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みなもとつね

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みなもと つね
みなもとつね(『前賢ぜんけん故実こじつ』より)
時代じだい 平安へいあん時代じだい初期しょき
生誕せいたん ひろしひとし3ねん812ねん
死没しぼつ じん寿ことぶき4ねん6月13にち854ねん7がつ15にち
改名かいめい つねおうみなもとつね
別名べつめい 東三条ひがしさんじょう左大臣さだいじん
官位かんい せい左大臣さだいじんおくせいいち
主君しゅくん 淳和天皇じゅんなてんのう仁明天皇にんみょうてんのう文徳ふみのり天皇てんのう
氏族しぞく 嵯峨さがはじめ
父母ちちはは ちち嵯峨天皇さがてんのうははたく刀自とじ飯高いいたかたけしあしむすめ
兄弟きょうだい ゆう智子さとこ内親王ないしんのうきよしひめ正良まさよし親王しんのう正子まさこ内親王ないしんのうしんさだひめひろしつねぜんひめひろしあきらぜんひめじょうしゅうりょう親王しんのう忠良ただよし親王しんのうせいやすとおるつとむけいごうりょう親王しんのう基良もとよし親王しんのうごう内親王ないしんのう秀子ひでこ内親王ないしんのう俊子としこ内親王ないしんのう芳子よしこ内親王ないしんのう繁子しげこ内親王ないしんのう基子もとこ内親王ないしんのう仁子さとこ内親王ないしんのう宗子むねこ内親王ないしんのう純子じゅんこ内親王ないしんのう斉子せいこ内親王ないしんのうじゅんおうきよしきよしかちけんつぎわかひめみつひめはしひめみつるひめさらひめかみひめようひめわれひめこえひめとしひめりょうひめ
きょうじきそう、備
養子ようしけい
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みなもと つね(みなもと の ときわ)は、平安へいあん時代じだい初期しょき公卿くぎょう嵯峨天皇さがてんのう皇子おうじ嵯峨さがだいさん源氏げんじ)。官位かんいせい左大臣さだいじんおくせいいち東三条ひがしさんじょう左大臣さだいじんともばれる。

経歴けいれき

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ひろしひとし5ねん814ねん)にあにしんひろしともみなもと朝臣あそんせいたまものあずかされ臣籍しんせき降下こうかする。

淳和じゅんなちょうてんちょう5ねん828ねんひろし同時どうじ無位むいからしたがえよん直叙ちょくじょされ、つね兵部ひょうぶきょうにんぜられる。てんちょう7ねん830ねんふたたひろし同時どうじ昇叙しょうじょされてしたがえよんじょうとなるが、よくてんちょう8ねん831ねん正月しょうがつさんかい昇進しょうしんしてしたがえさんじょせられ、嵯峨さがはじめ兄弟きょうだいなかでいちはや公卿くぎょうれっす。同年どうねん7がつしんじ参議さんぎにんぜられて公卿くぎょうくわわるが、よくてんちょう9ねん832ねんつねは21さいわかさで参議さんぎずに中納言ちゅうなごん昇進しょうしんし、その嵯峨さがはじめ筆頭ひっとうかくとして先頭せんとうって順調じゅんちょう昇進しょうしんしていく。

てんちょう10ねん833ねん仁明天皇にんみょうてんのう即位そくいともなってせいさんじょせられると、うけたまわ4ねん837ねんひだり近衛このえ大将たいしょううけたまわ5ねん838ねん大納言だいなごんにんぜられ、20さいだいなかばにして左大臣さだいじん藤原ふじわらいとぐち右大臣うだいじん藤原ふじわらさんもりいで太政官だじょうかんだいさん席次せきじまでのぼる。うけたまわ7ねん840ねん右大臣うだいじん藤原ふじわらさんもり薨去こうきょにより、つねがそのにんとして右大臣うだいじんけん東宮とうぐうでん皇太子こうたいし恒貞親王つねさだしんのう)となる。このとし発行はっこうされたかく11つうのうち過半かはんめる6つうつねうえきょうつと[1]いちじょうであった左大臣さだいじん藤原ふじわらいとぐち嗣をしのいで実質じっしつてき筆頭ひっとう公卿くぎょうとしての職責しょくせきたしている[2]うけたまわ8ねん841ねんしたがえ

