(Translated by https://www.hiragana.jp/)
家名 - Wikipedia コンテンツにスキップ

家名かめい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

家名かめい(かめい)とは、ちちから父系ふけい代々だいだい継承けいしょうされる永続えいぞくせいった個々ここいえけられた名称めいしょう

なお、ひがしアジアの漢字かんじ文化ぶんかけんにある日本にっぽん中国ちゅうごく韓国かんこく、ベトナムなどでは、それぞれおなじ「いえ」という漢字かんじもちいていても、くにによって「いえ」の機能きのう人々ひとびと関係かんけいせいちがいがある[1]たとえば、中国ちゅうごくにおける「いえ」の場合ばあい同居どうきょどもざいという男系だんけい親族しんぞくとうとそれをめぐ財産ざいさんあつまりであり、日本にっぽんの「いえ」のように家業かぎょう家名かめい維持いじ重視じゅうしする機能きのうつものではない[2]

日本にっぽんにおける家名かめい

[編集へんしゅう]

古代こだい日本にっぽん支配しはいそうばれる一族いちぞく集団しゅうだんによって構成こうせいされてそれぞれがせいゆうしていたが、この時代じだいせい氏名しめい(うじな:名称めいしょう)を意味いみしていた。みなもとたいら藤原ふじわらたちばなの4つのせいった代表だいひょうてき貴族きぞくとしてられていた(源平げんぺいふじたちばな)。

公家くげ社会しゃかいにおいては平安へいあん時代じだい中期ちゅうき以後いご御堂みどうりゅう閑院りゅう勧修寺かんしゅうじりゅうなどの家筋いえすじ成立せいりつするが、この当時とうじ家筋いえすじ派生はせいした集団しゅうだんとしての要素ようそつよかった。公家くげ社会しゃかいでは平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代じだい初期しょきにかけて父子ふし直系ちょっけい家族かぞくあいだおな称号しょうごう名乗なの習慣しゅうかん発生はっせいするが、こうした称号しょうごう実名じつめい使用しよう回避かいひし、公家くげとの区別くべつ明確めいかくするためにもちいられたもので安定あんていしたものではなく、父子ふしあいだでもことなったり、自称じしょう他称たしょうことなったり(おおくの場合ばあい自称じしょう重視じゅうしされた)することもめずらしくなかった。「ぜん宮内卿くないきょう」「藤中ふじなか納言なごん」「大納言だいなごん」など、“まえ”・“ほん”・“しん”・“ふじ”・“みなもと”の文字もじ位階いかい官職かんしょくめい構成こうせいされる一般いっぱん名詞めいしのようにもちいられた称号しょうごう(これを「固有名詞こゆうめいしてき称号しょうごう」としょうする[3])も同様どうよう目的もくてきもちいられていた。嫡系継承けいしょう確立かくりつする南北なんぼくあさ時代じだいになると「近衛このえ」・「きゅうじょう」などの個々ここの「いえ」が確立かくりつされ、家名かめいとして成立せいりつするようになった。家名かめい邸宅ていたくのあるとおりやゆかりのある地名ちめい施設しせつめいなどからられる場合ばあいおおかった。もっとも室町むろまち時代ときよはいっても家名かめいことなる称号しょうごうもちいる公家くげすくなくなかった。たとえば、初期しょき足利あしかが将軍しょうぐん尊氏たかうじ義詮よしあきら)は朝廷ちょうてい北朝ほくちょう)においては「足利あしかが」を家名かめい、「鎌倉かまくら」を称号しょうごうとして、みずからが“鎌倉かまくら殿どの”であることを強調きょうちょうした。また、室町むろまち時代じだい後期こうき今出川いまでがわは“今出川いまでがわ殿どの”をしょうした足利あしかが義視よしみ遠慮えんりょして「菊亭きくてい」を称号しょうごうとして後世こうせいまでいだ。こうした現象げんしょう個人こじん単位たんいでもしばしば発生はっせいし、古記こきろく系図けいずなどをさいには注意ちゅういようする。また、家名かめい家業かぎょうとともに個々ここの「いえ」を伝統でんとう文化ぶんか有職故実ゆうそくこじつ宗匠そうしょう家元いえもと)としての価値かちたせる役目やくめたし、実質じっしつてき政治せいじ権力けんりょくうしなった公家くげ社会しゃかいにおいて「いえ」の存続そんぞくはか動機どうきとなりた。たとえば、藤原為家ふじわらのためいえ為相ためすけは、ちちから家業かぎょうである歌道かどうぐとともに、正門せいもん冷泉れいせん小路こうじめんしていた「冷泉れいせん高倉たかくらていゆずられて家名かめいを「冷泉れいせん」とごうした。兄弟きょうだいもそれぞれじょう大路おおじ京極きょうごく大路おおじめんした正門せいもん邸宅ていたく継承けいしょうしたことからそれぞれ「じょう」・「京極きょうごく」と名乗なのった。

