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そうくに

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そうくに(ふさのくに、捄国)は、上古じょうこ坂東ばんどうくに現在げんざい千葉ちばけんしゅたる地域ちいきとし、茨城いばらきけん東京とうきょう一部いちぶにわたる律令制りつりょうせい以前いぜんきゅう国名こくめい[1]

解説かいせつ[編集へんしゅう]

律令制りつりょうせい以前いぜん上総かずさこく下総しもうさこく両国りょうこくは、そうくにとしてヤマト王権おうけんから把握はあくされていたが、のちこく分立ぶんりつ西国さいごくからの移住いじゅう開拓かいたく黒潮くろしおにのってそとぼうがわからはじまり、そのため房総半島ぼうそうはんとう南東なんとうがわ上総かずさとなり、北西ほくせいがわ下総しもうさとなった[2]7世紀せいきすえまでは「捄」「うえ捄」「しも捄」の表記ひょうきであったものが、のち「そう」「上総かずさ」「下総しもうさ」にあらためられ[ちゅう 1]律令制りつりょうせいいて上総かずさこくから安房あわこくれいせいこくとしての房総ぼうそうさんこく成立せいりつした。

この地域ちいきには阿波あわながせま須恵すえうまらい上海しゃんはいじょうきくあさたけしゃしも海上かいじょうしるし千葉ちばなどおおくの国造くにのみやつこ[3]領域りょういき存在そんざいしており、上海しゃんはいうえした海上かいじょうあいだしゃはいっている。このことから5世紀せいきには香取かとりかい沿岸えんがん三ノ分目さんのわけめ大塚山おおつかやま古墳こふんにつづいて東京とうきょうわんきし姉崎あねざき二子塚ふたごづか古墳こふん造営ぞうえいした「だい海上かいじょうこく」ともいうべき勢力せいりょくがあったが、6世紀せいき中央ちゅうおうから進出しんしゅつした勢力せいりょくてたたけしゃこくによってうえした分割ぶんかつされたとするせつもある[4]。またしゃこくだけでも、6世紀せいき中葉ちゅうようから7世紀せいき初頭しょとうにかけ当時とうじのヤマト王権おうけん大王だいおうりょう匹敵ひってきする規模きぼ古墳こふん造営ぞうえいした勢力せいりょく複数ふくすうあったとされる[ちゅう 2]。ヤマト王権おうけんからはこれら全体ぜんたいが「そうくに」とされ、のち海上かいじょうしるし千葉ちば国造くにのみやつこ領域りょういきあわせて下総しもふさこくが、阿波あわちょうせま須恵すえうまらい甚・上海しゃんはいじょうきくあさたけしゃ国造くにのみやつこ領域りょういきあわせて上総かずさこく分立ぶんりつした。このうち上総かずさこくには6つの国造くにのみやつこかれており、1国内こくないに6つもの国造くにのみやつこ密集みっしゅうするれいまれであり、これらのことがヤマト王権おうけん緊密きんみつなつながりをゆうしていたことを物語ものがたっている[5]。さらに、この地域ちいきには大化たいか改新かいしんのち全国ぜんこく設置せっちされたとされる8つ神郡かんごおりのうち、安房あわぐんおよび香取かとりぐんと、こうやつとうぐんふくめると、3つのかみぐんかれた。

また、「ムサ」は「フサ」とおな語源ごげんでありもと南関東みなみかんとうは1こくであったとするせつもあり[6]近藤こんどう芳樹よしき陸路りくろ廼記』などによれば、そうくに安房あわこく上総かずさこく下総しもふさこくのみならず、相模さがみこく武蔵むさしこく地域ちいきをもふくんでいたとされている。そうくに一部いちぶそううえ(フサカミ)こくそうした(フサシモ)こくとなり、フサカミのフをはぶいて「サカミ」、フサシモのモをはぶ音便おんびんでフがムとなり「ムサシ」となったともされ、相模さがみこく武蔵むさしこく調しらべぶつぬのあさ)が中心ちゅうしんであり調布ちょうふ麻布まふなどの地名ちめいのこ[7]

従来じゅうらいせつ[編集へんしゅう]

