門跡 もんぜき (もんぜき、もんせき)は、皇族 こうぞく ・公家 くげ が住職 じゅうしょく を務 つと める特定 とくてい の寺院 じいん 、あるいはその住職 じゅうしょく のことである。寺格 じかく の一 ひと つ。元来 がんらい は、日本 にっぽん の仏教 ぶっきょう の開祖 かいそ の正式 せいしき な後継 こうけい 者 しゃ のことで「門葉 もんよう 門流 もんりゅう 」の意 い であった(この場合 ばあい は門主 もんしゅ とも)。鎌倉 かまくら 時代 ときよ 以降 いこう は位階 いかい の高 たか い寺院 じいん そのもの、つまり寺格 じかく を指 さ すようになり、それらの寺院 じいん を門跡 もんぜき 寺院 じいん と呼 よ ぶようになった。また、御 ご 由緒 ゆいしょ 寺院 じいん 、尼 あま 門跡 もんぜき 寺院 じいん (皇女 おうじょ や王女 おうじょ が務 つと める寺院 じいん )ともいう[ 1] 。寺格 じかく が高 たか く、皇室 こうしつ から特別 とくべつ の礼遇 れいぐう と特権 とっけん を与 あた えられ、住職 じゅうしょく は各 かく 宗派 しゅうは の管長 かんちょう と同等 どうとう の待遇 たいぐう を受 う ける[ 1] 。
浄土宗 じょうどしゅう の知 ち 恩 おん 院 いん 門跡 もんぜき は浄土 じょうど 門主 もんしゅ (もんす)という。
浄土真宗 じょうどしんしゅう 本願寺 ほんがんじ 派 は の本願寺 ほんがんじ 住職 じゅうしょく は門主 もんしゅ (もんしゅ)、真宗 しんしゅう 大谷 おおや 派 は の僧侶 そうりょ および門徒 もんと の代表 だいひょう 者 しゃ は門 もん 首 くび (もんしゅ)と書 か き、いずれも親鸞 しんらん の子孫 しそん の大谷 おおや 家 か から出 で ている。
永村 ながむら 眞 しん の説 せつ によれば、「門跡 もんぜき 」という用語 ようご は、平安 へいあん 時代 じだい に法 ほう 流 りゅう ・門徒 もんと (法 ほう 流 りゅう の構成 こうせい 員 いん )の意味 いみ に用 もち いられ、鎌倉 かまくら 時代 ときよ になると院 いん 家 か (法 ほう 流 りゅう の拠点 きょてん 施設 しせつ )・院主 いんじゅ (院 いん 家 か の住持 じゅうじ )の意味 いみ に転 てん じ、南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい 以降 いこう になると特定 とくてい の貴種 きしゅ がいる院 いん 家 か ・院主 いんじゅ の意味 いみ で定着 ていちゃく したとしている。法 ほう 流 りゅう はその教 おし えを維持 いじ するために有力 ゆうりょく な檀越 だんおち である天皇 てんのう 家 か や摂関 せっかん 家 か などに出自 しゅつじ を持 も つ貴種 きしゅ の出身 しゅっしん 者 しゃ を後継 こうけい 者 しゃ として遇 ぐう し、法 ほう 流 りゅう の院 いん 家 か ・経典 きょうてん (物質 ぶっしつ 的 てき )および教 きょう 説 せつ ・秘 ひ 儀 ぎ (教学 きょうがく 的 てき )を相承 そうしょう することで、排他 はいた 的 てき 管理 かんり と内外 ないがい に対 たい する優位 ゆうい 性 せい を確立 かくりつ していったのである。