武家ぶけ社会しゃかいにおいては受領じゅりょう軍事ぐんじ貴族きぞく在庁ざいちょうかんじんおよびその子孫しそん中央ちゅうおう公家くげ同様どうようせい名乗なのっていたが、平安へいあん時代じだい末期まっきには代々だいだい居住きょじゅう開発かいはつして自己じこ所領しょりょうとした土地とち地名ちめい苗字みょうじとして採用さいようするようになる。足利あしかが新田にった北条ほうじょう千葉ちばなどがこれにたる。もっとも、当初とうしょのそれは公家くげれいおなじように派生はせいした集団しゅうだんとしての要素ようそ存在そんざいし、北条ほうじょうから金沢かなざわ赤橋あかばし大仏だいぶつ名越なごし諸家しょか派生はせいするなど流動的りゅうどうてき要素ようそもあり、武家ぶけ社会しゃかい家名かめい成立せいりつ公家くげ社会しゃかい同様どうよう南北なんぼくあさ時代じだいごろとかんがえられている。

民衆みんしゅう社会しゃかいにおいても、貴族きぞく同様どうようせい名乗なのもの存在そんざいしていたが、家名かめい確立かくりつしたとえるのは、室町むろまち時代ときよころかんがえられている。ただし、民衆みんしゅうにおいては苗字みょうじつうめいの2本立ほんだての家名かめいもちいられていた。つうめいとは人名じんめいにおける家名かめい相当そうとうするもので代々だいだい当主とうしゅ襲名しゅうめいするばれる通称つうしょうのことで、「○○兵衛ひょうえ」「××衛門えもん」などがこれにたる。また、商家しょうかにおける屋号やごう苗字みょうじ同様どうよう役割やくわりたし、屋号やごうつうめいわせた名称めいしょう(「○○××衛門えもん」「××○兵衛ひょうえ」など)が公式こうしき名乗なのりとなった。江戸えど時代じだいには苗字みょうじ公称こうしょうきんじられたためにつうめいをもって家名かめい区別くべつおこなったとされているが、実際じっさいには公文こうぶんしょなどに苗字みょうじ使つかえなかったのみで地域ちいきないでの苗字みょうじわたししょうひろおこなわれていたとされ、また領主りょうしゅによる苗字みょうじ帯刀たいとうによって許可きょかあたえられる事例じれいすくなくはかった。

明治維新めいじいしん1875ねん2がつ13にち平民へいみん苗字みょうじ必称義務ぎむれいおよ1898ねん公布こうふ明治めいじ民法みんぽうによってすべての日本人にっぽんじん苗字みょうじ名乗なのりそれを家名かめいとして固定こていすることがさだめられた(なお、これに先立さきだってせいしかばねしょうれいされ、古代こだい以来いらいせい実質じっしつじょう廃止はいしされている)。

西洋せいようとうにおけるちちしょう

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ かんさとし中国ちゅうごくにおける社会しゃかい民族みんぞくのパラダイム : 人類じんるいがくてき枠組わくぐみと事例じれい研究けんきゅう : 機関きかん研究けんきゅう : 「包摂ほうせつ自律じりつ人間にんげんがく領域りょういき 中国ちゅうごくにおける家族かぞく民族みんぞく国家こっかのディスコース (2012-2014)」『民博みんぱく通信つうしんだい141ごう国立こくりつ民族みんぞくがく博物館はくぶつかん、2013ねん6がつ、8-9ぺーじISSN 0386-2836NAID 1200068265862021ねん12月12にち閲覧えつらん 
  2. ^ 森田もりたしげるまん中国ちゅうごくほう講義こうぎノート(V)」『星薬科大学ほしやくかだいがく一般いっぱん教育きょういく論集ろんしゅうだい33ごう、2015ねん、55-74ぺーじISSN 0289-369XNAID 1200059502922021ねん12月12にち閲覧えつらん 
  3. ^ 遠藤えんどう、2006ねん

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 坂田さかたさとし家名かめい」(『歴史れきしがく事典じてん 10 身分みぶん共同きょうどうたい』(弘文こうぶんどう、2003ねんISBN 978-4-335-21040-2
  • 藤本ふじもと孝一こういち公家くげ家名かめい家業かぎょう-冷泉れいせん中心ちゅうしんに-」(『中世ちゅうせい史料しりょうがくくさむらろん』(思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2009ねんISBN 978-4-7842-1455-6 P221-226)
  • 遠藤えんどう珠紀たまき中世ちゅうせい朝廷ちょうてい社会しゃかいにおける公家くげ称号しょうごう」(初出しょしゅつ:『はるかなる中世ちゅうせいだい21ごう(2006ねん)/所収しょしゅう:遠藤えんどう中世ちゅうせい朝廷ちょうていかん制度せいど』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2011ねんISBN 978-4-6420-2900-1 P331-366)

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]