斎部広成いんべのひろなり自家じかてのひらしょく主張しゅちょうしたとされる『古語こご拾遺しゅうい』によれば、てんとみいのち天日てんじつわしいのちまごたちしたがえて、はじ阿波あわこく麻植おえ麻植おえぐん)において、穀物こくもつあさ栽培さいばいしていたが、のちによりゆたかな土地とちもとめてしゅういちぽう黒潮くろしおってひがしかった。ひがし陸地りくち上陸じょうりくしたかれらはあたらしい土地とち穀物こくもつあさえたが、とくあさそだちがかったために、あさ別称べっしょうである「そう」から、「そうくに」(一説いっせつには「そうみち」)と命名めいめいしたとわれている。あさ栽培さいばいして成功せいこうした肥沃ひよく大地だいちが『そうくに』で、天日てんじつわしいのち後裔こうえい阿波あわ忌部いむべ居住きょじゅうは、『阿波あわ』のをとって『安房あわ』としたのだという[2]

古語こご拾遺しゅういせつしたがえば、「あさそう」という図式ずしき成立せいりつすることになるが、「そう」というにはあさ関係かんけいする意味いみ存在そんざいしない。そのため、このせつ伝承でんしょうにすぎず信頼しんらいできないともいわれていた[5][ちゅう 3]一方いっぽう、『日本書紀にほんしょき』の律令制りつりょうせいかんする記事きじ正史せいしとしてたか評価ひょうかされており、大化たいか改新かいしん日本にっぽん律令制りつりょうせい導入どうにゅうだったと理解りかいされ、れいせいこく成立せいりつ大化たいか改新かいしんからそうとおくない時期じきとし、この時期じき上総かずさこく下総しもふさこく成立せいりつしたとするのが定説ていせつだった。

藤原ふじわらみや出土しゅつど木簡もっかん[編集へんしゅう]

昭和しょうわ42ねん1967ねん)12月、藤原ふじわらきょう北面ほくめん外濠そとぼりから「おのれとし十月上挟国阿波評松里」(おのれ亥年いどし西暦せいれき699ねん)とかれた木簡もっかんされた。この木簡もっかんにより7世紀せいきまつにはぐんではなくひょう表記ひょうきされていたことが判明はんめいし、ぐん評論ひょうろんそう決着けっちゃくけられた[8]。このさい、「うえはさみこく阿波あわ」の表記ひょうきについては(=上総かずさ国安くにやすぼう)と解釈かいしゃくされていた。つづいて「てんかんじょう〈捄〉国道こくどうまえ」という木簡もっかん発見はっけんされたが、こちらの4文字もじ判読はんどくしにくく、様々さまざま文字もじてはめるせつされた。そのうちに「捄」とせつたものの、「うえ捄」では意味いみつうじないとされ、一旦いったん保留ほりゅうとされていた。

史料しりょうさい評価ひょうか[編集へんしゅう]

その研究けんきゅうで「捄」という和訓わくんは「そう」とどうじ“ふさ”であること、てんかんという上総かずさ出身しゅっしん僧侶そうりょがこの時代じだい実在じつざいしていたことあきらかとなり、律令制りつりょうせい以前いぜん表記ひょうきは「そう」ではなく、捄国・うえ捄・しも捄など「捄」のもちいられていた可能かのうせいたかくなった[ちゅう 4][9]。「ぼうをなしてみのもの」という「捄」の意味いみあさにも該当がいとうすることからあさそう間接かんせつてきにはむすけることが可能かのうとなり、この地域ちいきは「捄」としょうされれいせいこく成立せいりつおな和訓わくんつ「そう」にあらためられたとすれば[ちゅう 1]、『古語こご拾遺しゅうい』の説話せつわ簡単かんたんにはしんじられないながらも、一定いってい評価ひょうかがされることとなった。

それにたいし『日本書紀にほんしょき』にある改新かいしんみことのり文書ぶんしょは、編纂へんさんさいえられたことが明白めいはくになり、大化たいか改新かいしんしょ政策せいさく後世こうせい潤色じゅんしょくであることが判明はんめい、『日本書紀にほんしょき』によるへんねんは、史料しりょうによる多面ためんてき検討けんとう必要ひつようとされるようになった[8]。このことから、れいせいこく成立せいりつ大化たいか改新かいしんからそうとおくない時期じきとした従来じゅうらい定説ていせつくずれ、おおくのれいせいこく確実かくじつ成立せいりつしたのは、大宝たいほう元年がんねん701ねん)に制定せいていされた大宝たいほう律令りつりょうからといわれる。