宇多天皇 うだてんのう が出家 しゅっけ して仁和寺 にんなじ に入室 にゅうしつ し御室 おむろ 御所 ごしょ と称 しょう し、御室 おむろ 門跡 もんぜき となったのが始 はじ まりである。仁和寺 にんなじ は当初 とうしょ は宇多天皇 うだてんのう の子孫 しそん (宇多 うた 源 はじめ 氏 し )が住職 じゅうしょく である別当 べっとう を務 つと めていたが、三条 さんじょう 天皇 てんのう の皇子 おうじ である性 せい 信 しん 入道 にゅうどう 親王 しんのう が住職 じゅうしょく に就 つ いた際 さい に別当 べっとう よりも上位 じょうい である検校 けんぎょう を称 しょう し、その後 ご を白河天皇 しらかわてんのう の皇子 おうじ である覚 さとし 行 ぎょう 法親王 ほうしんのう が継 ままし いだことから皇族 こうぞく が住職 じゅうしょく を務 つと める真言宗 しんごんしゅう の寺院 じいん と認識 にんしき され、後 ご の門跡 もんぜき 寺院 じいん のはしりとなった。
一方 いっぽう 、天台宗 てんだいしゅう の総本山 そうほんざん である延暦寺 えんりゃくじ では、12世紀 せいき の初 はじ めに天台座主 てんだいざしゅ の仁 ひとし 豪 ごう (明快 めいかい の弟子 でし )と無動寺 むどうじ の寛 ひろし 慶 けい (後 のち に天台座主 てんだいざしゅ 、行 くだり 玄 げん の師 し )が寺 てら を2つに分 わ ける内紛 ないふん を起 お こし、その影響 えいきょう は後々 あとあと にも及 およ んだ(源平 げんぺい 合戦 かっせん の際 さい にも仁 ひとし 豪 ごう の法 ほう 流 りゅう は平家 へいけ を支持 しじ し、寛 ひろし 慶 けい の法 ほう 流 りゅう は中立 ちゅうりつ の立場 たちば に立 た った)。前者 ぜんしゃ は三 さん 千 せん 院 いん (梨本 なしもと ・梶井 かじい )、後者 こうしゃ は青 あお 蓮 れん 院 いん を拠点 きょてん とし、前者 ぜんしゃ には堀河 ほりかわ 天皇 てんのう の皇子 おうじ である最 さい 雲 くも 法親王 ほうしんのう 、後者 こうしゃ には鳥羽天皇 とばてんのう の皇子 おうじ である覚 さとし 快 かい 法親王 ほうしんのう 、次 つ いで摂関 せっかん 家 か 出身 しゅっしん の慈円 じえん が入 はい ったことで格式 かくしき を高 たか めて門跡 もんぜき 寺院 じいん となった。なお、一般 いっぱん には明快 めいかい が梨本 なしもと 門跡 もんぜき の祖 そ 、行 くだり 玄 げん が青 あお 蓮 はちす 院 いん 門跡 もんぜき の祖 そ とみなされているが、梨本 なしもと ・青 あお 蓮 れん 院 いん が「両 りょう 門跡 もんぜき 」と称 しょう されるようになったのは鎌倉 かまくら 時代 じだい に入 はい った1220年代 ねんだい と推定 すいてい されている。その後 ご 、後白河天皇 ごしらかわてんのう ゆかりの妙法 みょうほう 院 いん が後 こう 高倉 たかくら 院 いん 皇子 おうじ である尊 みこと 性 せい 法親王 ほうしんのう を迎 むか えたことで格式 かくしき を高 たか め、1260年代 ねんだい には両 りょう 門跡 もんぜき と肩 かた を並 なら べるようになり、1280年代 ねんだい には「三 さん 門跡 もんぜき 」と呼 よ ばれるようになった。
鎌倉 かまくら 時代 じだい 初期 しょき 頃 ごろ からは皇族 こうぞく や摂家 せっけ 等 ひとし の子弟 してい が特定 とくてい の寺院 じいん に出家 しゅっけ するようになる(摂政 せっしょう 九条 くじょう 道家 どうか の息 いき 法 ほう 助 すけ が初 はじ めて皇族 こうぞく でない御室 おむろ 門跡 もんぜき となる[ 5] )。これは、武家 ぶけ が実権 じっけん を持 も ったために平安 へいあん 時代 じだい よりも経済 けいざい 力 りょく が低下 ていか した皇室 こうしつ や公家 くげ が、跡取 あとと りとなる長男 ちょうなん や次男 じなん 以外 いがい を出家 しゅっけ させたためである。なお、ここで言 い う長男 ちょうなん ・次男 じなん とは単純 たんじゅん な出生 しゅっしょう 順 じゅん ではなく、母親 ははおや が正妻 せいさい か側室 そくしつ か、それともそれ以下 いか の身分 みぶん かによって、当然 とうぜん のように優先 ゆうせん 順位 じゅんい が決 き められた。
