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ばん善男よしお

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ばん 善男よしお
ばん大納言だいなごん絵詞えことばえがかれた、ばん善男よしおおもわれる人物じんぶつ
時代じだい 平安へいあん時代じだい初期しょき - 前期ぜんき
生誕せいたん ひろしひとし2ねん811ねん
死没しぼつ さだかん10ねん868ねん
別名べつめい ばん大納言だいなごん
墓所はかしょ 兵庫ひょうごけん姫路ひめじ林田はやしだまち
官位かんい せいさん大納言だいなごん
主君しゅくん 淳和天皇じゅんなてんのう仁明天皇にんみょうてんのう文徳ふみのり天皇てんのう清和せいわ天皇てんのう
氏族しぞく ばん
父母ちちはは ちちばん国道こくどうははしょう
兄弟きょうだい 高道たかみちけいどうあんみち国清くにきよ善男ぜんなんかわおとこ
つま しょう
中庸ちゅうようぜんぎょぜんあしいんすけ
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ばん 善男よしお(ともの よしお、ひろしひとし2ねん811ねん〉- さだかん10ねん868ねん〉)は、平安へいあん時代じだい初期しょきから前期ぜんきにかけての公卿くぎょう参議さんぎばん国道こくどうなん官位かんいせいさん大納言だいなごんばん大納言だいなごんばれた。

経歴けいれき

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ひろしひとし2ねん811ねんばん国道こくどうおとことして誕生たんじょう生誕せいたんについてはちち国道こくどう佐渡さどこく配流はいるちゅうまれたとされるが、きょう出生しゅっしょうしたとするせつ[1]、あるいは元来がんらい佐渡さど郡司ぐんじ従者じゅうしゃのちばん養子ようしになったというせつ[2]がある。なお、大伴おおともひろしひとし14ねん823ねん)の淳和天皇じゅんなてんのう大伴おおとも親王しんのう)の即位そくいともない、避諱のためにばん改姓かいせいしている。

てんちょう7ねん830ねん)にこうしょ殿どのかんじんせられ仁明天皇にんみょうてんのう近侍きんじすると、その知遇ちぐう次第しだい重用じゅうようされるようになる。うけたまわ8ねん841ねんだい内記ないきうけたまわ9ねん842ねん蔵人くろうどけん式部しきぶだいすすむて、うけたまわ10ねん843ねんしたがえみぎしょうべんけん讃岐さぬき権守ごんもり叙任じょにんされた。

うけたまわ13ねん846ねん)のぜん訴訟そしょう事件じけんでは、当時とうじ事務じむ慣例かんれい沿ってった訴訟そしょうあつかいが律令りつりょうはんするとして、ひだりだいべんせい躬王はじ同僚どうりょうの5にんべんかん全員ぜんいん弾劾だんがい失脚しっきゃくさせる[3]。また、かつて大伴家持おおとものやかもち所有しょゆう藤原ふじわらたねつぎ暗殺あんさつ事件じけん関与かんよによって没収ぼっしゅうされ、だい学寮がくりょう勧学かんがく編入へんにゅうされていた加賀かがこくの100まちあまりの水田すいでんについて、すで家持いえもち無罪むざいとして赦免しゃめんされているのに返還へんかんされないのは不当ふとう主張しゅちょうし、強引ごういん返還へんかんさせたという[4]

その急速きゅうそく昇進しょうしんし、うけたまわ14ねん847ねんしたがえじょう蔵人くろうどあたまけんみぎちゅうわきまえよくよしみさち元年がんねん848ねん)にはしたがえよん参議さんぎけんみぎだいべん叙任じょにんされ公卿くぎょうれっす。じん明朝みんちょうでは政官せいかんとしてみぎ衛門えもんとく検非違使けびいし別当べっとう式部しきぶ大輔だいすけねた。また、同年どうねんには 山崎やまざききょう修復しゅうふくのために派遣はけんされた安倍あべあんひとしみなもとひろし同行どうこうしている[5]

よしみさち3ねん850ねん文徳ふみのり天皇てんのう即位そくいともなしたがえよんじょう昇叙しょうじょすると、じん寿ことぶき3ねん853ねんせいよんひとし元年がんねん855ねんしたがえさんつづ順調じゅんちょう昇進しょうしんつづけた。またこのあいだ皇太后こうたいごうみや大夫たいふ中宮なかみや大夫たいふ兼帯けんたいする一方いっぽう右大臣うだいじん藤原ふじわらりょうぼうらと『ぞく日本にっぽん』の編纂へんさんにもたずさわっている[6]

清和せいわあさはいってもさだかん元年がんねん859ねんせいさんさだかん2ねん860ねん中納言ちゅうなごん累進るいしんし、さだかん6ねん864ねん)には大納言だいなごんいたった。ばん大伴おおとも)の大納言だいなごんへの任官にんかんは、天平てんぺい2ねん730ねん)の大伴旅人おおとものたびと以来いらいやく130ねんぶりのことであった。