このように、現在げんざいでは一般いっぱんてきくにれいせいこく)の成立せいりつ大宝たいほう律令りつりょう制定せいていによるとされるようになった。だが、上総かずさこく下総しもふさこくについてはこれとはべつ見方みかたがある。下総しもふさこくについては『常陸ひたちこく風土記ふどき』にこうやつとうぐん鹿島かしまぐん)のけんぐんについて、「大化たいか5ねん649ねん)に、下総しもうさこく海上かいじょう国造くにのみやつこ部内ぶない軽野かるの以南いなんいちさと[ちゅう 5]那賀なが国造くにのみやつこ部内ぶないかん以北いほくさとけて神郡かんごおりいた」とあり、孝徳たかのり以前いぜん成立せいりつしていたことがうかがえ、また『帝王ていおうへんねん』では上総かずさこく成立せいりつ安閑天皇あんかんてんのう元年がんねん534ねん[10]としており、語幹ごかんしたに「まえなかこう」をけた吉備きびこしとはことなり、もうおなじく「うえした」をうえかんする形式けいしきをとることから、6世紀せいき中葉ちゅうよう成立せいりつとみるせつもある[ちゅう 6][11]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 大宝たいほう4ねん(704ねん)に、全国ぜんこくくにしるし一斉いっせい鋳造ちゅうぞうされたさいあらためられたものとかんがえられている(『日本にっぽん古代こだい地名ちめい事典じてん』「上総かずさこく」のこう)。
  2. ^ たけしゃこくには、6世紀せいき中葉ちゅうようから7世紀せいき初頭しょとうにかけ、小池こいけ芝山しばやま古墳こふんぐん大堤おおつつみ蕪木かぶらき古墳こふんぐん胡麻ごましゅだい古墳こふんぐん板附いたつき古墳こふんぐん造営ぞうえいした4つの勢力せいりょくがあったとかんがえられている(『東国とうごく古墳こふん古代こだい』「上総かずさづか古墳こふん」のこう)。
  3. ^ に「そう」の語源ごげんとして、フサグ(ふさが)の語幹ごかんで「なにかをさえぎる」のこと、ボサのころげで「雑草ざっそうなどのしげみ、やぶ」の、フシ(ふし)のてんで「高所こうしょ」のこと、クサ(くちくさ)のてんで「崩壊ほうかい地形ちけい」をしめすなどのせつがあるが、あくまでもかりせつである(『地名ちめい用語ようご語源ごげん辞典じてん』「ふさ」のこう)。
  4. ^ 藤原ふじわらきょうから木簡もっかん出土しゅつどした当初とうしょは、「うえはさみこく阿波あわひょう松里まつざと」と解読かいどくされていたが、その研究けんきゅうで「うえ捄国阿波あわひょう松里まつざと」に解読かいどくなおされた(はさみ→捄)。
  5. ^ 下総しもうさこく海上かいじょう国造くにのみやつこ後裔こうえいしょうするたてまつ神護かんごが、せいくらいん文書ぶんしょのこした「たてまつちょく神護かんごかい」には、神護かんご祖父そふにん孝徳たかのりしょうりょうであったことがかれており、こうやつとうひょうりつひょうさいしてこれに同意どういしたことがうかがえる(『古代こだい豪族ごうぞく武士ぶし誕生たんじょう』「おつへんひょうせい施行しこう」のこう)。
  6. ^ ただし、れいせいこくとしての上総かずさこく下総しもふさこく成立せいりつは、れいせいこくおなじく律令制りつりょうせい確立かくりつによるものとされる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ』「そうくに」のこう
  2. ^ a b 千葉ちばけん歴史れきし』「千葉ちば房総ぼうそうさんこく由来ゆらい」のこう
  3. ^ ながせま国造くにのみやつこは『古事記こじき』・千葉ちば国造くにのみやつこは『日本にっぽん』より、国造くにのみやつこは『きゅうこと本紀ほんぎ』の「国造くにのみやつこ本紀ほんぎ」より
  4. ^ 古代こだい東国とうごく風景ふうけい』「大和やまと王権おうけん房総ぼうそう」のこう
  5. ^ a b 日本にっぽん古代こだい地名ちめい事典じてん』「上総かずさこく」のこう
  6. ^ 古代こだい地名ちめい語源ごげん辞典じてん』「武蔵むさし」のこう
  7. ^ 関東かんとうがくをひらく』「政商せいしょううるし伊波いはのこと」のこう
  8. ^ a b 藤原ふじわらきょう』「藤原ふじわらきょう出土しゅつど木簡もっかんが、ぐん評論ひょうろんそう決着けっちゃくさせる」
  9. ^ 千葉ちばけん歴史れきし 通史つうしへん 古代こだい2だい1へんだい2しょう房総ぼうそうさんこく成立せいりつ
  10. ^ 帝王ていおうへんねんまき7 安閑天皇あんかんてんのう元年がんねん(101ぺーじ
  11. ^ 古代こだい地名ちめい語源ごげん辞典じてん』「そう」のこう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

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