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千葉ちば国造くにのみやつこ

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千葉ちば国造くにのみやつこ
本姓ほんせい だいわたし
おも根拠地こんきょち 千葉ちばこく
(のちの下総しもうさこく
著名ちょめい人物じんぶつ #人物じんぶつ参照さんしょう
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

千葉ちば国造くにのみやつこ(ちはのくにみやつこ・ちはこくぞう)は、千葉ちばこく支配しはいした国造くにのみやつこ

概要がいよう[編集へんしゅう]

祖先そせん[編集へんしゅう]

氏族しぞく[編集へんしゅう]

だいわたし(おおきさいべうじ、せいじき)。

だいわたしは、『新撰しんせん姓氏せいしろく右京うきょうすめらぎべつには「だい私部きさべ開化かいか天皇てんのう皇子おうじ彦坐いのちのちなり。」とあり、飯田いいだ武郷たけさとが「わたしをキサイとよめるよしは、『漢書かんしょ』のちょうつて大官たいかんわたしかんとあるしたふくけんが註に、わたしかん皇后こうごうかんえ、また『こう漢書かんしょ百官ひゃっかんこころざしに、中宮なかみやわたしれいいちにんともえたり。わたしきさきしょうもちいたる、漢国かんごくれいりたるしょさまとぞえたる。かくてわたしをキサイベとうたうは、ちゅうむかしよりの音便おんびんにして、みやびしくはキサキベとうたうべきなり。(中略ちゅうりゃくさとしたち天皇てんのうよりもまえ御世みよに、きさきたてまつため定置ていちれたりしだい私部きさべたまいたりしなるべく、さとしたち天皇てんのう御世みよかれたるわたしはそれとはべつなるべし。」とべたように[1]、6世紀せいき以前いぜんふとしきさきためもうけられたともとしてつたえられ、その性格せいかく私部きさべ名代なだい御子みこだいまつなどとおなじく、皇室こうしつ直轄ちょっかつ部民ぶみんであった[2][3]

概要がいよう[編集へんしゅう]

千葉ちば国造くにのみやつこかれた時期じきは、『記紀きき』にも『先代せんだいきゅうこと本紀ほんぎ』「国造くにのみやつこ本紀ほんぎ」にも記載きさいされず、『日本にっぽんのべれき24ねん805ねんみずのとじょうや、よく大同だいどう元年がんねん806ねん癸巳きしじょうに「千葉国造大私部直善人」の名前なまええるのみである。これによれば、だい私部きさべちょく善人ぜんにんそとしたがえたまわったのは平安へいあん時代じだい初期しょきのことで、大化たいか改新かいしんおこなわれてから161ねんにもなるから、国造くにのみやつこ制度せいどすで廃止はいしされている。そして全国ぜんこくには中央ちゅうおうから国司こくし派遣はけんされ、土着どちゃく豪族ごうぞくおおくは郡司ぐんじ以下いかにんぜられ、堂々どうどうたる律令りつりょう国家こっかとなっていて、すで中央ちゅうおう集権しゅうけんてき国家こっか体制たいせい確立かくりつしていた。そこで千葉ちば国造くにのみやつこは、「『先代せんだいきゅうこと本紀ほんぎ』「国造くにのみやつこ本紀ほんぎ」の成立せいりつ過程かていには存在そんざいせず、律令制りつりょうせい施行しこう以後いご任命にんめいされたいわゆる律令りつりょう国造くにのみやつこである」とする見解けんかいと、「改新かいしんまえ千葉ちば国造くにのみやつこが、改新かいしん以後いごもそのまま国造くにのみやつこ称号しょうごう公許こうきょされ、その家柄いえがらにふさわしいじきせい継承けいしょうしたと」する見解けんかいかれる[2][3]

前者ぜんしゃ見解けんかいによれば、改新かいしんまえ房総ぼうそうそうくにばれ、その北半きたはんには、印旛沼いんばぬま周辺しゅうへん本拠ほんきょしるし国造くにのみやつこと、げん利根川とねがわ下流かりゅう一帯いったい君臨くんりんするしも海上かいじょう国造くにのみやつことがあったが、改新かいしん地方ちほう行政ぎょうせい区画くかくによって下総しもうさこくとなり、しるし国造くにのみやつこ領土りょうどは、のちに『延喜えんぎしき』や『和名わみょうしょう』などに記録きろくされる印旛いんばぐん埴生はぶぐん千葉ちばぐん葛飾かつしかぐん相馬そうまぐん猿島さしまぐん結城ゆうきぐん岡田おかだぐんの8ぐんけられ、しも海上かいじょう国造くにのみやつこ領土りょうどは、海上かいじょうぐん匝瑳そうさぐん香取かとりぐんの3ぐんとなった。そしてしるし国造くにのみやつこ後裔こうえい印旛いんばぐん郡司ぐんじに、しも海上かいじょう国造くにのみやつこ後裔こうえい海上かいじょうぐん郡司ぐんじにんぜられ、新設しんせつ千葉ちばぐんからは千葉ちば国造くにのみやつこ選任せんにんされたとする。『ぞく日本にっぽんてんおう元年がんねん781ねんじょうに「下総しもふさこく印旛いんばぐん大領だいりょうがいせい六位上丈部直牛養」、『万葉集まんようしゅうまき〇に「しるしぐんたけちょくだい麻呂まろ」とあり、『日本にっぽんさんだい実録じつろく仁和にわ元年がんねん885ねん)3がつ19にちじょうに、「下総しもふさこく海上かいじょうぐん大領だいりょうがいせい六位上海上国造他田日奉直春岳」、『万葉集まんようしゅうまき〇に「海上かいじょうぐん海上かいじょう国造くにのみやつこたてまつ直得なおえだい」のえるのは、このような家柄いえがら人々ひとびとであるとかんがえられる[2][3]

