(Translated by https://www.hiragana.jp/)
昇殿 - Wikipedia コンテンツにスキップ

昇殿しょうでん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

昇殿しょうでん(しょうでん)とは、平安へいあん時代じだい以降いこう日本にっぽん朝廷ちょうていにおいて、内裏だいり清涼せいりょう殿どのみなみひさしにある殿上てんじょうあいだのぼることをゆるすことである。

昇殿しょうでんによる身分みぶん体系たいけい制度せいど昇殿しょうでんせい(しょうでんせい)という。

概要がいよう[編集へんしゅう]

公卿くぎょうさん以上いじょうおよびよんふく参議さんぎ以上いじょう政官せいかん)は原則げんそくてき昇殿しょうでんゆるされ、このほかよん以下いか参議さんぎのぞく)の特定とくていかんじんおよび蔵人くろうどに、勅許ちょっきょ宣旨せんじ)によって昇殿しょうでんゆるされた。この勅許ちょっきょは、天皇てんのう代替だいがわりによって効力こうりょくうしなった。

よん以下いか昇殿しょうでんゆるされたもの殿上人てんじょうびととして特権とっけんてき待遇たいぐうけたため、位階いかい官職かんしょくおぎな身分みぶん制度せいどとして、重要じゅうよう意味いみゆうした。中世ちゅうせい以降いこうには家格かかくによって昇殿しょうでん対象たいしょうしゃまるようになり、殿上人てんじょうびととなりいえ堂上どうじょうんだ。

いん女院にょいん皇后こうごう東宮とうぐうも、それぞれの御所ごしょにおいて昇殿しょうでん制度せいどがあった。これらを内裏だいり昇殿しょうでん区別くべつするには、内裏だいりのものを「うち昇殿しょうでん」(うちのしょうでん)、いんのものを「いん昇殿しょうでんとうう。

また、有力ゆうりょく子弟していが、元服げんぷくまえしょう舎人とねりとして昇殿しょうでんゆるされて宮中きゅうちゅうさんつかまつする制度せいどがあり、わらわ殿上てんじょう(わらわてんじょう)とった。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

律令制りつりょうせいにおいては、天皇てんのう身辺しんぺん世話せわをする官職かんしょくとして侍従じじゅうひとしがあったが、律令制りつりょうせい官職かんしょく体系たいけい一部いちぶ機能きのう不全ふぜんとなり、天皇てんのう中心ちゅうしんとするあらたな朝廷ちょうてい秩序ちつじょ編成へんせいされていくなかで、9世紀せいき初頭しょとう嵯峨天皇さがてんのうだいには天皇てんのう秘書官ひしょかんとして蔵人くろうどかれた。おおよそこれと並行へいこうして、天皇てんのう身辺しんぺんつかえる私的してき側近そっきんえら制度せいどとして昇殿しょうでんせいがはじまったとかんがえられている[1]昇殿しょうでん制度せいどは、すぐにかんじん編成へんせいするあたらしい原理げんりとして公的こうてき性格せいかくたかめ、9世紀せいき後半こうはん宇多天皇うだてんのうだいにはほぼ完成かんせいした制度せいどとなった。このころ天皇てんのう日常にちじょう起居ききょし、政務せいむ場所ばしょ清涼せいりょう殿どの定着ていちゃくしたが、清涼せいりょう殿どのには殿上てんじょうあいださむらいしょひとしとも)が設置せっちされ、ここに殿上人てんじょうびと勤務きんむ管理かんりする日給にっきゅうかれた[1]。10世紀せいきなかばまでに、殿上てんじょう勤務きんむ記録きろく本来ほんらい官職かんしょく本務ほんむ)の記録きろく加算かさんすることが一般いっぱんてきみとめられるようになり、殿上人てんじょうびと職務しょくむ公的こうてきなものとなった[1]

宇多天皇うだてんのう時代じだいには殿上人てんじょうびとは30めい前後ぜんこうであったとられるが、そのかず次第しだいえ、院政いんせいには80めい場合ばあいもあった。また、官位かんい世襲せしゅうすすみ、家格かかく形成けいせいされるにつれ、昇殿しょうでんみとめられるかどうか、どの段階だんかいみとめられるかとうは、おおむね出自しゅつじによってまるようになっていった。のちには、殿上人てんじょうびととなりいえ堂上どうじょう、ならないいえ地下ちかんだ。

