(Translated by https://www.hiragana.jp/)
波志田山合戦 - Wikipedia コンテンツにスキップ

なみ志田しださん合戦かっせん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
なみ志田しださん合戦かっせん
戦争せんそううけたまわ寿ことぶきひさしらん
年月日ねんがっぴうけたまわ4ねん1180ねん8がつ25にち
場所ばしょ駿河するがこくなみ志田しださん現在地げんざいち不明ふめい
結果けっかみなもとぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
みなもと たいら
指導しどうしゃ指揮しきかん
安田やすだよしじょう
工藤くどうけいこう
俣野またのけいひさし
たちばなとおしげる
うけたまわ寿ことぶきひさしらん

なみ志田しださん合戦かっせん(はしたやま かっせん)は、うけたまわ寿ことぶきひさしらんなかたたかいのひとつ。「なみ志田しださん」の位置いち富士ふじきたふもと想定そうていされているが、正確せいかく場所ばしょ比定ひてい諸説しょせつあり不明ふめいである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

吾妻あづまきょう[1]れば、うけたまわ4ねん1180ねん)4がつ9にちこう白河しらかわ法皇ほうおう以仁王もちひとおう東国とうごく源氏げんじ諸氏しょしたいして平家ひらか討伐とうばつ令旨れいしくだし、令旨れいし伊豆いずみなもと頼朝よりともをはじめ甲斐かいこく信濃しなのこくへも伝達でんたつされる。伊豆いず頼朝よりとも同年どうねん8がつ挙兵きょへい伊豆いず相模さがみこく武士ぶしひきいて挙兵きょへいし、8がつ24にち相模さがみ石橋いしばしさん神奈川かながわけん小田原おだわら)において平家ひらかかた大庭景親おおばのかげちかひきいる軍勢ぐんぜいやぶれて敗退はいたいする。

12世紀せいき初頭しょとう甲斐かい土着どちゃくした甲斐かいはじめ甲府盆地こうふぼんち一帯いったい勢力せいりょくおよぼしており、工藤くどうなど頼朝よりともちか伊豆いず武士ぶし姻戚いんせき関係かんけい氏族しぞくもいれば、加賀かがよしどおひかり一族いちぞくである秋山あきやま小笠原おがさわら武田たけだゆうよしなど在京ざいきょうして平家へいけかたつかえている氏族しぞく存在そんざいしていた。

甲斐かい所縁しょえんのある氏族しぞくのうち、工藤くどうけいこう頼朝よりとも挙兵きょへい賛同さんどう一族いちぞく茂光しげみつ親光ちかみつ父子ふし頼朝よりとものもとへさんじており、富士ふじきたふもと甲斐かい大原おおはらそう富士吉田ふじよしだ富士ふじ河口湖かわぐちこまち)をりょうする加藤かとうひかりいんけいれん兄弟きょうだい石橋いしばしさん合戦かっせんのち富士ふじ山麓さんろく潜伏せんぷくしている。頼朝よりとも石橋いしばしさんでの敗退はいたい箱根山はこねやまちゅう潜伏せんぷくし、しゅうとにあたる北条ほうじょう時政ときまさよしとき父子ふし甲斐かい派遣はけんすることを企図きとしており(『吾妻あづまきょう』)[2]頼朝よりとも伊豆いず武士ぶし姻戚いんせき関係かんけいにある甲斐かいはじめ存在そんざい意識いしきしていたとかんがえられている[3]

甲斐かいはじめ挙兵きょへい時期じき不明ふめいだが、藤原ふじわらただしおややまえんじゅ[4]れば石橋いしばしさん合戦かっせんにおいては大庭景親おおばのかげちか旗下きか甲斐かいはじめ一族いちぞくである平井ひらい義直よしなお冠者かんじゃ)がふくまれており、頼朝よりとも挙兵きょへい当初とうしょ甲斐かいはじめ旗幟きし鮮明せんめいにしておらず、『吾妻あづまきょう』にれば平家へいけかたは8がつ24にち甲斐かいへの軍勢ぐんぜい派遣はけん、26にちには三浦みうら討伐とうばつおこなっていることから、石橋いしばしさん合戦かっせん直後ちょくごの8がつ12にち・22にち段階だんかい挙兵きょへいしていたとかんがえられている[3]

吾妻あづまきょう』にれば、石橋いしばしさん合戦かっせん敗退はいたい甲斐かいつたえられると、甲斐かいはじめ一族いちぞくのうち安田やすだよしじょう筆頭ひっとうとする、工藤くどうけいこう行光ゆきみつ市川いちかわこうぼう伊豆いず頼朝よりともちか氏族しぞく頼朝よりとも救援きゅうえんかっている。

