石城せきじょうこく

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石城せきじょうこく位置いち(718ねん

石城せきじょうこく(いわきのくに)は、かつて日本にっぽん地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶんだったれいせいこくひとつ。奈良なら時代じだい陸奥みちのくこくから分立ぶんりつしたが、短期間たんきかんしか存続そんぞくしなかった。718ねん設置せっちされ、720ねん724ねんあいだ廃止はいしされた。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

養老ようろう2ねん718ねん)5がつ2にちに、陸奥みちのくこくから石城せきじょうぐん標葉しねはぐん行方ゆくえぐん、宇太ぐん宇多うだぐん)、曰理ぐん亘理わたりぐん)の5ぐん常陸ひたちこくからきくおおぐん1ぐんいて設置せっちされた[1]同時どうじいしこく新設しんせつされ、陸奥みちのくこくはこのときさんふんされた。戊辰戦争ぼしんせんそう磐城いわきこくことなり、領域りょういき現在げんざい福島ふくしまけんはまどおとその延長えんちょうにある宮城みやぎけん亘理わたりぐんかぎられ、阿武隈あぶくま山地さんちえた盆地ぼんちふくまれない。

歴史れきし学者がくしゃかねこう宏之ひろゆきは、きくおおぐん編入へんにゅう太平洋たいへいよう沿岸えんがんという地理ちりてき条件じょうけん観点かんてんから、石城せきじょうこく東山ひがしやまみちではなく、東海道とうかいどう所属しょぞくしていたとするせつとなえている[2]

養老ようろう4ねん720ねん)からかみひさし元年がんねん724ねん)までのあいだに、陸奥みちのくこくもどった。養老ようろう4ねんについては、陸奥むついし石城せきじょう対象たいしょうにして養老ようろう4ねん11月26にちされたみことのりが『類聚るいじゅう国史こくし』にあり、この時点じてんまで石城せきじょうこくがあったことが確実かくじつである。また、かみひさし元年がんねん3がつ25にち陸奥みちのくこくだいじょうころされたことが『ぞく日本にっぽん』にえる[3]だいじょう国司こくし一人ひとりで、だいうえなかしたけたうち大国たいこくにだけかれる。分割ぶんかつされたちいさな陸奥みちのくこく大国たいこくとはかんがえにくいので、このときまでに合同ごうどうしていたと推定すいていするのである[4]廃止はいしのよりつよ証拠しょうこかみかめ5ねん728ねん)4がつ11にちにあり、『ぞく日本にっぽん』によれば、この陸奥みちのくこく白河しらかわ軍団ぐんだんかれた[5]いしこくぞくしていた白河しらかわぐん陸奥みちのくこくとされるのは、いしこく廃止はいし証拠しょうこである。そして、石城せきじょうこく廃止はいしいしこく同時どうじであろうとかんがえるのである[6]

国府こくふ夏井川なついがわ下流かりゅうで、大国たいこくたましい神社じんじゃ付近ふきん現在げんざいいわき平菅波たいらすぎなみ)、または根岸ねぎし遺跡いせき付近ふきん現在げんざい:いわき平下大越たいらしもおおごえ)のいずれかにかれたと比定ひていされている。

地域ちいき[編集へんしゅう]

ぐん[編集へんしゅう]

6ぐんからった。みなみからじゅん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ぞく日本にっぽんまきだい8、養老ようろう2ねん5がつ乙未おとみ(2にちじょうしん日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく大系たいけいぞく日本にっぽんの44-45ぺーじ
  2. ^ かねこう宏之ひろゆき七道しちどうせい日本にっぽん律令制りつりょうせい国家こっか運営うんえい」『律令制りつりょうせい諸国しょこく支配しはい成立せいりつ展開てんかい』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2023ねんISBN 978-4-642-04672-5 P186-187.
  3. ^ ぞく日本にっぽんまきだい9、かみひさし3ねん3がつかぶとさる(25にちじょうしん日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく大系たいけいぞく日本にっぽんの148-149ぺーじ
  4. ^ 工藤くどう雅樹まさきしろしがらみ蝦夷えぞ』41ぺーじ
  5. ^ ぞく日本にっぽんまきだい10、かみひさし5ねん4がつちょううし(11にちじょうしん日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく大系たいけいぞく日本にっぽんの192-193ぺーじ
  6. ^ 高橋たかはしたかし律令りつりょう国家こっか東北とうほく研究けんきゅう』22-24ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]