しかしながら、大化たいか前代ぜんだい国造くにのみやつこ称号しょうごうは、前述ぜんじゅつの「海上かいじょう国造くにのみやつこたてまつちょくはるだけ」、「海上かいじょう国造くにのみやつこたてまつ直得なおえだい」や『ぞく日本にっぽんかみひさし元年がんねん正月しょうがつじょうの「出雲いずも国造くにのみやつこがいしたがえなな出雲いずもしん広嶋ひろしま」・天平てんぺい14ねん4がつじょうの「伊豆いず国造くにのみやつこ日下部くさかべただしえきじん」などのように、国造くにのみやつこせい廃止はいしされたのちも、神事しんじ祭祀さいし主宰しゅさいするきゅう国造くにのみやつこ家柄いえがらたいして、せいともたまわったとるのが妥当だとうであるから、大化たいか前代ぜんだい千葉ちば国造くにのみやつこ存在そんざいしていたことが可能かのうとなり、しるししも海上かいじょうりょう国造くにのみやつこ任命にんめい応神天皇おうじんてんのうあさにあることなどから、千葉ちば国造くにのみやつこのそれもみぎ大体だいたいどう時代じだいにあるものとすることができる。すなわち、このころになって、房総ぼうそう北半きたはん有力ゆうりょく氏族しぞく続々ぞくぞく大和やまと朝廷ちょうてい勢力せいりょく服属ふくぞくし、それらのうちのさい有力ゆうりょく首長しゅちょう国造くにのみやつこにんぜられたとかんがえられる[2][3]。そのため、千葉ちば国造くにのみやつこあらためてヤマト王権おうけん屈服くっぷくしたのは、しるし上海しゃんはいじょう国造くにのみやつこ(6世紀せいき後半こうはん)や甚国づくり(6世紀せいき前半ぜんはん)とおなじく、さとしたち天皇てんのう時代じだいおおきくさかのぼらない時代じだいであったとかんがえられる[2][3]

本拠ほんきょ[編集へんしゅう]

支配しはい領域りょういき[編集へんしゅう]

国造くにのみやつこ支配しはい領域りょういき千葉ちばこくばれた地域ちいき下総しもうさこく千葉ちばぐん現在げんざい千葉ちばけん千葉ちば相当そうとうする。

先代せんだいきゅうこと本紀ほんぎ』「国造くにのみやつこ本紀ほんぎ」に記載きさいはないが、の『日本にっぽんのべれき24ねん805ねん)10がつ8にちじょうには、千葉ちば国造くにのみやつこだい私部きさべちょく善人ぜんにんそとしたがえさづけるとあり、よく大同だいどう元年がんねん806ねん)1がつ28にちじょうでは下総しもうさ国大こくだいじょうにんじられている。『日本にっぽん』のほかには千葉ちば国造くにのみやつこらない。

千葉ちば由来ゆらいとしては、「おおくの繁茂はんもする」ので、たくさんの草木くさきしげ原野げんやだったからとも、土地とち繁栄はんえいねがったからともかれる。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

氏神うじがみ[編集へんしゅう]

不明ふめい

関連かんれん神社じんじゃ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 飯田いいだ武郷たけさと日本書紀にほんしょきどおりしゃく』(1899ねん
  2. ^ a b c d e 千葉ちば編纂へんさん会議かいぎ千葉ちば』(千葉ちば、1974ねん
  3. ^ a b c d e https://adeac.jp/chiba-city/text-list/d100010/ht002370

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 加藤かとう謙吉けんきち 日本にっぽん古代こだい地名ちめい事典じてん雄山閣ゆうざんかく、2007ねんISBN 978-4-639-01995-4、244ぺーじ
  • 石井いしいすすむ 千葉ちばけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 2000ねんISBN 4-634-32120-3、2ぺーじ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]