また、平家へいけかたでは大庭景親おおばのかげちかおとうとである俣野またのけいひさし駿河するがこく目代もくだいたちばなとおしげるとともに甲斐かい軍勢ぐんぜい派遣はけんしており、りょういきおいは8がつ25にちに「なみ志田しださん」において衝突しょうとつしたという。俣野またのぜい富士ふじきたふもとにおける宿泊しゅくはくちゅう襲撃しゅうげきけており、「なみ志田しださん」の位置いち富士ふじきたふもと西湖さいこ河口湖かわぐちこあいだ位置いちする足和田山あしわだやま富士ふじ河口湖かわぐちこまち)などがかんがえられている[5]。『吾妻あづまきょう』では合戦かっせん安田やすだぜい強襲きょうしゅうから、俣野またのぐんゆみつる宿泊しゅくはくちゅうねずみによってやぶられ、応戦おうせんするものの逐電ちくでんしたという。

甲斐かいはじめ石橋いしばしさんでの頼朝よりとも敗退はいたい甲斐がい退去たいきょしたとかんがえられているが[3]、『やまえんじゅ』では上野うえのこく新田にったそう群馬ぐんまけん太田おおた)の下司げすである新田にった義重よししげ平家へいけかたちかりょう藤原ふじわらただしみやびちゅうみやびは『やまえんじゅ』の著者ちょしゃちゅうおやあに)にたい書状しょじょうおくり、甲斐かいはじめ棟梁とうりょう武田たけだ信義のぶよし伊豆いず頼朝よりともならはん平家へいけぜい存在そんざいとしてほうじている。以降いこう新田にった義重よししげ東国とうごくにおいて独自どくじうごきをせており、なみ志田しださんにおける勝利しょうりが、甲斐かいはじめ存在そんざい東国とうごくをはじめとする諸国しょこくにおいて意識いしきされる契機けいきになったとかんがえられている[3]

頼朝よりともは8がつ28にち相模さがみ真鶴まなづる神奈川かながわけん真鶴まなづるまち)から安房あわこくだっして再帰さいきをはかりおおくの東国とうごく武士ぶし結集けっしゅうさせていたが、甲斐かいはじめ武田たけだ信義のぶよし一条いちじょう忠頼ただよりらは9月にはいると信濃しなのこく伊那いなぐん出兵しゅっぺいし、9がつ10日とおか大田切おおたぎりきょう長野ながのけん駒ヶ根こまがね)のかん冠者かんじゃたいら友則とものり信濃平しなのたいら笠原かさはらよりゆきただし)をつと甲斐かい帰還きかんし、9月14にちには甲斐かい北西ほくせい想定そうていされる「逸見いつみやま」において頼朝よりとも使者ししゃ北条ほうじょう時政ときまさむかえる[6]。さらに9月24にちには石和いさわ御厨みくりや笛吹ふえふき石和いさわまち)において頼朝よりとも使者ししゃ土屋つちやはじめとおむか出陣しゅつじん要請ようせいされ、10月13にち武田たけだ信義のぶよし頭領とうりょうとする甲斐かいはじめ一族いちぞく駿河するが出陣しゅつじんし、はち合戦かっせん富士川ふじかわ合戦かっせんにおいて平家ひらかかたたたかう。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 以下いかなみ志田しださん合戦かっせん甲斐かいはじめ動向どうこうかんする部分ぶぶんは『山梨やまなしけん資料しりょうへん3けんがい記録きろく)に所載しょさい
  2. ^ なお、のべけいほん平家ひらか物語ものがたり』によると北条ほうじょう父子ふし頼朝よりとも意思いしとは関係かんけいなく独自どくじ判断はんだん甲斐かいこくんだとある。
  3. ^ a b c d 秋山あきやまたかしみなもと頼朝よりとも挙兵きょへい甲斐かいはじめ」『山梨やまなしけん通史つうしへん2中世ちゅうせい,平成へいせい19ねん.
  4. ^ 関係かんけい部分ぶぶんは『やま』4所載しょさい
  5. ^ すぎはし隆夫たかお富士川ふじかわ合戦かっせん前提ぜんてい」『たていのちかん文学ぶんがく』509
  6. ^ 吾妻あづまきょう』では時政ときまさは9月8にち出立しゅったつし、頼朝よりともによる信濃しなの平家へいけかた討伐とうばつめいじるためにかぶとしたという。甲斐かいはじめ頼朝よりとも命令めいれい伝達でんたつ以前いぜん信濃しなの侵攻しんこうおこなっており、甲斐かいはじめ信濃しなの国府こくふおさちゅうしん北信ほくしん地域ちいきはん平家へいけ活動かつどうおこなっている木曾きそ義仲よしなからは当初とうしょ頼朝よりとも命令めいれいではなく独自どくじ行動こうどうおこなっていたとかんがえられている(秋山あきやまたかしうけたまわよんねん甲斐かいはじめ」『甲斐かい成立せいりつ地方ちほうてき展開てんかい』)

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 秋山あきやまたかしみなもと頼朝よりとも挙兵きょへい甲斐かいはじめ」『山梨やまなしけん通史つうしへん2中世ちゅうせい