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工藤くどう行光ゆきみつ

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工藤くどう行光ゆきみつ
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代ときよ
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ 不明ふめい
官位かんい 中務なかつかさすすむ
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ
主君しゅくん みなもと頼朝よりとも
氏族しぞく 奥州おうしゅう工藤くどう厨川くりやがわ工藤くどう
父母ちちはは ちち工藤くどう庄司しょうじけいこう
兄弟きょうだい 行光ゆきみつこう助光すけみつ)、朝光ともみつ重光しげみつ
長光ちょうこうよしたかし
テンプレートを表示ひょうじ

工藤くどう 行光ゆきみつ(くどう ゆきみつ)は、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきにかけての武将ぶしょう御家人ごけにん厨川くりやがわ工藤くどう

うけたまわ4ねん1180ねん)、みなもと頼朝よりとも呼応こおうして一家いっかげて挙兵きょへいし、頼朝よりともつかえる。

文治ぶんじ5ねん1189ねん)の奥州おうしゅう合戦かっせんでは親子おやこ従軍じゅうぐん軍功ぐんこうをたて、同年どうねん9がつ12にち岩手いわてぐん厨川くりやがわ頼朝よりとも進軍しんぐんしたさい岩手いわてぐん領地りょうちあたえられ[1]中務なかつかさすすむあらためた。

正治しょうじ2ねん1200ねん)、梶原かじはら景時かげときへんにおいて梶原かじはら景時かげとき一族いちぞく関東かんとうはなれて西上にしがみしようとしているとのらせをけた幕府ばくふいのち追討ついとうぐん1人ひとりとして派遣はけんされているが、追討ついとうぐんいつくまえ景時かげときらは駿河するがこく同地どうち武士ぶしによってたれた。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 岩手いわてけん だい2かん 中世ちゅうせいへん じょう岩手いわてけん、1961ねん3がつ25にち 
  • 岩手いわてけん だい3かん 中世ちゅうせいへん 岩手いわてけん、1961ねん10がつ20日はつか 
  • 岩手いわて放送ほうそう新版しんぱん 岩手いわて百科ひゃっか事典じてん岩手いわて放送ほうそう株式会社かぶしきがいしゃ、1988ねん10がつ15にち 

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 吾妻あづまきょう文治ぶんじ5ねん9がつ12にちじょう
  2. ^ 今野こんの慶信よしのぶ藤原ふじわらみなみ武智たけち麿まろ四男乙麻呂流鎌倉御家人の系図けいず」(峰岸みねぎし純夫すみお入間田いりまだ宣夫のりお白根しらねやすしだい へん中世ちゅうせい武家ぶけ系図けいず史料しりょうろん上巻じょうかん 高志こうし書院しょいん、2007ねん ISBN 978-4-86215-029-5)。