(Translated by https://www.hiragana.jp/)
安房国 - Wikipedia コンテンツにスキップ

安房あわこく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
安房あわもりから転送てんそう
安房あわこく

-安房あわこく
-東海道とうかいどう
別称べっしょう 房州ぼうしゅう(ぼうしゅう)
やすしゅう(あんしゅう)
みなみそう(なんそう)[1]
所属しょぞく 東海道とうかいどう
相当そうとう領域りょういき 千葉ちばけん南部なんぶ
しょもと
国力こくりょく 中国ちゅうごく
距離きょり 遠国おんごく
ぐんさとかず 4ぐん32さと
国内こくない主要しゅよう施設しせつ
安房あわ国府こくふ 千葉ちばけんみなみ房総ぼうそう
安房あわ国分寺こくぶんじ 千葉ちばけん館山たてやま安房あわ国分寺こくぶんじあと
安房あわ国分こくぶ尼寺あまでらしょう
一宮いちのみや 安房あわ神社じんじゃ千葉ちばけん館山たてやま
テンプレートを表示ひょうじ

安房あわこく(あわのくに)は、かつて日本にっぽん地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶんだったれいせいこくひとつ。東海道とうかいどうぞくし、現在げんざい千葉ちばけん南部なんぶにあたる。

安房あわ」の名称めいしょう由来ゆらい

[編集へんしゅう]

古語こご拾遺しゅうい』によれば、阿波あわこくにおいて穀物こくもつあさ栽培さいばいしていたてんとみいのちは、東国とうごくにより土地とちもと阿波あわらをひきいて黒潮くろしおり、房総半島ぼうそうはんとう南端なんたん布良めらはま上陸じょうりく開拓かいたくすすめた。そして阿波あわんだところは、「阿波あわ」のをとって「安房あわ」とばれたという[2]。また、『古語こご拾遺しゅうい』のせつのほか、『日本書紀にほんしょきけいぎょう天皇てんのう53ねん10がつじょう東国とうごくじゅんかりおり淡水たんすいもんちなむとするせつもある[3]

現在げんざい行政ぎょうせい区分くぶんでの領域りょういき

[編集へんしゅう]

明治維新めいじいしん直前ちょくぜん領域りょういき現在げんざい以下いかのようになっている。現在げんざい行政ぎょうせい区域くいきうと、千葉ちばけん南部なんぶ地域ちいききゅう安房あわこく該当がいとうする。

沿革えんかく

[編集へんしゅう]

律令制りつりょうせい以前いぜんのこの地域ちいきには、阿波あわ国造くにのみやつこながせま国造くにのみやつこの2つの国造くにのみやつこかれていた。律令制りつりょうせいにおいてれいせいこくである上総かずさこく一部いちぶとなり、養老ようろう2ねん5月2にち718ねん6月4にち)、上総かずさこくのうち阿波あわ国造くにのみやつこちょうせま国造くにのみやつこ領域りょういきだった平群へぐりぐん安房あわぐんあさえびすぐんながせまぐんの4ぐんけて安房あわこくとした[2]国造くにのみやつこは「阿波あわ」の表記ひょうきであり、藤原ふじわらきょう出土しゅつど木簡もっかんに「おのれとし十月上挟国阿波評松里」(おのれ亥年いどし西暦せいれき699ねん)とあるなど、ぐんひょう)の表記ひょうきにもゆれがあるが、これに先立さきだ和銅わどう6ねん713ねん)の好字こうじれい南海なんかいどうの「粟国あぐに」が「阿波あわこく」に変更へんこうされており「安房あわ」の表記ひょうきとなった。天平てんぺい13ねん12月10にち742ねん1がつ20日はつか)に上総かずさこくあわしたが、天平てんぴょうたから元年がんねん757ねん)にもともどされ、東海道とうかいどうぞくするいちこくとなり、くにきゅう中国ちゅうごくにランクされる[2]

国府こくふ現在げんざいみなみ房総ぼうそう府中ふちゅう付近ふきんかれ、古代こだい末期まっきから中世ちゅうせいにかけてまるながせま安西あんざいかみあまりなどの武士ぶしだん活動かつどうし、平安へいあん時代じだい末期まっきにはみなもと頼朝よりとも再起さいきとなる。鎌倉かまくら時代ときよ守護しゅご不明ふめい室町むろまち時代ときよ守護しゅごには結城ゆうき上杉うえすぎいた。15世紀せいきなかごろより里見さとみ台頭たいとうし、戦国せんごくには安房あわ統一とういつたして上総かずさから下総しもうさ一部いちぶいたるまで勢力せいりょくった。

豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる小田原おだわらじょう以後いごは、安房あわいちこく里見さとみ領地りょうちとなった。関ヶ原せきがはらたたかでは、里見さとみ徳川とくがわ家康いえやす支援しえんしてふうけたものの、江戸えど幕府ばくふ成立せいりつ慶長けいちょう19ねん1614ねん)に里見さとみ忠義ただよし大久保おおくぼ忠隣ただちか改易かいえき連座れんざして伯耆ほうきこく倉吉くらよしてんふう。そのは、東条とうじょうはん勝山かつやまはん北条ほうじょうはん館山たてやまはんなどのしょはんと、幕府ばくふりょうはた本領ほんりょうかれた。むらすうは280ヵ村かそん天保てんぽう)。明治めいじ2ねん(1869ねん安房あわでは勝山かつやま館山たてやまの2はんに、あらたに長尾ちょうびはん花房はなぶさはんの2はんかれた。この幕府ばくふりょうはた本領ほんりょう安房あわ上総かずさともけんごと柴山しばやまのり管轄かんかつとなり、翌年よくねん宮谷みやたにけんかれて柴山しばやまのりけん知事ちじとなり、安房あわ4ぐんやく5まん6せんせき管理かんりした。明治めいじ4ねん1872ねん)、廃藩置県はいはんちけんによって木更津きさらづけん編入へんにゅうされ、明治めいじ6ねん1874ねん木更津きさらづけん印旛いんばけん合併がっぺいにより千葉ちばけん編入へんにゅうされた。明治めいじ30ねん1897ねん)には安房あわこく4ぐん統合とうごうされて、千葉ちばけん安房あわぐん再編さいへんされた。

明治めいじ以降いこう沿革えんかく

[編集へんしゅう]

国内こくない施設しせつ

[編集へんしゅう]
すべての座標ざひょうしめした地図ちず - OSM
ぜん座標ざひょう出力しゅつりょく - KML

国府こくふ

[編集へんしゅう]

国府こくふは『和名わみょうしょう』によれば平群へぐりぐんにあったとされ、現在げんざいみなみ房総ぼうそう府中ふちゅう付近ふきん推定すいていされる。しかし正確せいかく位置いちあきらかでない。

国分寺こくぶんじ

[編集へんしゅう]

神社じんじゃ

[編集へんしゅう]
安房あわ神社じんじゃ千葉ちばけん館山たてやま

延喜えんぎ式内しきないしゃ

延喜えんぎしきかみめいちょう』には、大社たいしゃ22しゃ小社しょうしゃ44しゃけい66しゃ記載きさいされている(「安房あわこく式内しきないしゃ一覧いちらん参照さんしょう)。大社たいしゃ2しゃ以下いかしめすもので、安房あわすわ神社じんじゃ名神めいしん大社たいしゃである。
鶴谷つるたに八幡宮はちまんぐう千葉ちばけん館山たてやま

総社そうじゃ一宮いちのみや以下いか

中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう』にもとづく一宮いちのみや以下いか一覧いちらん[5]

洲崎すざき神社じんじゃ館山たてやま洲崎すさき)を一宮いちのみや洲宮すのみや神社じんじゃ館山たてやま洲宮すのみや)を二宮にのみやとするせつもあるが、これは「しゅうかみ」をまつ神社じんじゃとして2しゃいちたいであった洲崎すざき神社じんじゃ洲宮すのみや神社じんじゃあいだでの呼称こしょうられている[5]

安国寺あんこくじ利生りしょうとう

[編集へんしゅう]
  • 安国寺あんこくじ - ふつにちさん安国寺あんこくじ鴨川かもがわ北風原ならいはら本尊ほんぞんせい観世音菩薩かんぜおんぼさつ)が継承けいしょう
  • 利生りしょうとう - しょう

いずれも律令りつりょう時代じだいえき

うままき

[編集へんしゅう]

しろかん

[編集へんしゅう]

みなと

[編集へんしゅう]

内海うつみ

  • 保田やすだみなと
  • 勝山かつやまみなと
  • 古湊こみなと
  • 北条ほうじょうみなと
  • 八幡やはたみなと
  • 正木まさきみなと

外海そとめ

  • 白子しらこみなと
  • 和田わだみなと
  • 磯村いそむらみなと
  • 余瀬よぜみなと
  • 天津てんしんみなと
  • 小湊こみなと

地域ちいき

[編集へんしゅう]

古代こだい-中世ちゅうせい

[編集へんしゅう]

ぐん荘園しょうえん

[編集へんしゅう]

中世ちゅうせい-近世きんせい

[編集へんしゅう]

安房あわこくはん

[編集へんしゅう]

