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あいしんさとし奕譞

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奕譞から転送てんそう
あいしんさとし奕譞
あいしんさとし

称号しょうごう あつし親王しんのう
出生しゅっしょう みちこう20ねん9がつ21にち (1840-10-16) 1840ねん10月16にち
死去しきょ ひかりいとぐち16ねん11月21にち (1891-01-01) 1891ねん1がつ1にち(50さいぼつ))
配偶はいぐうしゃ 嫡福すすむあつしけん親王しんのう嫡妃婉貞西にしふとしきさきいもうと
子女しじょ こうまこと
父親ちちおや みちこうみかど
母親ははおや そうじゅんすめらぎとうと
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あいしんさとし 奕譞(あいしんかくら えきけん、アイシンギョロ・イフワン、満州まんしゅうᠠᡞᠰᡞᠨ ᡤᡞᠣᠷᠣ
ᡞ ᡥᡠᠸᠠᠠ
転写てんしゃ:1840ねん10月16にち - 1891ねん1がつ1にち)は、きよし皇族こうぞくみちこうみかどすめらぎななで、初代しょだいあつし親王しんのうははそうじゅんすめらぎとうとあに咸豊みかどあつし親王しんのう奕誴きょう親王しんのう奕訢にはひかりいとぐちみかどがおり、あいしんさとし溥儀ふぎ父方ちちかた祖父そふである。おくりなけん

生涯しょうがい

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みちこう30ねん1850ねん)、あにの咸豊みかど即位そくいするとあつしぐんおうふうぜられた。咸豊11ねん1861ねん)に咸豊みかど崩御ほうぎょするとあずまふとしきさき西にしふとしきさきともう1人ひとりあにきょう親王しんのう奕訢に協力きょうりょくしてクーデターこし、怡親おうかきてい親王しんのうはしはな粛順らを排斥はいせきからしとり政変せいへん)、おいどうみかど即位そくいするとみやこみつる御前ごぜん大臣だいじんりょうさむらいめいぜられ、親王しんのうのぼった。西にしふとしきさきから謙虚けんきょ姿勢しせいられ様々さまざま特典とくてんあたえられたが、政争せいそうまれないよう慎重しんちょう日々ひびごした[1]

ひかりいとぐち元年がんねん1875ねん)、どうみかどのこさずに死去しきょすると、西にしふとしきさき自身じしんいもうとははとする奕譞の次男じなん湉をどうみかどとして即位そくいさせた(ひかりいとぐちみかど)。奕譞は実子じっし即位そくいとも官職かんしょく退しりぞいたが、ひかりいとぐち10ねん1884ねん)のしんふつ戦争せんそう処理しょりをめぐってきょう親王しんのう軍機ぐんき大臣だいじん罷免ひめんされるとわって起用きようされ、総理そうり海軍かいぐん事務じむ衙門大臣だいじんにもにんじられ海軍かいぐん統括とうかつ鴻章こうしうけい親王しんのう奕劻補佐ほさやくとして活動かつどうたった。

以後いご西にしふとしきさき周囲しゅうい良好りょうこう関係かんけいたもち、ひかりいとぐち17ねん(1891ねん)に50さい死去しきょなんひかりいとぐちみかど異母弟いぼてい灃が爵位しゃくいあつし親王しんのうとなった。

海軍かいぐん衙門大臣だいじん時代じだい海軍かいぐん費用ひよう頤和えん建設けんせつ流用りゅうようしたことは悪名あくめいたかく、きよし主力しゅりょく海軍かいぐんだった北洋ほくよう艦隊かんたいは10年間ねんかん武器ぶき更新こうしん出来でき艦隊かんたい追加ついか購入こうにゅう不可能ふかのうになり、にちしん戦争せんそうにおける敗北はいぼく遠因えんいんになった。一方いっぽう謙虚けんきょ西にしふとしきさきさかえろく保守ほしゅきさきとう)だけでなく、ひかりいとぐちみかど側近そっきんおうどう革新かくしんみかどとう)とも親交しんこうむすんでいたことは緩衝かんしょう地帯ちたいとして両派りょうは衝突しょうとつふせいでいたが、奕譞のにより対立たいりつけられなくなり、にちしん戦争せんそう敗北はいぼく両派りょうは対立たいりつ決定的けっていてきとなり以後いご政争せいそうつながった[2]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 加藤かとう、P110 - P122、P151 - P154。
  2. ^ 並木なみき、P232 - P237、加藤かとう、P176 - P178、P185 - P188、P200 - P206。

参考さんこう文献ぶんけん

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