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門跡もんぜき

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門主もんしゅから転送てんそう

門跡もんぜき(もんぜき、もんせき)は、皇族こうぞく公家くげ住職じゅうしょくつとめる特定とくてい寺院じいん、あるいはその住職じゅうしょくのことである。寺格じかくひとつ。元来がんらいは、日本にっぽん仏教ぶっきょう開祖かいそ正式せいしき後継こうけいしゃのことで「門葉もんよう門流もんりゅう」のであった(この場合ばあい門主もんしゅとも)。鎌倉かまくら時代ときよ以降いこう位階いかいたか寺院じいんそのもの、つまり寺格じかくすようになり、それらの寺院じいん門跡もんぜき寺院じいんぶようになった。また、由緒ゆいしょ寺院じいんあま門跡もんぜき寺院じいん皇女おうじょ王女おうじょつとめる寺院じいん)ともいう[1]寺格じかくたかく、皇室こうしつから特別とくべつ礼遇れいぐう特権とっけんあたえられ、住職じゅうしょくかく宗派しゅうは管長かんちょう同等どうとう待遇たいぐうける[1]

浄土宗じょうどしゅうおんいん門跡もんぜき浄土じょうど門主もんしゅ(もんす)という。

浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじ本願寺ほんがんじ住職じゅうしょく門主もんしゅ(もんしゅ)、真宗しんしゅう大谷おおや僧侶そうりょおよび門徒もんと代表だいひょうしゃもんくび(もんしゅ)とき、いずれも親鸞しんらん子孫しそん大谷おおやからている。

概要がいよう

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永村ながむらしんせつによれば、「門跡もんぜき」という用語ようごは、平安へいあん時代じだいほうりゅう門徒もんとほうりゅう構成こうせいいん)の意味いみもちいられ、鎌倉かまくら時代ときよになるといんほうりゅう拠点きょてん施設しせつ)・院主いんじゅいん住持じゅうじ)の意味いみてんじ、南北なんぼくあさ時代じだい以降いこうになると特定とくてい貴種きしゅがいるいん院主いんじゅ意味いみ定着ていちゃくしたとしている。ほうりゅうはそのおしえを維持いじするために有力ゆうりょく檀越だんおちである天皇てんのう摂関せっかんなどに出自しゅつじ貴種きしゅ出身しゅっしんしゃ後継こうけいしゃとしてぐうし、ほうりゅういん経典きょうてん物質ぶっしつてき)およびきょうせつ教学きょうがくてき)を相承そうしょうすることで、排他はいたてき管理かんり内外ないがいたいする優位ゆういせい確立かくりつしていったのである[2]

沿革えんかく

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宇多天皇うだてんのう出家しゅっけして仁和寺にんなじ入室にゅうしつ御室おむろ御所ごしょしょうし、御室おむろ門跡もんぜきとなったのがはじまりである。仁和寺にんなじ当初とうしょ宇多天皇うだてんのう子孫しそん宇多うたはじめ)が住職じゅうしょくである別当べっとうつとめていたが、三条さんじょう天皇てんのう皇子おうじであるせいしん入道にゅうどう親王しんのう住職じゅうしょくいたさい別当べっとうよりも上位じょういである検校けんぎょうしょうし、その白河天皇しらかわてんのう皇子おうじであるさとしぎょう法親王ほうしんのうまましいだことから皇族こうぞく住職じゅうしょくつとめる真言宗しんごんしゅう寺院じいん認識にんしきされ、門跡もんぜき寺院じいんのはしりとなった[3]