医療 いりょう の発達 はったつ していなかった時代 じだい は、病気 びょうき で子 こ に万 まん 一 いち のことがあり、家系 かけい が断絶 だんぜつ することがないように、正妻 せいさい の他 ほか に側室 そくしつ を持 も ちたくさんの子 こ をもうけることが、上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう の「家 いえ 」の存続 そんぞく のために必要 ひつよう であったが、同時 どうじ にそのことは冠婚葬祭 かんこんそうさい で多 おお くの出費 しゅっぴ を伴 ともな うことに直結 ちょっけつ した。出家 しゅっけ すると婚姻 こんいん しないため、結納 ゆいのう ・支度 したく 金 きん ・婚礼 こんれい 費用 ひよう 等 とう の直接的 ちょくせつてき な出費 しゅっぴ の削減 さくげん になるだけでなく、子 こ を作 つく らないため、宮家 みやけ や別家 べっけ を作 つく ることがなく、家 いえ として大幅 おおはば な経費 けいひ の節減 せつげん となるうえ、少 すく ない領地 りょうち をさらに分封 ぶんぽう することを防 ふせ ぐこともできた。なお、家 いえ に残 のこ った跡取 あとと りに万 まん 一 いち のことがあれば、出家 しゅっけ した子弟 してい のうちの選 えら ばれたものが還俗 げんぞく して家 いえ を継 つ いだ。
また、多 おお くの男子 だんし のうちの限 かぎ られたもの以外 いがい を出家 しゅっけ させることは、結果 けっか 的 てき に後継 こうけい 者 しゃ 候補 こうほ を限定 げんてい させることにつながり、跡継 あとつ ぎ争 あらそ いを減少 げんしょう させることにも役立 やくだ った。
(武家 ぶけ の場合 ばあい 、次男 じなん 以下 いか は出家 しゅっけ することは少 すく なく「部屋住 へやず み 」として、分家 ぶんけ ができない場合 ばあい は、他家 たけ への養子 ようし に入 はい るのを待 ま つことが多 おお かった。)
子弟 してい らは荘園 しょうえん を所有 しょゆう しておりその経済 けいざい 力 りょく を背景 はいけい とした政治 せいじ 力 りょく をもって、受 う け入 い れた寺院 じいん 内 ない の支配 しはい 権 けん を掌握 しょうあく するようになり、各 かく 門流 もんりゅう を継承 けいしょう するようになった。これらが慣例 かんれい 化 か してやがて、「門跡 もんぜき 」自体 じたい が「貴族 きぞく 」出身 しゅっしん 者 しゃ によって継承 けいしょう される特定 とくてい の院 いん 家 か ・寺院 じいん を指 さ す称号 しょうごう へと変化 へんか した。
そして室町 むろまち 時代 ときよ になると、寺格 じかく としての「門跡 もんぜき 」が確立 かくりつ し、室町 むろまち 幕府 ばくふ には、門跡 もんぜき 寺院 じいん に関 かん する政務 せいむ を執 と る門跡 もんぜき 奉行 ぶぎょう が置 お かれた。また、足利 あしかが 義満 よしみつ 以降 いこう 、自分 じぶん の子弟 してい をはじめとする足利 あしかが 将軍家 しょうぐんけ の一門 いちもん を門跡 もんぜき 寺院 じいん に入 い れるようになった。