さだかん8ねん866ねんうるう3がつおうてんもん放火ほうかされる事件じけんこると、善男ぜんなん左大臣さだいじん源信みなもとのまこと犯人はんにんであると告発こくはつした。源信みなもとのまことやしき近衛このえへい包囲ほういされるさわぎになったが、太政大臣だじょうだいじん藤原ふじわらりょうぼう清和せいわ天皇てんのうへの奏上そうじょうにより源信みなもとのまこと無実むじつとされた。8月になるとおうてんもん放火ほうか善男ぜんなんとそのであった中庸ちゅうようらの陰謀いんぼうとする密告みっこくがあり、拷問ごうもんけたが、はんじょう否認ひにんのまま善男ぜんなん犯人はんにんとして断罪だんざいされ[7][8]死罪しざいとされたが、善男ぜんなんがかつて自分じぶん抜擢ばってきしてくれた仁明天皇にんみょうてんのうのために毎年まいとし法要ほうようおこなっていたという忠節ちゅうせつめんじるかたちつみ一等いっとうゆるされて流罪るざいけっした。善男ぜんなん伊豆いずこく中庸ちゅうよう隠岐おきこくながされたほか、ばんきのらのおおくが流罪るざいしょせられた(おうてんもんへん[9]

配流はいる消息しょうそくはよくかっていないが、さだかん10ねん868ねん配所はいしょ伊豆いず死去しきょしたという[9]

人物じんぶつ

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まれつき爽俊(人品じんぴんすぐれている)な一方いっぽうで、狡猾こうかつであり黠児(わるがしこいおとこ)とばれた。また、傲岸ごうがんひとけなかった。弁舌べんぜつ達者たっしゃで、明察めいさつ果断かだん政務せいむつうじていたが、ひろしひろし高雅こうがさがなく、せいにんこくであったという。風貌ふうぼうは、眼窩がんかふかくくぼみ、もみあげながく、体躯たいく矮小わいしょうであった[10]

かんれき

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注記ちゅうきのないものは『ろく国史こくし』による。

系譜けいふ

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子孫しそん

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伊豆いず吉奈よしな善名ぜんなてらにはめいに「ばん二親ふたおや生霊いきりょう ぜんぎょ ぜんあし」の文字もじきざまれた仏像ぶつぞうがある[9]。「石井いしい系図けいず」はぜんぎょぜんあし善男ぜんなんしるしており、子孫しそん伊豆いずこく国司こくしであるだいじょうじょうになっている[9]善男ぜんなん子孫しそん伊豆いず土着どちゃく国衙こくが勤務きんむするかんじんになったと推定すいていされている[9]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 日本にっぽんさんだい実録じつろく』によると国道こくどうのべれき24ねん805ねん)に恩赦おんしゃにより帰京ききょうしたとされる。
  2. ^ 宇治うじ拾遺しゅうい物語ものがたり』など
  3. ^ ぞく日本にっぽんうけたまわ13ねん11月14にちじょう
  4. ^ 意見いけんじゅう箇条かじょう
  5. ^ 安田やすだ政彦まさひこ災害さいがい復興ふっこう日本にっぽん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2013ねん2がつ1にち発行はっこう) p29、全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:22196456
  6. ^ 日本にっぽん文徳ふみのり天皇てんのう実録じつろくひとし衡2ねん2がつ17にちじょう
  7. ^ こうだんしょう』によると、「ばん中庸ちゅうよう自白じはくした」といつわりをって自白じはくせまったところ、善男ぜんなん観念かんねんして自白じはくしたという。
  8. ^ 実際じっさい中庸ちゅうよう単独たんどく犯行はんこうちち善男ぜんなんらぬところであったが、事件じけん激怒げきどした清和せいわ天皇てんのう意向いこう善男ぜんなん連座れんざしたとするせつもある(鈴木すずき琢郎たくろう摂関せっかんせい成立せいりつにおける「おうてんもんへん」」『日本にっぽん古代こだい大臣だいじんせい』(はなわ書房しょぼう、2018ねんISBN 978-4-8273-1298-0 (はら論文ろんぶん:2015ねん))。
  9. ^ a b c d e 12 貴族きぞくながされたくに伊豆いず”. 静岡しずおか県立けんりつ中央ちゅうおう図書館としょかん. 2022ねん1がつ4にち閲覧えつらん
  10. ^ a b c 日本にっぽんさんだい実録じつろくさだかん8ねん9がつ22にちじょう
  11. ^ 佐伯さえきゆうきよしばん善男よしお』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1986ねん
  12. ^ a b c d e f g h i j k l 公卿くぎょう補任ほにん
  13. ^ a b 石井いしい系図けいず」『静岡しずおかけん資料しりょうへん4古代こだい,1117ぺーじ

関連かんれん項目こうもく

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