一方いっぽう天台宗てんだいしゅう総本山そうほんざんである延暦寺えんりゃくじでは、12世紀せいきはじめに天台座主てんだいざしゅひとしごう明快めいかい弟子でし)と無動寺むどうじひろしけいのち天台座主てんだいざしゅくだりげん)がてらを2つにける内紛ないふんこし、その影響えいきょう後々あとあとにもおよんだ(源平げんぺい合戦かっせんさいにもひとしごうほうりゅう平家へいけ支持しじし、ひろしけいほうりゅう中立ちゅうりつ立場たちばった)。前者ぜんしゃさんせんいん梨本なしもと梶井かじい)、後者こうしゃあおれんいん拠点きょてんとし、前者ぜんしゃには堀河ほりかわ天皇てんのう皇子おうじであるさいくも法親王ほうしんのう後者こうしゃには鳥羽天皇とばてんのう皇子おうじであるさとしかい法親王ほうしんのういで摂関せっかん出身しゅっしん慈円じえんはいったことで格式かくしきたかめて門跡もんぜき寺院じいんとなった。なお、一般いっぱんには明快めいかい梨本なしもと門跡もんぜきくだりげんあおはちすいん門跡もんぜきとみなされているが、梨本なしもとあおれんいんが「りょう門跡もんぜき」としょうされるようになったのは鎌倉かまくら時代じだいはいった1220年代ねんだい推定すいていされている。その後白河天皇ごしらかわてんのうゆかりの妙法みょうほういんこう高倉たかくらいん皇子おうじであるみことせい法親王ほうしんのうむかえたことで格式かくしきたかめ、1260年代ねんだいにはりょう門跡もんぜきかたならべるようになり、1280年代ねんだいには「さん門跡もんぜき」とばれるようになった[4]

鎌倉かまくら時代じだい初期しょきごろからは皇族こうぞく摂家せっけひとし子弟してい特定とくてい寺院じいん出家しゅっけするようになる(摂政せっしょう九条くじょう道家どうかいきほうすけはじめて皇族こうぞくでない御室おむろ門跡もんぜきとなる[5])。これは、武家ぶけ実権じっけんったために平安へいあん時代じだいよりも経済けいざいりょく低下ていかした皇室こうしつ公家くげが、跡取あととりとなる長男ちょうなん次男じなん以外いがい出家しゅっけさせたためである。なお、ここで長男ちょうなん次男じなんとは単純たんじゅん出生しゅっしょうじゅんではなく、母親ははおや正妻せいさい側室そくしつか、それともそれ以下いか身分みぶんかによって、当然とうぜんのように優先ゆうせん順位じゅんいめられた。

医療いりょう発達はったつしていなかった時代じだいは、病気びょうきまんいちのことがあり、家系かけい断絶だんぜつすることがないように、正妻せいさいほか側室そくしつちたくさんのをもうけることが、上流じょうりゅう階級かいきゅうの「いえ」の存続そんぞくのために必要ひつようであったが、同時どうじにそのことは冠婚葬祭かんこんそうさいおおくの出費しゅっぴともなうことに直結ちょっけつした。出家しゅっけすると婚姻こんいんしないため、結納ゆいのう支度したくきん婚礼こんれい費用ひようとう直接的ちょくせつてき出費しゅっぴ削減さくげんになるだけでなく、つくらないため、宮家みやけ別家べっけつくることがなく、いえとして大幅おおはば経費けいひ節減せつげんとなるうえ、すくない領地りょうちをさらに分封ぶんぽうすることをふせぐこともできた。なお、いえのこった跡取あととりにまんいちのことがあれば、出家しゅっけした子弟していのうちのえらばれたものが還俗げんぞくしていえいだ。

また、おおくの男子だんしのうちのかぎられたもの以外いがい出家しゅっけさせることは、結果けっかてき後継こうけいしゃ候補こうほ限定げんていさせることにつながり、跡継あとつあらそいを減少げんしょうさせることにも役立やくだった。

武家ぶけ場合ばあい次男じなん以下いか出家しゅっけすることはすくなく「部屋住へやず」として、分家ぶんけができない場合ばあいは、他家たけへの養子ようしはいるのをつことがおおかった。)

子弟していらは荘園しょうえん所有しょゆうしておりその経済けいざいりょく背景はいけいとした政治せいじりょくをもって、れた寺院じいんない支配しはいけん掌握しょうあくするようになり、かく門流もんりゅう継承けいしょうするようになった。これらが慣例かんれいしてやがて、「門跡もんぜき自体じたいが「貴族きぞく出身しゅっしんしゃによって継承けいしょうされる特定とくていいん寺院じいん称号しょうごうへと変化へんかした。