本来 ほんらい は皇室 こうしつ の子弟 してい が入 はい るべき門跡 もんぜき 寺院 じいん に足利 あしかが 将軍家 しょうぐんけ の一門 いちもん が入 はい ることについて、かつては研究 けんきゅう 者 しゃ の間 あいだ において天皇 てんのう 家 か に代 か わって仏教 ぶっきょう 界 かい を支配 しはい すること、あるいは皇位 こうい 簒奪 さんだつ 実現 じつげん のための手段 しゅだん の一 ひと つと見 み なして「僭上 せんじょう の至 いた り」などと指摘 してき されることもあった[ 6] 。しかし、実際 じっさい には仏教 ぶっきょう 統制 とうせい の意味合 いみあ いよりも、皇室 こうしつ や摂家 せっけ と同様 どうよう に家 いえ を継 つ ぐ子 こ 以外 いがい の者 もの を出家 しゅっけ させることで世俗 せぞく から切 き り離 はな し、政治 せいじ 的 てき ・経済 けいざい 的 てき リスクを減 へ らそうとしたと考 かんが えられている。特 とく に足利尊氏 あしかがたかうじ の庶子 しょし で一 いち 時期 じき 父 ちち と対立 たいりつ した足利 あしかが 直冬 ただふゆ 及 およ び嫡男 ちゃくなん 冬 ふゆ 氏 し 及 およ び足利 あしかが 義満 よしみつ の弟 おとうと である足利 あしかが 満 みつる 詮 かい の子弟 してい は全員 ぜんいん 門跡 もんぜき 寺院 じいん に送 おく られてその血筋 ちすじ を断絶 だんぜつ させることで、室町 むろまち 殿 どの (足利 あしかが 将軍家 しょうぐんけ )を脅 おびや かす要素 ようそ を排除 はいじょ している。なお、足利 あしかが 将軍家 しょうぐんけ が断絶 だんぜつ した際 さい には門跡 もんぜき 寺院 じいん に入 はい った将軍 しょうぐん の子弟 してい が還俗 げんぞく して家 いえ を継 つ いており、6代 だい 将軍 しょうぐん 足利 あしかが 義教 よしのり (青 あお 蓮 れん 院 いん 義円 ぎえん )・11代 だい 将軍 しょうぐん 足利 あしかが 義澄 よしずみ (香 こう 厳 げん 院 いん 清晃 きよあき )・15代 だい 将軍 しょうぐん 足利 あしかが 義昭 よしあき (一 いち 乗 じょう 院覚 いんかく 慶 けい )は門跡 もんぜき 寺院 じいん に入 はい った後 のち に還俗 げんぞく して将軍家 しょうぐんけ を継承 けいしょう している。更 さら に義満 よしみつ の時代 じだい 、幕府 ばくふ が後 うし ろ盾 たて になっていた持明院 じみょういん 統 みつる (伏見 ふしみ 宮 みや を含 ふく む)では男子 だんし 皇族 こうぞく の早世 そうせい が多 おお く、皇統 こうとう そのものが断絶 だんぜつ しかねない危機 きき の中 なか で門跡 もんぜき 寺院 じいん に入 い れられる皇族 こうぞく の絶対 ぜったい 数 すう が不足 ふそく していた(実際 じっさい に持明院 じみょういん 統 みつる 嫡流 ちゃくりゅう は断絶 だんぜつ し、伏見 ふしみ 宮 みや から後 こう 花園天皇 はなぞのてんのう が迎 むか えられることになる)。こうした状況 じょうきょう で仏教 ぶっきょう 界 かい 側 がわ からも皇族 こうぞく に代 か わりうる「貴種 きしゅ 」の供給 きょうきゅう 源 げん として足利 あしかが 将軍家 しょうぐんけ が期待 きたい された側面 そくめん もあったのである[ 7] 。
江戸 えど 幕府 ばくふ では、宮門 きゅうもん 跡 あと (親王 しんのう 門跡 もんぜき )・摂家 せっけ 門跡 もんぜき ・清華 せいか 門跡 もんぜき ・公方 くぼう 門跡 もんぜき (武家 ぶけ 門跡 もんぜき )・准 じゅん 門跡 もんぜき (脇 わき 門跡 もんぜき )などに区分 くぶん して制度 せいど 化 か した。