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みなもとひろし

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みなもと ひろし
時代じだい 平安へいあん時代じだい初期しょき前期ぜんき
生誕せいたん ひろしひとし3ねん812ねん
死没しぼつ さだかん5ねん1がつ25にち863ねん2がつ16にち
別名べつめい 広幡ひろはた大納言だいなごん
官位かんい せいさん大納言だいなごん
主君しゅくん 淳和天皇じゅんなてんのう仁明天皇にんみょうてんのう文徳ふみのり天皇てんのう清和せいわ天皇てんのう
氏族しぞく 嵯峨さがはじめ
父母ちちはは ちち嵯峨天皇さがてんのうははうえ
兄弟きょうだい 嵯峨天皇さがてんのう#系譜けいふ参照さんしょう
つま 阿保あほ親王しんのうむすめ
どうせんそうみちまれえつあきらちか
テンプレートを表示ひょうじ

みなもと ひろし(みなもと の ひろむ)は、平安へいあん時代じだい初期しょきから前期ぜんきにかけての公卿くぎょう嵯峨天皇さがてんのう皇子おうじ嵯峨さがだい源氏げんじ)。官位かんいせいさん大納言だいなごん広幡ひろはた大納言だいなごんごうす。

経歴けいれき

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ひろしひとし5ねん814ねん)に兄弟きょうだいしんつねとともにみなもと朝臣あそんせいたまものあずかされ臣籍しんせき降下こうか淳和じゅんなちょうてんちょう5ねん828ねん无位からしたがえよん直叙ちょくじょされ、てんちょう7ねん830ねんしたがえよんじょう宮内卿くないきょう叙任じょにんされる。

仁明にんみょうちょう初頭しょとううけたまわ元年がんねん834ねんせいよんじょせられると、仁明にんみょうちょうでは治部じぶきょう刑部おさかべきょうひとし歴任れきにんし、うけたまわ9ねん842ねん)におなどしおとうとつねおくれること10ねんにして参議さんぎとなり公卿くぎょうれっす。政官せいかんとして治部じぶきょうひだりだいべんねたのち、うけたまわ14ねん847ねんしたがえさんよしみさち元年がんねん848ねん中納言ちゅうなごん昇進しょうしんした。また、同年どうねん水害すいがいにより流失りゅうしつした山崎やまざききょう修復しゅうふくのために安倍あべあんひとし滋野しげのさだぬしばん善男よしおらとともに現地げんち派遣はけんされている[1]

その官途かんとではおとうとじょう安倍あべあんひとし後塵こうじんはいすが、じん寿ことぶき元年がんねん851ねんせいさんじょせられ、清和せいわちょう初頭しょとうさだかん元年がんねん859ねん)には大納言だいなごんいたった。さだかん5ねん863ねん正月しょうがつ25にち当時とうじ流行りゅうこうしていたせきぎゃくびょうによって、おとうとじょうあい前後ぜんごしてぼっした。享年きょうねん52。最終さいしゅう官位かんい大納言だいなごんせいさん

人物じんぶつ

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性格せいかく温厚おんこう仁愛じんあいしんふかかった。政務せいむ通暁つうぎょうしており決断けつだんりょくもあった。

おさなころから明敏めいびん経書けいしょ史書ししょこのんでんだ。嵯峨天皇さがてんのう皇子おうじなかではもっと好学こうがくしんがあり、天皇てんのうから特別とくべつ経書けいしょたまものあずかされるなど、皇子おうじくらべていえには非常ひじょうおおくのたまものあずかされた書籍しょせきがあったが、読書どくしょむようなことはなかったという。管弦かんげんこのみ、公事こうじえて退庁たいちょうしたあとは、きん読書どくしょたのしみとしていた。また、隷書れいしょにもひいでた[2]漢詩かんしじんとして『経国けいこくしゅう』に漢詩かんし作品さくひん採録さいろくされている。

かんれき

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注記ちゅうきのないものは『ろく国史こくし』による。

系譜けいふ

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尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』による。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 安田やすだ政彦まさひこ災害さいがい復興ふっこう日本にっぽん』p29 吉川弘文館よしかわこうぶんかん 2013ねん2がつ1にち発行はっこう 全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:22196456
  2. ^ 日本にっぽんさんだい実録じつろくさだかん5ねん正月しょうがつ25にちじょう
  3. ^ 新撰しんせん姓氏せいしろく左京さきょうすめらぎべつ
  4. ^ a b c d 公卿くぎょう補任ほにん

参考さんこう文献ぶんけん

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