うけたまわ9ねん842ねんうけたまわへん発生はっせいし、恒貞親王つねさだしんのう皇太子こうたいしはいされるととも多数たすう春宮とうぐうぼうかんじん処罰しょばつされるが、東宮とうぐうでんつねなんのがれ、さらにはしん皇太子こうたいしみちやすし親王しんのう東宮とうぐうでんにんぜられている。うけたまわ10ねん843ねん)には桓武かんむあさまつからながきにわた公卿くぎょうれつしていた左大臣さだいじん藤原ふじわらいとぐちぼっし、つねは32さいにして太政官だじょうかん首班しゅはんち、その10ねんにあまりにわたってその地位ちいめ、兄弟きょうだいしんじょうひろしとも嵯峨さがはじめとして朝廷ちょうてい一大いちだい政治せいじ勢力せいりょくをなした。このあいだうけたまわ11ねん844ねん左大臣さだいじん昇進しょうしんしている。またじん明朝みんちょうでは、うけたまわ7ねん840ねん)に完成かんせいした『日本にっぽん』の編纂へんさんにもたずさわった。

よしみさち3ねん850ねん文徳ふみのり天皇てんのう即位そくいせいじょせられた。じん寿ことぶき4ねん854ねん)6がつ13にち薨去こうきょ享年きょうねん43。最終さいしゅう官位かんい左大臣さだいじんせい没後ぼつごせいいち位階いかいおくられた。

人物じんぶつ

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素行そこういていて物事ものごとどうじず、風神ふうじんのようにしずか爽としているとして、皇子おうじくらべて、ちち嵯峨天皇さがてんのうからとく寵愛ちょうあいされたという。のこなしが優雅ゆうがで、言論げんろんおだやかであった。人材じんざい見抜みぬくのにすぐれ、才能さいのうを推引し、讒侫のとおざけ、「丞相じょうしょううつわ」とひょうされた[3]

漢詩かんし作品さくひんが『経国けいこくしゅう』に採録さいろくされているほか[4]歌人かじんとしても『古今ここん和歌集わかしゅう』にその詠歌えいかせる[5]

かんれき

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注記ちゅうきのないものは『ろく国史こくし』による。

系譜けいふ

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尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』による。

つね姻戚いんせき関係かんけいあきらかでないが、「長谷寺はせでら霊験れいけん」において藤原ふじわらつよしとも孫娘まごむすめとの姻戚いんせき関係かんけいつたえる説話せつわがあるほか、生母せいぼ飯高いいたかかいしての藤原ふじわらさんもりとの関係かんけいたいする指摘してきもある[8]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 類聚るいじゅうさんだいかく
  2. ^ 大和やまと[1991: 682]
  3. ^ 日本にっぽん文徳ふみのり天皇てんのう実録じつろくひとし衡元ねん6がつ13にちじょう
  4. ^ 経国けいこくしゅうまき10
  5. ^ 古今ここん和歌集わかしゅう』36
  6. ^ 新撰しんせん姓氏せいしろく左京さきょうすめらぎべつ
  7. ^ a b c 公卿くぎょう補任ほにん
  8. ^ 大和やまと[1991: 681]

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 森田もりた日本にっぽんなか)』講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、2006ねん
  • 森田もりた悌『日本にっぽんした)』講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、2007ねん
  • 森田もりた悌『ぞく日本にっぽんうえ)』講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、2010ねん
  • 森田もりた悌『ぞく日本にっぽんした)』講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、2010ねん
  • 公卿くぎょう補任ほにん だいいちへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1982ねん
  • 大和やまと典子のりこみなもと朝臣あそんつね左大臣さだいじん就任しゅうにんについて--うけたまわ11ねん政局せいきょく中心ちゅうしんに」『政治せいじ経済けいざい史学しがく』300、1991ねん