禁中 きんちゅう 並 なみ 公家 くげ 諸 しょ 法度 はっと (第 だい 13条 じょう )では、天皇 てんのう の皇子 おうじ ・連枝 れんし (兄弟 きょうだい )である宮門 きゅうもん 跡 あと は摂家 せっけ 出身 しゅっしん の摂家 せっけ 門跡 もんぜき よりも上 うえ とされ(宮中 きゅうちゅう 内 ない では摂家 せっけ は親王 しんのう の上 うえ とされていたことから反対 はんたい の扱 あつか いとなる)、同格 どうかく であればその修行 しゅぎょう 期間 きかん の長 なが さに基 もと づいた。この規定 きてい によって天皇 てんのう の孫 まご 以下 いか (具体 ぐたい 的 てき には宮家 みやけ 出身 しゅっしん 者 しゃ )は宮門 きゅうもん 跡 あと にはなれないと解 ほぐ されたが、宮家 みやけ 出身 しゅっしん 者 しゃ が天皇 てんのう の猶子 ゆうし になった場合 ばあい の解釈 かいしゃく は曖昧 あいまい のまま残 のこ された。実際 じっさい に天和 てんわ 元年 がんねん (1681年 ねん )に後 こう 陽成 ようぜい 天皇 てんのう の孫 まご で伯父 おじ の後水尾天皇 ごみずのおてんのう の猶子 ゆうし となっていた良 よ 尚 なお 入道 にゅうどう 親王 しんのう (八 はち 条 じょう 宮家 みやけ )が門跡 もんぜき に列 れっ せられ、18世紀 せいき の末 すえ には宮門 きゅうもん 跡 あと は全員 ぜんいん 天皇 てんのう の猶子 ゆうし となった宮家 みやけ 出身 しゅっしん 者 しゃ が占 し めてこの状態 じょうたい で明治維新 めいじいしん を迎 むか える事 こと になった(安永 やすなが 8年 ねん (1780年 ねん )には皇統 こうとう 断絶 だんぜつ により閑院宮家 みやけ から光 ひかり 格 かく 天皇 てんのう が即位 そくい しており、天皇 てんのう の皇子 おうじ ・連枝 れんし を出家 しゅっけ させる余裕 よゆう は失 うしな われていたのである)[ 8] 。
なお、門跡 もんぜき 寺院 じいん の歴史 れきし の中 なか で特殊 とくしゅ な地位 ちい を占 し める存在 そんざい に本願寺 ほんがんじ がある。浄土真宗 じょうどしんしゅう の祖 そ ・親鸞 しんらん (日野 ひの 家 か 出身 しゅっしん )の直系 ちょっけい 子孫 しそん が継承 けいしょう した本願寺 ほんがんじ は歴史 れきし 的 てき 経緯 けいい [ 注釈 ちゅうしゃく 1] から妙香 みょうこう 院 いん 、後 のち に青 あお 蓮 はちす 院 いん 門跡 もんぜき の傘下 さんか に置 お かれていた(本願寺 ほんがんじ がたびたび行 い った朝廷 ちょうてい への献金 けんきん も青 あお 蓮 れん 院 いん を経由 けいゆ して申 もう し出 で がされていた)。ところが、戦国 せんごく 時代 じだい に入 はい ると専修寺 せんしゅうじ との勢力 せいりょく 争 あらそ いが深刻 しんこく になる中 なか 、証 あかし 如 ・顕如 けんにょ が2代 だい 続 つづ けて摂関 せっかん 家 か 九 きゅう 条 じょう 家 か の猶子 ゆうし となる一方 いっぽう 、青 あお 蓮 れん 院 いん 門跡 もんぜき が天文 てんもん 年間 ねんかん 末期 まっき に一時 いちじ 的 てき に空席 くうせき (弘治 こうじ 年間 ねんかん に後継 こうけい に決定 けってい した尊 とうと 朝 あさ 法親王 ほうしんのう も若年 じゃくねん で門跡 もんぜき としての職務 しょくむ が行 おこな い得 え ない)状態 じょうたい になったのを機 き に、青 あお 蓮 れん 院 いん からの自立 じりつ と専修寺 せんしゅうじ への対抗 たいこう を意図 いと して摂家 せっけ 門跡 もんぜき の例 れい に倣 なら って門跡 もんぜき に加 くわ えて貰 もら えるように朝廷 ちょうてい への工作 こうさく を行 おこな い、永 えい 禄 ろく 2年 ねん (1559年 ねん )に本願寺 ほんがんじ を門跡 もんぜき に列 れっ する正親町 おおぎまち 天皇 てんのう の勅許 ちょっきょ が出 だ された。