そして室町むろまち時代ときよになると、寺格じかくとしての「門跡もんぜき」が確立かくりつし、室町むろまち幕府ばくふには、門跡もんぜき寺院じいんかんする政務せいむ門跡もんぜき奉行ぶぎょうかれた。また、足利あしかが義満よしみつ以降いこう自分じぶん子弟していをはじめとする足利あしかが将軍家しょうぐんけ一門いちもん門跡もんぜき寺院じいんれるようになった。本来ほんらい皇室こうしつ子弟していはいるべき門跡もんぜき寺院じいん足利あしかが将軍家しょうぐんけ一門いちもんはいることについて、かつては研究けんきゅうしゃあいだにおいて天皇てんのうわって仏教ぶっきょうかい支配しはいすること、あるいは皇位こうい簒奪さんだつ実現じつげんのための手段しゅだんひとつとなして「僭上せんじょういたり」などと指摘してきされることもあった[6]。しかし、実際じっさいには仏教ぶっきょう統制とうせい意味合いみあいよりも、皇室こうしつ摂家せっけ同様どうよういえ以外いがいもの出家しゅっけさせることで世俗せぞくからはなし、政治せいじてき経済けいざいてきリスクをらそうとしたとかんがえられている。とく足利尊氏あしかがたかうじ庶子しょしいち時期じきちち対立たいりつした足利あしかが直冬ただふゆおよ嫡男ちゃくなんふゆおよ足利あしかが義満よしみつおとうとである足利あしかがみつるかい子弟してい全員ぜんいん門跡もんぜき寺院じいんおくられてその血筋ちすじ断絶だんぜつさせることで、室町むろまち殿どの足利あしかが将軍家しょうぐんけ)をおびやかす要素ようそ排除はいじょしている。なお、足利あしかが将軍家しょうぐんけ断絶だんぜつしたさいには門跡もんぜき寺院じいんはいった将軍しょうぐん子弟してい還俗げんぞくしていえいており、6だい将軍しょうぐん足利あしかが義教よしのりあおれんいん義円ぎえん)・11だい将軍しょうぐん足利あしかが義澄よしずみこうげんいん清晃きよあき)・15だい将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあきいちじょう院覚いんかくけい)は門跡もんぜき寺院じいんはいったのち還俗げんぞくして将軍家しょうぐんけ継承けいしょうしている。さら義満よしみつ時代じだい幕府ばくふうしたてになっていた持明院じみょういんみつる伏見ふしみみやふくむ)では男子だんし皇族こうぞく早世そうせいおおく、皇統こうとうそのものが断絶だんぜつしかねない危機ききなか門跡もんぜき寺院じいんれられる皇族こうぞく絶対ぜったいすう不足ふそくしていた(実際じっさい持明院じみょういんみつる嫡流ちゃくりゅう断絶だんぜつし、伏見ふしみみやからこう花園天皇はなぞのてんのうむかえられることになる)。こうした状況じょうきょう仏教ぶっきょうかいがわからも皇族こうぞくわりうる「貴種きしゅ」の供給きょうきゅうげんとして足利あしかが将軍家しょうぐんけ期待きたいされた側面そくめんもあったのである[7]

