(Translated by https://www.hiragana.jp/)
家格 - Wikipedia コンテンツにスキップ

家格かかく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

家格かかく(かかく)とは、歴史れきしにおいて、ある氏族しぞく家系かけいまたあたえられた格式かくしき評価ひょうかをいう用語ようご

家格かかくとは

[編集へんしゅう]

家格かかくとは、文字通もじどおり、いえかくであり、およそ身分みぶんせいのあった古代こだいから近代きんだいいたるまで、その社会しゃかい全体ぜんたい秩序ちつじょ根底こんていになった評価ひょうか体系たいけいである。およそ、家格かかく家庭かていたいして評価ひょうかくだすものではなく、その国家こっかないし社会しゃかい構成こうせいいん全体ぜんたい階層かいそうし、特定とくてい氏族しぞく構成こうせいいん保有ほゆうする血統けっとう地位ちいもとづいて序列じょれつ付与ふよすることによって、氏族しぞくあいだ地位ちい固定こてい階層かいそうてきさせる制度せいどであった。家格かかく身分みぶん地位ちいといったその序列じょれつ性格せいかくことにするてん身分みぶん地位ちいはあくまで個人こじん帰属きぞくするものであるが、家格かかく特定とくていいえ単位たんいとする評価ひょうかであることであった。

おおくの場合ばあい家格かかく決定けっていしたのは根本こんぽんてきには祖先そせん血筋ちすじおよびそれにともな伝統でんとうてき権威けんいであり、皇室こうしつないし王室おうしつとのつながりや有力ゆうりょく氏族しぞく親疎しんそ家格かかくおおきく左右さゆうした。日本にっぽんでは平安へいあん時代じだい以降いこう律令制りつりょうせいした成功せいこうによる位階いかい昇叙しょうじょ機会きかいひろがったほか台頭たいとうしつつあった武士ぶし中心ちゅうしん武勲ぶくんにより地位ちい上昇じょうしょうさせる機会きかいひろがり世襲せしゅうされるにつれ、家格かかく固定こていされる端緒たんしょとなっていった。ただ、戦国せんごく時代じだいには一旦いったん、そういった家格かかくによる秩序ちつじょくずれ、ふたた国内こくない統一とういつした江戸えど時代じだいにおいて、今度こんど公家くげだけではなく、武士ぶしにも家格かかく導入どうにゅうされ、より成熟せいじゅくした家格かかく体系たいけい形成けいせいされるにいたった。

日本にっぽんにおける家格かかく

[編集へんしゅう]

古代こだいにおける家格かかく

[編集へんしゅう]

こころざし倭人わじんでん」のなかえがかれた倭人わじん習俗しゅうぞくとして、下戸げこ大人おとな身分みぶん格差かくさがあったことがられる。

古代こだい氏姓しせいせいもとではそれぞれのカバネをもって宮廷きゅうていない上下じょうげ関係かんけい職掌しょくしょうさだめていたが、天武天皇てんむてんのうもとはちしょくせいさだめてカバネをもって尊卑そんぴ基準きじゅんとした。だが、本来ほんらいだい2である朝臣あそんかんじんによって朝廷ちょうてい運営うんえいされるようになりさい上位じょうい真人まさとふくめてのカバネはほとんどもちいられなくなった。

平安へいあん時代じだいになると、貴族きぞく社会しゃかい家格かかく原形げんけいされ、摂関せっかんをはじめ出自しゅつじによって、昇進しょうしん上限じょうげん目安めやす決定けっていけられるようになり、官職かんしょく実質じっしつじょう世襲せしゅうするかん請負うけおいせい成立せいりつするようになった。武士ぶし社会しゃかいでも同様どうようで、天皇てんのう軍事ぐんじ貴族きぞくである伊勢いせたいら河内かわうちはじめ貴種きしゅとしてたっとばれ、そのなかから武家ぶけ棟梁とうりょうえらばれるようになった。

だが、南北なんぼくあさ戦国せんごくの2つのおおきな動乱どうらん時代じだい旧来きゅうらい家格かかく秩序ちつじょ破壊はかいされ、少数しょうすう例外れいがいのぞいて家格かかくさい編成へんせいおこなわれることとなる。