ところが、天正 てんしょう 19年 ねん (1591年 ねん )に豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし の命 いのち で本願寺 ほんがんじ が京都 きょうと に移転 いてん し、2年 ねん 後 ご に顕如 けんにょ が亡 な くなった後 のち に発生 はっせい した後継 こうけい 問題 もんだい を巡 めぐ って東西 とうざい 本願寺 ほんがんじ に分裂 ぶんれつ すると、これまで本願寺 ほんがんじ が大 だい 坂 さか にあったために黙認 もくにん してきた京都 きょうと の古 ふる くからの諸 しょ 門跡 もんぜき 寺院 じいん が本願寺 ほんがんじ の門跡 もんぜき としての資格 しかく に異論 いろん を唱 とな えるようになる。更 さら に禁中 きんちゅう 並 なみ 公家 くげ 諸 しょ 法度 はっと の規定 きてい を厳密 げんみつ に解釈 かいしゃく すると、本願寺 ほんがんじ は門跡 もんぜき の要件 ようけん を満 み たしていない(日野 ひの 家 か は名家 めいか 格 かく )とされる可能 かのう 性 せい もあった。江戸 えど 幕府 ばくふ は本願寺 ほんがんじ の門跡 もんぜき としての扱 あつか いを従前 じゅうぜん 通 どお りとしてその要件 ようけん について判断 はんだん を示 しめ すことはなかったが、後水尾天皇 ごみずのおてんのう ・霊 れい 元 もと 天皇 てんのう は門跡 もんぜき としての特権 とっけん を否認 ひにん ・制限 せいげん する方針 ほうしん を示 しめ して東西 とうざい 本願寺 ほんがんじ と対立 たいりつ した。その結果 けっか 、霊 れい 元 もと 院政 いんせい 下 か の元禄 げんろく 13年 ねん (1700年 ねん )頃 ごろ になって、東西 とうざい 本願寺 ほんがんじ を諸 しょ 門跡 もんぜき の最 さい 後尾 こうび 、准 じゅん 門跡 もんぜき の格 かく と位置 いち づけられることになった。
法親王 ほうしんのう 、または入道 にゅうどう 親王 しんのう が住職 じゅうしょく として居住 きょじゅう する13の寺院 じいん 。十 じゅう 三 さん 門跡 もんぜき とも称 しょう する。実際 じっさい には親王 しんのう 家 か に限 かぎ って入 にゅう 寺 てら するのは輪 わ 王寺 おうじ ・仁和寺 にわじ ・大覚寺 だいかくじ の3門跡 もんぜき で、その他 た は摂家 せっけ や足利 あしかが 将軍家 しょうぐんけ からも入 にゅう 寺 てら することができた。6代 だい 将軍 しょうぐん 義教 よしのり が青 あお 蓮 はちす 院 いん から、15代 だい 将軍 しょうぐん 義昭 よしあき が一乗院 いちじょういん からそれぞれ還俗 げんぞく して将軍 しょうぐん となったほか、足利 あしかが 義視 よしみ (10代将軍 しょうぐん 義稙 よしたね の父 ちち )が浄土寺 じょうどじ から還俗 げんぞく して8代 だい 将軍 しょうぐん 義政 よしまさ の養子 ようし となっている。
摂家 せっけ の子弟 してい が住職 じゅうしょく となる。個々 ここ の門跡 もんぜき 寺院 じいん に固有 こゆう の称号 しょうごう ではなく、その時々 ときどき の住持 じゅうじ の出身 しゅっしん を指 さ す。室町 むろまち 時代 じだい 頃 ごろ から用 もち いられるようになった。
門跡 もんぜき に準 じゅん ずる格式 かくしき の寺院 じいん のこと。または、他 た の門跡 もんぜき 寺 てら に対 たい して従 したがえ の関係 かんけい にある門跡 もんぜき 寺 てら のこと。脇 わき 門跡 もんぜき ともいう。
