神郡かんごおり

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神郡かんごおり(しんぐん/かみのこおり/かみごおり)は、日本にっぽん律令制りつりょうせいしたにおいていちぐん全体ぜんたい特定とくてい神社じんじゃ所領しょりょう神域しんいきとしてさだめられたぐん社領しゃりょう神領しんりょう)の一種いっしゅで、ぐんからの収入しゅうにゅうはその神社じんじゃ修理しゅうり祭祀さいし費用ひようてられた。

概要がいよう[編集へんしゅう]

かみぐん文献ぶんけんじょうでのはつは、もちすべ天皇てんのう6ねん692ねん[げん 1]になる[1]。ただし『神宮じんぐうざつれいしゅう[げん 2]や『常陸ひたちこく風土記ふどき[げん 3]では大化たいか5ねん649ねん)での多気たきぐん度会わたらいぐんこうやつとうぐん鹿島かしまぐん)のけんぐん記述きじゅつがあり、大化たいかから天武天皇てんむてんのう645ねん-686ねんごろにかけて順次じゅんじ設置せっちされたと推測すいそくされる[1]

れいしゅうかい[げん 4]によると、養老ようろう7ねん723ねん)11月16にち時点じてんかみぐんとしてつぎの8ぐんえ、「八神ねりがみぐん」と総称そうしょうされている[1][2]。これらは延長えんちょう5ねん927ねん成立せいりつの『延喜えんぎしき[げん 5]にも記載きさいされる。

八神ねりがみぐん一覧いちらん
くにぐん 所管しょかん神社じんじゃ 地図ちず
延喜えんぎしきかみめいちょう げん社名しゃめい 所在地しょざいち こおりりょう
たてまつひとしぞく
伊勢いせこく 度会わたらいぐん
わたりしょうぐん
大神宮だいじんぐう 神宮じんぐう伊勢神宮いせじんぐう 三重みえけん伊勢いせ 度会わたらい
磯部いそべ/新家にいのみ
多気たきぐん
たけぐん
安房あわこく 安房あわぐん 安房あわすわ神社じんじゃ 安房あわ神社じんじゃ 千葉ちばけん館山たてやま 大伴おおともただしぜん大伴おおとも
?)
下総しもうさこく 香取かとりぐん 香取かとり神宮じんぐう 香取かとり神宮じんぐう 千葉ちばけん香取かとり 香取かとりれん
大中おおなかしん
常陸ひたちこく 鹿島かしまぐん 鹿島かしま神宮じんぐう 鹿島かしま神宮じんぐう 茨城いばらきけん鹿嶋かしま ちゅうしん
ちゅうしん鹿島かしま
出雲いずもこく 意宇いうぐん 熊野くまのすわ神社じんじゃ杵築きつき大社たいしゃ 熊野くまの大社たいしゃ出雲いずも大社たいしゃ 島根しまねけん松江まつえ出雲いずも 出雲いずもしん
紀伊きいこく めいくさぐん 日前ひくま神社じんじゃくにかか神社じんじゃ 日前ひくま神宮じんぐうくにかか神宮じんぐう 和歌山わかやまけん和歌山わかやま きのただし
筑前ちくぜんこく 宗像むなかたぐん
宗形むなかたぐん
宗像むなかた神社じんじゃ 宗像むなかた大社たいしゃ 福岡ふくおかけん宗像むなかた 宗形むなかたくんむねがたくん
宗像むなかた朝臣あそん

以上いじょうのうち伊勢いせかみぐんとしては、寛平かんぺい年間ねんかん889ねん-898ねん)に飯野いいのぐん、さらに文治ぶんじ年間ねんかん1185ねん-1190ねん)までに員弁いなべぐん三重みえぐん安濃あのうぐん飯高ひだかぐん朝明あさけぐんくわえてけい8ぐんかみはちぐん)がさだめられている(詳細しょうさい後述こうじゅつ[3]。また出雲いずもかみぐんとしては、杵築きつき大社たいしゃ出雲いずも大社たいしゃ)の鎮座ちんざする出雲いずもぐんでなく熊野くまのすわ神社じんじゃ熊野くまの大社たいしゃ)の鎮座ちんざする意宇いうぐん指定していされたてん特徴とくちょうとして指摘してきされる[3]