公家くげ家格かかく

[編集へんしゅう]

公家くげ社会しゃかいでは、家々いえいえによるきょく極官きょっかん文武ぶんぶかんべつから、摂関せっかん以下いか清華せいか大臣だいじん羽林はばやし名家めいか半家はげけられ、家格かかく形成けいせいされるようになり、かくいえ当主とうしゅ官位かんい家格かかくじゅんじて、あたえられた。また、その家々いえいえ成立せいりつした時期じきゆたか政権せいけんさかいとして)によって旧家きゅうか新家しんやおよ天皇てんのうとの親疎しんそによって内々うちうち外様とざまなどの区別くべつがあり、さら家々いえいえぞくする家系かけいなども関係かんけいして、いえごとに昇進しょうしんきょく極官きょっかんなどに発生はっせいした。

武家ぶけ家格かかく

[編集へんしゅう]

武家ぶけにおいては江戸えど時代じだい家格かかくさだまり、いちまんせき以上いじょう石高いしたかゆうする大名だいみょう[1]いちまんせき以下いか将軍しょうぐんちょくしんたる旗本はたもと[2]御家人ごけにんしょはん藩士はんし中心ちゅうしんとしてさらにこまかい家格かかくさだめられていった[3]

とく大名だいみょう家格かかくでは、御三家ごさんけだい廊下ろうか国主こくしゅ大名だいみょう大広間おおひろま譜代ふだい大名だいみょうなどのみかどかんあいだかりあいだ外様とざま大名だいみょうやなぎあいだなど、将軍しょうぐんとの親疎しんそ大名だいみょうゆうする家系かけい由緒ゆいしょ知行ちぎょうする石高こくだか表高おもてだか)によって、参勤交代さんきんこうたいによる江戸城えどじょう登城とじょうさいにあてがわれる部屋へや伺候しこうせき)が区別くべつされた。さらによんひん叙任じょにんなどの官位かんい任官にんかんきょく極官きょっかん)やたまものいみなへんいみな授与じゅよをはじめとするあらゆる処遇しょぐう階層かいそうされていた。

幕府ばくふ直属ちょくぞく家臣かしんたる旗本はたもと御家人ごけにん場合ばあいでは、上級じょうきゅう旗本はたもと官位かんいあたえられ重職じゅうしょくにんぜられたのにたいし、中堅ちゅうけん下級かきゅう旗本はたもと無位むい無官むかんうえひく役職やくしょくせられた。さらに、旗本はたもとには将軍しょうぐん謁見えっけんゆるされたのにたいし、御家人ごけにんゆるされなかったなど、幕府ばくふちょくしんあいだでもこまかい家格かかくさだめられた。さらに、しょはんいたっては家老がろう以下いか役職やくしょく世襲せしゅうされ、藩士はんしうち家格かかく階層かいそうされていたほか正規せいき家臣かしんたる上士じょうしはん支配しはい在住ざいじゅうする土着どちゃく武士ぶし有力ゆうりょく百姓ひゃくしょうにより構成こうせいされた郷士ごうしという身分みぶん形成けいせいされ、大名だいみょう領地りょうちにおいても家格かかくによりつよ身分みぶん統制とうせいかれた。

一方いっぽうで、幕府ばくふでは窮乏きゅうぼうした旗本はたもと御家人ごけにん有力ゆうりょく商人しょうにんから借金しゃっきんするわりに、その子弟してい養子ようしとする慣習かんしゅうひろがり、旗本はたもとかぶ御家人ごけにんかぶとして町人ちょうにん士分しぶん機会きかいひろがった。また、財政ざいせいくるしくなった大名だいみょうなどにおいても、豪商ごうしょうなどから借金しゃっきん返済へんさいできぬ事態じたい発生はっせいするにつれ、豪商ごうしょう士分しぶんとして待遇たいぐうしたほかはんない豪農ごうのう有力ゆうりょく町人ちょうにんたいして郷士ごうしかぶ販売はんばい郷士ごうし待遇たいぐうあたえるなどの家格かかく付与ふよおこなわれた。