天台宗 てんだいしゅう 五 ご 門跡 もんぜき (京都 きょうと 五箇 ごか 室 しつ 門跡 もんぜき )[ 編集 へんしゅう ]
浄土真宗 じょうどしんしゅう で門跡 もんぜき に准 じゅん ぜられた五 ご 寺 てら の総称 そうしょう 。五 ご 門徒 もんと ともいう。江戸 えど 時代 じだい 中期 ちゅうき 、文化 ぶんか 11年 ねん (1814年 ねん )に真宗 しんしゅう 木 き 辺 べ 派 は 本山 もとやま 錦織 にしきおり 寺 てら が、それまでの浄土宗 じょうどしゅう から浄土真宗 じょうどしんしゅう に復帰 ふっき し、准 じゅん 門跡 もんぜき に加 くわ えられた。
これら6家 いえ は明治 めいじ 5年 ねん 3月 がつ にいずれも華族 かぞく となった[ 12] 。明治 めいじ 29年 ねん 6月 がつ 9日 にち 、両 りょう 本願寺 ほんがんじ の大谷 おおや 家 か が伯爵 はくしゃく 、佛 ふつ 光 こう 寺 てら の渋谷 しぶや 家 か ・専修寺 せんしゅうじ の常 つね 磐井 いわい 家 か ・興 きょう 正 せい 寺 てら の華園 はなぞの 家 か ・錦織 にしきおり 寺 てら の木 き 辺 べ 家 か がそれぞれ男爵 だんしゃく に叙 じょ せられている。
皇女 おうじょ や貴族 きぞく の息女 そくじょ が住職 じゅうしょく となる寺院 じいん 。正式 せいしき には比丘尼 びくに 御所 ごしょ と称 しょう した。「尼 あま 門跡 もんぜき 」は明治 めいじ 以降 いこう の名称 めいしょう である。
このうち、奈良 なら にある圓照寺 えんしょうじ 、中宮 なかみや 寺 てら 、法華寺 ほっけじ は「大和 やまと の三 さん 尼 あま 門跡 もんぜき 寺 てら 」と呼 よ ばれる[ 1] 。円照寺 えんしょうじ は開山 かいさん 以来 いらい 10代 だい 中 ちゅう 少 すく なくとも6代 だい が天皇 てんのう の皇女 おうじょ もしくは養女 ようじょ 、中宮 なかみや 寺 てら は皇女 おうじょ 1名 めい 、王女 おうじょ 6名 めい 、法華寺 ほっけじ は徳川 とくがわ 期 き 以降 いこう はいない[ 1] 。
多 おお くの門跡 もんぜき 寺院 じいん は御所 ごしょ 周辺 しゅうへん にあった公家 くげ 町 まち (現 げん 京都 きょうと 御苑 ぎょえん )内 ない に、御 ご 里 さと 房 ぼう とよばれる別邸 べってい (京屋 きょうや 敷 じき )を構 かま えていた。門跡 もんぜき 寺院 じいん の門主 もんしゅ は、皇族 こうぞく や五摂家 ごせっけ の子弟 してい という家柄 いえがら の高 たか い人物 じんぶつ であり、御所 ごしょ で開 ひら かれる歌会 うたかい や行事 ぎょうじ に参加 さんか することも多 おお かったため便宜上 べんぎじょう 御所 ごしょ 周辺 しゅうへん にも邸宅 ていたく が必要 ひつよう だったからである。また、入 にゅう 寺前 てらまえ の準備 じゅんび 期間 きかん 中 ちゅう は、この御 ご 里 さと 房 ぼう で過 す ごすことが多 おお かった。彼 かれ らは、天皇 てんのう をとりまく文化 ぶんか サロン の構成 こうせい メンバーであり、和歌 わか や書 しょ などに優 すぐ れた人物 じんぶつ が多 おお かった。
^ 親鸞 しんらん は九 きゅう 条 じょう 家 か 出身 しゅっしん の青 あお 蓮 はちす 院 いん 門跡 もんぜき 慈円 じえん から得度 とくど を受 う け、九条 くじょう 家 か および同家 どうけ から分 わ かれた一条 いちじょう 家 か と関係 かんけい が深 ふか かった(妙香 みょうこう 院 いん は一 いち 条 じょう 家 か ゆかりの門跡 もんぜき 寺院 じいん )ため、両院 りょういん の影響 えいきょう 下 か に置 お かれていた[ 9] 。