江戸えど幕府ばくふでは、宮門きゅうもんあと親王しんのう門跡もんぜき)・摂家せっけ門跡もんぜき清華せいか門跡もんぜき公方くぼう門跡もんぜき武家ぶけ門跡もんぜき)・じゅん門跡もんぜきわき門跡もんぜき)などに区分くぶんして制度せいどした。禁中きんちゅうなみ公家くげしょ法度はっとだい13じょう)では、天皇てんのう皇子おうじ連枝れんし兄弟きょうだい)である宮門きゅうもんあと摂家せっけ出身しゅっしん摂家せっけ門跡もんぜきよりもうえとされ(宮中きゅうちゅうないでは摂家せっけ親王しんのううえとされていたことから反対はんたいあつかいとなる)、同格どうかくであればその修行しゅぎょう期間きかんながさにもとづいた。この規定きていによって天皇てんのうまご以下いか具体ぐたいてきには宮家みやけ出身しゅっしんしゃ)は宮門きゅうもんあとにはなれないとほぐされたが、宮家みやけ出身しゅっしんしゃ天皇てんのう猶子ゆうしになった場合ばあい解釈かいしゃく曖昧あいまいのままのこされた。実際じっさい天和てんわ元年がんねん1681ねん)にこう陽成ようぜい天皇てんのうまご伯父おじ後水尾天皇ごみずのおてんのう猶子ゆうしとなっていたなお入道にゅうどう親王しんのうはちじょう宮家みやけ)が門跡もんぜきれっせられ、18世紀せいきすえには宮門きゅうもんあと全員ぜんいん天皇てんのう猶子ゆうしとなった宮家みやけ出身しゅっしんしゃめてこの状態じょうたい明治維新めいじいしんむかえることになった(安永やすなが8ねん1780ねん)には皇統こうとう断絶だんぜつにより閑院宮家みやけからひかりかく天皇てんのう即位そくいしており、天皇てんのう皇子おうじ連枝れんし出家しゅっけさせる余裕よゆううしなわれていたのである)[8]

本願寺ほんがんじ門跡もんぜきなり

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なお、門跡もんぜき寺院じいん歴史れきしなか特殊とくしゅ地位ちいめる存在そんざい本願寺ほんがんじがある。浄土真宗じょうどしんしゅう親鸞しんらん日野ひの出身しゅっしん)の直系ちょっけい子孫しそん継承けいしょうした本願寺ほんがんじ歴史れきしてき経緯けいい[注釈ちゅうしゃく 1]から妙香みょうこういんのちあおはちすいん門跡もんぜき傘下さんかかれていた(本願寺ほんがんじがたびたびった朝廷ちょうていへの献金けんきんあおれんいん経由けいゆしてもうがされていた)。ところが、戦国せんごく時代じだいはいると専修寺せんしゅうじとの勢力せいりょくあらそいが深刻しんこくになるなかあかし顕如けんにょが2だいつづけて摂関せっかんきゅうじょう猶子ゆうしとなる一方いっぽうあおれんいん門跡もんぜき天文てんもん年間ねんかん末期まっき一時いちじてき空席くうせき弘治こうじ年間ねんかん後継こうけい決定けっていしたとうとあさ法親王ほうしんのう若年じゃくねん門跡もんぜきとしての職務しょくむおこなない)状態じょうたいになったのをに、あおれんいんからの自立じりつ専修寺せんしゅうじへの対抗たいこう意図いとして摂家せっけ門跡もんぜきれいならって門跡もんぜきくわえてもらえるように朝廷ちょうていへの工作こうさくおこない、えいろく2ねん1559ねん)に本願寺ほんがんじ門跡もんぜきれっする正親町おおぎまち天皇てんのう勅許ちょっきょされた。ところが、天正てんしょう19ねん1591ねん)に豊臣とよとみ秀吉ひでよしいのち本願寺ほんがんじ京都きょうと移転いてんし、2ねん顕如けんにょくなったのち発生はっせいした後継こうけい問題もんだいめぐって東西とうざい本願寺ほんがんじ分裂ぶんれつすると、これまで本願寺ほんがんじだいさかにあったために黙認もくにんしてきた京都きょうとふるくからのしょ門跡もんぜき寺院じいん本願寺ほんがんじ門跡もんぜきとしての資格しかく異論いろんとなえるようになる。さら禁中きんちゅうなみ公家くげしょ法度はっと規定きてい厳密げんみつ解釈かいしゃくすると、本願寺ほんがんじ門跡もんぜき要件ようけんたしていない(日野ひの名家めいかかく)とされる可能かのうせいもあった。江戸えど幕府ばくふ本願寺ほんがんじ門跡もんぜきとしてのあつかいを従前じゅうぜんどおりとしてその要件ようけんについて判断はんだんしめすことはなかったが、後水尾天皇ごみずのおてんのうれいもと天皇てんのう門跡もんぜきとしての特権とっけん否認ひにん制限せいげんする方針ほうしんしめして東西とうざい本願寺ほんがんじ対立たいりつした。その結果けっかれいもと院政いんせい元禄げんろく13ねん1700ねんごろになって、東西とうざい本願寺ほんがんじしょ門跡もんぜきさい後尾こうびじゅん門跡もんぜきかく位置いちづけられることになった[10]

