親族しんぞく子孫しそんという可能かのうせいもある)。しかし、今井いまい正之助しょうのすけ研究けんきゅうによって楠木くすのき駿河するがこく北条ほうじょうなどとの関係かんけい否定ひていされたため、実際じっさいのこの部分ぶぶん不明ふめいわざるをない[4]
    • 系図けいずでは正成まさしげおとうとは「ただし」だが、通説つうせつしたがって「正季まさすえ」に訂正ていせいする。
    • いち史料しりょうである『こうみね昌俊まさとしぐんちゅうじょう』によれば、正成まさしげおい楠木くすのき弥四郎やしろうがいた[34](『広峰ひろみね系図けいず』によればいみなただし[34])。楠木くすのきただししゅんおや正季まさすえどちらのなのかは不明ふめいだが、ここではかり実在じつざい確実かくじつ正季まさすえほうつなげた。
    • 和田わだけんかいしんはつ)と和田わだ行忠ゆきただしん兵衛ひょうえじょう)は、系図けいずでは行忠ゆきただあにとなっているが、いち史料しりょうである『薩摩さつま旧記きゅうき所収しょしゅう島津しまつ貞久さだひさての書状しょじょう[35]ではしんはつあにしん兵衛ひょうえじょうおとうととされているので、けんこころよあに訂正ていせいする。
    • 正成まさしげにかなりちか親族しんぞくおもわれる人物じんぶつたちばな正遠まさとお和田わだ正遠まさとお)、楠木くすのきただし和田わだ正武まさたけ)はつながらないかたち系図けいずふくめた。ただし、スペースの都合つごうじょう正武まさたけ正勝まさかつおなだんにしてあるが、実際じっさい正勝まさかつちち正儀まさきどう世代せだいだとおもわれる。
    • 系図けいずせいとらまでだが、『国史こくしだい辞典じてん』「大饗おわいせいとら[36]によって正辰まさときおぎなった。
  • 楠木くすのき正勝まさかつ楠木くすのきただしもと以降いこうは、藤田ふじた精一せいいち研究けんきゅう対象たいしょうとしてげた『全休ぜんきゅうあんくすのき系図けいず[5]る。
    • どう系図けいず伊勢いせ村田むらたしるしたもの。塩冶えんや高貞たかさだ後裔こうえい村田むらた南朝なんちょう崩壊ほうかいとともに伊勢いせせき現在げんざい亀山かめやませきまち)にのがれ、以降いこう伊勢いせ楠木くすのき滅亡めつぼうするまで伊勢いせ楠木くすのき緊密きんみつ連携れんけいをとっていた[37]とくに、だい8だいもりしん(のちせいもり改名かいめい)は村田むらたひとだい7だいせいむすめあいだまれたである[38]。そのあいだ事情じじょう系図けいず慶安けいあん(1648–1652)ごろに村田むらた倶信(ごう全休ぜんきゅうあん)が輯録し、それをその子孫しそん大津おおつ在住ざいじゅう村田むらた利一郎りいちろう所蔵しょぞうしていたものであるという[37]
    • 正勝まさかつせいもとせいしゅう長幼ちょうようじょについては、『ぐんしょ類従るいじゅうばんたちばな系図けいず[39]もとづく。
    • 女子じょし原則げんそくてき省略しょうりゃくした。
    • 木俣きまたについては、木俣きまたまもるかちこう参照さんしょう。なお、系図けいずでは楠木くすのき正威まさたけ次男じなんせい子孫しそんほかに、正威まさたけ長子ちょうし直系ちょっけいせいきよし子孫しそん木俣きまたしょうしたとあるので、もりしょうせいきよし系統けいとうである可能かのうせいもある。
    • どう系図けいずでは4にんせいおもがいるかはしるされてないが、桑名くわなはじめしゃのこ刀剣とうけんから子孫しそん(もしくは養子ようし)のいることがあきらか[17]なのでせんおぎなった。
    • だい8だい当主とうしゅもりしんは、『くすのきまち』の「もりしん」からのちに「せいもり」と改名かいめいしたというせつ[40]った。
四郎しろう
すうだい不明ふめい
正遠まさとお
しゅんおや正成まさしげ正季まさすえ正遠まさとおせい
正行まさゆき正時まさとき正儀まさよしただしけんこころよ行忠ゆきただ
正勝まさかつせいもとせいしゅう正武まさたけ
せいあらわ1せいたかしせいもり
せんせいじゅう2せい正威まさたけもりしん
せんせいじゅう3正富まさとみせいもりはじめ
せんせいじゅう4せん正真しょうしんせいきよしぼうもりしげる
せん正真しょうしんせんせいもり木俣きまた
せんせいじゅう正徳まさのりせいたかし5長成ちょうせい
正統せいとうせん正利まさとしせいちゅう6すうだい不明ふめい隆成たかなり
せいみつるせいよりゆき正胤まさたねせい7守時もりときせいとら
せい女子じょしもりしょう正辰まさとき
せいもり8守安もりやす
絶家ぜっけ

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 太田おおた 1934, pp. 2053–2054.
  2. ^ 太田おおた 1934, p. 2054.
  3. ^ 新井あらい 2011, pp. 57–60.
  4. ^ a b 日本にっぽん歴史れきし学会がっかい日本にっぽん歴史れきし 2020ねん3がつごう」2020ねん 吉川弘文館よしかわこうぶんかん
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 藤田ふじた 1938, pp. 31–37.
  6. ^ a b c 藤田ふじた 1938, pp. 57–62.
  7. ^ 太田おおた 1934, p. 2053.
  8. ^ a b 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だい2はん 楠木くすのき
  9. ^ a b c 天野あまの 2016, pp. 34–35.
  10. ^ a b 太田おおた 1934, pp. 2057–2058.
  11. ^ 天野あまの 2016, p. 34.
  12. ^ 村田むらた 1983, p. [ようページ番号ばんごう].
  13. ^ 高木たかぎ 1994.
  14. ^ 松田まつだ敬之たかゆき 2015, p. 195-196.
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  16. ^ a b c 湊川みなとがわ神社じんじゃ (2012ねん). “楠木くすのき同族どうぞくかい湊川みなとがわ神社じんじゃ楠公なんこうさん)-神戸こうべ中央ちゅうおう”. 2018ねん8がつ25にち閲覧えつらん
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参考さんこう文献ぶんけん

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長谷ながたに克久かつひさ紀伊きい楠木くすのきりゅう諸氏しょし系図けいずしゅう新宮しんぐう文化ぶんかセンター 1975ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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