また、こうした旗本はたもと御家人ごけにんかぶ売買ばいばい

  • 使用人しようにんちゅうあいだ奉公ぼうこうなどとしてはたらき、そこでのはたらきぶり・才覚さいかくなどからそのいえ養子ようしとなるもの金銭きんせんをためて、それによりかぶもの
  • 幕臣ばくしん家臣かしん持参じさんきん養子ようし世話せわなどをし、御家人ごけにんかぶあたえる
  • 武士ぶし次男じなん以下いか男子だんし御家人ごけにんかぶって、そのいえ跡目あとめとなる手段しゅだん身分みぶんうしなったもと武士ぶしふたた武士ぶしそうもど手段しゅだん
  • 旗本はたもと御家人ごけにんかぶり、金銭きんせんのち町人ちょうにん職人しょくにんなどになる
  • 遊女ゆうじょなどの相手あいて結婚けっこんするために、旗本はたもと御家人ごけにんかぶり、町人ちょうにんになる

など、様々さまざまかたちおこなわれ、利用りようされた[4]

ただし、こうした旗本はたもと御家人ごけにんかぶ売買ばいばいによる身分みぶんちがいの養子ようし縁組えんぐみ持参じさんきん養子ようしは、寛文ひろふみ3ねん1663ねん江戸えど幕府ばくふ公布こうふした「旗本はたもと御法度ごはっと[5]安永やすなが3ねん1774ねん)、天保てんぽう7ねん1836ねん)、よしみひさし6ねん1853ねん)にされた持参じさんきん養子ようし禁令きんれいなどにより、幕府ばくふにより禁止きんしされ、処罰しょばつ対象たいしょうとされていた。そのため、旗本はたもと御家人ごけにんかぶなどの売買ばいばいにより、武士ぶし身分みぶんとなったものトラブルなどにより訴訟そしょうされる事態じたいになった場合ばあいには、御家人ごけにんかぶい、武士ぶし身分みぶんとなったいえであることが露見ろけんするのをけるために内済ないさいきんなどをはらい、和解わかいするという事例じれいもあった[4]

また、売買ばいばいされた御家人ごけにんかぶ相場そうばについては、幕末ばくまつよしみひさし6ねん1853ねん)6がつごろには、こうひゃくせきき50りょうきゅう養子ようしは78りょうから100りょうまでであったとされる。そして、与力よりきが1000りょう同心どうしんが200りょう御徒おかちが500りょうという相場そうば形成けいせいされていた[4]

農村のうそん家格かかく

[編集へんしゅう]

また、農村のうそんにおいても家格かかく存在そんざいした。村役人むらやくにんとなるものおおくが中世ちゅうせい武士ぶし血筋ちすじいており、郷士ごうしとしての資格しかくみとめられているものおおかった。領主りょうしゅたいする忠勤ちゅうきん献金けんきんなどによって苗字みょうじ帯刀たいとう特権とっけんあたえられている場合ばあい存在そんざいした。だが、それは同時どうじむら内部ないぶ本家ほんけ分家ぶんけさむらいぶん百姓ひゃくしょうぶん主家しゅか被官ひかんじゅうたいらなど様々さまざま呼称こしょう家格かかくすことになった。

郷士ごうし村役人むらやくにん草分くさわばれる家々いえいえ地域ちいき上級じょうきゅう家格かかく編成へんせいして、むら祭祀さいし中枢ちゅうすう機能きのうったみや参加さんか資格しかくあるいは幹部かんぶへの就任しゅうにん資格しかく規定きていした。これにたいして分家ぶんけしてあらたに成立せいりつしたいえなんらかの事情じじょう地域ちいきから移住いじゅうしてきたいえなどはひく家格かかくかれることがおおかった。

日本にっぽん最初さいしょに「家格かかく」の概念がいねんもちいて身分みぶんせい分析ぶんせきした磯田いそだすすむ研究けんきゅうによれば、村内むらうち秩序ちつじょ家格かかくでもって維持いじしてきたむら家格かかく意識いしき希薄きはくむらの2種類しゅるいがあり、前者ぜんしゃにおいては言葉ことばづかいや婚姻こんいん関係かんけいまできびしく規制きせいされていたことを指摘してきしている。前者ぜんしゃ西日本にしにほん農村のうそんおおられ、東日本ひがしにっぽんではむらない一族いちぞくにおける本家ほんけ分家ぶんけ関係かんけいが、西日本にしにほんでも漁村ぎょそんでは個人こじんあいだ年齢ねんれいがそれぞれ上下じょうげ関係かんけい形成けいせいしているものの、家格かかく厳格げんかくすすまなかったとしている[6]