ぐんむら

[編集へんしゅう]
歌川うたがわ広重ひろしげろくじゅうしゅう名所めいしょ図会ずえ-安房小湊あわこみなと内浦うちうら
  • 安房あわぐん平群へぐりぐんちょうえびすぐんちょうせまぐんが1897ねん一部いちぶとなる)
    • 館山たてやままち北条ほうじょうまち豊津とよつむら館野たてのむら九重くじゅうむらいねみやこむら豊房とよふさむら
      長尾ながおむら富崎とみさきむら神戸こうべむら西にしみさきむら
  • 平群へぐりぐん
    • 勝山かちやまむら佐久間さくまむら保田やすだむら富浦とみうらむら八束やつかむら岩井いわいむら平群へぐりむら国府こくふむら
      滝田たきたむらなぎ原村はらむら船形ふなかたむら
  • あさえびすぐん
    • 曦村、七浦ななうらむらけん田村たむら千歳ちとせむらまんろくむら豊田とよだむらみなみ三原みはらむら和田わだむら
      きた三原みはらむら白浜しらはまむら江見えみむら
  • ちょうせまぐん
    • 鴨川かもがわまち田原たはらむら西条さいじょうむら東条とうじょうむら大山おおやまむら吉尾よしおむらゆかりもとむらりょむら
      太海ふとみむら天津てんしんまちみなとむら

石高いしたか

[編集へんしゅう]
  • 95736

人口じんこう

[編集へんしゅう]
  • 1721ねんとおる6ねん) - 11まん5,579にん
  • 1750ねん寛延かんえい3ねん) - 15まん8,440にん
  • 1756ねんたかられき6ねん) - 13まん7,565にん
  • 1786ねん天明てんめい6ねん) - 12まん5,052にん
  • 1792ねん寛政かんせい4ねん) - 13まん836にん
  • 1798ねん寛政かんせい10ねん)- 13まん3,513にん
  • 1804ねん文化ぶんか元年がんねん)- 13まん2,993にん
  • 1822ねん文政ぶんせい5ねん) - 13まん9,662にん
  • 1828ねん文政ぶんせい11ねん)- 14まん830にん
  • 1834ねん天保てんぽう5ねん) - 14まん4,581にん
  • 1840ねん天保てんぽう11ねん)- 13まん9,442にん
  • 1846ねんひろし3ねん) - 14まん3,500にん
  • 1872ねん明治めいじ5ねん) - 15まん4,683にん

出典しゅってん: 内閣ないかく統計とうけいきょくへん速水はやみとおる復刻ふっこくばん監修かんしゅう解題かいだい、『国勢調査こくせいちょうさ以前いぜん日本人にっぽんじんこう統計とうけい集成しゅうせいまき1(1992ねんおよ別巻べっかん1(1993ねん)、東洋とうよう書林しょりん

人物じんぶつ

[編集へんしゅう]

国司こくし

[編集へんしゅう]

安房あわもり

[編集へんしゅう]

守護しゅご

[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら幕府ばくふ

[編集へんしゅう]

室町むろまち幕府ばくふ

[編集へんしゅう]

武家ぶけ官位かんい官途かんとめいとしての安房あわもり

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 別称べっしょうみなみそう」は、上総かずさこくわせての呼称こしょう
  2. ^ a b c 千葉ちばけん地名ちめい日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 12)』 1063ぺーじ
  3. ^ 日本にっぽん古代こだい地名ちめい事典じてん』 228ぺーじ
  4. ^ 安房あわ国分寺こくぶんじあとみなみ房総ぼうそうデータベース)。
  5. ^ a b c d 中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう』(岩田いわた書院しょいん、2000ねん)pp. 202-204。
  6. ^ 安房あわ国分寺こくぶんじ 境内けいだい説明せつめいばん
  7. ^ 須田すだしげる房総ぼうそうしょはんろく』崙書房しょぼう出版しゅっぱん、1985ねん3がつ10日とおか

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 小笠原おがさわら長和おさわ監修かんしゅう千葉ちばけん地名ちめい日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 12)』 平凡社へいぼんしゃ、1996ねんISBN 4-582-49012-3
  • 加藤かとう謙吉けんきちへん日本にっぽん古代こだい地名ちめい事典じてん雄山閣ゆうざんかく、2007ねんISBN 978-4-639-01995-4

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]
先代せんだい
上総かずさこくから分割ぶんかつ
再度さいど分割ぶんかつ
区域くいき変遷へんせん
718ねん - 742ねん
757ねん - 1868ねん
次代じだい
上総かずさこく併合へいごう
安房あわ上総かずさともけんごと