また、うけたまわとく2ねん1098ねん)には源義家みなもとのよしいえいん昇殿しょうでんが、てんうけたまわ2ねん1132ねん)には平忠盛たいらのただもりうち昇殿しょうでんみとめられ、武士ぶし時代じだい到来とうらいげるとなった。

制度せいど解説かいせつ[編集へんしゅう]

昇殿しょうでん昇殿しょうでんみとめるがわ天皇てんのうあるいはいんみや)とみとめられるがわとの個人こじんてき関係かんけいもとづいた朝廷ちょうてい内部ないぶ秩序ちつじょであり、律令制りつりょうせいもとづいた秩序ちつじょである官位かんいとはべつ体系たいけいじょう制度せいどであった。公卿くぎょうではないよん以下いかもの昇殿しょうでんみとめられるには、昇殿しょうでん宣旨せんじ(しょうでんのせんじ)をける必要ひつようがあった。この宣旨せんじけたもの殿上人てんじょうびとくもきゃく)とび、昇殿しょうでんゆるされない地下ちかとのあいだ明確めいかく区別くべつがあり、公家くげ社会しゃかいにおける身分みぶん基準きじゅん基本きほんとなった。殿上人てんじょうびと対象たいしょうしゃおもよんであったが、ろくからも1、2めいえらばれることがあった[2]。これとべつに、蔵人くろうど職務しょくむともなえない昇殿しょうでんゆるされた。

殿上人てんじょうびと昇殿しょうでんゆるされるときには、宣旨せんじくだされ、殿上てんじょうあいだそなえられた日給にっきゅう姓名せいめい記入きにゅうされた。

昇殿しょうでん宣旨せんじ書式しょしき蔵人くろうど場合ばあいいちれい[3]

官位かんい姓名せいめい
みぎ別当べっとう左大臣さだいじんせん偁、けんじんむべ昇殿しょうでんしゃ
年月日ねんがっぴ あたま官位かんい姓名せいめいたてまつ

(訓読くんどくぶん)

みぎ別当べっとう左大臣さだいじんせん(せん)を(こうむ)るに偁(い)はく、けん(くだん)のひとよろしく昇殿しょうでんを聴(ゆる)すべししゃ(てへり)。

昇殿しょうでん天皇てんのうとの私的してき関係かんけいによってゆるされるものであったため、昇殿しょうでん許可きょか天皇てんのう代替だいがわりによって効力こうりょくうしなった。また本人ほんにん官位かんい昇進しょうしんでも無効むこうとなった。一旦いったん昇殿しょうでん資格しかくうしなったのちに、あらためて昇殿しょうでんゆるされることを、かえ殿上てんじょう(かえりてんじょう)やかえのぼり(げんじょう)とんだ。

殿上人てんじょうびと蔵人くろうどあたま指揮しき当番制とうばんせい天皇てんのう身辺しんぺん世話せわ陪膳宿直しゅくちょくつとめた。また、儀式ぎしき公事こうじ参加さんかもとめられた。勤務きんむ実績じっせきは、殿上てんじょうあいだかれた日給にっきゅうによって管理かんりされた。勤務きんむ怠慢たいまんかさなったり、犯罪はんざいわれたりすると、昇殿しょうでん停止ていしされる除籍じょせき(じょじゃく)処分しょぶんとなった[注釈ちゅうしゃく 1]

除籍じょせき勅命ちょくめいけた蔵人くろうどあたま指示しじによって、日給にっきゅうから当該とうがいしゃ氏名しめいけずることで公示こうじされた。このため、除籍じょせき処分しょぶんを「簡をけずる」ともしょうした。また、一度いちど除籍じょせきけたもの処分しょぶん撤回てっかい赦免しゃめんされないかぎりは官位かんい補任ほにんけられなかったため、そのまえ再度さいど昇殿しょうでんかえのぼる)がみとめられる必要ひつようがあった。