明治めいじ以降いこう家格かかく

[編集へんしゅう]

明治めいじ時代じだいはいり、江戸えど時代じだい以前いぜん家柄いえがらにより皇族こうぞく華族かぞく士族しぞく平民へいみん族称ぞくしょうさだめられたものの、士族しぞく廃藩置県はいはんちけん秩禄処分しょぶんきむろく公債こうさい条例じょうれいなどにより、経済けいざいてき特権とっけんをうしない、1914ねん大正たいしょう3ねん)の戸籍こせきほう改正かいせい身分みぶん登録とうろくせい廃止はいしされたため、実質じっしつてき平民へいみん差異さいはなくなった。[7]

したがって、この時点じてん江戸えど時代じだい大名だいみょうおよいちまんせき以上いじょう有力ゆうりょく家臣かしん華族かぞく以外いがい武士ぶし農工のうこうしょう家格かかく身分みぶん消滅しょうめつしたといえる。

皇室こうしつについては皇室こうしつ典範てんぱんなどの法令ほうれいによって保護ほごされ、華族かぞくについては家柄いえがらおうじて爵位しゃくいあたえられ、世襲せしゅう貴族きぞくいん議員ぎいん議席ぎせきまたは互選ごせんけんていた。またいえはん制定せいていゆるされていたので、爵位しゃくいあらたな家格かかくであったといえるかもれない(なお、爵位しゃくいについてはくにへの貢献こうけん度合どあいによってもあたえられた)。

戦後せんごほうした平等びょうどうをうたった日本国にっぽんこく憲法けんぽう施行しこうにより、華族かぞく爵位しゃくい制度せいど廃止はいしされ、皇室こうしつのぞ国民こくみんあいだ家格かかくによる公的こうてき区分くぶんはなくなったとされる。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 大名だいみょうはまた、その知行ちぎょうはんちょう規模きぼおうじて、国主こくしゅ - じゅん国主こくしゅ - 城主じょうしゅ - 城主じょうしゅかく - しろの5かいきゅう格付かくづけされた。( → 詳細しょうさいは「城主じょうしゅ大名だいみょうこう参照さんしょう
  2. ^ 旗本はたもとはまた、その知行ちぎょうしょ規模きぼ役職やくしょくおうじて、高家こうか交代こうたい寄合よりあい寄合よりあい小普請こぶしんぐみ格付かくづけされた。
  3. ^ いちれいとして、藩主はんしゅ代々だいだい固定こていしていた仙台せんだいはん場合ばあい、「一門いちもん」から「たいら」まで9段階だんかいもの家格かかくけられており(このたいらした足軽あしがるがいる)、たいら以上いじょう武士ぶしは、屋敷やしき以外いがい知行ちぎょうあたえられ、年貢ねんぐていた。参考さんこう・『東北とうほく歴史れきし博物館はくぶつかん 展示てんじ案内あんない東北とうほく歴史れきし博物館はくぶつかんだい2さつ2000ねん平成へいせい12ねん) p.67
  4. ^ a b c きょう うぐいすつばめ近世きんせいちゅう後期こうきにおける武士ぶし身分みぶん売買ばいばいについて『藤岡ふじおか日記にっき』を素材そざいに」日本にっぽん研究けんきゅう37、p163 - 200、2008ねん平成へいせい20ねん
  5. ^ 石井いしい良助りょうすけへん)『近世きんせい法制ほうせい史料しりょう叢書そうしょだい2かん(当家とうけれいじょう律令りつりょう要略ようりゃく)、そうぶんしゃ1958ねん昭和しょうわ33ねん
  6. ^ 弘文こうぶんどう歴史れきしがく事典じてんだい10かん家格かかく」(執筆しっぴつしゃ:福田ふくだアジオ
  7. ^ 士族しぞくとは - コトバンク

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]