門跡もんぜき寺院じいん

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門跡もんぜき

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宮門きゅうもんあと親王しんのう門跡もんぜき

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法親王ほうしんのう、または入道にゅうどう親王しんのう住職じゅうしょくとして居住きょじゅうする13の寺院じいんじゅうさん門跡もんぜきともしょうする。実際じっさいには親王しんのうかぎってにゅうてらするのは王寺おうじ仁和寺にわじ大覚寺だいかくじの3門跡もんぜきで、その摂家せっけ足利あしかが将軍家しょうぐんけからもにゅうてらすることができた。6だい将軍しょうぐん義教よしのりあおはちすいんから、15だい将軍しょうぐん義昭よしあき一乗院いちじょういんからそれぞれ還俗げんぞくして将軍しょうぐんとなったほか、足利あしかが義視よしみ(10代将軍しょうぐん義稙よしたねちち)が浄土寺じょうどじから還俗げんぞくして8だい将軍しょうぐん義政よしまさ養子ようしとなっている。

摂家せっけ門跡もんぜき

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摂家せっけ子弟してい住職じゅうしょくとなる。個々ここ門跡もんぜき寺院じいん固有こゆう称号しょうごうではなく、その時々ときどき住持じゅうじ出身しゅっしんす。室町むろまち時代じだいごろからもちいられるようになった。

じゅん門跡もんぜき

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門跡もんぜきじゅんずる格式かくしき寺院じいんのこと。または、門跡もんぜきてらたいしてしたがえ関係かんけいにある門跡もんぜきてらのこと。わき門跡もんぜきともいう。

天台宗てんだいしゅう門跡もんぜき京都きょうと五箇ごかしつ門跡もんぜき

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醍醐寺だいごじ門跡もんぜき

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門跡もんぜき

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浄土真宗じょうどしんしゅう門跡もんぜきじゅんぜられたてら総称そうしょう門徒もんとともいう。江戸えど時代じだい中期ちゅうき文化ぶんか11ねん1814ねん)に真宗しんしゅう本山もとやま錦織にしきおりてらが、それまでの浄土宗じょうどしゅうから浄土真宗じょうどしんしゅう復帰ふっきし、じゅん門跡もんぜきくわえられた。

これら6いえ明治めいじ5ねん3がつにいずれも華族かぞくとなった[12]明治めいじ29ねん6がつ9にちりょう本願寺ほんがんじ大谷おおや伯爵はくしゃくふつこうてら渋谷しぶや専修寺せんしゅうじつね磐井いわいきょうせいてら華園はなぞの錦織にしきおりてらがそれぞれ男爵だんしゃくじょせられている。

あま門跡もんぜき

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皇女おうじょ貴族きぞく息女そくじょ住職じゅうしょくとなる寺院じいん正式せいしきには比丘尼びくに御所ごしょしょうした。「あま門跡もんぜき」は明治めいじ以降いこう名称めいしょうである。

このうち、奈良ならにある圓照寺えんしょうじ中宮なかみやてら法華寺ほっけじは「大和やまとさんあま門跡もんぜきてら」とばれる[1]円照寺えんしょうじ開山かいさん以来いらい10だいちゅうすくなくとも6だい天皇てんのう皇女おうじょもしくは養女ようじょ中宮なかみやてら皇女おうじょ1めい王女おうじょ6めい法華寺ほっけじ徳川とくがわ以降いこうはいない[1]

