(Translated by https://www.hiragana.jp/)
東胤頼 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ひがしたねよりゆき

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
ひがしたねよりゆき
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんき
生誕せいたん 久寿きゅうじゅ2ねん1155ねん
死没しぼつ 安貞やすさだ2ねん10月12にち1228ねん11月10にち
別名べつめい 千葉ちばたねよりゆき
官位かんい したがえ
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ
主君しゅくん 上西かみにしもんいんみなもと頼朝よりとも
氏族しぞく 千葉ちばひがし
父母ちちはは ちち千葉ちば常胤つねたね
兄弟きょうだい たねただし相馬そうまつね武石たけいしたねもり大須賀おおすがたねしん
国分こくぶ胤通たねみちたねよりゆきにちたね
重胤しげたね
テンプレートを表示ひょうじ

ひがし たねよりゆき(とう たねより)は、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき武将ぶしょう千葉ちば一族いちぞく千葉ちば常胤つねたねろくなんひがし遠藤えんどうたねよりゆきろくなんでありしたがえ別称べっしょう大夫たいふし、あずま六郎ろくろう大夫たいふしょうした。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

以仁王もちひとおう挙兵きょへいときには大番おおばんやくとしてざいきょうしていた。吾妻あづまきょうによると収束しゅうそく関東かんとうくだり、とも大番おおばんやくえたばかりの三浦みうら義澄よしずみ伊豆いずこくみなもと頼朝よりともした参上さんじょうしている。このさい以仁王もちひとおう挙兵きょへい詳細しょうさい報告ほうこくし、頼朝よりともたいしてなんらかの決断けつだんうながした、もしくはすで決起けっき決心けっしんしていた頼朝よりともからなんらかの指示しじったとかんがえられている[1]

のち下総しもうさこくもどり、ちち常胤つねたねたいして安房あわこくのがれた頼朝よりともへの加勢かせい下総しもうさ目代もくだいちゅうすることを主張しゅちょう常胤つねたねもこれをみとめて頼朝よりともぐん合流ごうりゅうすること決定けっていし、たねよりゆき千葉ちばそうのちにするにさい長兄ちょうけいたねただしなりたねとも下総しもうさ目代もくだいおそほろぼした[2]。そのため下総しもふさこく千田せんだそう領家りょうけすめらぎ嘉門かもんいん判官ほうがんだい藤原ふじわら親政しんせいせんひきいて千葉ちばそう侵入しんにゅう千葉ちばそうもどったなりたね合戦かっせんになり、わずかななむかったなりたね絶体絶命ぜったいぜつめいのなかつい親政しんせいなまとりこにしたと[3]平家ひらか総帥そうすい清盛きよもりあね婿むこ親政しんせいなまとりこにしたことで様子見ようすみしていた上総かずさ広常ひろつねなど坂東ばんどう武士ぶしだんがこぞって頼朝よりともぐん合流ごうりゅう関東かんとうにおける頼朝よりとも軍事ぐんじりょく平家へいけかた勢力せいりょくおおきく上回うわまわことになった。

こののち頼朝よりともうけたまわ寿ことぶきひさしらんせいし、下総しもうさこく掌握しょうあくした常胤つねたねよりひがしそう相続そうぞくされ、以降いこうたねよりゆき子孫しそんひがし名乗なのことになる。

その吾妻あづまきょう』には一ノ谷いちのやたたか奥州おうしゅう合戦かっせんなどにのこす。またたてひさ元年がんねん1190ねん)の頼朝よりとも上洛じょうらくにも随員ずいいんとしてしるされている。以降いこう記録きろくからたねよりゆきえ、重胤しげたね家督かとくゆずったとかんがえられている。

文治ぶんじ2ねん1186ねん)の正月しょうがつ頼朝よりとも鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう参拝さんぱいしたさいに、みやにわじょう着座ちゃくざした供奉ぐぶじんなかたねよりゆきちちである常胤つねたねのほぼ真正面ましょうめん位置いちしたことが、ちちたいしておおやけせいたいしてすると同格どうかく振舞ふるまいおこなったとして秩序ちつじょ逸脱いつだつであるとして、直後ちょくご埦飯せき御家人ごけにんあいだ問題もんだいされた。これにたいして頼朝よりともは、大番おおばんやくさいたねよりゆきじょされたくらい貴族きぞくとされ昇殿しょうでんゆるされるとされるしたがえであり、これはちち常胤つねたねくらいせいろくじょうとは歴然れきぜんとしたちがいがある。また上西かみにしもんいんつかえることではおなじであり、「官位かんい朝廷ちょうていよりたまわったものであるので、これにしたがこと」として、御家人ごけにん父子ふし秩序ちつじょよりも官位かんい秩序ちつじょ優先ゆうせんさせる方針ほうしん説明せつめいした[4][5]たねよりゆきちちより高位こういおくられた理由りゆうとして、和歌わかなどの文芸ぶんげいつうじていたともされ、のちひがし歌道かどうにおいて古今ここん伝授でんじゅおこないうる地位ちい確立かくりつするが、その源流げんりゅうがここにれる。