これらのかみぐんでは、上記じょうきのようにかく神社じんじゃたてまつひとしぞく神宮じんぐうとともにぐんりょうになっていた[3]文武ぶんぶ天皇てんのう2ねん697ねん)から養老ようろう7ねん11月(723ねん)にかけては、ぐんことなり郡司ぐんじ以下いかしょく郡司ぐんじぞくからのれんにんゆるされている[1][3]。これら郡司ぐんじぞくは、それぞれの地域ちいきにおける伝統でんとうてき氏族しぞく在地ざいち豪族ごうぞく)になる[1]

伊勢いせ神郡かんごおり[編集へんしゅう]

本節ほんぶしでは、伊勢いせ神郡かんごおりすなわち伊勢神宮いせじんぐうかみぐんについて解説かいせつする。

伊勢いせこくには13ぐん存在そんざいしたが、そのうちつぎの8ぐん伊勢神宮いせじんぐうりょうかみぐんさだめられて「かみはちぐん」としょうされた。

神郡かんごおり成立せいりつには、前述ぜんじゅつとお度会わたらいぐん多気たきぐんの2ぐんかみぐんさだめられている。ひろしひとしはちねん817ねん)にはあらためて度会わたらいぐん多気たきぐん神宮じんぐう寄進きしんされて国衙こくが影響えいきょうはいし、さらに寛平かんぺい年間ねんかん889ねん-898ねん)に飯野いいのぐんてんけい3ねん940ねん)に員弁いなべぐんおう2ねん962ねん)に三重みえぐんてんのべ元年がんねん972ねんごろ安濃あのうぐん寛仁かんじん元年がんねん1017ねん)に朝明あさけぐん文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)に飯高ひだかぐん順次じゅんじ寄進きしんされた[3]。このうち神宮じんぐう支配しはいつよ度会わたらいぐん多気たきぐん飯野いいのぐんの3ぐんは「かみさんぐん」または「道後どうごさんぐん」としょうされ、きた伊勢いせ員弁いなべぐん三重みえぐん朝明あさけぐんの3ぐんは「道前みちまえさんぐん」としょうされた[3]

中世ちゅうせいはいってからはこれらのかみぐんたいする神宮じんぐう支配しはいりょく低下ていかし、南北なんぼくあさ時代じだいから室町むろまち時代ときよころには実質じっしつてき支配しはいかみさんぐん限定げんていされるようになり、さらにこれらの3ぐんでも伊勢いせ北畠きたばたけ台頭たいとうとともに神宮じんぐう支配しはい形骸けいがいしていった[3]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

原典げんてん

  1. ^ 日本書紀にほんしょきすべ天皇てんのう6ねん(692ねん)3がつみずのえうま(17にちじょう神道しんとう神社じんじゃ史料しりょう集成しゅうせい参照さんしょう)。
  2. ^ 神宮じんぐうざつれいしゅうかみふうごとじょう神道しんとう神社じんじゃ史料しりょう集成しゅうせい参照さんしょう)。
  3. ^ 常陸ひたちこく風土記ふどきこうやつとうぐんじょう神道しんとう神社じんじゃ史料しりょう集成しゅうせい参照さんしょう)。
  4. ^ れいしゅうかいまき16 せんじょれい どうつかさぬしてんじょう得用とくようさんとう以上いじょうおやれいしゃく神道しんとう神社じんじゃ史料しりょう集成しゅうせい参照さんしょう)。
  5. ^ 延喜えんぎしきまき18 式部しきぶうえ 郡司ぐんじじょう

出典しゅってん

  1. ^ a b c d e 根本ねもと祐樹ゆうき神道しんとう神社じんじゃ史料しりょう集成しゅうせい.
  2. ^ 千葉ちばけん歴史れきし 通史つうしへん 古代こだい2(けんシリーズ2)』 千葉ちばけん、2001ねん、pp. 609-612。
  3. ^ a b c d e f g かみぐん国史こくし) & 1996ねん.

参考さんこう文献ぶんけん・サイト[編集へんしゅう]

  • 書籍しょせき
    • 平野ひらの邦雄くにお棚橋たなはし光男みつおかみぐん」『国史こくしだい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん 
    • 篠田しのだ孝一こういちかみぐん」『日本にっぽん古代こだいだい辞典じてん大和やまと書房しょぼう、2006ねんISBN 978-4479840657 
  • サイト
    • 神郡かんごおり”. 國學院大學こくがくいんだいがく21世紀せいきCOEプログラム「神道しんとう神社じんじゃ史料しりょう集成しゅうせい」. 2015ねん5がつ7にち閲覧えつらん

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

  • 神郡かんごおり - 國學院大學こくがくいんだいがく21世紀せいきCOEプログラム「神道しんとう神社じんじゃ史料しりょう集成しゅうせい