さとぼう

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おおくの門跡もんぜき寺院じいん御所ごしょ周辺しゅうへんにあった公家くげまちげん京都きょうと御苑ぎょえんないに、さとぼうとよばれる別邸べってい京屋きょうやじき)をかまえていた。門跡もんぜき寺院じいん門主もんしゅは、皇族こうぞく五摂家ごせっけ子弟していという家柄いえがらたか人物じんぶつであり、御所ごしょひらかれる歌会うたかい行事ぎょうじ参加さんかすることもおおかったため便宜上べんぎじょう御所ごしょ周辺しゅうへんにも邸宅ていたく必要ひつようだったからである。また、にゅう寺前てらまえ準備じゅんび期間きかんちゅうは、このさとぼうごすことがおおかった。かれらは、天皇てんのうをとりまく文化ぶんかサロン構成こうせいメンバーであり、和歌わかしょなどにすぐれた人物じんぶつおおかった。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 親鸞しんらんきゅうじょう出身しゅっしんあおはちすいん門跡もんぜき慈円じえんから得度とくどけ、九条くじょうおよび同家どうけからかれた一条いちじょう関係かんけいふかかった(妙香みょうこういんいちじょうゆかりの門跡もんぜき寺院じいん)ため、両院りょういん影響えいきょうかれていた[9]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d 河原かわはら敏明としあき ちょ三笠みかさみや双子ふたごだった」、玉川たまがわ信明のぶあき へん『エロスをかいしてながめた天皇てんのうゆめまぼろしのはなである』社会しゃかい評論ひょうろんしゃ、1990ねん、95-106ぺーじ 
  2. ^ 永村ながむら 2017, 「中世ちゅうせい寺院じいんと〈門跡もんぜき〉」.
  3. ^ 永村ながむら 2017, 横内よこうち裕人ひろと仁和寺にわじ御室おむろろんをめぐる覚書おぼえがき」.
  4. ^ 永村ながむら 2017, 衣川きぬがわひとし延暦寺えんりゃくじさん門跡もんぜき歴史れきしてき機能きのう」.
  5. ^ 和田わだ英松ひでまつ官職かんしょくようかいところいさお校訂こうてい講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、376ぺーじISBN 978-4061586215 
  6. ^ 田中たなか義成よしなりの『足利あしかが時代じだい』(講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、1979ねん)や今谷いまたにあきら室町むろまち王権おうけん』(中公新書ちゅうこうしんしょ、1990ねん)などがこうした見方みかたっていた。
  7. ^ 高鳥たかとりれん足利あしかが将軍家しょうぐんけ子弟してい室町むろまち殿どの猶子ゆうし寺院じいん入室にゅうしつとその意義いぎ-室町むろまち殿どの寺院じいん公家くげ社会しゃかいとの関係かんけいさぐる-」(初出しょしゅつ:『史学しがく雑誌ざっし』130へん9ごう、2021ねん)/改題かいだい所収しょしゅう:「室町むろまち前期ぜんきにおける足利あしかが将軍家しょうぐんけ出身しゅっしんそう身分みぶん役割やくわり」『足利あしかが将軍家しょうぐんけ政治せいじ秩序ちつじょ寺院じいん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2022ねんISBN 978-4-642-02976-6)P55-94.)
  8. ^ こう利彦としひこ近世きんせい朝廷ちょうてい宗教しゅうきょう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2014ねん、129-130・135-139ぺーじ 
  9. ^ 大田おおたたけし一郎いちろう ちょ初期しょき本願寺ほんがんじ天台てんだい門跡もんぜき寺院じいん」、大阪おおさか真宗しんしゅう研究けんきゅうかい へん真宗しんしゅう教団きょうだん構造こうぞう地域ちいき社会しゃかい清文せいぶんどう出版しゅっぱん、2005ねん、11-40ぺーじISBN 4-7924-0589-0 
  10. ^ 永村ながむら 2017, 太田おおた光俊みつとし本願寺ほんがんじ門跡もんぜきなり〉と〈じゅん門跡もんぜき本願寺ほんがんじ」.
  11. ^ 如意寺にょいじあと1、如意寺にょいじあと2如意寺にょいじあと3如意寺にょいじあと4
  12. ^ 浅見あさみ雅男まさお華族かぞく誕生たんじょう 名誉めいよ体面たいめん明治めいじ』〈中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、68ぺーじISBN 978-4122035423 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 永村ながむらしん へん中世ちゅうせい門跡もんぜき公武こうぶ権力けんりょくえびすひかりさち出版しゅっぱん、2017ねんISBN 978-4-86403-251-3 

関連かんれん項目こうもく

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