その晩年ばんねんには出家しゅっけして法然ほうねん上人しょうにん弟子でしになったたねよりゆきほう阿弥陀あみだぼとけほうおもね)としょうしていた。よしみろく3ねん1227ねん)に発生はっせいしたよしみろく法難ほうなんさいには、延暦寺えんりゃくじ僧兵そうへいから法然ほうねん遺骸いがいまもるために、はちすせい宇都宮うつのみや頼綱よりつな)、信生のぶお塩谷しおやちょうぎょう兄弟きょうだいみちべん渋谷しぶや七郎しちろう)などの出家しゅっけしゃろく探題たんだい武士ぶしだんらとともに、東山ひがしやま法然ほうねん廟所びょうしょから二尊院にそんいんまでの遺骸いがい移送いそう護衛ごえいにあたった。

画像がぞうしゅう

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 三浦みうら次郎じろう義澄よしずみ千葉ちばの六郎大夫胤頼等北條に参向さんこうす。にちらい京都きょうと祗候しこうす。つき中旬ちゅうじゅん下向げこうせんとほっするのきざめ宇治うじ合戦かっせんとうことって、 かんへいため抑留よくりゅうせらるのあいだいまおそひかす。すうがつこわうつさんぜんがため参入さんにゅうするのゆかりこれをもうす。にちらいばんやくって在京ざいきょうするところなり。たけまもるけん両人りょうにん対面たいめんたまう。閑談かんだんこくうつす。他人たにんこれをかず。…(『吾妻あづまきょううけたまわ4ねん6がつ27にちじょう
  2. ^ 安房あわこくて、上総かずさこくおもむかしめたまう。ところしたがえ精兵せいびょうさんひゃくおよぶ。しかるに廣常ひろつねぐんとうを聚めるのあいだなお遅参ちさんすと。今日きょう千葉ちばかい常胤つねたね子息しそく親類しんるいあいし、みなもとまいらんとほっす。爰にひがし六郎大夫胤頼父にだんりてうんく、とうくに目代もくだい平家へいけほうにんなり。われとういちぞくことごとさかいみなもとまいらば、さだめてきょうがいを插むべし。ずこれをちゅうすべきかと。…(『吾妻あづまきょううけたまわ4ねん9がつ13にちじょう
  3. ^ 下総しもうさこく千田荘領家判官代親政は、刑部おさかべきょう忠盛ただもり朝臣あそんむこなり。ひら相国しょうこくぜんごうこころざしつうずるのあいだ目代もくだいちゅうせらるのよしき、軍兵ぐんびょうひきつねたねおそわんとほっす。これって、常胤つねたね孫子まごこ小太郎こたろうなりたねしょうたたかう。つい親政しんせいなまとりこらん。…(『吾妻あづまきょううけたまわ4ねん9がつ14にちじょう
  4. ^ 奉幣ほうへいことわり還御かんぎょのちわんめしり。そもそも今日きょうかみはいあいだ供奉ぐぶじんとうびょうにわ左右さゆうあいかれちょす。しかるにたねよりゆきちち常胤つねたね相對あいたいしてす。いささ下方かほうると、ひと甘心かんしんせず。おおせにって此のごとしと。常胤つねたねちちたりと雖もろくなり。たねよりゆきたりと雖もひんなり。官位かんいきみの授くところなり。しょうせざるやのよしおおくださると。このたねよりゆきは、平家へいけ天下でんかけんとき京都きょうとこうすと雖も、さらにそのさかえたかへつらわず。遠藤えんどう左近さこん將監しょうげんとおきょって、上西かみにしもんいんつかまつう。きゅうこうむしたがえじょす。またもちとおこのみいて、神護かんごてら文學ぶんがく上人しょうにんもっまゆみす。文學ぶんがく伊豆いずこくとき同心どうしんせしめ、ひんしめもうすのむねり。つい義兵ぎへいたまうの常胤つねたねすす最前さいぜん参向さんこうせしむ。兄弟きょうだいろくにんなかこと大功たいこうを抽んずるものなり。…(『吾妻あづまきょう文治ぶんじ2ねん正月しょうがつ3にちじょう
  5. ^ 上杉うえすぎ和彦かずひこ鎌倉かまくら幕府ばくふかんする覚書おぼえがき」(初出しょしゅつ:『日本にっぽん歴史れきし』648ごう(2002ねん)/所収しょしゅう:上杉うえすぎ鎌倉かまくら幕府ばくふ統治とうち構造こうぞう研究けんきゅう』(校倉あぜくら書房しょぼう、2015ねんISBN 978-4-7517-4600-4

関連かんれん作品さくひん

[編集へんしゅう]
テレビドラマ