公卿くぎょう原則げんそくとして昇殿しょうでんゆるされたが、殿上人てんじょうびとことなり、昇殿しょうでんともなえなう職務しょくむはなく、日給にっきゅう簡に姓名せいめいしるされることもなかった。もっとも、政治せいじてき理由りゆう天皇てんのう個人こじんとの関係かんけい理由りゆうとして、公卿くぎょうでも昇殿しょうでんゆるされない事例じれいもあり、そういう人々ひとびとを「地下ちか公卿くぎょう地下ちか上達部かんだちめ)」としょうした。代表だいひょうてきれいとして東宮とうぐうきょさだ親王しんのう三条さんじょう天皇てんのう)の尚侍しょうじ藤原ふじわら綏子密通みっつうしたみなもとよりゆきじょうは、きょさだ親王しんのう即位そくいのちに、すで公卿くぎょうであるにもかかわらず昇殿しょうでんゆるされなかったとつたえられる(『だいかがみ』)。また、後世こうせいには、地下ちかものしたがえさん以上いじょうたっしても昇殿しょうでんゆるされない慣例かんれい成立せいりつした。

殿上人てんじょうびと蔵人くろうどとはことなり、禁色きんじきゆるされることは基本きほんてきになかったが、ざつほう宣旨せんじによってざつほう着用ちゃくようみとめられた。また、摂関せっかん大臣だいじん子弟していである殿上人てんじょうびとには、とく禁色きんじき宣旨せんじによって蔵人くろうど同様どうよう一部いちぶ公卿くぎょう待遇たいぐう服装ふくそうとうみとめられることがあった。

いん昇殿しょうでん[編集へんしゅう]

いん御所ごしょにおける昇殿しょうでんは、内裏だいりへの昇殿しょうでんみとめられたうち昇殿しょうでんよりは格下かくしたとみなされていた。これは院政いんせいはいって実際じっさい政務せいむいんちょううつったのち同様どうようであり、12世紀せいき公家くげ日記にっき(『へいはん』など)にしるされた供奉ぐぶじん名簿めいぼにおいても、うち殿上人てんじょうびと優先ゆうせんてきしるしていん殿上人てんじょうびとはそのつぎしるされた。それはそのいんてんであったとしてもわることかった。これは、当時とうじはまだ天皇てんのう貴族きぞく社会しゃかい秩序ちつじょ頂点ちょうてんとみなす空気くうきつよかった事情じじょう反映はんえいしている。また、いん殿上人てんじょうびと選定せんていにはいん意向いこうつよはたらき、比較的ひかくてき身分みぶんにとらわれない昇殿しょうでんおこなわれたことも背景はいけいにあるとかんがえられている(相対そうたいてきうち殿上人てんじょうびとほうがより身分みぶんたかものあつまることになる)。これは、いん御所ごしょへの武士ぶし昇殿しょうでんいん昇殿しょうでん)が内裏だいりへの昇殿しょうでんうち昇殿しょうでん)よりもさきみとめられていることからでも理解りかい可能かのうである。

しかし、後鳥羽ごとば天皇てんのうたてひさ9ねん1198ねん)の退位たいいときに、これまでの慣例かんれいであった在位ざいいちゅう昇殿しょうでんをそのままいん御所ごしょ規定きていりやめて、80めいちか殿上人てんじょうびとを44めい削減さくげんする「リストラ」(「いん殿上人てんじょうびときよしせん」)を断行だんこうした。これは院政いんせい運営うんえい都合つごうじょういん近臣きんしん信頼しんらいできる側近そっきん能吏のうりしぼむとともに、希少きしょうせいたかめてその価値かちうち殿上人てんじょうびとみにたかめる効果こうかもあった。以後いごてんつかえるいん殿上人てんじょうびと内殿うちどの上人しょうにん社会しゃかいてき地位ちい同格どうかくあるいは逆転ぎゃくてんするようになった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 具体ぐたいてきれいでは文治ぶんじ元年がんねん11がつ24にち豊明とよあきうたげ侍従じじゅう藤原ふじわら定家さだいえ近衛このえ少将しょうしょうみなもと雅行まさゆきによる嘲笑ちょうしょう憤慨ふんがいして宮中きゅうちゅう矢庭やにわにおいて雅行まさゆき脂燭しそくなぐりつけたために除籍じょせきされている[4]。なお、定家さだいえ翌年よくねん3がつかえのぼりしている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 古瀬ふるせ奈津子なつこ昇殿しょうでんせい成立せいりつ」『日本にっぽん古代こだい王権おうけん儀式ぎしき吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1998ねん初出しょしゅつ1987ねん
  2. ^ 橋本はしもと義彦よしひこ昇殿しょうでん殿上人てんじょうびと」『歴史れきし地理ちり』 249ごう 、1976ねん6がつ
  3. ^ さむらいちゅうぐんよう
  4. ^ たま文治ぶんじ元年がんねん11がつ25にちじょう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]