^ a b c d 河原 かわはら 敏明 としあき 著 ちょ 「三笠 みかさ 宮 みや は双子 ふたご だった」、玉川 たまがわ 信明 のぶあき 編 へん 『エロスを介 かい して眺 なが めた天皇 てんのう は夢 ゆめ まぼろしの華 はな である』社会 しゃかい 評論 ひょうろん 社 しゃ 、1990年 ねん 、95-106頁 ぺーじ 。
^ 和田 わだ 英松 ひでまつ 『官職 かんしょく 要 よう 解 かい 』所 ところ 功 いさお 校訂 こうてい 〈講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ 〉、376頁 ぺーじ 。ISBN 978-4061586215 。
^ 田中 たなか 義成 よしなり の『足利 あしかが 時代 じだい 史 し 』(講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ 、1979年 ねん )や今谷 いまたに 明 あきら 『室町 むろまち の王権 おうけん 』(中公新書 ちゅうこうしんしょ 、1990年 ねん )などがこうした見方 みかた を取 と っていた。
^ 高鳥 たかとり 廉 れん 「足利 あしかが 将軍家 しょうぐんけ 子弟 してい ・室町 むろまち 殿 どの 猶子 ゆうし 寺院 じいん 入室 にゅうしつ とその意義 いぎ -室町 むろまち 殿 どの と寺院 じいん ・公家 くげ 社会 しゃかい との関係 かんけい を探 さぐ る-」(初出 しょしゅつ :『史学 しがく 雑誌 ざっし 』130編 へん 9号 ごう 、2021年 ねん )/改題 かいだい 所収 しょしゅう :「室町 むろまち 前期 ぜんき における足利 あしかが 将軍家 しょうぐんけ 出身 しゅっしん 僧 そう の身分 みぶん と役割 やくわり 」『足利 あしかが 将軍家 しょうぐんけ の政治 せいじ 秩序 ちつじょ と寺院 じいん 』(吉川弘文館 よしかわこうぶんかん 、2022年 ねん ) ISBN 978-4-642-02976-6 )P55-94.)
^ 高 こう 埜利彦 としひこ 『近世 きんせい の朝廷 ちょうてい と宗教 しゅうきょう 』吉川弘文館 よしかわこうぶんかん 、2014年 ねん 、129-130・135-139頁 ぺーじ 。
^ 大田 おおた 壮 たけし 一郎 いちろう 著 ちょ 「初期 しょき 本願寺 ほんがんじ と天台 てんだい 門跡 もんぜき 寺院 じいん 」、大阪 おおさか 真宗 しんしゅう 史 し 研究 けんきゅう 会 かい 編 へん 『真宗 しんしゅう 教団 きょうだん の構造 こうぞう と地域 ちいき 社会 しゃかい 』清文 せいぶん 堂 どう 出版 しゅっぱん 、2005年 ねん 、11-40頁 ぺーじ 。ISBN 4-7924-0589-0 。
^ 如意寺 にょいじ 跡 あと 1、如意寺 にょいじ 跡 あと 2 、如意寺 にょいじ 跡 あと 3 、如意寺 にょいじ 跡 あと 4
^ 浅見 あさみ 雅男 まさお 『華族 かぞく 誕生 たんじょう 名誉 めいよ と体面 たいめん の明治 めいじ 』〈中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ 〉、68頁 ぺーじ 。ISBN 978-4122035423 。
基本 きほん 教義 きょうぎ 人物 じんぶつ 世界 せかい 観 かん 重要 じゅうよう な概念 がいねん 解脱 げだつ への道 みち 信仰 しんこう 対象 たいしょう 分類 ぶんるい /宗派 しゅうは 地域 ちいき 別 べつ 仏教 ぶっきょう 聖典 せいてん 聖地 せいち 歴史 れきし 美術 びじゅつ ・音楽 おんがく